1. 私的労働と私的所有

労働と所有の不一致を確かめることができないことはデメリットのままなのではないか?これは私的なことなので,確かめることができないのは納得できるので,そもそも,私的所有の正当性自体説明できるものではないのではないか? 〔自己労働に基づいているのか〕わからないからむりやり認めてしまうということか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

逆なのです。商品交換においては,自分の商品は自分のもの,相手の商品は相手のものとして(それを通じて両者は互いに正当な私的所有者として)承認するしかありません。この時点において,互いが正当な私的所有者であるということは,自己労働に基づくということしかないわけです。もちろん,本当は自分が泥棒かもしれないし,相手が泥棒かもしれません。でも,泥棒を原理(ここではタテマエ)にしちゃったら,商品交換がシステムとして成立しないわけです(注1)。そして,市場社会は商品交換のシステムです。

オークションにおいて合意・承認が成立したと言えるのは,落札した時,振り込まれた時,現物が届いた時のどの段階なのか? 出品者は振り込まれ商品を発送したところで役割的には終わりだが,購入者は現物が届かないと合意・承認が終わったとは言えないと思う。

一般論としていうと,商談が成立して契約書を交わした時点で,合意・承認が成立しています。現実の所有権の移転はその後に来ます。相互的に私的所有者として承認し合っているからこそ,商品売買契約(これは合意の法的形式化です)をすることができ,また所有権を移転することができるわけです。

で,今度は特殊論。オークションにもいろんな形態はあると思いますが,基本的には落札した時だと思います。

コンビニでおにぎりを買う場合なんかは,いちいち契約書を交わしたりはしませんし,商品譲渡と貨幣支払とが同時に行われますから,これらのすべての契機が一度に行われます。しかし,企業間での掛け売買なんかでは,契約成立→商品譲渡→貨幣支払が時間的に分かれます。

自由で平等な個人の私的労働によって生産された所有物の商品交換によって私的労働から私的所有が成立するとあったが,モノとモノ(あるいはカネ)の交換ではなく,サービスの場合でも同じようなことが言えるのか?

一言でサービスと言っても,いろいろなものがあって,それぞれ経済的には内容を全く異にしているのですが,それはともかく……。やはり一言で回答すると,モノとモノとの取引から派生してきます。

完全に労働生産物とは言えない──従って自己労働の結果とは言えない──ような商品が市場で流通しています。その中で現在の資本主義的な社会システムにとって最も重要なのは労働力です。もちろん,金融商品や(経済学では土地と呼ばれる)自然も重要ですが,労働力が販売されていないと資本主義的営利企業がそもそも成り立ちません。そのような商品の場合にも,モノとモノとの取引で原則となっているような自由・平等な私的所有者同士の交換が当てはまるというのは講義で述べたとおりです。その上で言うと,労働力の場合には,労働力を育成するための生活費なり,修業費なりを払うためには労働が必要だということで擬制されているわけです。土地や金融商品なんかの場合には,その土地を買った貨幣を手に入れるのには労働が必要だったということになるというのも講義で述べたとおりです。

これらはすべて,労働生産物ではありませんが,モノの取引,物件の取引です。労働力の売買も,有体物ではありませんが,サービスそのものの取引ではなく,労働者側は自己の労働力を自己の所有物件として販売しており,企業も企業で具体的な労働内容そのものが必要なのではなく,その結果として生産物を生産し利潤を獲得するということのための手段,その意味で機械設備と同様の物件として購買しているからです。

以上を前提した上で,サービスの取引そのものについて言うと,例えば,個人がお掃除サービスを買うなんて場合には,モノとモノとの取引にはマッチしません。それは,労働生産物(すでに行われた労働の結果)の購買ではなく,サービス(これから行われる労働の具体的内容)の購買です。この場合には,具体的な労働内容そのものが重要なもの,購買の目的ですから,上で見た労働力の売買とも異なっています。

この場合にも,もちろん,交換においては自由・平等な私的所有者同士の関係になります。ただし,買い手の側は物件を交換に出すわけであり,それはそれで遡れば自己労働の結果に擬製することができますが,売り手の側はそうではありません。しかし,そのサービスがいくらで売られるのかと言ったら,それは後に遂行する労働の量と質とで決まるしかないわけです。こういうわけで,サービス商品の場合には,モノとモノの交換から派生してくるわけです。

二次所得というのはそもそも労働が存在しなければ所有という概念がないので,所得は労働の産物ということか?

