質問と回答

社会に認められるということは具体的にどういうことなのか? 〔例えば〕株式50%以上持っているからその会社の保有者として認められるということなどなのか? 所有が,持っているだけとは違うというのが少し分かりづらい。猿Aの樹を,別の猿Bが,猿Aのものだと認識した状態で,猿Aが樹を保持していれば所有されていると言えるのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

これの難しい問題は,前近代共同体における所有がまだ未成熟だったということだと思います。およそ未成熟なものを考察するためには,成熟したものを基準にするしかありません。人間の解剖が猿の解剖の鍵になるのです。つまり,所有現象を考察する際には,現代市場社会における私的所有を基準にするしかありません。

社会に認められるというのは,講義内で例に出したように,嫌々であろうと,喜んでであろうと,どちらにせよ,社会の構成員の意識がその対象支配を認めているということです。その仕組みは時代に応じて異なります。

株式50%以上持っているからその会社の保有者として認められる──株式会社のところでやりますが,株式会社おいては,個々の株主が資本の私的所有者です。そして,私的所有者として行為しうるかというと,単位株主はもちろん,大株主でさえ,私的所有者として行為することができません。あくまでも,会社の機関たりうるのは,個々の株主ではなく,株主総会です。株式50%以上を保有している株主は,あくまでも,株主総会において自己の意志を実現しているだけです。

猿Aの樹を,別の猿Bが,猿Aのものだと認識した状態で,猿Aが樹を保持していれば所有されていると言えるのか?──認識のレベルが問題です。ここで述べているのは社会を媒介にした承認です。猿はそもそも社会を形成することができないので,所有することができません。

それはずるいぞ! 結論が前提されているじゃないか! その通りです。この政治経済学2では詳しく論じることができませんでしたが,人間のみが社会──すなわち本能的に形成された集団ではなく自覚的に形成された社会──を形成することができます。で,これだけではあまりにずるすぎるので,例を挙げておきますと,人間の場合,もし樹がAの所有物だと承認していたら,Aが3年間,樹に全く触らなくても,Aの所有権は消えません。猿の場合には,もしBがその樹が欲しい(例えば食糧源として)のであれば,長期間,Aが戻ってこない場合には,──慎重にもうAが戻ってこないか確認するでしょうが──,結局のところ,Bはその樹を使ってしまうのではないでしょうか。これこそは所有が成立していないと言うことです。所詮は奪い奪われという世界です。

人が人の物を,例えば盗んだ物をその人の物だとかんちがいするケースがある。しかしそれはばれていないその時だけのことで,しかもしかもその物の所有はすでに法にふれている。このように社会の個々人が各々の認識によって勘違いでも,ある物の所有をその人に認めていればそれは所有していることになるのか?

現代社会の法理論を別にすると,もともと盗んだものだろうと,奪ったものだろうと,なんだろうと,社会(共同体)で認められていればその対象支配は所有として通用します。自立した諸個人が集団を形成するというタテマエに立つのではなく,むしろ個人が集団の付属物として現れていた前近代的共同体の場合に,よくわかります。

現代社会の場合には,知らずに20年間,不法占拠していた土地については,その善意取得が社会によって認められて,所有物として通用します(注1)

人間社会に所有という概念はいつどのようにして生まれたのか? 人間の先祖はもともと猿に近い生き物であったため,一体いつ頃から,どのようなタイミングやきっかけで〔所有は〕自然発生したのか? やはり人間特有の共同・共存という性質が生み出したものなのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

もし歴史的な話をするのであれば,それは私は全く知りません。知っている人はどこにもいないでしょう。遙か昔の話ですし,記録も残っていません。

また,この講義が強調しているように,現生人類の祖先と猿の祖先との違いはほんのちょびっとのものであって,このほんのちょびっとの違いが決定的な違いであり,長い年月を経て雪だるま式に膨らみ,現在では,猿は相変わらず同じ暮らしを繰り返しているのに対して,人間はどんどん発展し,生産力を高めて富を増やしていったわけです。従って,たとえ現生人類の祖先と猿の祖先とが別れた瞬間に私がタイムマシンに乗って立ち会うことができたとしても,私には両者の区別は全く付かなかったでしょう。

