1. 市場社会と私的所有

結局のところ,私的個人や私的労働や,私的所有というものは個人的なものであるが,それと矛盾するようにまた,社会の一部(一環)を構成してもいるということか? 所有にしても労働にしても「私的」と言う言葉が持つ意味が「社会を取り持つ」ことや「他人と関係する」ためというような感じなのがとても不思議に思った。 私的個人の成立には社会と個人とが互いに切り離されているのに無関係ではないということがよく分からなかった。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

そもそも,《私的な》ものとは,《社会的ではない》ものですから,《社会的な》ものを前提しています。特に,私的所有について言うと,そもそも所有とは社会的承認を要件としています。

その上で言うと,社会的労働にならない私的労働なんてものがありうるとしたら,換言すると,社会と無関係になった個人なんてものがありうるとしたら,それは,漂流してたった一人無人島に着いた場合とか,前人未踏の山奥で立った一人自給自足する場合とかに限られます。そして,こういうのは必然的・現実的な生産形態にはなりません。

現代社会の,必然的・現実的な生産形態においては,私的労働は,社会と断絶したままではなく,市場を通じて,商品を販売するということを通じて,社会的分業の一環にならなくてはなりません。

次に,歴史的なパースペクティブから補足しておきましょう

前近代的共同体においては,個人と共同体とは一体のものであり,しかもイニシアチブは共同体にあるのです。共同体成員は共同体と運命をともにし,共同体の(頭なり手足なり)有機的器官として生きています。

上で見たように,現代社会においても,もちろん,個人は社会とは無関係ではありません。ただし,現代社会においては,個人はもはや共同体に頼って生きるわけには生きません。もちろん,現実的には現代社会における個人も家族や集落(血縁地縁)を頼っているでしょうが,現代社会を市場社会として理念的に捉えると,もはや共同体に依存するのではなく,自分の力で,自己利得・自己責任で,社会が必要とするものを市場で売り,自分が必要とするものを市場で買うわけです。

ちょっと禅問答のように聞こえるかもしれませんが,無関係だという仕方で関係しているわけです。

個人による起業等は「私的労働」に当たるのか?(しかしこの講義では「共同体からの干渉を一切排除するとあるので,当てはまらない?」)現代の日本において「互いに無関心に他の私的個人からも社会からも干渉されずに,好き勝手に行う労働」は不可能だと思う。もしあるとしたらどのような労働か? 私的労働は自営業者のことで良いのか? 自営業者は本当に社会からも他の個人からも干渉されずに好き勝手に行っていいものなのか? 私的労働とは社会から干渉されず誰とも関わりのないものとあるが,具体的にはどういう労働なのか?個人経営であれ社会に対して何らかの関係は持つと思われる。社会から切り離される私的個人というものが成立することも良く理解できなかった。 私的労働は現代ではあり得ないのではないか?→〔……〕服や〔……私には読めません〕お金が必要だと逆説的にお金はどこからからわいてくるわけじゃないので,現代社会において私的労働は行うことができないと考える。 安易ごとも全て社会と何かしらの形でつながっていたり,関係していたりする容易に感じる。完全なプライベートなものなど存在するのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

社会からの干渉を排除するというのは,市場社会の原理を純粋に述べたものです。現代社会は市場社会であるのと同時に資本主義社会でもあります。資本主義社会の現実は市場社会の原理と矛盾しています。要するに,プライベートな空間でやってるはずなのに,社会から労働者を集めてやっています。資金についてもそうですが,これについては『4. 貸付資本の形成』以降のところで見ます。従って,市場社会の原理も部分的には崩壊し,社会の干渉が生まれます。

例えば,自分一人でプライベートな空間で働いているのであればともかく,資本主義的営利企業は,多数の労働者を雇っている以上,労働法に従わなければなりません。これは社会からの干渉です。

現代の日本で例を挙げよとのことですが,現代の日本は資本主義社会なので,原理的に,生産は社会からの干渉を前提します。敢えて,純粋にプライベートな生産を考えてみると,それは商品生産ではなく,例えば家事労働なんかが分かりやすいでしょう。あなたが一人暮らしをしていて,秋刀魚を焼く時に,じっくりとこんがり焼くか,すぐに何遍もひっくり返して焼くか,社会から干渉されるでしょうか? そんなことはあなたの勝手ではないでしょうか?

しかしまた,この例にも限界はあります。秋刀魚を焼く煙を適切に処理しなければクレームが付くかもしれません。この場合,最終的には社会からの干渉を喚び起こすでしょう。

で,自営業者の話ですが,市場社会における私的労働・私的所有の原理がピタリと当てはまるのは自営業者です。実際,誰も雇用していないような完全な自営業者の場合には,労働法による干渉は受けません(その他の干渉は受けます)。しかしまた,ピタリと当てはまるわけでは決してありませんが,資本主義的営利企業の場合にも,市場で経済活動している以上,私的労働・私的所有を原理とするわけです。この場合に,個人企業を例にとってみると,資本家自身の私的労働はもちろんのこと,従業員たちの私的労働も,市場ではすべて(自営業者の私的労働と同様に)私的生産者である資本家の私的労働として通用します(雇用された従業員たちは生産手段の私的所有者ではなく,従ってまた私的生産者ではありません)。