ものすごく根本的なことを言えばそうなんですが,ここではもっと単純,かつもっと直接的に,“交換はドロボーではない交換する際に,お互いにドロボーだと想定するわけでにはいかない頑張って正当に手に入れたと想定するしかない”と考えてください。

私たちがお金を払って商品を購入するということは労働によって得られた金銭と労働で得られた商品との等価交換であると言って良いのか?

そうです。ただし,市場社会のタテマエにピタリと一致した自営業者を前提する限りでは,労働によって得られた金銭は,正確には,労働で得られた商品を販売して得られた金銭ということになります。賃金労働者の場合には,労働生産物とは言えない労働力を販売して得られた金銭になります。

日本は狭い国で,平野部の多い国とは言えないので,土地の私的所有に制限を持たせても良いと感じたがどうなのか?

土地所有に限らずに,今日の先進資本主義社会では,私的所有は無制限なものではなくなってきています。最初はワイマール憲法で,私的所有の無制限性が公的に否定されました。日本国憲法でも,財産権の内容は,公共の福祉に適合するように,法律でこれを定める(第29条2項),私有財産は,正当な補償の下に,これを公共のために用いることができる(同3項)となっています(引用の際には仮名遣いを新仮名遣いに変更)。要するに,公共の福祉が私的所有権に優先するわけです。

この講義の基本的なテーマは,どんどん発展していく資本主義社会の現実に,市場社会の固定的・静態的な狭い枠組みがマッチしなくなってきているということです。その法律的な反映が私的所有権の無制限性の否定だと考えます。

日本の場合に,特に土地については,土地収用法というのがあって,私有地を公共のために用いることができます。また,このような強制収容を別にしても,土地の利用には様々な制限があります。

経済発展についてのこの講義の内容から,この法的問題を整理すると,上の公共の福祉を考える際には,二つの観点がどちらも必要です。

1. 内容の観点

一つの観点は,資本主義社会の現実においては,乱暴に言うと,公共の福祉というのは資本の共通利益──互いに利害対立し合う個々の資本の利益ではなく,資本主義社会を発展させるための総資本の利益──に過ぎないということです。これは資本主義的生産の発展はもはや私的所有という市場社会の基本原理を制限と感じるようになっており,この制限を乗り越えようとしているということの一つの現れです。

2. 形式の観点

もう一つは,資本の共通利益が,資本の共通利益としてではなく,公共の福祉という形式,タテマエをとっている以上,この形式は資本の運動自体を縛る制限ともなりうるということです。言葉を換えて言うと,資本主義的生産が私的所有という市場の原理を制限として乗り越えようとするということ自体が,資本主義的生産に新たな制限を課すことになりうるということです。

私的所有が共同体所有と対立するというのはどういうことか?

私は経済史の専門家ではないので,最新の研究成果などはふまえておらず,教科書的・常識的な知識しかありませんが,一応,答えておきます。

一言で共同体所有といっても,その前近代的共同体の性格に応じて,いろいろと異なります。例えば:

  • 土地所有としては共同体首長の所有しかなく,この共同体首長の所有が共同体所有であり,その他のすべての共同体構成員は土地を占有しているにすぎない(つまり所有していない)ような形態。

  • 共同体所有と私有地が併存する場合。この場合,共同体所有は前近代の公地(日本の公地公民の公地)とか公有(ローマのager publicus)なんかがそれで,要するに国有,と言っても前近代的国家の国家的所有ですね。実際には,私的個人単位ではなく,大家族の単位ですが,日本の荘園なんかもこのような私有地に入れることができるでしょう。

