質問と回答

その1. 〔ドラッカーの年金基金社会主義について,〕労働者が生産手段の所有者になるということが社会主義とはどういうことか? その2. 気になったのは,ドラッカー自身が「労働者が生産手段の所有者になる=社会主義」という前提を持っていたことだ。社会主義で生産手段を持っているのは「国家」ではないか? 社会主義における労働者による生産は国〔家〕に還元され,所得の再分配が行われていると思う。この状況下において労働者一人ひとりが生産手段を有しているのか?

2名の学生から別々に出された質問でしたが,同じ質問内容だと思うので,一つにまとめてお答えします。

私自身,社会主義理論史の専門家でも,ソ連史の専門家でもないので,すぐにボロが出ると思うのであまりやりたくないのですが,学生からの質問なので,ちょっと素人の感想を交えて解説いたします(と,逃げを打っておきましょう)。なお,社会主義を名乗っていた/いる国家についての私の素人考えについては,『2012年05月01日の講義内容についての質問への回答』の「……全ての社会が未来につながっているとは限らないのでは?」をご覧下さい。

まず,社会主義の理念(=タテマエ)と,社会主義を名乗っていた/いる国家の体制(=現実)とは分けるべきです。そうしないと,憲法にも大統領教書にも社会主義だなんて名乗ってもいないアメリカ合衆国を敢えて“社会主義”と呼んだドラッカーの意図──すなわちソ連批判の意図──もわからなくなります。ここでは,社会主義のタテマエ=お題目によって,社会主義を名乗っている国家の現実を批判するという意図──一言で言うと,タテマエによって現実を批判するという意図──があるのです(注1)

一口に社会主義と言っても,そこには色々な立場のものがあります。しかし,もともとの社会主義諸派(その実践的な解決法は立場に応じて全く異なりますが)の考え方も,ドラッカーも,そしてこの政治経済学2の講義も,着眼点は全く同じです;すなわち,資本主義の現実においては,それまでの前近代的共同体と同様に,そして,市場のタテマエとは正反対に,労働と所有とが分離しているということです。したがって,もしこの資本主義の現実を批判し解決するものを社会主義と呼ぶのであれば,社会主義とは,労働と所有との分離の解消だ,ということになります。ドラッカーの社会主義把握は,珍妙なものではなく,至極まともに西欧の社会主義思想の伝統の上に立っています。

次に,国有化との関連についてまとめておきます。これも社会主義諸派の色々な立場に応じて異なっているのでしょうが,基本的には,こういうことになると思います:

  • 労働と所有との分離を解消するという目的のために,労働者がなんらかの形で生産手段を所有するということが手段になる。
  • そして,労働者が生産手段を所有するという目的のために,そこに至るまでの一時的・過渡的な手段の一つとして,国有化という選択肢がありうる。

要するに,国有化は,それ自体,目的でもなければ,もちろん労働者による生産手段の所有でもないが,しかし,労働者による生産手段の所有を実現するまでの一時的な方策としてはありなのではないか,というわけです。国有化が単なる手段であるということは,政府の性格とその政策意図によって,それがどういう政策をも持ちうるということからもわかります(注2)

一言で言うと,生産手段が労働者のものだというのが,主流的な社会主義思想の根本であって,国有化とか協同組合所有とかは手段だったということです。え? 現在,“社会主義”を名乗っている国は国有を以て社会主義と呼んでいるではないか?(注3)

しかし,当のソ連からして,建国当時は,理論的指導者たちは,立場を問わず,国有化=社会主義化なんて考えてはいなかったはずです。たとえば,主導的な理論的支柱であったレーニンは,マルクス主義の伝統に従って,社会主義においては国家が死滅すると認めています(注4)。理論的には,もし社会主義において国家が死滅するのであれば,国有(国家的所有)なんてものがあるはずもありません。

もちろん,レーニンもその他の理論的指導者も革命後の遅れたロシアが社会主義だなどとは言いませんでした。そもそも国家が残っているのだから,社会主義であるわけがありません。国名がソビエト社会主義共和国連邦になったのは,遅れたロシアが一国で社会主義になったということでは決してなく,これから社会主義を目指すという意味で,「社会主義」という言葉を付けたのでした。まぁ,実際には,社会主義を目指す前に,ロシアの場合には,そんなレベルじゃなくて,まず資本主義化を進めなければならず,外国資本の導入なんかをやろうとしたのですが。要するに,“看板に偽りあり”というのは,当時のソ連の指導者たちにとっても自明のことだったと思います。