例えば,従業員を100人雇っている製パン企業と,自営のパン屋とで,前者のパンの単価が後者のそれの100倍になったりはしません。どちらも同じく私的生産者が市場に供給した,市場向けのパンとして通用します。同じように,私的労働が投下されたパンとして通用します。と言うことは,つまり,前者の場合に,従業員が投下した労働はすべて私的生産者,この場合には個人資本家の私的労働として通用しているわけです。

さて,資本主義的営利企業と同様に自営業者も,社会とは無関係ではありません。と言うか,全く逆に,──たまたま余ったものを売りに出すのではなければ,社会とは縁を切って自給自足するのでもなく,そうではなく──,そもそも生産において,自家消費ではなく市場向けの,つまり社会向けの商品を生産するのが市場社会における私的生産,市場社会の必然的な生産形態としての私的生産です。もともと労働における生産関係レベルで社会を形成しているのがこのような私的生産です。それにもかかわらず,私的労働は商品が売れて初めて社会的分業の,すなわち社会的労働の一環をなします。もし売れなかったらそれは無です。そして,社会関係を実現するのは,商品が売れて初めてのこと,つまり市場においてです。私的労働においては,私的生産者はもともと社会向けに生産しているのにもかかわらず,実際に社会向けになるのかどうかは,市場で売れて初めて分かります。売れなかったら,ゴミをつくっていたのです。無駄骨を折っていたのです。そして,この私的生産は,社会から切り離されて,社会から干渉されずに,自己利得を追求し,自己責任を負っておこなうものです。こう言う意味で,私的労働は社会から切り離された労働であると言えるわけです。

完全なプライベートなものなど存在するのか?──社会を前提するからこそ,プライベートなものがありうるわけです。社会がなければプライベートなものもあり得ません。両者は対のものです。だからこそ,プライベートなものは,社会から切り離されたり,社会と対立したりするわけです。

自分が労働によって奴隷を買うことは市場社会が個人の自由をタテマエとするからNGだというのが少し疑問に思った。〔……〕この時奴隷は〔……〕「商品」として扱われているから奴隷に対して「個人の自由」という考えが通用しないのではないか,従ってこの取引は決してNGではないのではないか? 市場社会において奴隷を買ってくるのはNGというのは,個人の自由が尊重されていないからと言うことか? 奴隷の所有根拠において〔……〕市場で買うのは個人の自由に反するとあるが,所有根拠として「人間以下の動物」とするなら,そこに権利は認められないのではないか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

個人の生命的身体性そのものを「商品」として扱うと言うこと自体が,個人の自由をタテマエとする市場社会の原理に反しています。換言すると,「個人の自由」という考えが通用しないということ自体が市場社会の原理に反しています。

「人間以下の動物」として奴隷が通用する限り,当然に奴隷に権利は認められていません。ただ,それは,「個人の自由」という市場の原理に反するのであって,従って市場の原理が社会を支配している市場社会においては奴隷制は不公正なものになります。

商品を排他的なものとして承認し,されるために必要な条件は何なのか?

これは商品交換の条件と一致します。それは一言で言うと,私的労働と社会的労働との分離です。

  1. 私的労働が自給自足で完結しないから社会的分業の一環,つまり社会的労働にならなければならない。(自分に必要な生産物をすべて生産することが出来ないから,社会からそれらを手に入れる)。

  2. しかし,まさに私的労働は社会的労働であるということから排除されているからこそ(社会的労働ではないからこそ),私的労働である。

  3. それ故に,直接的にではなく,生産物の販売を通じて間接的に,かつ,事後的に,つまり私的労働の後で,私的労働が社会的分業の一環になる。

自分の商品の承認は自らの労働によるまたは商品購入によって承認することができるが,人が相手の商品の排他的所有を承認する時,何を以て承認しているのか?

自分の商品の承認を自分自身で行うということはできません。あくまでも,お互いが,相手の商品の私的所有を,お互いに承認し合うわけです。

共同体から個人が自立した契機はどこにあったのか?

生産力の発展です。生産力が低い状態においては,個人として共同体から自立して生きるなんてことは飢え死にを意味します。これが行き着いたのが現代社会ですが,現代社会は,前近代的共同体からの移行においては,豊かになりたいから好きで共同体から自立化して市場向けに生産を行う場合とともに,しかし多くの場合には別に個人が好きで自立化したのではなく,一方では商品経済の浸透によって前近代的共同体が崩壊し,他方では政治的強制を含む強制力で個人から土地が収奪されていったわけです。

商品の所有の承認が出来ないというのはどういう状況なのか?また何を基準に承認ができるのか?