  • 共同体所有が特に共同体成員の共有財産という形態。ヨーロッパや日本の前近代の入会地なんかがこれに入るでしょう。おじいさんが山に芝刈りに行ったり,おばあさんが川に洗濯に行っりしたた時の山とか川とかがこの入会地であって,共同体成員なら誰でも入会地を使うことができ,共同体成員以外が入会地を利用するのを共同体は排除しています。

実際には,この他にも様々な歴史的形態があるでしょう。むしろ,典型的な共同体所有だとか,単一のカテゴリーをなす共同体所有なんてものは存在しないと言うことができるでしょう。前近代的共同体はすべて偶然的です。地域ごとに民族ごとに多種多様です。これに対して,現代社会だけが必然的です。地域差を残しながらも,グローバルなルール,カネモウケのルールに,すべての生活を従わせようとします。それに対する対抗軸,つまりカネモウケからの脱却の動きも出てきますが,これはこれで,カネモウケのルールがグローバルだということの証です。カネモウケのルールがグローバルだからこそ,そこからの脱却もグローバルです。

で,二点の補足をしておきます。

今回の講義で強調したのは,第三の例における共同体成員の共有(入会地)と,現代的な私的所有との対立ではないでしょうか? これは前近代的共同体から現代資本主義社会へ移る時に重要になってきます。村落共同体の成員は,家族の所有地(江戸時代の場合に,百姓の所有権のその上の所有権が藩に,更にその上の所有権が幕府にあると考えることができるでしょう)で自給自足に近い生活をし,自給自足で手に入れられないものは村落共同体内の分業(村の鍛冶屋など)で手に入れたり,あるいは上記の入会地で手に入れたりし,また田植えや収穫のように短期間で大量の労働投入が必要な時には家族単位ではなく,共同体単位で協業をして助け合います。このような共同体単位での完結した生活が行われている限りでは,市場社会が形成されません。また,賃金労働者も現れないので,資本主義社会も形成されません。従って,前近代的共同体から現代資本主義社会へ移る時には,個人が所有地を失うのとともに,共有地も失う必要があります。

第二の例のように,国有地と私有地とが併存する場合,私有地は一方では国有地から排除され,他方では国有地から自立し,ともかく,国有地と私有地とが互いにバラバラ(排他的)になり,それを通じてまた,私有地同士もバラバラ(排他的)になっています。国有地の方も私有地とはバラバラ(排他的)になっているのですから,実際には,前近代的国家の私有地です。要するに,民間の私有地と前近代的国家の私有地とが対立していると考えることができます。

前近代的社会は私的所有を認めていないと言うことだったが,それだと社会主義,共産主義はどうなるのか? 社会主義,共産主義も個人は組織の一部であり,所有が認められないので少し似ているのではないか?

うーん,スライド配付資料をご覧下さい。前近代的共同体で商品交換とは無関係に生産手段に対する(端的に言って土地に対する)私的所有が生まれたのです。ただし,それが生産手段に対する社会の標準的な所有形態になったのは市場社会においてだということです。

社会主義,共産主義も個人は組織の一部であり,所有が認められないので少し似ているのではないか?──所有が認められなかったら,ドロボーし放題じゃないですか。リンゴもおちおち食べられません。通勤して,帰ったら家がなくなっていたなんてことじゃ,社会システムは成り立ちません。この講義で,(1)所有一般は人類の歴史とともに始まる(2)私的所有は所有の特殊な一形態にすぎないと強調したとおりです。

で,社会主義/共産主義についての話は,何を以て社会主義/共産主義と判断するのかという問題があるので,以下を参照してください。

あなたの指摘で非常に重要なのは社会主義,共産主義も個人は組織の一部でありという箇所です。これは,確かに前近代的共同体の特徴でありますが(組織=非市場的組織前近代的共同体と考えた場合),それ以上に,現代資本主義社会の特徴です。現代資本主義社会においては,資本主義的営利企業の従業員は間違いなく組織の一部であり,かつその企業の生産手段の私的所有が認められていないわけです。この点をこれから考察していきます。

会社のお金は社長や株主の物とは違うという話があったが,自営業者の場合はどうなるのか?

