0. 全般

全般的な問題として,動物と動物的人間とを区別するものとして奴隷制を所有問題の例解に挙げるということの意義ついては以下のドキュメントを参照してください。

要するに,(1)奴隷制って人間のやることじゃねーよ,動物集団並みだよね,(2)そんな動物並みの奴隷制でさえ,動物集団とは決定的に違ってるんだよ,ということです。

1. 所有の二つの条件

「所有」と動物の「持っている」の違いはなんなのか?〔……〕動物たちの間にも社会があって動物がものを持っていれば,他の動物に承認されていないとは言えないのではないか? 動物がエサなどを蓄える状態は所有と呼ばずにどういう風に表現するか? 縄張りは所有に当たらないのだろうか? 動物の場合は所有しないとあるが,縄張りなどを支配しているのも所有ではないのか? 〔講義で流したビデオについて,〕樹液を求める動物の中において,1番強い動物に所有が存在し,服従関係があるのではないか? 動物には支配と服従のメリットがないとあるが,群れをなす動物には少なからずメリットがあるのではないか? ニホンザルなどのムレをなす動物の場合,平のサルやボス猿がいるようにムレの中に階級が存在すると思うのだが,それは一種の奴隷,服従関係であるとは言えないのか? 動物と人間の所有について考えている時に社会があるかどうかも違いだと感じた。〔……〕群れを作る霊長類〔の場合には,〕群れのボスが支配しているため動物の所有もあり得るのではないか? 「所有」とは「これは○○(人名)の物」と他人から認められている状態が成立しているということを言うのか?(「社会的に承認されている」というのは上記の状態か?)。それを認める能力(概念)がない動物には「所有」という概念は存在しないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

最初に超越的に結論を言っちゃうと,《所有には自己の意志と他者の意志とが必要だ;しかし,動物は労働をしないから,意志を持つことができない;それ故に,動物には所有がない》──ということになります。でも,これでは,あまり納得できないでしょう。ですから,例を挙げたりして,説明しているわけです。

縄張りは所有ではありません。それが証拠に,いつも動物は縄張り争いをしています。これは互いに承認しあっていないということを意味します。互いに承認し合っていたら,縄張りなんて不要です。むしろ,縄張りの存在は所有の不在の証拠なのです。そして,しょっちゅう動物はマーキングしています。互いに承認し合っていたら,繰り返しマーキングする必要なんてありません。一度みんなの前でマーキングしてみんなから承認を受ければそれで終わりです。なお,人間の場合でも,共同体と共同体との間で水源を争っている限りでは,共同体間では所有は成立していません。その場合に,所有が成立しているのは共同体の内部です。

もちろん,猿のように高度に発達した動物は,マウンティング等によって,《原生的な生物に比べて少数な個体の生命を危機にさらし,これを通じて種の保存をも危機にさらすところの無駄な暴力沙汰》を回避するようです。しかし,これはこれで,個体上の優位による序列を確認するだけのものであって,別に相手を承認したわけではありません。屈服しているということと相手を承認するということは全く別のことです。承認が無いから,個体上の優位が変われば(例えば元の個体が老いれば),すぐに序列が変わってしまいます。承認が無いから,優位な個体であっても,占有離脱した餌は他の個体のものになってしまいます。

もちろん,特に前近代的共同体において見られ今日でも見られるような略奪行為を見ると,人間も動物的状態になるということは間違いありません。さらには,原始人の生活をイメージする限り,それがどう猿と違っているのか,よく分かりません。しかし,例えば,現代社会において,拾った財布を交番に届ける人を見たら,あるいは行ったこともない土地の所有が登記によって保証されているのを見たら,それはもう,これはもう,猿には真似ができない所有のシステム,所有関係が出来上がっているということは一目瞭然でしょう。