この頃はまだソ連でもタテマエ(社会主義とはかくあるべし)が名前(ソビエト“社会主義”共和国連邦)を規制していたのだと思います。しかしながら,やがて現実が発展すると(要するに急速な経済成長を遂げると),名前がタテマエの方を変えるようになってきます:旧ソ連は,経済発展のための独裁体制──開発独裁──としては,少なくとも最初は結構上手くいったのです。まぁ,上手くいった裏には大人数の犠牲──虐殺と収容所と飢餓──があったわけですが。そして,第二次五カ年計画が完了した後で,1930年代の終わりには,スターリンが“ソ連では社会主義が実現された”と言っちゃうのです。その際に,国有が労働者による生産手段の所有(スターリン主義の用語としては「社会的所有」)と同一視されるのです。

こうして,国有化=社会主義という公認の思想が強く影響力を持つことになります(もちろん,この影響をもたらしたものとしては,社会民主主義政党が政権を取った西欧諸国で行なわれた国有化運動をも軽視することはできません)。しかし,その結果は,国家による賃金労働者の搾取,労働と所有との徹底的な分離でした。要するに,社会主義を名乗っている現実は社会主義の正反対物でした。これがドラッカーが批判するべき“社会主義”のペテンでした(注5)

経営者支配論と人民資本主義論が正反対だというところがよくわからない。人民資本主義は全人民が潜在的投資家になったことで「みんなで」「所有」しているということであって,ちょっとずつ持っている個々の人民が「支配」しているということは言っていないように思う。労働は労働者,所得は株主(個人),経営(≒支配)は経営者という同じ理論の,経営者部分と株主部分をそれぞれ説明しているのではないのか?

要するに,経営者支配論に立つと,支配は経営者,所有は株主であるから:

  • 経営者という観点から見ると,所有しはしないが支配し,役員報酬という形で事実上の賃金を得る経営者が現れ,
  • 株主という観点から見ると,支配しはしないが所有し,配当あるいは譲渡益という形態で収入を得る人民=株主が現れる。

だから人民資本主義論は経営者支配論の一部であるのではないか──という疑問ですね。もっともな疑問です。

経営者部分と株主部分をそれぞれ説明している。──これもその通りですね。ただし,問題は株主部分と経営者部分,どちらを重視し,どちらを主眼に置いているかなのです。それが両者の対立点になります。そして,講義で述べたように,人民資本主義論が所有を,バーリおよびミーンズが機能を重視していると思われるわけです。

なるほど,講義内でも強調したように,人民資本主義論の現実的背景になったのは,まぎれもなく,個人への株式の分散です。そして,人民資本主義論が理論的に援用したのは,いわゆる“所有と経営との分離”(バーリおよびミーンズの「所有権と支配との分離」)です。そして,両者の問題意識には,政治的立場はかなり違うのですが,旧ソ連に対してアメリカ資本主義の優位性を明らかにするということがあります(バーリの場合,後述するような,特に単著として戦後に書かれた『20世紀資本主義革命』(A.A.バーリ著,東洋経済新報社,1956年),において,この傾向が強くなります。以下では,もっぱら同書を念頭に置いて論じていくことにします)。

『6. 経済学と株式会社』というタイトルからはちょっと食い違っているのですが,人民資本主義というのは,この『6』で取り挙げた,他の理論とは異なって,アカデミックな学者が提唱したものではありません;そうではなく,アメリカ合衆国の政治家,およびマスコミが,冷戦体制の下で,アメリカ資本主義の優位性を賛美するために提唱したものです。従って,それは単なるプロパガンダであって,体系的な一貫性・整合性があるわけではありません(注6)

ただ,一貫しないなりに,そのポイントは何か,アメリカ資本主義のどこが素晴らしいのかと言うと,アメリカ合衆国はすでに階級対立を克服して,無階級社会になった(注7)ということです。何故にそう言えるのか? 人民が株主=資本の私的所有者になったからです;この講義でのキーワードに即して言い換えると,労働と所有との分離を克服したからです。講義内での正当性の議論に基づくと,これは機能的な擁護ではなく,本来の正当化に属します。そして,もしそうだとしたら,ノーメンクラツーラ(=党官僚)が国家を支配し,国家が所有者として国営企業に勤める労働者を搾取しているソ連とは,もう較べるまでもなくアメリカ合衆国は優れているのです。ここでは,アメリカ合衆国の地位は,いわば,比較級ではなくて,最上級です。