自営業者や(非法人の)個人企業の場合には,自己資金であろうと借入金であろうと,事業資金は個人の私的所有物です。

市場外部における搾取は考慮せず,すべての私的所有を労働によるものとするというのは,搾取を正当化しているわけではなく,あくまで私的所有を正当化するための形式であるという解釈で良いのか?

その通りです。

労働と承認は分離していて内容を問えない正当化でしかないので,所有が労働に基づいていると想定するしかないので,私的所有が形式的なものでしかないということなのか?

大体,その通りです。

2. 商品交換を経ない現代的な私的所有

〔無償譲渡の場合1:〕 無償譲渡の場合においては等価交換より自由意志が尊重されるとしているが,正当性の側面で見た時に等価交換としては正当化されないとされているが,その上でも自由意志を尊重することの方が優先的ということか? 無償譲渡の場合,等価交換と同じ仕方では正当化されないとあるが,〔……〕2者間の合意によって正当化されるのか,そもそも正当化は成り立たないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

等価交換より自由意志が尊重されるのではなく,等価交換と同様に自由意志が尊重されるというわけです。ですから,力点としては,自由意志を尊重することの方が優先的というよりは,自由意志を尊重するという条件は満たされているが,平等という条件は満たされていないから,商品交換と全く同じように正当化されるわけではないということです。自由という条件は満たしているから正当化されるけれども,平等という条件は満たしていないから,中途半端だということです。“全く同じように正当化されるわけではない”とか“中途半端だ”とかの法制度的な現れが,相続税だったり贈与税だったりするわけです。

〔無償譲渡の場合2:〕ボランティアやプレゼントの際の無償譲渡は〔……〕相手の承認を得て(確認),取引が成立するのであれば,等価交換にならないか? Aは物や労働を売り,受け手は返礼で〔……〕答えるので。

なりません。無償譲渡やボランティアの場合にはどうやっても交換になりません。Aが労働したり物を渡したりするのは返礼を受けるためにではないでしょう。そうではなく好きでやっているからこそ,ボランティア/プレゼントなのでしょう。

で,この問題をもう少し深く考える場合に,一方的なプレゼントではなく,クリスマスパーティーのプレゼント交換を考えましょう。有名な小説からお題を取って,懐中時計のチェーンとベッコウの櫛との交換でいいでしょう。この場合には,一方的な無償譲渡の場合のような一方性・片方向性ではなく,商品交換と同様の相互性・双方向性が生じています。しかし,これは商品交換ではありません。

ジムが櫛を手放したのは,決してチェーンを手に入れるためではありませんし,デラがチェーンを手放したのは決して櫛を手に入れるためにではありません。というよりも,ジムはチェーンをもらうとは夢にも思っていませんでしたし,デラは櫛をもらうとは夢にも思っていませんでした。つまり,ジムはチェーンを手に入れて消費するという自分の生活(=自己目的)を媒介するための単なる手段として,櫛を手放したわけではありません(デラも同様)。

この点をもっと一般化して言うと,講義で強調したように,必然的な経済的形態としての商品交換(そして,市場社会を構成しているのはこのような商品交換です)は商品生産関係に基づいているということです。生産関係を生み出す労働のやり方で言うと,私的労働と社会的労働とが分離しているということです。

同様にまた,文化人類学は儀礼的な交換を考えたりしますが,それは経済的な商品交換では決してないのであり,儀礼的な交換では市場社会は成立しないわけです。

〔遺失物の原始取得の場合:〕 所有者が商品を落とし,なくしてしまい,他人が拾った場合,もちろん警察へ届ける等の処置が必要であるが,そのまま所有物が移転してしまうこともあるだろう。〔……〕この所有権の移転が成り立つ場合,合意,交換をせずに移転したことになるのではないだろうか? 拾得物は所有になるのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

移転というよりは断絶ですね。元の私的所有者がわからないのですから。

もちろん,遺失物の拾得者による原始取得はこの講義で問題にしてる商品交換を通じての二次的取得(法的には継承取得)ではありません。で,現代市場社会における私的所有の発生メカニズムを考えると,市場での私人同士の合意で生まれ,それを社会が追認するわけです。社会による追認は,現実的には,実定法が保証し,これを行政機構が安定的に運用するということになります。要するに,合意という自覚的な形式は最終的には公共的に貫徹するわけです。