このような,動物とは全く違ったシステムを生み出すことができる可能性が,前近代的共同体の人間にも,更には原始人にさえ,あったわけです。それを説明するために,敢えて,奴隷制という,人間を動物のように扱うシステムを例に出し,こういう一見動物とは変わりがないようなシステムでさえ,動物とは違うメリットを人間は享受しているのだ,ということを,ビデオを使って明らかにしたわけです。

また,この点については,以下のドキュメントをも参照してください。

所有の条件には二つあり,一つは自己と意志,二つ目は他者からの意志が要件だそうで,結論はその物件に対する人格の関係の中で所有が成立すると言うことだと理解した。ということは,大学や企業が所有する機械等は他の人格の承認の身だけ,すなわち所有の第二条件だけで「所有」していることになるのか。それとも,株主や企業家が第一条件としてまたは人格として振る舞っているという前提が含まれているのか? 所有の第一条件において「自分のものだ」という意思が必要であるならば,政府や法人といった集団が所有しているとはどういうことなのか?また「所有」のための条件はなんなのだろうか?自分の考え方としては組織の構成員が「所有している」という認識があり,かつまた周囲の社会から擬人的な存在として法人が「持っている」と認識すれば“所有”になるのだと思う。 所有というものが社会的なものであり,自己及び他者の認識のもとに成り立つということが理解できた。その一方で,複数の所有格を有するもの(ex. 共同体,公共)の場合は果たしてこれが成り立つのか疑問に思った。何故なら複数の所有格がある場合,所有の第二条件である他者の承認は納得できるのだが,所有の第一条件である,これは自分のものであるかのように振る舞う自己がいないように感じるからである。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

言うまでもなく,個人企業の場合には,個人的な資本家が第一条件を満たしています。これに対して,大学資産・会社資産に対しては,大学や会社企業が法的に人格に擬制されて,その結果として法的に人格として(私的所有者として)振る舞い,第一条件を満たすことになります。国有資産の場合にも同様であって,国家が,その構成員である国民から自立化した主体として,それを通じてやはり法的な人格として,振る舞っていることになります。なお,会社企業の場合には,会社そのものに対しては株主が私的所有者として振るまい,第一条件を満たすことになります。国家に対しては,現代民主国家ならば,公法と選挙とを通じて,国民が国家を承認(信認)しているというタテマエになります。

会社法人(広く言うと社団法人)・国家法人・学校法人(広く言うと財団法人)による所有の場合には,そのような擬制された法人としての私的所有者による排他的=私的な所有です。この点で,国有・法人所有は集団が所有しているというものでは決してありません。個人の集合としての集団による所有については,以下の共有についての質問に対する回答をご覧下さい。

前近代的共同体の所有の場合には,基本的に現代国家における国有で類推していい部分も多いのですが,ただし,共同体自体が自然人から独立して法的人格を獲得しているのではなく,共同体と自然人としての首長とが一体のものです。その結果として,首長の個人的所有と共同体の所有とが分離していません。

〔第一条件は〕自分の意思によって所有が決まるということだが,他の人と共有しているものや一時的に貸し借りしているもの,インターネット内の情報等の実在しないものの所有の条件はどうなるか? 複数の人で所有するもの,例えば家のテレビや車などにもこの原理は働くのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

「一時的に貸し借りしているもの」はちょっと話が違っています。これについては,後々,『4. 貸付資本の成立』のところで,物権と債権との分離に即して,説明します。

ここでは,他の人と共有しているものインターネット内の情報等の実在しないものの所有について説明します(注1)。所有物件の物体があるかないかということは,──使用価値の属性として共有されやすいというのはもちろんあるのですが──,共有という所有の社会的形態からは独立しています。ですから,共有について説明すると,しばしば経済学では私的所有が絶対化されて共有は所有権の不在だと観念されることがあるのですが,共有も立派な所有の形態です。そして,まさに共有においても“これは俺のものだ”という自分の意志が重要になってくるのです。“これは俺のものだ”という自分の意志は“これはお前のものではない”ということを必ずしも含んでいるわけではありません。“これは俺のものだ”=“これは俺以外の誰のものではない”という排他性が成立するのは『3. 私的所有と市場社会』で見るように,私的所有の場合だけです。