しかし,これはバーリおよびミーンズの立場とは反対なのです。後述するように,バーリおよびミーンズの場合には,アメリカ合衆国もソ連も似たようなものであって,ただしアメリカ合衆国の方がはるかに機能的に優れているのです。これは機能的な擁護です。そして,この観点からすると,“はるかに”という形容が加わりますが,アメリカ合衆国はソ連よりもよりマシであるのにすぎません(注8)。いわば比較級です。

すなわち,バーリによると,実際には,イデオロギーの対立にもかかわらず,アメリカ合衆国の現体制──巨大株式会社による計画経済──は,ソ連の体制と以下の点でよく似ています:

能動的生産と受動的消費との分離

アメリカ合衆国の場合には,株式会社では経営者は能動的・創造的に生産し,その他の個人は(株主としても労働者としても)受動的に消費するだけである。それと同様に,ソ連では,国家(実際には党官僚)が能動的に生産し,個人は受動的に消費するだけである(注9)

計画経済

どちらの体制においても,中央政府と大企業(アメリカ合衆国の場合には株式会社,ソ連の場合には国営企業)とが高度な計画経済をおこなっている。

  • ただし,計画の中心はアメリカ合衆国の場合には株式会社,ソ連の場合には中央政府である。これが政府の一律的・上意下達的な硬直的計画による不効率からアメリカ合衆国を救っているから,アメリカ合衆国の方がソ連よりも機能的にマシである。

市場と競争との否定

ソ連において市場と競争とが機能不全に陥っているのと同様に,アメリカ合衆国においても,巨大株式会社のもとでの資本集中は市場の審判と競争とを制限した(注10)

  • ただし,第一に,安けりゃいいという「プラグマチックな性質」を持っている世論の影響力があるだけ,アメリカ合衆国の方がソ連よりも機能的にマシである。第二に,アメリカ合衆国では寡占によって競争が機能不全に陥っているが,ソ連のように完全に国家独占になるよりは機能的にマシである。

権力の集中と階級対立

生産の媒介を支配する少数者──アメリカ合衆国の場合には経営者,ソ連の場合には党官僚(ノーメンクラツーラ)──に権力が集中する。それ以外の人たちは意志決定からは排除される(注11)

このようなバーリの見解を突き詰めて理論的に純化させると,アメリカは機能したソ連社会主義だからソ連よりはマシだと言ってもいいでしょうし,ソ連は機能しなかったアメリカ資本主義だからアメリカよりダメなのだということになるでしょう(もちろん,バーリ自身はそこまで言ってませんが)。

これに対して,人民資本主義論の方は,“アメリカ合衆国はソ連と同じようなものだ,アメリカ合衆国はソ連よりもずっと機能的に優れたソ連だ”なんてことは認めないでしょう。“アメリカ合衆国が計画経済の国だ”なんてことも認めないでしょう。“アメリカ合衆国では会社こそが権力を持っているのであって,その前では個人なんてちっぽけなもんだ,従って株主(もちろん個人株主)もちっぽけなもんだ”なんてことも認めないでしょう。

このように,明らかに両者は議論の中にベクトルの向きが反対であるような部分を持っていることには間違いはありません。それを抽出して,やや極端に対立させたのが,この講義の『人民資本主義論』のスライドです。


  1. (注1)講義で述べたように,後にはドラッカーは年金基金資本主義とも言い換えるのですが,この背景には,──もちろん,彼の著書の主読者にとって「社会主義」という単語が刺激的すぎるというのもあったのでしょうが──,ソ連が崩壊して,ソ連批判の必要がなくなったというのが大きいと思います。実際にまた,「社会主義」という言葉はあまり使わなくなりましたが,その内容は以前とほとんど変わりません。

    たとえば,『ポスト資本主義社会』(P.F. ドラッカー著,ダイヤモンド社,1993年;原書は1992年発行であって,ドラッカーは,1991年のソ連崩壊の感動と精神的高揚との中で本書を書いたのでしょう)では,ドラッカーは次のように述べています:年金基金が発行済み株式の過半数を取得しているというこの体制は,──

    • 理論的には,生産手段の最終的所有者が労働者であるから,社会主義,すなわち年金基金社会主義である。

    • しかし,現実的には,株式会社を前提しているから資本主義,すなわち年金基金資本主義である。しかしまた,この年金基金資本主義は:

      • 年金基金の最終的所有者は労働者であるという観点からは「資本家なき資本主義〔capitalism without capitalists〕」でもあるし,
      • 年金基金それ自体は後払の賃金であるという観点からは「「資本」なき資本主義〔capitalism without “capital”〕」でもある。
    • このようにどっちとも言えるような全く新しい社会なのだから,ベターな呼び方としては,「従業員資本主義〔employee capitalism〕」である(以上,同書,第3章)。