そこで,遺失物の拾得者による原始取得の場合には,もとの私的所有者がわからないのですから,私人間の直接的な合意ではなく,直接的に公共性によって私的所有権が生じるわけです(警察という行政機関に届けるということ,実定法の規定によって初めて私的所有権が生じるということがこの公共性を表しています)。この問題は,(1)やはり所有は社会的承認を媒介にするという共通性をふまえて上で,その上で,(2)もとの私的所有者が不明であるという例外的事情によって成立するものだという区別性を考慮に入れてください。社会システムにおける所有の位置付けを考える場合には,こういう例外的事情は考慮の外に置かれるわけです。

〔善意第三者の即時取得の場合:〕不正当な手段によって手に入れたもの(合意のない〔……〕万引き)は私的所有ではないということであったが,もしそれが市場に持ち込まれ交換された場合,私的所有が正当に成立するといった点で矛盾するのではないか?

講義の中でも強調しましたが,もう一度確認してみましょう:現代市場社会においては市場での商品交換において必然的に私的所有が成立するメカニズムがある(システムの必然性としてある)。しかし,商品交換において私的所有が成立する場合に,市場では実際には労働に基づいているかどうかわからないから,労働に基づくと想定するしかない。泥棒して手に入れたということが見えちゃったら,もう相手を私的所有者として承認することはできない。

あなたが挙げた例では,まさに本来の私的所有者ではない泥棒から市場で購買した買い手が善意第三者であった(相手が泥棒であるということを知らなかった)ということがミソです。従って,この例は講義での説明と矛盾するものではなく,その応用例だということになります。

〔他人労働の搾取に基づく私的所有の場合:〕自己労働に基づかない取得(=搾取)は盗みと同義か?

違います。確かに,盗みも,正当な契約に基づく他人労働の搾取も,どちらも,市場社会の正当化形態から外れています。しかし,盗みの場合には,社会的に物質代謝をおこなうシステムを形成することなんてできません。また,最初っから,正当性なんか問題になりません。

他人労働を搾取する場合には,資本主義社会という社会的なシステムを形成することができますし,しかも非常に効率的・機能的なシステムを形成することができます。また,その不当性も,頭からしっぽまで不当というわけではなく,少なくとも交換の段階では,市場社会のルールに基づいており,自己労働に基づく所有に擬制されているわけです。つまり,資本主義的営利企業の方は正当とみなされる賃金を支払い,従業員の方はそれと引き替えに労働義務を果たすというタテマエになっています(注2)。これらの点については,『3』以下で主要テーマになります。

〔自給自足の私的生産の場合:〕 農家が米を作り,大部分を商品として市場に持っていき,一部を自ら消費する時,これ〔=自家消費部分〕は自己労働に基づいてはいるが,市場を介していない。公的に私的所有と認める必要性があるかどうかは別として,社会から認められていると考えると,自己労働に基づいており,商品交換を媒介していない私的所有(消費手段)となるのか? 商品交換が行われる前の個人が持っている所有物はどのような位置付けなのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

問題を整理してください。この講義では,私的所有から出発するのではなく,所有一般から出発しました。そこで明らかになったことは,別に市場なんてなくても,私的所有でなくても,所有は社会的承認によって成立するのだということでした。それでは,商品交換の総体として形成されている市場社会において,この社会的承認がどうやってなされるのかというと,それは商品交換における二者の間での相互的承認をつうじてだ,ということになりました。それとともに,私的所有が成立しているからといって,必ずしも商品交換(従って市場)を前提するわけでもないということも確認しました。

そして,ひとたび市場社会が形成されると,この承認メカニズムは実定法と行政機構によって公的に形式化・普遍化されます。要するに,市場社会のメカニズムとしては交換過程において私的所有が発生するのであり,根拠はあくまでも交換過程にあるのであり,実際にまた毎日まいにち交換過程で所有が承認されているのですが,しかし,社会的なメカニズムとしてはこのタテマエが普遍化・形骸化して,不当なもの(詐欺・泥棒などの刑法犯による占有)でなければ,私的所有として認められてしまいます。