これに対して,共有の場合にも,“これは俺のものだ”という自己の意志は成り立っているのです。ただし,それは“これは俺以外の誰のものではない”とイコールではなく,“俺以外の個人のものでもある”という承認と両立するのです。

「意志によって媒介された社会関係として実現される」と所有を定義したが,ここの関係性がいまいち理解が薄くなった。

赤ん坊がオギャーと母ちゃんの腹から生まれた時に,本能的・運命的・宿命的な関係が赤ん坊と母ちゃんとの間に出来上がっていますが,これは意志によって媒介された社会関係ではありません。赤ん坊の方は自分の意志で母ちゃんを選べないからです。

人間は,動物と同様にこのような地縁・血縁に制約された本能的・運命的・宿命的な関係と同時に,自分の意志で結ぶような,本来の社会関係をも形成します。これが意志によって媒介された社会関係です。それは何も,経済活動に限ったことではなく,自分の意志でよさげな神様を選んで,その縁で信仰を同じくする人と社会関係を結ぶというのでもいいですし,アクション映画が好きで同好の士とサークルをつくるというのでもいいのです。ただし,他の社会関係に先行して何よりもまず,そして必然的に,経済活動において,互いの経済的利害の一致によってそのような社会関係を結ばざるをえません。そして,所有はこのような社会関係として,すなわち所有関係として実現されるわけです(注2)

所有の必須条件として,自分のものであるといった意志や意志を持つ他者によって社会的に承認されているなどといったことを学んだが,例えば道ばたに転がっている石ころなどを持ち帰ったりしたとき,これは所有とはみなされないのか? 自分のものであるという意志は持つことができるとしても,道路は国や地域の所有物であり,その道路に転がっている石ころの所有権は国や地域にあると思うので,他者によって社会的に承認はされないと考えたため,そのような物に対する所有権に関して疑問を抱いた。

何が無主物か,そしてそもそも無主物を先占すると所有として認められるか,またどのような無主物(動産/不動産)が誰に帰属するのか,という個別的・具体的な問題は,その社会の構造や発展度によって違っており,近代国家ならば実定法で,また実定法として明確化されていない場合には共同体の掟で決まります。要するに,このような問題は法学の問題であって,政治経済学の問題ではありません。そして,嫌々にであろうと嬉々としてであろうと,当該社会・共同体の構成員がそのような実定法あるいは掟に従っているということ自体が,そのような実定法・掟の下で生じる所有を構成員たちが社会的に承認しているということです。

この講義で強調している発生的な関連(何がシステムを毎日生み出す根本で何が派生なのかという関連)においては,人びとの意志関係(ここでは現代的関係を想定して承認と呼んでいます)が法(掟を含む)に発展するのであって,その逆ではありません。例えば,ドロボーが横行すると当該社会/共同体の維持に困るからドローボが禁止されるのであって,その逆ではありません。ドロボーは,《悪い》から禁止されるのであって,禁止されるから《悪い》のではありません。と言うか,《悪い》のをドロボーと呼ぶわけであって,何が悪いのかは永遠不滅の基準ではなく,その社会/共同のあり方によって決まってくるわけです。

もちろん,現実問題としては,すべての物件に対する所有をすべての構成員が承認するなんてのは不可能です。前近代の場合には,例えば共同体首長の鶴の一声だったり,あるいは掟だったり,そういうのに構成員が従って社会的承認の構造が成立します。換言すると,この講義で現代社会から導出してきた社会的承認という構造は,前近代的共同体においては実際には,共同体への帰属という形で現れます。で,『2. 私的所有と市場社会』で,詳しく見ますが,現代的市場社会では,むしろ,個別的当事者同士の相互的承認──そこで成立した意志関係が形になったのは,村の掟でも実定法でもなく,契約です──を社会がそのまま承認するという形になります。契約が守られている限りでは実定法の出番はなく,契約が破られたときにその出番が来ます。このような個別的当事者間での相互的承認を安定的に社会的承認に変換するための経済外的な装置・機構が登記だったり,実定法だったり,行政・司法機構だったりするわけです。

所有は他人から認められ,自分でその意志を持つことで成立するということだったが,認識がくいちがった場合どうなるのか?