    以上を一言で言うと,「もしマルクスがしたように,社会主義とは従業員による生産手段の所有権〔ownership〕であると定義するならば,アメリカ合衆国は既に,現存する最も「社会主義的」な国になった。しかもまた,アメリカ合衆国は最も「資本主義的」な国であり続けてもいる」(同書,第29頁)。

  2. (注2)19世紀後半の主導的な社会主義者の一人であったエンゲルスは“国有化が社会主義なんだったら,俺たちの敵で,巨額資本を必要とする主要産業を国有化しているビスマルクこそが社会主義者だってことになっちゃうじゃん,アホか”という主旨のことを言っています(『反デューリング論』,大月書店,国民文庫版,第498頁)。

    たとえば,ヨーロッパでもアジアでも,土地の公有(ただし,近代的な国民国家の所有ではありません)と個人的な私的所有との対抗が経済発展と体制以降との鍵でしたが,公有が強い場合の体制を社会主義的とは呼びません。労働と所有とが完全に分離しているからです。公有に対しては,むしろ,個人的な私的所有の方が労働と所有との一致を体現しています。

    近代的国民国家においても,この点については同じです。この講義でも『1. 所有の基礎理論』の「私的所有とは何か?(2)」で強調したように,国家的所有とは,基本的に,個人から自立した国家による私的所有──株式会社による私的所有と同様に,国家法人による私的所有──であって,国家が私的所有している限りでは,労働と所有とが完全に分離したままです。

  3. (注3)第二次世界大戦後の西欧・北欧でも,社会民主主義的な政権は国有化を推進してきました。しかし,ドラッカーの主要敵はあくまでもソ連だったと思われるので,ここではもっぱらソ連を取り挙げることにします。

  4. (注4)レーニン自身の定義では,「社会主義」は「共産主義」の第一段階と位置付けられていましたが,彼の理論ではこの第一段階においてすでに国家が死滅していると考えられます。

    また,ロシア革命なんかのイメージで捉えると“国家が死滅する”というのがさっぱり意味不明かもしれませんが,伝統的なマルクス主義理論では,グローバル資本主義を現実的根拠とした世界革命が大前提になっています(なお,現代思想であるマルクス主義に伝統もクソもないのですが,要するに,マルクスの後継者の第一世代のなかで,われこそは正統なる後継者なりと主張していた理論です。それはもちろん,マルクス自身の理論とは異なります。ケインズの理論とケインズ主義とが異なるように)。あまりにも壮大すぎる話しのように思われるかもしれませんが,しかし,今日のグローバル化の進展を目の当たりにしているわれわれにとっては,かえってリアリティが増しているのではないでしょうか? 資本主義はもともとグローバルなものであり,そうであるからこそ,その変革は世界レベルでやらないことには必ず失敗します。それは何も,体制間の移行のような壮大な話しだけじゃなく,そもそも体制内の変革でもまた上手くいきません。CO2の規制(実際にCO2が温室効果にどのくらい影響を与えているのかについては議論があります)も,短期資本移動の規制も世界レベルでやらないことには無意味だということは誰でも承認するところでしょう。

    要するに,世界市場という形で資本主義が一つの世界を形成し,その中で先進諸国での革命が主導して,そこから誘発される形で世界中の国が革命に巻き込まれるというのがこのお話の大前提です。しかるに,帝政ロシアのような遅れた国で,しかも一国で革命が起きるなんてのははなからこのお話にとっては想定外です。ましてや,そのような革命で新しい社会に移行できるなどとは,当時の西欧先進諸国のマルクス主義者たちはもちろんのこと,当のロシアの理論的指導者たちさえ夢にも思っていなかったでしょう。

    そもそもロシア革命は,旧体制(帝政)の自滅であって,文字通りの革命──伝統的な理論では資本主義以後の政治革命は社会的意識の変化の行き着き先です──が起きたわけでもありません。と言うのも,理論的指導者たちの最大勢力は社会主義でしたが,肝心の人口の大部分は資本主義的営利企業に雇用されている賃金労働者ではなかったからです。旧体制が余りにも酷すぎたから自壊した;まだ発達した資本主義が形成されていなかったから,本来ならば市民革命が生じて,発達した資本主義への移行に向かって進むはずだった;しかし,その変革主体が形成されていなかったので,人口のごく少数のインテリ間で内紛が起こり,社会主義チームが権力を奪取するしかなかった──ということだと思います。