出来ないというのは,形式的にいうと,ドロボーしたり騙し取ったり。しかしまた,講義で述べたように,資本主義の現実を考えると,実質的には,交換の外での経済的な関係(生産関係)の違いから,自由な承認ではなく,承認せざるをえなくなります。企業と労働者,大企業と中小の下請け企業など。

何を基準に──コンビニで普通に買い物をしていれば,事実上,私的所有者として相互的に承認しているということになります(明示的に承認するのではなくても,事実上,承認しているということになります)。要するに,自由・平等な立場で交換すれば,一方的な意志の押しつけ,一方的な命令ではなく,相互的な承認になります。

私的労働や私的個人に対する例がなかったので気になったのだが,つまりは自営業ということになるのか?現代で言えば一部業職のフリーランサーも私的と言えなくはないが,あれはどうなのか?

私的労働にピタリと一致するのは市場向けに商品を生産している自営業者の労働,すなわち私的個人の労働です。しかしまた,市場に出てしまえば,自営業者も個人も同じ位置付けです。ラーメン市場で,個人営業のラーメン屋の市場と企業経営のラーメン屋の市場とが分かれているわけではありません。消費者がラーメン屋を選ぶ第一の原則は,味と量と値段と場所でしょう(その他に,雰囲気とかサービスとかブランドイメージとかももちろん入ります)。市場では,資本主義的営利企業も,自営業者と同じように振る舞うわけです。この場合に,個人企業の場合には資本家個人が,また法人企業の場合には企業そのものが(実際には表見代表としてのその従業員が代行),自営業者と同様に,私的生産者として通用します。自営業者の商品に投下された自営業者の労働と全く同様に,資本主義的営利企業の商品に投下された労働(実際には多数の従業員が投下した労働)も,私的生産者の私的労働として通用します。

所有と私的所有とを区別する意味がイマイチ良く分からない。

所有と排他性とは一対一の関係ではないからです。このことは前近代においては自明のことでした。現代社会でも例えば私が一方的に“空気は俺のものだ”と宣言し,“空気を吸うやつは俺に使用料を支払え”なんて言ったら,“なに言ってんだこいつ”ということになるでしょう。それは正当ではないような空気の支配であり,一言で言ってドロボーです。

私的所有と私有と使い分けることになにか意味があるのか?

この講義では,意味はありません。私的所有を略すると私有になります。ただし,例えば,通常,日本語では,《私有財産制》を《私的所有財産制》とは言いません。

貨幣が導入された当初の時代には私的所有が認められていなかったのではないかと思ったのだが,その場合〔『2. 私的所有と市場社会』の〕「逆に言うと……」は成立しないのか?

まず,商品交換の歴史的出発点は物々交換であって,その時には貨幣はありませんでした。文化人類学で言われているような象徴的交換は市場での商品交換ではありませんし,儀礼的貨幣はわれわれが今日,市場で用いている意味での貨幣ではありません。話が逆なのです。儀礼的貨幣は支払手段ではありますが,貨幣ではありません。貨幣が生まれると,支払手段の役割を貨幣が独占するようになったわけです。

で,商品交換の歴史的出発点においては個人的な私的所有は成立していませんでした。この点は「[補足]商品交換の歴史的発生」とその補足において述べられています。大昔の商品交換(とは言っても,すでに儀礼的な交換ではなく,物質代謝の社会的運営を媒介するような,つまり経済活動としておこなわれているような商品交換)の場合には,共同体の所有物と共同体の所有物とを交換していたと考えられるわけです。

しかしまた,市場社会においては,私的所有と商品交換とは必然的に結合しているわけであって,「逆に言うと……」は大昔の話ではなく,現代市場社会の話(現代社会を市場社会としての一面で切り取って見た話し)をしているわけです。

交換はオープンな場だが,自分と商品とのプライベートな関係は失われないということの意味が良く分からなかった。

言い方は難しかったかもしれませんが,深い意味は何もありません。オープンな場で社会関係を結ぶのは自分=人格です。人格と人格とがオープンに関係を結ぶために,市場というオープンな,誰でも立ち入り自由な場に入ったからと言って,この人格が支配している物件がするりするりと共有物になったりはしません。皆さんが,コンビニに入ったからと言って,皆さんのポケットに入っている100円玉が盗り放題になったり,コンビニの棚にあるおにぎりが盗り放題になったりはしません。レジで精算するまではおにぎりはコンビニの私的所有物ですし,100円玉はあなたの私的所有物です。これすなわち,自分と商品とのプライベートな関係は失われないと言うことです。コンビニの中で皆さんは,ポケットの中に他者を排除するプライベートな空間を維持し,また100円玉に対する対象支配を維持し,そして,社会も(ここではコンビニも)それを認めているわけです。

個人の自立とは共同体からの干渉の〔を?〕排除するということだが,共同体内での自立は不可能なのか?

“前近代的共同体が解体されずに,前近代的共同体から自立する”ということでしょう? もちろん,可能です。前近代においても,私的生産者として商品を生産している限りでは,それに近くなります(注1)。全く干渉されないというわけではないでしょうが……。

ともあれ,前近代的共同体においては,商品生産はあくまでも補完物かつ異物(あまり発展しすぎると前近代手共同体自体が崩壊してしまうという意味で)です。その限りで,私的生産が社会的原則になるためには前近代的共同体の崩壊が必要だったわけです。

〔無償〕譲渡などの形では必ずしも所有が成立しないのか?