所有は社会的承認を媒介とします。従って,所有に関する係争は社会が仲裁・裁定することになります。それは首長の鶴の一声かもしれませんし,コモン・ロー(掟)に基づく村人同士の裁定かもしれませんし,現代社会の場合には,最終的には民事・刑事の司法手続きになるでしょう。それでもなお,このような公共的な決定に従えない者がいたら,それは社会的に承認されないものとしてなんらかのサンクションを受けるでしょう。社会的承認を媒介にするが故に,その解決もまた,社会的な仕方で行われるわけです。

所有そのものは原理的に経済活動の中で成立するものです。もちろん,共同体間では戦争で占領・略奪したとか,経済外的な取得に基づく所有もあります。しかし,そういうのに先行して,またそう言うのがなくても,所有は共同体内で,しかも経済活動において生まれます。また,まさにこのような所有こそが所有という独自の社会関係を特徴づけるものです。しかしまた,所有が侵害された場合には,経済外的な公共性が介入・仲裁するしかありません。

動物の場合には,所有は社会的関係ではありませんから,このような公共性を展開することができず,個体同士なり,個体集団同士なりが,直接に暴力を使って,あるいはニホンザルのような高度な霊長類の場合には,マウンティングのような直接的暴力を回避する行動を使って,解決するしかないでしょう。いや,そもそも《解決》はしないでしょう。強い方がぶんどる,あるいは本能に応じて(種の保存に適合するように,例えば幼生や母体に多くの栄養が行き渡るように)ぶんどる──それだけのことですから。人間でも,猿っぽい人たちの場合には,ムッキー!と叫んで不毛に相争うことになるでしょう。

所有の第一条件として「これは自分のものだ」という仕方でふるまうというものがあったが,たとえば形態などに届くクーポンに気付かずにいても,一応,その人あてのものであるため所有していることにはなるのか?

契約条件で決まります。この場合には,契約そのもの(つまりクーポン利用サービス契約)を自分の意志で結んだのだから,その契約の結果(つまりクーポン)も自分の意志によって媒介されているのだ,ということになります。え?そんな契約を結んだ覚えがないって?それでも,サービスを提供する側としては,利用者と提供者とが,対等な条件で,そして自分の意志で,契約を結んだということになるようにしているはずです。“利用条件に従いますか?”,“はい”のようなユーザインターフェースを通じて,あなたの意志が確認されたという風に設定されているはずです。で,多くの場合には,その利用条件の中には,クーポンが届いたのに気付いていたのであろうといなかったのであろうと,クーポン利用の時効期間が決められているはずです。全部あなたは自分の意志で承認した,というタテマエになっているはずです。

発生的な関連と,派生してきた関係とを分けてください。今日では,所有は実定法と司法・行政機構とによって保護されているから,個別の所有について,いちいち自己の意志を確認する必要はありません。知らないうちに,実定法あるいは遺言状によって,誰かの遺産が自分の所有物になっているということもありえます。しかし,ここで問題にしているのは,そのような法的保護が生じる根拠です。

所有の第二条件に意志を持つ他者たちによって社会的に承認されているとあるが,この場合,所有される対象(奴隷なら奴隷)の承認は必要か?

所有物でありながら,自己意識(自我)であり従って自分の意志で承認することができるのは奴隷だけですね。奴隷は共同体の成員ではありません。それ故に,自己=奴隷主,他者=共同体成員の意志の構造には含まれません。

その意味では,奴隷が自らの境遇を受け入れて初めて奴隷制が十分に機能すると言えるでしょう。

他者からも認められないと「所有」とは言えないってことは盗んだものを持ってても「所有」ではないと言うことか?