    なお,ここでレーニンを取り挙げたのは,あくまでもレーニンがソ連の理論的指導者であり,そしてドラッカーがソ連を批判対象と考えていたからです。ここでは,あくまでも,伝統的なマルクス主義を継承している限りで,その部分だけを抜き出してレーニンを評価しました。それもまた,ドラッカーもレーニンもそれの伝統の中で育ち,それをイメージとして共有しているからです。したがって,私自身がレーニンを伝統的マルクス主義の正統な継承者として考えているわけでは決してありません。

    おまけ。晩年の著作を読むと,ドラッカーがレーニンとともに伝統的なマルクス主義の社会主義のイメージを共有していたというのは不思議に思われるかもしれません。しかし,彼が少年時代を過ごした20世紀初頭のウィーンはオーストロマルクス主義という,当時,最も先進的だと思われていたマルクス主義の学問的派閥の巣窟でした。そして1923年11月11日の共和制記念日に,ウィーンで多くの民衆が革命歌を歌って,らんちき騒ぎをしていた中で,まさにドラッカーは「社会主義の下で自由と平和を求める学生」という団体の先頭で赤旗を振って行進していました。その時に,ドラッカーは,ふと至極もっともなことに気付いてしまうのです,「あれ,俺って何馬鹿なことやってんだろ? てゆーか,お前ら,目が血走って,ちょっとヤバくね? いや,1分前まで旗振って狂ってた俺に言えた台詞じゃないんだけどさ」って。そして,彼はこの熱狂の隊列を離れて,その脇に立つ(bystand=傍観する)ことにしたのです。みんながらんちき騒ぎをしている中で,一人だけ正気に戻ってしまったのですね。みんなが酔っ払っているのに,一人だけしらふに戻ってしまったのですね。社会主義の熱狂とそれへの懐疑,そしてこの熱狂後に訪れたナチズムとスターリニズム──これこそがドラッカーの原点であり,敢えて言うならば,すべてです(渡米前につちかわれたドラッカーの思想的背景については『ドラッカー 新しい時代の予言者』,有斐閣,1979年,の序章(執筆:三戸公)がわかりやすいと思います)。

  5. (注5)たとえ本来の正当化が不可能であっても,もし経済成長を持続的に達成することができれば,機能的な擁護くらいはできたかもしれません。しかし,実際には,不完全な市場の元での国家主導の資本主義発展(私は旧ソ連は遅れた資本主義国だと考えています)が持続するはずもなく,戦後すぐに誰の目にもその経済政策の失敗は明らかになってきます。

    なお,機能的に優れているからと言って本来の正当性を無視するのは,ドラッカーが最も嫌悪する態度です。この場合には,要するに,経済成長しているからと言って,労働と所有との分離に目を瞑るということがそれに当たります。だからこそ,アメリカ合衆国こそが社会主義だ(裏を返せば,ソ連なんて社会主義じゃない),というのが主たる批判になるのです。もちろん,アメリカ合衆国の方が生産力が発展していたのですが,それだけでは,“悪の帝国”であるソ連に対する批判にはならないのです。

    『ポスト資本主義社会』では,ハイエクについてドラッカーは次のように語っています:

    ハイエク〔……〕は〔……〕『隷属への道』(1944年)の中で次のように論じた:社会主義は奴隷化を意味するというのは避けられないことだろう。「民主主義的な社会主義」なんてものはない。あるのはただ「全体主義的な社会主義」だけだ──と。しかし,1944年の段階では,ハイエクはマルクス主義は機能する〔work〕ことはできないとは論じなかった。むしろ逆に,ハイエクはマルクス主義が機能することができ,そして実際に機能してしまうであろうということを,非常に恐れた。〔『ポスト資本主義社会』,第72頁〕

    これはハイエクの口を借りた,ドラッカー自身の言明だと思われます。社会主義が全体主義的なものでしかありえないというのは本来の正当化による“社会主義”批判です。そして,ドラッカーは,ナチスによる雇用回復のように,ソ連“社会主義”が機能してしまうことを心から恐れ,更には,機能的な擁護(経済成長を達成してしまったということ)によって本来の正当化による批判(全体主義的であるということ)が掻き消されてしまうことをそれ以上に恐れたのだと思われます。

  6. (注6)従って,本来は,人民資本主義論は,それなりにまともな理論を論じるべきこの『6』で取り挙げるべきものではありません。しかし,これには資本主義の現実を反映したユニークな論点が含まれているから,ここでこれを取り挙げることにしたわけです。

