質問と回答

「現代社会の決定的特徴」というスライドで「営利企業によって生産されている」という言葉があるが,ここでは,実際に現在存在している非営利組織は考慮に入れないのか?

講義で述べたように,現在の市場で生産・流通を担う主体としては,以下のものが挙げられます:

  • 資本主義的営利企業
  • 個人(つまり自営業者)
  • 公的企業(中央・地方の他に第三セクターをも含む;また今後は国際的な公的セクターも生まれるかもしれない)
  • 非営利組織

また,講義で述べたように,現在の資本主義はますます資本主義(ここでの文脈では営利性のこと)を肯定している(すべてを金儲けの対対象にしようとする)のと同時に,もはや資本主義を否定しつつあります(金儲けの限界を露呈させている)。そこで,現在の資本主義を考察する場合には,資本主義の理論的な完成形態において生産・流通を担う資本主義的営利企業の他に,公的セクターと非営利組織との考察を欠かすということはできません。公的セクターはともかく,資本主義的営利企業と非営利組織との考察をする場合には,営利性の歴史的な意味とその変遷を位置付ける必要があります。

とは言っても,そのような資本主義の自己否定を考察するためには,資本主義の完成形態を理論的に把握していなければなりません。そもそも,資本主義とは何か,ということがわかっていないと,その否定なのかどうかもわかりません。要するに,完成形態がわからないと破綻形態もわからないわけです。

この講義では,資本主義の完成形態を明らかにするために,生産・流通の担い手としては,ただ資本主義的営利企業だけを想定します。つまり,非営利組織は無視します。ただし,政治経済学2では,営利性の問題について,時間があれば,非営利組織に言及する予定です。また,この政治経済学1でも,営利企業によるイノベーションのメカニズムとその問題点とを考察するということを通じて,非営利組織によるイノベーションの問題にも示唆を与えるものとなるでしょう。たとえば,通常は,資本主義的営利企業と非営利組織とは部門間で“棲み分け”する(得意な部門が分かれる)ということが想定されているがそのイノベーション上の理由はなんなのか,それを克服する条件は何なのか,など。

市場社会と資本主義社会との違いが未だにはっきりとしない。前者がマルクスの頃〔19世紀後半のことでしょうか?──今井〕の近代の社会を指し,後者が現代の社会を指すのか?

違います。確かに,市場社会は資本主義社会の基礎であり,資本主義社会は大規模な市場を前提します。しかし,市場が社会全体を覆うようになったのは(つまり市場社会が成立したのは),資本主義社会が成立したからです。というわけで,どちらも,現代社会を指します。現代社会の内部に,原理を異にする(それどころか対立する)二つの社会が併存し,しかもなおかつ対立しているのです。

資本主義社会になったことで,基本主義的営利企業と自営業者とが生まれたのか?

そうではありません。商品の生産・流通の担い手としての自営業者は,むしろ市場社会に相応しい生産・流通の担い手です。ところが実際には,現代社会においては,その内部に非市場的な組織を内包し,自由・平等・私的所有という原理とは異なる原理で機能する資本主義的営利企業──市場社会にとっては本来は異物──が生産・流通のメインの担い手になっています。

時代的な順番を言うならば,自営業者は市場の歴史──それは現代社会の構成部分に過ぎない市場社会の歴史よりもずっと古く,文明の発生とともにあります──とともに生まれたと言えます。また,それよりはずっと新しいでしょうが,資本主義的営利企業も,商業・金融業の分野では,かなり昔からあります。たとえば,江戸時代の廻船問屋・両替商・高利貸しなんかは前近代的共同体における資本主義的営利企業の一例です(その内部組織がどれだけ現代化されていたのかということは別にして,営利を原則として機能する組織です)。

資本主義社会とは,資本主義的営利企業が単に存在するだけではなく,メインプレーヤーになっているような社会のことです。そのためには,富の流通ではなく,富の生産が資本主義的営利企業によって担われるというのが条件ですし,またさらに後者の条件ためには,それまで自営の生産者(商品を生産していようといまいとも;ただし実際には圧倒的大部分は商品生産者)だった者が自営の生産者として社会的な生活条件を満たすということができずに,自分の労働力を労働市場で販売するようにならなければなりません。

資本主義的営利企業も自営業者も,自由と平等とを確立している状態にはないのでは?