その通りです。そして,それが盗みであるのかどうかを決めること自体,永遠不変の基準なんてものによるのでは決してなく,社会・共同体のあり方,従って社会的承認のあり方に,したがってまた所有形態に依存します。例えば,百姓が生産した米の何割が殿様の所有物になるのかなんてことは,永遠不変の基準によって一義的に決められるものではないでしょう。

《盗みがあるからそうではないものとして所有がある》というのでは決してなく,所有があるからこそ,そうではないものとして盗みがあります。要するに,権利が定義されるからこそ,権利の侵害が定義されるわけです。

所有の確定は自分の人格と他の人格の両方から承認される場合であって片方でもかけると駄目ってことか?

その通りです。ただし,承認は,──人格による物件に対する関係の意志による媒介ではなく──,人格と人格との関係の意志による媒介の一つの形態(承認なき暴力的な支配服従だってあります)です。だから,自分が他の人格を承認したり,他の人格が自分を承認したり,あるいは両者が相互的に承認し合ったりします。しかるに,自分が自分の所有物件を承認したりはしません。同様にまた,他者が何を承認しているのかと言うと,他者は,私が所有者であるということ,つまり私の人格(所有者としての私の人格)を承認しているわけであって,私が所有している物件を承認しているわけではありません。

所有について難しく説明されているが,要するに,自分が持っているものを他者がその人のものだと思ったら成り立つという当然のことを言っていると考えていいのか?

第一の条件が抜けていますが,第二の条件については,大体合ってます。問題は思ったらの内容であって,日常用語で《思っている》というと,そこには必ずしも明確な意志の媒介が入るとは限りません。例えば,動物でも,“あぁ,この木の実みは俺が持っているな,あの木の実はあいつが持ってるな”,“あぁ,ここは俺の縄張りだな,あっちは他のやつの縄張りだな”というくらいのことは《思っている》と言えるかもしれません。しかし,それでは,《意志を持って認めた》とは言えないわけです。だからすぐに暴力で争いになったり,あるいはただ単に暴力で奪い取り暴力で奪い取られるだけだったり,暴力で屈服させ暴力に屈服した状態が続いたり,それだけであって,対象支配は安定しないわけです。あるいは,働き蟻が餌を調達し,その多くが女王蟻のものになるのが当然であるように,やはり意志の媒介を必要とせずに本能に従って餌の帰属先が決まったり,構造として安定してはいても,この構造は自らの媒介で発展することがないわけです。そこで,この講義では,意志と承認という用語で,所有を明示化しようとしているわけです。

人間の場合にも,たとえば古代の奴隷制(生産における奴隷制を念頭に置きます)なんてものをイメージすると,そりゃ動物と大して変わりがないでしょう。しかしながら,奴隷制の場合には,意志を媒介にしています。奴隷制が安定的に発展するためには,奴隷が“あぁ俺は奴隷主のものなのだなぁ,みつを”と承認して己れの義務を果たし,奴隷主もまた奴隷主としての義務を果たし,こうして,生産が安定的に発展します。しかしまた,その中で奴隷が“あれ?,俺が奴隷主の所有物っておかしくね?”と気付いてしまう(注3)と,やがては現状のシステムは維持できなくなるでしょう。その結果は,逃散なり反乱なり鎮圧なりいろいろとあるでしょうが,システム事態の変化は避けられないでしょう。本能ではなく,意志を媒介にするからこそ,自ら変化・発展を起こすわけです。蟻のコロニーも自然史の中で発展してきたものでしょうが,所詮は自然に適合した結果です。人間は自ら社会を発展させてきたわけです。