    また,恐らく,人民資本主義論の当事者の中ではそれが経営者支配論と対立しているという意識を持っている人は少ないのでしょう。要するに,そこから対立を導出したのは私です。

  7. (注7)この講義の立場から言うと,たとえ主要な階級としてはたった一つの階級しかないとしても,それが敵対的な階級であって,そこに属さない人たちと対立し合っているだけではなく,階級の内部が利害対立に基づいている限りでは,その社会はたった一つの主要階級からなる階級社会だということになります。ましてや階級が一つしか無いから階級対立がないということにもなりません。資本主義である限りでは,そのたった一つの階級の中でさまざまな利害集団による利害対立と利害闘争が生じ,もっと言うと個人と個人との間で利害対立と利害闘争が必然化されるでしょう。

    ただし,人民資本主義論は,ナンセンスなプロパガンダであっても,やはり資本主義の発展の重大な側面を捉えています。その限りでは,このプロパガンダに,肯定的な評価をもまた,この講義は与えておきました。

  8. (注8)もちろん,バーリも,ソ連に比べてのアメリカ合衆国の優位性の中には「豊富」(機能的な擁護)とともに「自由」(本来の正当化)を(日本語版への序言),また「効率性〔efficiency〕」(機能的な擁護)とともに「人間性〔humanity〕」(本来の正当化)を(第14頁),強調するということを忘れていません。また,何よりも,意図的・暴力的に引き起こしたロシア革命に比べると,知らず知らずのうちに起こってしまったアメリカ合衆国の「20世紀資本主義革命」では公然の暴力や殺人が少ないのもポイント高いところです。

    しかし,実際に,バーリが本書の中で恐れていることは,アメリカ合衆国における,(1)会社権力(corporate power)の増大による経済的自由主義の崩壊,(2)会社による価値観の全体主義的強制,(2)会社が権力を持っているのにもかかわらず責任をとらないということに起因する政府の国家主義的介入などです。これに対して,バーリは,アメリカ合衆国における「自由」だの「人間性」だのの発展はほとんど述べていません。要するに,本来の正当性に関する限りでは両体制の差は程度の差であって,その差は非常に大きいといえども,バーリにとって安心できるものではありません。なにしろ,富の拡大を(従ってまた機能的な擁護を)もたらしてくれる他ならない会社権力こそが,本来の正当性の危機を同時にもたらしているのですから。

  9. (注9)バーリはまず,株式会社が単なる法的な擬制ではなく,この擬制から独立的に存在する現実的な実在であるということを──この講義での用語で翻訳すると,単なる法的人格に擬制された社団ではなく,この社団を通じて法的人格を獲得した現実資本であるということを,すなわち,単なる資本家のアソシエーションではなく,この人格的アソシエーションによって成立する資本結合=物件結合であるということを──強調します『20世紀資本主義革命』,第9~10頁)。その上で,バーリは所有に二組の属性を与えています。第一の属性は「創造・生産・開発〔creation and production and development〕の媒介」であり,第二の属性は「享受・享楽・消費〔reception, enjoyment, and consumption〕の可能性」です。(この講義では,生産と消費というタームを使っているので,前者を一言で「生産」,後者を一言で「消費」と呼んでおきましょう)。バーリによると,個人的な私的所有に基づく小経営(自営業)の場合には,両者は分離していなませんでした(自営業者が生産し,消費する)。けれども,20世紀には両者が分離します。ところで,「このことと社会主義理論とは,すごくよく似てる〔There is a striking analogy between this and socialist theory〕」(同前,第22頁)。すなわち,分離しているという点で,両者はよく似ているわけです。

  10. (注10)市場の審判の衰退についてバーリが想定しているのは,かつては金融市場における投資銀行による融資判断が企業の投資拡大の是非についての審判を下していたが,現在では内部留保の増大によって経営者が誰の審判も受けずに──もちろん株式分散によって株主総会は形骸化しています──投資拡大の判断を下しているということです。また,競争の否定としてバーリが想定しているのは,(1)競争の結果としての寡占形成,(2)国家による市場への直接的な介入,(3)競争による共倒れを避けるための産業組織形成です。

  11. (注11)「制度的会社は,資本を集め〔colletivize〕,そして,ほとんどの集産主義〔collectivism──ソ連型体制のこと〕と同様に,権力を少数の指導的集団に集中した」(『20世紀資本主義革命』,第156頁)。