まず確認しておかなければならないのは,資本主義的営利企業も,自営業者と同様に,私的所有者としての資格で市場で取引を行うということです。つまり,この点では,タテマエ上,資本主義的営利企業は,自営業者となんら変わりません。そして,『市場社会のイメージ』で見たように,私的所有者という資格を実証するのは,市場での交換の役割です。そしてまた,──これは政治経済学2で詳しく見ていきますが──,私的所有者は本来,自然人としての個人でしかありえません。

それを前提にした上で言うと,この講義で「市場社会のイメージ」で述べている,交換の原理としての自由と平等はタテマエの上での自由・平等,つまり形式的自由・平等です。そして,市場での取引を行う限りではこのような形式的な自由・平等が原理・原則になるしかないのです。もちろん,実際には,なんらかの権原を背景にして,一方的に命令するような,不自由な取引もあるでしょう。しかし,そのような取引は,市場での交換過程のタテマエからすると,排除されるべき異物──タテマエに反する不公正な取引──になるのです。このような不公正な取引がたとえいくら横行していても正当化されえないのは,マンビキがたとえいくら横行していても正当化されないのと同様です。それらは市場社会という客観的な現実がその形成において必然的に生み出すのタテマエに反しているわけです。個人の倫理観とか良心とかそういう問題ではなく,市場社会という社会システムにおいては正当化の客観的根拠がないわけです。政治経済学2で詳しく見ていきますが,この政治経済学1でもすでに『市場社会のイメージ』で見たように,ゲームのルールは市場の内部で,つまり交換において発生するしかないわけです。

それとは逆に,現代社会は,資本主義社会としては,偶然的にではなく必然的に,実質的な不自由・不平等も発展させます。したがって,もし質問者が言っている自由と平等が,交換過程でのタテマエではなく,(生産の必然的性格に基づく)実質的な不自由・不平等であるならば,まさしく質問者が言う通りです。そして,実際には,このような交換の背後にある実質的な不自由・不平等がたえず交換における形式的なそれを侵害しつつあるのです。けれども,商品交換をおこなっている限りでは,前者が後者を侵害したからと言って,なかったことにはできないわけです。

社会主義社会ではメインプレーヤーは何なのか?

私自身,この講義で社会主義社会という用語を使っていないので,質問者が言及している「社会主義社会」というのがどういうものなのかによりますが……

現在あるいは過去に「社会主義」と名乗っている/いた国家の場合

これについては,私は専門的な研究をしていないので,素人考えが入ることをお許しください。

ケースバイケースだと思います。国有化の程度が大きい限りでは,メインプレーヤーは国営企業とそこに雇われている賃金労働者です。これならばそれなりにわかりやすいですね。

とは言っても,実際には,この質疑応答でも述べましたが,「社会主義」と名乗っていた国家は要するに発展途上国であって,人口の大部分は,国営企業なんかに雇われていない,事実上の自営農民(ただし,現代社会における自営業者とは異なって,江戸時代の農民と同様に,多かれ少なかれ経済的自由を剥奪された農民)だと思います。この場合に,他方のプレーヤーは国家そのものということになるのでしょう。ただし,この場合には,もし農民が事実上,国家の下部器官としての村落共同体の付属物であったならば,少なくとも,この講義で現代社会を特徴づけるために使ったメインプレーヤー──これは自立した個々の経済主体をイメージしています──という用語は使いにくいですね。

未来社会のことを「社会主義」と呼ぶ場合

資本主義的営利企業──あるいは一言で言って資本──とは,個人から切り離された社会関係です。つまり,現代社会で資本主義的営利企業が一方のメインプレーヤー(つまり主体)になっているというのは,前近代社会で共同体が個人を支配していたのと同様に,個人から切り離された社会が主体であるということを意味します。

これに対して,そもそもどの人類社会でも共通な経済活動のところで考察した労働のポテンシャルは,個人が主体として社会を形成するということでした。これは空想や空文句ではなく,不十分ではありますが実際に,市場社会としての現代社会の交換過程においては,少なくとも一面では,自立した個人が自分の欲求を満たすための手段として社会を形成したのでした(ただし,その結果として個人は,前近代的共同体のように社会に埋没しはしませんでしたが,振り子が逆の極まで行ってしまい,社会と疎遠になり,社会と対立してしまいました)。(これが一面だと言うのは,他面では,資本主義的営利企業なんて出てこなくても交換において既に,個人は自分が形成した社会関係に支配されているからです。と言っても,その社会関係とは人間関係のしがらみとかそんなものではなく,商品と貨幣という物件です。たとえば,貨幣という“物件の形で現れた社会関係”は,一面では,個人にとって,便利に使えるただの道具ですし,しかしまた他面では,自己目的としてのそれに振り回されてしまいます)。