人間の世界でも力に頼って所有をアピールする場合もあるのではないだろか? たとえば竹島を巡る日本と韓国ではその近辺で武力による小さな小競り合いがよく起きている。その点では人間も本質的には動物と変わらない部分もあるのではないだろうか? 占有から離脱しても所有は消滅しない,等を例を出してもらい理解できたが,ただ,それは,社会というのが1つだけで安定して社会に権利が守られている時はその通りだろうと思うが,例えば,領土問題というのは例外として捕らえられるのではないか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

竹島紛争はまだ武力による小さな小競り合いにはなっていないように思われますが,それはともかく……

人間の歴史を紐解けば,はるか太古はちっぽけな共同体間では所有を巡る激しい闘争があるのが当然だったと思います。確かに,そこだけ見ると,動物的状態を脱していなかったでしょう。奪い奪われですから,所有のシステムということはできないでしょう。それは何故かと言うと,根本的には,ちっぽけな共同体の規模を越えて,社会的に労働を行うという生活をしていなかったからです。そうでありながら,共同体内部では,所有のシステムが成立していったのです。はるか太古では,この講義で強調した社会的承認も,──現代的市場社会とは異なって,自立した個人が相互に行う承認に基づくのではなく──,共同体成員の共同体への帰属として現れたわけです。そして,個人はこのちっぽけな共同体の成員として労働し,共同体成員として生活し,共同体成員として他の共同体と戦ったわけです。その結果として達成されたのは,動物の場合に種の保存であったのと同様に,はるか太古の共同体の場合にも,集団=共同体そのものの維持・保存でした。

前近代的共同体の内部でも,政治権力が強大化するのに連れて,そのようなちっぽけな共同体間での領土紛争は解消し,より大きな共同体単位間での紛争に移行していったわけです。それは社会的な労働の規模,したがってまた経済的な規模の拡大を意味していました(もちろん経済的要因だけではありませんが)。そのようなより大きな共同体内(クニと呼んでおきましょう)では,ちっぽけな共同体(ムラと呼んでおきましょう)間での所有を巡る闘争はクニによる公的な裁定に委ねられていきます。つまり,社会的承認の範囲が拡大し,形式化されていきます。形式化というのは,要するに司法・行政機構を通じて行われるということです。こうして所有のシステムは法的・政治的システムを通じて実現されるようになっていったわけです。

そして,今日では,──分離独立運動に見られるように国民国家のフィクション自体は危機に瀕していますが──,基本的に,領土紛争は国家間での争いになっているでしょう。もしそこで武力が行使されるのであれば,それだけ見れば,動物的な側面もあります。しかしまた,それに目を奪われて,所有のシステムが形成されているということを見過ごしてはならないわけです。

この他,政治的な領土問題と経済的な所有との関連については,以下のドキュメントを参照してください。

一言で言うと,《現代社会においては,国籍による土地所有制限が無い限りでは,政治的にどの国の領土であろうと,経済的には,どの国籍を持つ個人・法人もどこの土地をも私的に所有できるのだから,この講義ではあまり考える必要がない》といことです。

他者が社会的に承認というのは「これはAという人のものだ」という認識ではなく,「これは自分のものではない」という認識だと思う。何故ならば,人が盗みをする時にその盗む物の所有権を認識することは不可能だからである。

みんなが盗み合っちゃったら,所有のシステムは(したがってまた社会も)成立しないのです。ドロボーは所有のシステムを形成する主体ではなく,所有のシステムを破壊する主体です。

あなたの質問の合理的核心は,いざ承認する際に,他者が所持しているものが“これは俺のものではない”ということはわかっても,果たして本当にその持ち主のものなのか,つまり,その社会/共同体の法的規範から見て,換言すると承認理由から見て,その持ち主が正当な所有者なのか,分からない場合があるということでしょう。特に商品交換ではこれは通常です。この点については,『2. 私的所有と市場社会』で詳しく論じます。

法律との関連も気になる。

社会的承認を,つまり正当性を当該社会/共同体が公的に形式化・明示化したのが所有に関する実定法/掟です(もちろん,掟の場合には,実定法ほどの形式化・明示化には至りませんが)。個々の物件について,いちいち社会/共同体に対して承認を要求しなくても,実定法に則っているならば,その物件に対する支配は所有として社会的な承認を得たことになります。この講義で扱っているのは,そのような実定法として形式化・明示化されるべき社会的承認(権利・正当性)であり,この社会的承認が生じる経済的根拠です。

政治経済学1の時でもそうだったが,要するに所有や労働というのが人間社会にあるが,人間以外の動物社会にはないのは人間は意識的・自覚的・主体的に行動するからか?