さて,農家の自家消費米については,自己労働に基づいており,商品交換を媒介していない私的所有になります。

あなたの例では,わざわざ市場で交換する際に私的所有を確認するわけではありませんが,それでも社会的に承認された私的所有ということになります。公的に私的所有と認める必要性も,泥棒に対してはもちろんのこと,税金をぶんどる時にも明示的に出てきます(いわゆる家事消費分に対する課税)。

商品交換が行われる前の個人が持っている所有物については,システムの形成といプロセスを考察する限りでは,まだ社会的に承認されていてない占有物ということになります。所有の二契機に即して言うと,自己の所有の意志という条件は満たされているが,社会による承認という条件は満たされていないということになります。

そして,すでにシステムが形成されているという結果を前提する限りでは,交換される前にすでに社会が私的所有を承認しています。例えば,市場に行く前に強盗に遭って商品を盗まれた場合には,その私的所有権の回復を社会が図る(実際には警察機構が泥棒をとっ捕まえて商品を返す)ことになります。ただし,形成されたシステムは毎日毎秒再形成されているから持続しているのであって,この再形成のプロセスでは相変わらず交換過程で私的所有が発生しています。

この点については,まず『1. 所有の基礎理論』で所有が労働していない時にでも存続・持続するということを考察しました。その上で,この所有が毎日まいにち現代社会の上で形成されるその運動を『2. 私的所有と市場社会』以降で考察しているわけです。

労働や努力をともなわないで得られたものは所有とは言えないのか?

そうとは限らないということは,無償譲渡について補足しておきました。

3. 私的所有のシステムとしての市場社会

〔……〕社会と個人はバラバラになった。」という表現されたが,果たして本当に分離しているのか? 私は個人の自立によって市場社会が成立したのではないかと考えてしまった。 自立的個人によって社会は形成したにも関わらず,個人と社会が対立するものになるというのはどういうことか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

個人の自立によって市場社会が成立したと言っていいですし,またそれによって「社会と個人はバラバラになった」のです。この点については,以下を参照してください。

Ex2.3 グローバル化の形式性(1)において,二者以上の関係が形成された時は自覚的な社会形成から排除されるのなら,どのように存在するのか?

二者以上の関係が……自覚的な社会形成から排除されるのではなく,全体は自覚的な社会形成になっていないということです。簡単に言うと,市場社会は,独裁者が自らの意志でつくったものでもなければ,みんなで合意してつくったものでもなく,二者の間の交換をみんなが行った結果としていつの間にかにできちゃったものです。二者が交換したのは自分の私利私欲を満たすためであって,市場社会を形成するためではありません。そして,前近代的共同体では,すべての交換を集めても,市場社会という一つの社会が出来るほどではありませんでした。しかしまた,原理的には,二者同士の交換というのは,まさに各自が私利私欲を満たすためのものであるがゆえに,地縁・血縁には制約されません。そして,歴史的な条件については省きます(『3』で考察します)が,このように地縁・血縁に制約されずに,みんなが商品交換するようになると,市場社会がいつの間にか出来上がっています。

ナタデココの話の中でお金を払ったことが社会的分業の一環として実現された。とあるが,現実的には家事といった賃金とはならないものもあるかと思う。そうした労働はこの場合どのように処理されるのか?

家事労働の場合,自分のために行ったものは社会的分業の一環とは言えません。例えば自分の部屋の掃除。

家族のために行ったもの(たとえば家族のために調理する)は,家族を一つのミニ社会として考えると,社会的分業の一環をなすと言えますし,家族を私的な経済単位として考えると,社会的分業の一環にはならないと言えます。

賃金が生じるかどうか,また市場をなしているかどうかは,本来,社会的分業の成立とは別の事柄です。ただし,資本主義的な市場社会は,これまでの歴史において最もグローバルに社会的分業を発展させました。つまり,《社会的分業資本主義的市場社会》ではありませんが,《資本主義的市場社会社会的分業》です。

〔市場社会では商品交換をやめてもすぐに復活する。何故ならば,交換関係は商品生産関係によって必然化されているからだ〕といっていたが,それは社会的分業が成立することを前提しているからではないのか。例えば戦争等の場合,生産していたものを変換できずに取り挙げることもあったのだが,これは商品と呼べるのか?