このような傾向から考えると,人類が抱える社会の将来の課題は,個人から切り離された社会関係を個人たちの制御のもとにおくということに帰着します。要するに,未来社会ではメインプレーヤーは個人になります。他には何もいません(注1)

「所有という結果は労働という原因によって正当化するしかない」と述べられているが,投機などのマネーゲームにおける「不労所得」の場合には,所有は労働によって根拠付けられていないのではないか?

市場社会のタテマエでは所有は労働によって正当化されます(と言うより,他に正当化の原理がありません)が,資本主義の現実では不労所得が生まれます(注2)質問者がご指摘の通り,「不労所得」の場合には,所有は労働によって根拠付けられていません。しかし,“不労所得”と言った時点で,それは勤労所得とは違って,市場社会の原理に即しては正当化されない表現です。多くの人は「不労所得」と聞いて,いかにも善くないもの(正当化されえないもの,不当なもの)であるようなニュアンスを感じるでしょう(注3)

ともあれ,現代社会におおける労働と所有との分離──この形での市場社会のタテマエと資本主義社会の現実との分離──は政治経済学2の中心テーマになります。

交換過程と労働過程とが切り離されているというのは具体的にどういうことなのか?

以下の関連する質問に対する回答をご覧下さい。

資本主義的営利企業〔の内部〕が非市場的であるというのは内部に従業員〔の組織〕が存在するという理由だけなのか?また,自営業者はその点から考えて市場的と考えてもいいのか?

“だけ”ではないのですが,企業内での従業員の組織が非市場的だということが理由になります。このような二極への分離──企業間は市場的,企業内は非市場的──はそれ自体,現代社会という同じ基盤の契機の分離です。それゆえに,このような分離自体が,安定的に存続せずに,揺らいでしまいます。すなわち,一方では,企業間の関係は非市場的になります。他方では,企業内の関係は市場的になります。

自営業者の場合には,内部が個人の私的生活そのものですから,そもそも市場か非市場(組織)かという問題が成立しません。それを前提にして,敢えて言うならば,自営業者の内部は非市場です。自分で自分と商品交換するということはできないので。

自由・平等な私的所有〔者〕が本当にありうるのか?

形式的に自由・平等な私的所有者は現代社会=市場社会の現象において本当にありえます。実質的に自由・平等な私的所有者は現代社会=資本主義社会の本質においてはシステム上,ありえません。

形式的平等のところで「使用価値的に見ると,どちらも満足している。何故ならば互いに不要なものを手放して,必要なものを入手したから」と書かれているが,貨幣と商品とを交換する売買では,〔貨幣所持者つまり買い手は〕貨幣を不要なものとは思ってはいないのではないか?

貨幣所持者が貨幣を単なる流通手段として使っている限りでは──そして,交換という契機だけを切り取って考えるならば貨幣は常に流通手段です──,貨幣所持者必要なのは商品の方であって,貨幣はそれを入手するための単なる手段,便利な手段でしかありません。この場合に,貨幣所持者にとって貨幣が必要なのは,あくまでも本当に必要なものである商品を手に入れるため手段としてであり,したがって貨幣所持者はこの本当に必要なものを手に入れるために喜んで貨幣を手放すわけです。

とは言っても,流通手段という契機は貨幣の諸契機の一部が分離されて自立化したものであるのにすぎません。貨幣そのものは自己目的であって,たとえば将来の購買・支払のために流通から引き上げられる時には,この自己目的という性格が現れてきます。その場合には,貨幣所持者にとって,貨幣は不要だから手放すものではなく,必要だから保有しておくものになります。

市場の原理である自由・平等・私的所有は資本主義の現実においては会社の業務命令,経済的な根本的不平等,搾取などによって守られていないが,しかしそれは「市場の外部での事情」だと書かれている。しかし,そもそも資本主義社会は市場社会の内部で存在しているというようなことが述べられていた。これは矛盾しているのではないか?