こうして,歴史的な発生については何一つ正確なことを言うことができません。言うことができるのは,理論的な発生であって,これは,現代社会を基準にして過去を見るということを意味します。すなわち,《現代社会の中で,実際の発生順序はともかく,理論的にはこういう因果関係が成立している;従って,この因果関係に即して過去を見ると,こういう順序を考えることができる》というわけです。

それでは,理論的な発生がどうなっているのかというと,『1–1 労働と所有』で見るように,(1)最初にまず労働があり,(2)それから労働が社会(前近代においては共同体)を形成し,(3)社会を通じて所有が成立する。そして,所有によって労働が社会の中で安定的に行われる。──このような順序です。なお,社会の共同体との違いについては:

をご覧ください。

〔所有は〕人間特有の共同・共存という性質が生み出したものなのか?──もしそれが《人間特有》ならば,確かに人間特有の共同・共存という性質が生み出したとも言えます。ただし,この場合の人間特有共同・共存は人間特有の非共同・非共存と同義です(注2)

要するに,人間特有の社会形成が問題です。政治経済学1を受講していた方は,《原生人類が発生した時点では,たとえそれを目で見ることができるとしても,人間の労働と猿の本能的生命活動との違いはわからないだろう》ということを覚えているかもしれません。しかるに,現代社会の労働から振り返れば,つまり,《こりゃもう人間は猿じゃ全然ないよ》という結果から振り返れば,構想の実現と意志への従属が人間の労働の特徴だったわけです。これに対して,もし目で見ることができるならば,所有の成立は,人間と猿とを分ける目に付きやすい違いになります。ですから,猿の生態のビデオを観て,“あぁ,猿には所有が成立していないんだな”ということを確認したわけです。

〔どの人類社会にも共通な経済活動と,〕所有一般とがなぜ対応しているのか? それは猿の例にもあったように,猿は他の猿を奴隷として使うことができないように,どの人類社会にも共通なレベルにおける,動物が効率的な生産ができないことに対応しているのか?

どの人類社会でも社会の中で労働が行われる限りでは,つまりどの人類社会にも共通な経済活動がおこなわれる限りでは,所有が成立するからです。

どの人類社会にも共通なレベルにおける,動物が効率的な生産ができないことに対応しているのか?──対応しています。動物は労働することができないから,(本能的集団から区別される)自覚的な社会を形成することができず,所有を成立させることもできません。そして,所有を成立させることができないから,生産(従って労働)を安定的に行うことができず,以下続く……という悪循環を描きます。

猿などの人間以外の生命体も所有が成立するように感じる。〔中略〕猿も暴力によってエサなどの所有を社会(共同体)に認めさせるということはできるのではないか? 猿同士の縄張り等は所有の概念に当てはまるのか? 一方が縄張りを所有しているという認識の元で奪い合い買った方が縄張りを手にするという風には考えられないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

結論を言っちゃうと,《猿の集団は本能的な集団であり,自覚的な社会ではない;従って社会(共同体)に認めさせるということはできない》ということで終わってしまします。

猿も暴力によってエサなどの所有を社会(共同体)に認めさせるということはできるのではないか?──質問者は,例えば餌付け環境下でのサル山のボスザル(αオス)の餌はどの猿も食べないということなどなどをイメージしているのでしょうか? しかし,それはボスザルが餌を占拠しているだけです。実際,ボスザルが変われば,その新しいボスザルが新しい餌を占拠するようになるでしょう。

猿同士の縄張り等は所有の概念に当てはまるのか?──動物の縄張りは所有ではないからこそ,動物は何度もマーキングしたり,毎日パトロールしたりしなければならないのです。所有が成立していれば,そんなことをする必要はありません。そんなことをしなくても,土地所有者Aが《ここからここまでは俺の土地》という表札一枚を立てておけば,他の人もその土地がAのものだと認めます。もし仮にAが毎日パトロールしなければならないとしたら,それは所有が成立しているからではなく,所有が侵害されている(要するにドロボーがいる)からです。

中国のような社会主義社会の中で資本主義地域も同時にもたらすというケースは政治経済学の観点ではどのように認識するのか?