成立します。ただし,現代社会は,無償譲渡とによって経済的に成立してはいません。また,商品交換による私的所有と全く同じように,無償譲渡による私的所有を正当化することはできません。詳しくは,『2. 私的所有と市場社会』の「[補足]無償譲渡の場合は?」をご覧下さい。

万引や泥棒をした場合,問題になるのは商品交換の成立のみではないと考える。商品交換が成立しなかったことにより,〔……〕行き場のない商品があふれかえってしまう。このことは経済を悪化させることにつながってしまうと考える。

その通りです。

暴力と承認においても,例えば,のび太とジャイアンのようにそこに互いの承認が存在すればシステムとして成り立つのか?

のび太とジャイアンの場合には,両者関係がシステム化されていません。と言うのも,──真顔で語ると──,両者の関係は物質代謝の社会的運営を媒介していないからです。それはともかく,身分的な上下関係であっても,また最初は暴力によって強制されたものであっても,そこに社会的な意志が介在すれば,当然にシステムとして成り立ちます。封建的な領主が暴力によって他の封建的領主を屈服させても,暴力に屈服した方が服従を誓い,また暴力で屈服させた方がそれを受け容れれば,そこに恩と奉公のシステムが成立するでしょう。

個人的な私的所有は前近代的共同体にとって異質なものとあるのだが,何が異質なのかが良く分からなかった。また既存の共同体の崩壊の要因になるとは,個人的な私的所有が既存の共同体を支配してしまうので崩壊するという意味か?

江戸時代の農民がみんな独立の自作農になって,年貢をボイコットするようになったら,幕藩体制がつぶれます。江戸時代の農民がみんな独立の自作農になって,自分が必要なものを市場から手に入れるようになったら,経済的自給自足体(アウタルキー)としての村落共同体もつぶれます。と言うか,その前に村の入会地が私有化されるでしょう。すべての経済主体が私的生産者になったら前近代的共同体はつぶれるという意味で異質なものです。要するに,前近代的共同体にも,市場も私的生産者も存在したのですが,あまりプレゼンスを持っちゃうと,前近代的共同体が危機になります。前近代的共同体は,私的な商品生産者を原理として構築されないのです。すべてが私的な商品生産者からなる前近代的共同体というものはありえません。

日本がカジノ経営をなかなか許可しないのは〔……〕「頑張れば頑張るほど報われる社会」のビジョンと合致しないからなのか?

それもあるでしょう。その他には,ギャンブル依存症という現実があるからでしょう。なお,市場社会の理念からすると,ギャンブルで全く努力しないのにただだけで儲かるというのは不労所得ですから正当化されないと思いますが,それと同時にまた,ギャンブル依存症は個人の自己責任だということになるでしょう。

ともあれ,カジノ合法化の理念は,本来の正当化ではなく,機能的擁護です。要するに,儲けて地域には金を落として国家には税金を払ってくれればいいという考え方です。

交換過程で経済外的に暴力が起こる場合は,相手の私的所有を認めていないから起こるのか?

原因は様々でしょう。結果的には,相手の私的所有を認めていなかったということになります。

参考スライドのところの「社会(それを代表する公権力を排除)」というのがあまり良く分からなかった。

消費生活をイメージしてみるといいでしょう。(まぁ,日本にも,島民が鍵を持っていないという,おおらかで共同体的な島なんかもあるようですが,市場経済によって支配されている都会生活をイメージしてください)。あなたの自宅を,見知らぬ人が,“ここ通ると会社への近道なんだよね”などと言ってずけずけと入ってくるでしょうか? あなたのプライバシーはそれなりに守られているのではないでしょうか? これが社会を排除しているということです。刑事だって令状がない限り勝手に家に入ることはできません。つまり,社会を代表する公権力をも排除しています。

で,このような消費と同様に,生産を,プライベートな空間においておこなうのが私的生産です。

ここ〔=交換過程での相互的承認〕で言う平等な個人どうしとはどういうことか? 平等という言葉の定義が明確ではなかったので,どのような立場同士だったら平等と捉えられるのか?

講義で強調したように,この平等というのは形式的な平等です。実質的な平等という点では,社会が異なれば基準が違ってきます。例えば,今日では,業績が異なるのに給料が同じだったら,それはいわゆる“悪平等”なんてものでは決してなく,単なる不平等でしかありません。現代社会の物差しで測ると,業績が違ったら給料も違うのが平等です。しかし,このモノサシもまた,永遠不滅のものではありません。いつのことになるのか分かりませんが,未来には,もっと豊かになれば,また労働が嫌なものではなくなれば,そんなケチなことは問題にならなくなるでしょう。逆にまた,身分制の共同体では,身分が異なれば得るものも異なるのも当然のことでしょう。つまり,現代社会のモノサシで考えると不平等なものが当然のものだったことでしょう(身分制の場合には,社会的平等という原則自体が原則としては通用しないでしょう)。

交換過程で問題になるのは,そのような実質的な平等ではなく,要するに,どちらも相手を自分の目的のための単なる手段にしており,どちらも損をしていなく,どちらも目的を達成しているという意味での形式的な平等です(講義では,価値に即して,また使用価値に即して,これを説明しておきました)。そこにはもちろん,身分による違いとかを排除すると言うことが含まれています。

自営業というのは周りの個人や企業から多少なりとも影響を受けていれば私的労働ではないという考えはあっているか?