社会としての資本主義社会が社会としての市場社会の内部で存在しているということはありません。どちらも,社会のサブシステムではなく,社会そのものである限りでは,現代社会の一側面であって,空間的に分割されるものではありません。市場社会の原理を形成するのは市場ですが,市場だけから社会が構成されるわけではありません(市場の外にある生産が含まれていない社会などありえません)。資本主義の原理を形成するのは資本ですが,資本だけから社会が構成されるわけではありません(資本の外にある個人が含まれていない社会などありえません)。

そもそも資本主義社会は市場社会の内部で存在しているというのは,恐らく,資本主義社会が市場を前提するということを指しているのだと思います。市場がなければ,資本が生まれるわけもなく,したがって資本主義社会が生まれるわけもありません。その意味では,理論的には,資本主義社会は市場社会の特別な種類だと言うことができます。『1. はじめに』で出てきたベン図はこのような理論的な包含関係を表したものであって,内部/外部の関係を表したものではありません。例えば,柴犬は犬の特殊的な種類ですが,犬の体内に柴犬がいるわけではありませんよね。

自由と平等との関係について,極論すると自由を限りなく抑圧するということによって平等を達成するということが可能ではないか?〔みんな同じくらいに不自由になれば,平等が達成できるのではないか?〕

講義で述べたのは以下のようなことでした。

  • 社会的自由も社会的平等も労働の振る舞いから出てくる,同根の原理だ。

  • しかし,社会的自由は個別性の原理であり,社会的平等は一般性の原理であり,要するに両極をなしており,この両極が安定的に媒介されない限り,振り子運動のように,自由の極にぶれたり,平等の極にぶれたりし,結局,社会的自由と社会的平等とは対立するものとして現れる。

  • しかしまた,やはり両者は同根なのだから,平等がなく一面的に自由だとか,自由がなく一面的に平等だとかということは原理的に不可能だ。

要するに,基本ラインは,人間の場合に自由も平等も完全に抑圧するなんてことは現実的には持続不可能だってことです。その上で,思考実験として質問者の質問にお答えすると,この場合に,社会的自由を抑圧しているのは誰でしょうか?

構成員以外のもの,例えば国家等

この場合には,国家と個人とが不平等です。そして,そこから個人のあいだの不平等が生まれてきます。要するに,国家へのアクセスがどれほどできるかで,不平等が固定化されす。

構成員自身

構成員が錯乱して自主的に社会的自由を放棄した場合には,もし各人が徹底的に自由を放棄したら,そもそも社会を形成するということができません(例えば万人が政治的に自由である民主的な統治をも,少数者が政治的に自由である専制的な統治をも否定した場合を想像して下さい)。

神の下での平等などということを考えても同じことです。神の声を代表するものが自由を獲得してしまいます。この場合には,国家の代わりに教団へのアクセスがどれほどできるかで不平等が固定化されます。


  1. (注1)もちろん,個人たちが使う便利な手段はいろいろとあるでしょう。たとえば,私的所有の固定的・硬直的な枠組みに囚われない柔軟で有機的な組織とか。それを企業と呼んでもいいでしょう。しかし,それはあくまでも個人たちが使う便利な手段であって,現代資本主義社会における資本主義的営利企業のように,個人を雇い,個人に命令するような,個人から切り離された社会関係である必要はありません。

  2. (注2)ただし,一言で不労所得と言っても,どのくらい労働から離れているかということに応じてでいろいろな種類があります。例えば,年金なんかは,直接的に労働には基づいていませんが,勤労所得の積立というタテマエで解釈される限りでは,間接的には勤労所得ということができるでしょう。とは言っても,世代間の所得移転という現実で解釈される限りでは,勤労所得という性格はより低くなるでしょう。

  3. (注3)正当性の問題は現実の政策問題にも反映します。たとえば税制において,このような不労所得は,勤労所得と同じ仕方で扱えるでしょうか?市場社会のタテマエに即すと,不労所得は本来的に正当化されえないのですから,不労所得には過大な租税が課せられるべきでしょう。逆に,資本主義社会の現実に即すと,不労所得を生み出すマネーゲームが市場を活性化する限りでは,不労所得については減税がなされるべきだという考え方も出てくるでしょう。市場のタテマエを重視するのか,資本主義の現実を重視するのか,どちらの立場に立つにせよ,不労所得と勤労所得とを同じ仕方で扱うということはできません。