中華人民共和国は,人民公社のような資本主義からの後退はあったものの,建国以来,ずっと発展途上の資本主義国(国家資本主義)であったと私は考えます。その中で,最初は国家に抑圧されていた市場が潜在的に拡大し,それが経済発展をもたらし,この経済発展が政治による市場の抑圧を解放していき(改革開放政策),この政策がますます市場の拡大をもたらし,この市場拡大がますます経済発展をもたらしているのだと思います。

あなたが中国のような社会主義社会と呼んでいるのは,恐らく,政治における中国共産党の専制支配,そしてこのような専制政府による恣意的な市場介入のことを指しているのではないでしょうか。これは確かに重要な問題です。

しばしば発展途上国経済が先進国経済に追い付こうとする際に,専制的な政府が強力なイニシアチブをとります。これは通常,開発独裁と呼ばれています。純粋に経済学的には,開発独裁は,専制権力をもって,市場が未発展であるような国で適切な外資の導入,基幹産業の国営化をしつつ国内産業を保護育成します;しかし,やがて国内市場が大きくなるのと同時に国内産業がなんとか自立的に資本蓄積できるようになると,一方では,もはやこのような専制的・恣意的な市場介入がこれ以上の経済発展にとってやっかいものになってきます;他方では,市場経済の発展は,この講義で強調しているように,社会の原理が市場の原理に基づくようになり,政治的に表現すると,政治的自由や民主制を市民が求めるようになってきます;こうして,開発独裁は崩壊して,成熟した経済政策に取って代わられる……はずです。

……と言うのが,純粋に経済学的な考察なのですが,現実的にはそうはなっていません。開発独裁はその経済的役割が終わっても,いわば慣性の法則で続いてしまうのです。そして,この慣性の法則でいわば動摩擦係数を減らすのが,イデオロギーの役割です。その内容は,社会主義でもイスラム教でも他の宗教でも,なんでもいいのですが,ともかく,国民統合のイデオロギーの担い手として,開発独裁が継続しうるのだと思います。

中国の専制政府が経済的に見て役割を負えているのかどうか,私にはわかりません。しかし,すでに崩壊しても良さそうなのですが,なかなか崩壊しそうにありません。それを可能にしているのが,──もちろん専制政府が持っている物理的暴力が背景にあるのですが,暴力だけで維持できる政府などありません──,中国共産党であり,また社会主義イデオロギーなのだと思います。

なお,一般に,社会主義を名乗っていた/いる国家についての私の素人考えについては:

などをご覧下さい。これらの議論では,私は主としてソ連を念頭に置いて話をしています。中国はソ連よりも更に遅れた初期条件の下にありました。

労働というものが労使関係によってなり立つものであるため,その関係が崩れれば社会における所有も成り立たなくなってしまうと考えた。その根底にはやはり人間の人柄や性格,心理的事象が関わってくるのではないか?

いわゆる労使関係は分配関係に基づく対立関係だと思います。理論的に言って,所有は自己意識を持つ人間が形成した社会によって媒介された対象支配です。そこには必ず意識が間に入っています。その限りでは,人間の人柄や性格,心理的事象が関わっています。

ただし,個々の人間の人柄や性格違いが問題なのではありません。みんなで形成した一つのシステムが問題なのです。これは後に,私的所有を考察する際にはっきりしてくると思います。

〔政治経済学は〕社会学としての色合,もしくは社会全体としてのガバナンスを扱ったものなのか?