周りから影響を受けないなんてことは,およそ社会を構成している限りあり得ないでしょう。ここで問題になっているのは,そういうことではなく,周りから命令されない,自分の行為の結果は自分で責任をとる,ということです。社会から命令されたり,社会のツケをまわされたりしないということです。

「排他的な所有物」という意味が良く分からなかった。

あなたが私的に所有しているパソコンは,あなたが許可しない限り,私が勝手に使うことができません。つまり,私の〔=〕を除しています。

商品交換において等価物を交換するというのは当然だろうと思うが,その価値というのはどのようにして図られるのか,誰が決めているのか?

価値は貨幣の一定量で(つまり価格という形で)測られます。誰が決めるなんてことはなく,その商品にかけられた総コスト(生産コスト+流通コスト)で決まってきます。実際,いくらでも供給可能な商品については,競争と情報との完全性を前提する限り,この総コストがそのまま市場価格を規制します。

さて,それではこの総コスト自体は何によって規制されるかですが,この講義では,その変動は社会的に必要な労働の分量の変動によって規制されると考えます。この点については,以下のドキュメントを参照してください。

商品交換は自由と平等の下で行われるということだったが,確かにこれは建前であると思うし,どちらも満たした交換はあまりないと思う。では現実的な商品交換のための条件は当事者同士の合意という理解でいいのか?

商品交換の根拠(=根本原因)は私的労働と社会的労働との分離です。商品交換の条件として挙げられるのは当事者同士の合意もそうですし,建前としての自由・平等もそうです。と言うか,商品交換における当事者同士の合意には建前としての自由・平等も含まれています。資本主義社会の現実においては,当事者同士の合意もそうですし,商品交換における自由・平等が単なる建前でしかないかもしれないのと同様に,当事者同士の合意単なる建前でしかないかもしれません。例えば,労働力市場での団交,例えば大企業と下請け中小企業との間の交渉。

それ〔=相互的承認〕を通じて社会が間接的に承認するというのが少し頭で理解できなかった。

個人と個人との間での私的契約を社会が追認しているということです。共同体が直接的に承認するのではなく──共同体を代表する国王や首相が承認するのでもなく,共同体の集会で承認するのでもなく──,自由人の間での自由意志に基づく私的契約とその結果とを,追認しているということです。

相互的承認では社会は過剰に干渉しないということだったが,過剰にということは少しは干渉しているということか?そして干渉しているとしたらどういうようにしているのか?

商品交換が自由・平等な両者の合意・承認によってのみ成立する限りでは干渉しないということです。この合意・承認が反故になった場合には当然に干渉します。例えば,ドロボーがいたら,社会──この場合の公共性は国家という形態をとります──が干渉して,ドロボーをとっ捕まえて(行政),罰を与えます(司法)。

私的所有が市場の発生とともに発展したとあるが,何故どのように発展していったのか?

市場において行われる商品交換において交換者たちが互いに私的所有者として承認し合うということによって。

公的なプライバシーというものは存在しないのか?

定義次第だと思いますが,この講義ではプライバシー(私的状態)というのは公共的なもの,オープンなものではなく,私的なもの,クローズドなものです。

私的空間に他者を完全に排除するのはどういった方法があるのか?

ドアに鍵をかけるとか,監視カメラを置いて入れなくするとか,ガードマンを雇うとか。

2. 資本主義社会における私的所有の否定

商品売買を行う際,二者間に上下関係があり,強い方が弱い方に無理な要求を呑ませた場合,それは正当な売買と認められるのか? 実際に市場社会においては必ずしも対等で平等な商品交換ばかりではないと感じることもあると思うが,その場合にでも市場の原理に従っていると言えるのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

無理な要求を力尽くで呑ませるのは商品交換の原理に反しています。つまり,正当ではありません。両者が企業の場合には独禁法の適用事案です(優越的地位の濫用)。

対等で平等な商品交換でない場合には,市場の原理に従っていません。そして,資本主義社会の現実においては,市場の原理に従わないというのはたまたま起こる偶然事ではなく,システムが必然的に起こすものになります。

これから先も個人的な所有が続くのか,それとも何か新しい体制が出来てくるのか? 私的所有を無くすことは可能なのだろうか?〔……〕貨幣は私的所有権から生じる。またもし私的所有がなくなった場合は,経済のエネルギー,活力が失われてしまうと考える。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

所有の問題を考える際に,消費手段の問題を考えるのは無意味なので,生産手段の所有形態だけを考えます。

すでに生産手段の所有について言う限りでは,株式会社のシステムは個人的所有を完全に否定しています。自己労働に基づく分散的なバラバラな(自営業者の社会をイメージしてください)個人的な私的所有はいまや,自分の労働ではなく従業員の労働に基づく大規模公開株式会社の集中的な法人的な私的所有(一言で言って法人所有)に取って代わられているのです。