当然,商品生産とは呼べません。なお,略奪が常態化している場合にも,社会的分業は成立しています。略奪者は社会的に生産された(この場合,他者によって生産された)富を消費しているのですから。もっとも,略奪者による一方的収奪にすぎないのですが。

互いにバラバラな私的個人が私利私欲を追求した結果,交換の原理が成り立っているという仕組みはケインズ〔スミス?〕の神の見えざる手を言い換えただけではないのか?

その通りであって,スミスは(スコットランド啓蒙学派等にネタ元があるのでしょうが)市場社会の成り立ちを見事に捕まえた最初の一人でした。

ただし,スミスは,成り立ちは捉えていますが,この成り立ちに含まれている矛盾──個人と社会とが,従ってまた個人と個人とがバラバラに対立しあっているということ,それを通じてまた私利の追求による公益の実現が絶えず危機に陥るということ,公益の実現は私益の対立のシステム,従って公益の阻害になるということ──は捉えていないと思います。理論的には,(1)スミスの場合には,諸個人の間に「共感〔Sympathy〕」の原理が超越的に前提されているから,この矛盾は問題にならず,いわゆる予定調和になるしかないのでしょう。また,市場社会に潜在的に含まれているこの矛盾が顕在化するのは資本主義的な市場社会においてです。ですから,(2)現実的には,スミスの場合には,時代的にもこの矛盾をあまり問題にする必要がなかったのかもしれません(『諸国民の富』が書かれたのが1776年,資本主義の矛盾が最初の周期的恐慌という形で現れたのが1825年です)。

「市場社会の正当化形態」とは個人の労働成果に応じて得られる報酬が変動する仕組みだろうか?(例:年休〔年俸?〕変動制)

そうなのですが,ただし,給与(賃金)は資本主義社会において派生した形態です。市場社会においては私的労働の生産物を自分のものとして取得し,それと等価交換で富を取得するというのが本源的な形態です。ところが,資本主義的生産においては,資本家こそが私的生産者であって,賃金労働者は私的生産者ではありません。このような,労働する個人が自立した自由な私的生産者ではないという状態──もともと市場社会においては想定外の形態──において,市場社会の正当化形態を当てはめると,労働に応じて賃金が変動するということになります。

前近代の商品交換は商品同士の等価交換だったけれど,現代では貨幣と商品を交換するという形式だが,貨幣によって等価交換を行うことが可能だということに少し違和感を感じた。

違います。商品交換の出発点は間違いなく物々交換でした。しかし,貨幣は現代になって初めて生まれたものではありません。前近代でも,繰り返し商品交換がおこなわれている限りでは,貨幣を媒介にしています。

〔現代市場社会においては〕個人と社会との結び付きは共同体解体後より強くなっているのではと感じた。〔……と言うのも,〕行政という大きな社会システムにおいて個人それぞれが行政が強いたシステムやルールに縛られて生きている〔からだ。〕

おっしゃる通り,国家は,──特に経済的には資本主義の発展に応じて機能の重心を異にしていますが──,総じて前近代的共同体よりも現代社会の方が巨大化・複雑化していますし,それを通じて個人に対しては強大になっています。しかし,これはまさに,経済の観点から見ると,(1)個別的経済主体と個別的経済主体との対立が公共的な解決を必要としているのとともに,(2)個人と社会との対立──本質的には個人と資本との対立──が個人と国家との対立という形式をとっているということです。

行政という大きな社会システムにおいて個人それぞれが行政が強いたシステムやルールに縛られて生きているというのはまさにこの2の側面を表しています。つまり,対立しているということと,あなたが言う結び付き〔が……〕強くなっているということとは一体のものです。現代社会では,個人と個人とは村八分になるのではなく,対立という形で結び付いているわけです。