社会全体としてのガバナンスを扱ったものなのか。──講義で行った経国済民(経世済民)の説明を受けての質問なのでしょうか。やや違います。社会全体との関連における経済活動・経済システムを考察する学問,というくらいの意味です。

ガバナンスについて言うと,この政治経済学2では,(社会全体のガバナンスを扱うこともありますが,中心的テーマは)株式会社のガバナンスです。企業のガバナンスとは,まさに私的所有の問題です。

講義で述べているように,市場社会の経済主体として想定されるのは,消費者としても生産者としても共同体から自立した個人であり,要するに生産者としては自営業者です。個人としての私的所有者である自営業者の場合には,私的所有の絶対性の原則が貫徹します。自営業者は,自分の労働で自由に営業する権利があり,そしてその代わりに総ての責任を自分で背負います。

これに対して,個人的な資本主義的営利企業(つまり単一の個人的な資本家が多数の労働者を雇用しているような企業)の場合には,多数の従業員を雇用しているという点で,すでに個人主義的原則が否定されています。個人的な資本家は自分の労働で営業しているわけではなく,(自分でも労働するでしょうが)多数の他人の労働の利用によって営業します。俺が営業するのは俺の自由だというのはもはや通用しません。なにしろ,他人のフンドシで飯を食っているのですから。企業に雇用されている労働者たちについても,先の私的所有の原理は通用していません。自分の生産手段ではなく,資本家の,つまり他人の生産手段で労働し,自分の金ではなく,資本家の,つまり他人の金を賃金として受けとります。自分の私的生産ではなく,資本家の私的生産の内部で労働しているのだから,自分の自由ではなく,資本家の,つまり他人の命令に従います。そして,どんなに働いても,生産物が自分のものになったりはしません。もちろん,自分がやらかしたヘマは,資本家にも他の同僚にも損害を与えます。個人の自由も,個人の自己責任も,原理として貫徹しえなくなります。

株式会社になると,話がもっと複雑になります。個人的な資本主義的営利企業の場合にはまだなんとか保っていた私的所有者としての資本家の自己規律と自己責任とが──一言で言って私的所有の規律が──破綻します。会社企業とは複数の資本家がいるような企業であり,株式会社においては資本家とは株主です。株式会社の必然的形態は大規模公開株式会社であり,そして大規模公開会社においては,典型的には多数の株主と,会社に雇われただけの専門的経営者と,その他大勢の管理職からバイトに至るまでの賃金労働者とが主要なプレイヤーになります。個々の株主は会社の経営そのものからは排除されている代わりに,会社が倒産しても有限の責任しか取りません(要するに株券がパーになるだけです)。専門的経営者にとっては,会社は他人のものであって,もともと自分の私的所有物ではなく,原則的には会社が倒産しても自分の私的所有物とは無関係です。その限りでは,株式会社は最初から無責任体制なのであって,つまり私的所有の規律をかなりの部分,欠いているのです。

社会学としての色合〔があるのか?〕──社会学とは,現代社会における現代人の現代的な社会関係全般について考察する学問だと思います。従って,社会学は現代社会の非常に広い範囲の現象を対象にしており,この講義もその対象からは逃れられないでしょう。とは言っても,この講義とはそれほど重なる部分が多くないと思います。所有現象や株式会社を扱っている以上,どちらかと言うと,法学や経営学と対象領域が重なることが多いかもしれません。


  1. (注1)ただし,この原理は,今後講義で取り挙げるような商品交換で発生する正当化原理から一元的に派生するわけではありません。例えば,何故に20年間なのか,19年ではダメなのか,それを説明できる人は一人もいません。なお,この問題については:

    をご覧ください。

  2. (注2)人間の本質が共同・共存にあることは間違いありません。しかし,これまでの歴史において,この共同性・共存性が十分に発揮されたとは限りません。これまでの歴史において,人間社会は存続し発展してきたという点では,人間は,全体的には共同的・共存的でしたが,しかし部分的には非共同的・非共存的でした。

    そして,どちらも,猿が時に共同的・共存的であり,時に非共同的・非共存的であったのとは全く異なります。つまり,人間特有です。猿は,本能的強制でも本能的追随でもなく自由意志で,同好の士を募ってサークル活動なんかしないでしょう。猿は,猿山の“猿族”浄化のための大量虐殺なんてことはしないでしょう。