これから先に出てくる新しいシステムの新しい所有形態は,自己労働に基づいて個人が生産手段の所有を取り戻すということ以外にはありえません。ただし,それは分散的でバラバラな私的所有の体制ではありえません。そういう体制,すなわち自己労働に基づく個人的な私的所有の体制は不効率だからこそ,会社の法人所有(根本的には資本主義社会)に取って代わられているのです。従って,株式会社制度(根本的には資本主義社会)が現在達成しているような効率性に基づきながら,それにマッチした所有形態が生まれてくるしかありません。その実態は分かりませんが,ともかく,共同体の所有でもなく,法人所有(国有を含む)でもないような,個人的所有が,しかし不効率な分散ではなく,効率性に基づいて,換言すると社会的な生産力を活かす方向で,再編成されなければなりません。

貨幣は私的所有権から生じる──もし生産手段の私的所有が消滅するならば,その前に貨幣が消滅しているでしょう。

経済のエネルギー,活力が失われてしまう──「経済のエネルギー,活力」をどうするかはもちろん重要で困難な問題ですが,所有形態がそれらを生みだすのではなく,人びとの活動=労働がそれらを生み出します。で,人びとが労働する際に,どのような所有形態になるかがもちろん重要になってきます。以上,ちょっと乱暴に一言で言うと,“労働を変えればインセンティブが変わらざるをえない;それにどのくらいかかるかはわからない;そして,インセンティブが変わらない限り,生産手段の私的所有も手を変え品を変え存続する”ということになります。要するに,所有形態の改良は,新しいシステムの設計にとって決定的に重要ですが,それで私的所有を完全に無くすことなんて無理であって,また無理矢理に無くすことなんて出来やしないということです(これが労働一元論の考え方です)。

私的労働→商品交換→私的所有といった図が使われているが,現代の社会で主な生産をおこなっているのは法人(またはそれに属する人間)であるように思う。この場合,ここで言う私的には法人等の一つの組織も含まれるのか?

含まれます。

と言うか,本来は個人しか含まれない私的生産が,社会的生産を内包する上で行き着いたのが,個人ではなく社団法人が私的生産者になるという形態です。要するに:

  1. 市場は自営業にマッチしたタテマエででやっているから,全然自営業ではない資本主義的営利企業も,市場でカネモウケする以上,自営業みたいなタテマエ(私的個人がやっているというタテマエ)でやってきた。しかし,そんなことにはもともと無理があるし,企業が発展して企業規模が複雑化かつ大規模化すればますます無理になる。

  2. そこで,もう私的個人がやっているというタテマエは放棄するしかない。

  3. でも,資本そのもの(分かりやすくは資本主義的営利企業),つまり物件がやっているという現実は市場のタテマエにマッチしない。タテマエを放棄しなければならないけど,放棄できない。そこで,資本家たちの社団が法人格を得るという形で,資本そのものが法人成りして(物件が人格を獲得して)私的所有者として振る舞っているわけです。

先進国の人は物が置いてあるのを見て誰のものかなと考える人が比較的多いと思うが,途上国の人は置いてあるから持っていっても良いと考える人が比較的多いと思う。貧しいか貧しくないかでその傾向は説明できると思っていたが,市場経済の影響力に先進国と途上国で差があり,それでものをとってしまうかを説明できるのかと思った。

両者一体のものと考えてください。貧しい人は貧しいから盗むというのは間違いないですが,それと同時に,貧しくっても盗まない人は沢山います。貧困という現実的根拠と所有の正当性の崩壊という意識的条件とがどちらも影響を及ぼすのだと思います。なお,所有の正当性の崩壊は,あなたの例では,市場の未発達によるそれです。これに対して,この講義で問題にする所有の正当性の崩壊は市場が発達しすぎたことから生じるものです。

会社の業務命令でおこなうことは外部の話で,という話が出たが,そういったことが全て外部でのこととされて,区別されてしまうなら,市場の内部に自由は要らないのか?

えっと,逆では? あなたの疑問は,“市場の内部に自由はあっても,市場の外部には自由は要らないのか?”ということなのでは?

で,ここからは今後の話題になってきますが,こういう風に市場の内部,市場の外部という風に綺麗に割り切れなくなるのが資本主義の発展です。最初は割り切ることもできたのですが,発展すれば発展するほど,市場の外部が市場の内部を侵食し始めて,不自由だという資本主義の原理が,自由だという市場の原理と矛盾してきます。そうなると,今度は,逆に,自由という原理を,資本主義にも押し付けるようになります。一方では不自由の原理が市場を侵食し,他方では自由の原理が資本主義を侵食します。

片方は労働し商品を生産し,片方は労働して所得を得ており,その商品と所得の所有権を交換することができる。しかし,例えば,その商品を作っている人が両方である場合,労働の価値と商品の価値とが一致しないことがあり,これは等価交換とは言えないのではないか?

“トヨタ自工の労働者がトヨタから自分たちが工場で作った車を買ったら,等価交換じゃないだろう,何故ならば,もし等価交換ならばトヨタの利潤がなくなっちゃうからだ”という質問でしょうか? 形式的には,トヨタの労働者が受け取る賃金のベースになるのは労働力の価値であり,これは自動車の価値とは独立に決まります。ですから,形式的には,トヨタが労働者に正当な賃金を支払い,かつ労働者がトヨタの車を定価で買っていれば,まぁ,形式的には,等価交換が成立しているといっていいでしょう。

私的所有について,現代社会における国有が「現代国家法人の私的所有」になるのは何故か?法人所有が株式会社の所有になるのなら,国有も同じ扱いになるのではないか?