個人が追求するのは私利私欲のみであると書いてあるが,実際にそうなのか?〔……〕他人のために何かをする人も多数いるような気がする。

ここで述べている私利私欲の追求というのは,あくまでも市場での商品交換の原理です。他の場面では,他の原理がありえます。現代市場社会が私利私欲の肯定に基づいているからと言っても,私利私欲しか追求しない人なんて滅多にいません。

この講義の労働論の観点からいうと,他利の追求もまた自由な個人が自己の意志で行っている限りでは,個人的な利益の追求に他なりません。むしろ,個人が自己の利益として他者の利益をも追求し,他者の利益を自己の利益として追求するということ(自己の利益と他者の利益とを常に調和させるということこと)こそは社会的労働の原理です。

ただし,それは決して私利私欲の追求ではないわけです。《私利個人的利益》では決してありません。私利というのは,排他的に自分の利益しか追求しないということでしょう。私利は市場社会(従って資本主義的な市場社会)に付きものであり,それに適合するような,排他的な個人的利益の追求です。

それ〔=奴隷制〕に比べ,現代市場社会というのは全ての個人が身分に関係なく,平等に,自分の自由意志で自己責任で頑張れば報われるという建前のもと,あらゆる面で効率的で素晴らしい社会である。つまり,市場社会のシステムである,労働が交換という場を通じて所有に結び付くという形こそが最も良いと考えられる。そういうことでいいのか?

(1)市場社会の建前の問題,(2)建前とは異なる市場社会の現実の問題,(3)建前を生みだす市場社会の現実的なメカニズムをそれぞれ区別して下さい。1は当事者意識の問題,2および3はシステムの現実の問題です。

全ての個人が身分に関係なく,平等に,自分の自由意志で自己責任で頑張れば報われるという建前のもと,あらゆる面で効率的で素晴らしい社会である。──効率性(=機能性)以前に,自由,平等,そして労働に基づく所有という点で市場社会は当事者たちの意識によって正当化されます。そして,このように素晴らしい社会が奴隷制よりもはるかに効率的・機能的であるのはおまけのことでもあるし,当然のことでもあります。素晴らしい社会だから効率的・機能的なのであって,その逆ではありません。こんな素晴らしい社会で,みんなが頑張っちゃうんだから効率的・機能的に決まってます。以上はすべて当事者の意識の問題です。

労働が交換という場を通じて所有に結び付くという形こそが最も良いと考えられる。──これは当事者の意識の問題ではなく,現実そのものの問題です。

自らの私利私欲を追求したことでグローバル社会が誕生したが,資本主義になる前でもそのようなことはあったのか?

ありません。この点については『[4–A] 世界市場の形成』で詳しく見ます。

4. その他

労働の学習と効率化をおこなうことができれば相手としての個人に対してより競争を持った交換が可能になるのか?

効率化によって競争力を増すのは,交換相手(=買い手)に対してではなく,同業者(同じ商品の売り手)に対してです。詳しくは,政治経済学1を受講してください。

プライベートな労働の場合,誰(どの立場の人)がその労働の価値を計るのか?

プライベートな労働というのが私的な商品生産における労働を指しているのであれば,その労働の生産物の価値は客観的に決まります。つまり,それを生産した際の総コストによって決まり,このコストは結局のところ,社会的必要労働の量によって規制されています。


  1. (注1)もちろん,泥棒相手の故買業者は自分の取引相手が泥棒だなんてことは百も承知でしょうが,そういう取引ではシステムを形成することができません。そういう取引は社会の片隅の,裏取引でしかありません。

  2. (注2)実際には正当とみなされる賃金さえ支払わないブラックな企業もあるわけですが,それは頭からしっぽまで不当であって,つまり泥棒と同じです。全部を泥棒したわけではありませんが,賃金の不足分は泥棒したのです。みなさんが100万円の自動車を買ったのに,40万円しか代金を支払わなかったら,それは不当でしょう。自動車を盗んだのと同じでしょう。