基本的に同じ扱いになります。すなわち,どちらも法人の私的所有です(一方は会社法人,他方は国家法人)。どちらも,(例外を除けば)関係者以外立ち入り禁止の私的所有の形態です。どちらも執行者個人(会社の場合には代表取締役,国家の場合には首相)の私的所有ではなく,法人の私的所有です。

〔資本主義的営利企業の場合には,〕労働者から見れば労働力を売っているにも関わらず“企業は私的に生産したわけではない”(=労働者自身がつくりあげた)〔。労働者は〕その労働力をお金と交換しており,そういった点で相互私的な生産を行い交換するという図式が成立しなくなるのではないか?

おっしゃる通り,実質的には,成立しなくなります。そのように,市場社会のタテマエが資本主義社会において次々に正反対のものになっていくことを,今後見ていきます。

雇用労働者の集合体が企業であり,企業は一つの目的において多数の人間の集合体であり,共同体といってもよいと思う。しかしながら現代の資本主義的営利企業ではプライベートでありながら労働者が入ってくるという共同体的でありながら共同体を失ったプライベートでもあるという矛盾を感じる。これがプリントでいう“無理”の原因なのか? またその“無理”の具体的内容が知りたい。

“無理”の原因なのか?──この講義とは逆の観点からですが,正しく現象をつかんでいると思います。

この講義では,どの人類社会にも共通な経済活動について企業を定義しませんでした。この講義で定義したのは資本主義的営利企業だけでした。そうなると,私的生産者のプライベートな空間の中に多数の人間の集合体が入り込んでくることに矛盾があります。つまり,(1)まずは資本主義的営利企業を規定し,(2)その上で多数の人間の集合体というどの人類社会にも共通な社会的生産が私的生産の中で行われているという矛盾を考えています。

あなたの場合には,この講義とは逆の観点で,(1)まずはどの人類社会にも共通な経済活動について企業は一つの目的において多数の人間の集合体であると規定し,(2)その上で,資本主義的営利企業の場合には共同体的でありながら共同体を失ったプライベートでもあるという矛盾を考えています。

観点は逆ですが,言っていることは同じことです。

私的労働であっても会社が所有する資産は私的所有とならずに形式的な所有となるのか?

ちょっとところどころ質問の趣旨が分かりにくいのですが,会社が所有する資産は間違いなく私的所有物です。ただし,個人の私的所有物ではなく,社団法人の私的所有物なのです。

私的所有の延長として,何か例題があるか?途中企業を題にしていたが。

延長というか,自己労働に基づく個人的な私的所有が窮屈になったところに生じる私的所有の形態について,今後,見ていくことになります。

奴隷と奴隷主の関係と労働者と資本家の関係とで,所有の関係や,どこがどう違うのか?

『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』で詳しく見ることになります。

3. その他

〔所有基礎論と労働一元論と〕結局どちらが先というのは結論が出ていないということなのか?

この講義の中では,結論は出ています。要するに,労働一元論が正しいというのがこの講義の立場です。

社会的には,どちらかが消滅したということはありません。

1の所有の基礎理論における「所有」については,〔……〕人びとが労働を,主体的・能動的に行うことで,社会を構成し,そこに存在するタテマエにおける承認を受けることによってこの「所有」が成立〔する。……〕また,「所有」・労働は社会的分業の一端を担っている。このタテマエにおいても,人びとの中に個人は存在すると思うので,この場合の個人間の関係は,上からの所与の件であ〔る。これに対して,……〕2の「私的所有」〔……〕においてもやはあり個人間の関係はあり,この場合のバラバラな個人同士の関係は,彼らの労働が社会的分業をなしていないということで,前述の「社会」とは別のものになるが,下からの,能動的な結び付きになるのではないか?

以下のように考えてください。

  1. 前近代的共同体においても,現代社会においても,あくまでも個人が集団を形成するのです。能動性は常に個人の側にあります。どの人類社会にも共通な経済活動を考える際には,従ってまたどの人類社会にも共通な所有を考える際にも,これが大前提です。

  2. しかし,個人が共同体と一体のものだった前近代的共同体においては,この関係は逆転して,共同体こそが能動的主体として現れ,個人はその受動的な付属物,付け替えの効く器官として現れます。その限りで,前近代的共同体では個人間の関係は,上からの所与の件として現れるといっていいでしょう。

  3. これに対して,個人が共同体からバラバラに切り離された現代的社会においては,社会形成が本来のものとして,つまり下からの,能動的な結び付きとして現れます。実は,第一段落で述べたどの人類社会にも共通な経済活動もまた,このような現代社会から抽出されたものです。

  4. ところがまた,現代社会においても,結局のところ,共同体という人格的な関係に代わって,資本という物件的な関係が,諸個人を埋没させ,個人間の関係上からの所与の件にしてしまうということを,今後,資本主義社会としての現代社会で見ていきます。

なお,市場社会でも社会的分業はあります。と言うか,講義で強調したように,市場社会こそは,これまでのところ,社会的分業が最も広域化かつ最も細分化された社会です。ただ,商品が売れてみないと個人の私的労働が社会的分業の一環をなしたのか分からないのです。

社会主義の中で私的所有はどう説明されるのか?

もし資本主義の後に来る社会を社会主義と名付けるのであれば,生産手段の私的所有は解体されるしかないでしょう(注2)。こう言う言い方をすると,えらく無理難題のように思われるかもしれませんが,現在,すでに株式会社を見てみれば,その私有所有物(工場とか機械とか)は,労働者個人の私的所有物でもなければ,資本家(=株主)個人の私的所有物でもなく,会社法人の私的所有物です。もう私有財産制の内実(個人主義的で,自己労働に基づいているという内実)は掘り崩されてしまっているわけであり,生産手段の私的所有は個人的所有ではなくなってしまっているわけです。従って,個人が生産手段の所有を取り戻すためには,資本主義におけるこの結果をふまえるしかないわけです。

なお,今日「社会主義」と名乗っている国々はすべて遅れた資本主義国です。従って,上記の議論は全く通用しません。この講義で述べているように,そこでは,多かれ少なかれ国有制が重要な役割を演じていますが,国有すなわち国家的所有とは国家法人の私的所有にすぎません。要するに,遅れた,発展途上の私有財産制です。

その他,かつて社会主義と名乗っていた,あるいは今でも社会主義と名乗っているような国々の経済システムの性格付けについては,以下をご覧下さい。

正当性において奴隷制が正しい,すばらしいと考えるのは絶対的な正当性〔=本来の正当性〕に値するからなのか?

奴隷制は手を変え品を変え,長期にわたって現れは消え,消えては現れた制度です。しかし,奴隷制が基盤をなした共同体はそれほど多くありません。そして,共同体の基盤をなす限りでは,それは本来の正当性を持つものとして通用していたからです。奴隷主,その奴隷,他の奴隷主のそれぞれの意識が安定的にこの制度を媒介していたからです。

“奴隷制って儲かるから素晴しい”なんてのは(つまり機能によって奴隷制を擁護するのは),奴隷主にしか関係なく,本来は奴隷とは無関係のものであり,また奴隷でも奴隷主でもない他の経済主体にとっても不公正なものとして(ズルとして)現れます。アメリカ南部の近代的奴隷制の崩壊をイメージしてみてください。

社会システムにおける奴隷制を考えると,奴隷制社会がみとめられるが革命が起きた場合どうなるのか?革命によって奴隷主の所有としての正当化がなされなくなると,前提が崩れるため社会システムから逸脱した状態になるのか? そもそも奴隷制が存続したと言うことは社会的に安定的だったからなのか?

革命以前から,“奴隷制っておかしんじゃね?”という意識が生まれ,そこからシステムそのものが崩壊するわけです。ただし,講義で述べたように,実際には,革命のような派手なやつよりは逃散のような地味な崩壊の方が多かったでしょう。また,革命を起こすのも奴隷自身とは限りません。アメリカの南北戦争を考えてみてください。で,革命が起きた結果として,奴隷制が崩壊すれば,当然のこと,奴隷制は逸脱だというのが社会の公認の意識になります。要するに,奴隷制は違法になります。

奴隷制が存続したのは社会的に安定的だったからと言うよりも,奴隷制が社会的に安定的に存続するためにはそれを正当化する意識が必要だと言うことです。

参考文献は何か?

所有論そのものについては,適切なものはありません。かなり難解なものとしては『2014年09月30日の講義内容についての質問への回答』の「28. 所有論を補う書籍はあるか?」をご覧下さい。株式会社論については,後日,参考文献を配布します。


  1. (注1)また,決して私的個人を単位とする私的生産ではなく,それ自体が共同体(一族郎党単位の共同体)であるような私的生産ではありますが,より上位の共同体との関連で言うと,たとえば守護不入の荘園なんかは,講義で強調したように,商品を生産しなくても,より上位の共同体(=幕府)からの干渉の排除を理念としているでしょう。

  2. (注2)消費手段については,その所有の私的性格を問題にする必要はありません。消費手段は,その使用価値に応じて,排他的に個人によって消費されたり(例:リンゴ,肩もみサービス),あるいは集団によって消費されたり(例:橋,ライブ)します。この違いは,自然的な使用価値の違いですから,社会形態の違いではありません。もちろん,同じ橋でも,大邸宅の大庭園の池にかけられた橋は個人によって排他的に消費されるかもしれませんが,それで社会が何か変わるわけではありません。リンゴが個人によって排他的に消費されるのは,個人が社会と対立しているからでは決してありません。どの社会的条件でも,どの歴史的時代でも,リンゴは個人によって排他的に消費されます。もちろん,中には,一度誰かが反芻したリンゴでないと食欲が湧かないという変態的な食欲者もいるかもしれませんが,それはそれでその人の勝手であり,私的個人と社会との対立とは無関係です。