結果的には,その通りです。ただし,政治経済学1では,その自覚的な行動ができる/やらざるをえない根拠を考察して,労働に行き着きました。政治経済学2では,すでに労働によって人間は自覚的な行動ができる/やらざるをえないということを前提した上で,そのような自覚的な行動の結果として実現される所有という自覚的なシステムを考察していきます。

所有の第二条件における動物の対象支配と人間の所有との違いとは,実質的所有(使用)に関係なく,そこに意志と権利(ここでの権利は社会的に認められるという意味)がともなえば所有が実現されるという理解で良いのか?

その通りです。

2. 所有と労働

労働・所有・社会の3つの関連性が良くイメージできなかった。3つが三角形のように互いに関連し合っているのか,それとも労働→社会→所有というように横並びに関連しているのか,のどちらか?
相互的関連

講義でも言いましたが,現実の世界は,すべての要因が互いに依存し合っている相互的関連の世界です。労働が所有を前提し,所有が労働を前提しています。その限りでは,3つが三角形のように互いに関連し合っているわけです。

発生的関連

しかしまた,(1)社会においては,このような要因が相互に前提し合っている世界は絶えず発展しています。つまり,単に要因が互いに依存し合って循環しているだけではなく,どれかの要因が一撃を与えながら他の要因を引っ張って,既存の世界そのものを発展させているわけです。(2)この発展の行き着く先として,発展の運動=動態的な運動が,繰り返される相互的依存の静態的な世界と両立できなくなり,やがて既存の社会が崩壊して新しい社会に移行するようになります。

こう抽象的に言うと訳が分かりませんが,要するに,資本主義的生産の下で労働の方は現実的運動としてどんどんと発展していくのに,市場社会に適合する所有関係の方はこの発展に追い付かなくなっていくわけです。

この講義では,あくまでも現代社会の枠内で,資本主義的生産が発展し(これは労働の発展),ビジネスが大規模化・柔軟化すると,既存の所有関係では対応できなくなり,かと言って,現代社会を続ける限りでは既存の所有関係,すなわち私的所有を放棄することもできずに,その結果として私的所有をどんどん変容させていくということを見ていきます。信用制度=銀行制度,株式会社なんかは現実の(つまり労働の)発展がもたらした私的所有の変容です。

この観点からは,労働・社会・所有が互いに依存し合っている世界の真っ只中に,同時に,労働→社会→所有という発生的関連もまたわれわれの前に現れてきます。そして,この講義は現代社会の発展という見地から,この発生的関連の探求をテーマにしているわけです。

労働に基づいて所有が生まれるのであれば,なぜ,「労働していないときでも所有が消滅しない」のかよく分からなかった。

労働に基づいて生まれたものが労働していない時でも消えないということ自体は普通のことです。例えば,冷蔵庫は労働に基づいて生まれましたが,廃棄されるまでは消えません。

もちろん,所有は冷蔵庫のような《物》ではありません。しかし,所有は所有関係,すなわち社会関係です。社会関係は繰り返し生産されると,その発生行為から自立して持続的に存在します。それは当事者たちの生命活動を媒介しているからであり,かつ,当事者たちの意志によって媒介されているからです。別に労働していなくても,あのリンゴがAさんのものであるのは誰でも知っていますし,誰でも認めています。

労働がそもそも最初に生み出す社会関係は生産関係です。生産関係はひとたびできあがると,労働のそのものによって再生産され,持続します。政治経済学1を受けていた人は,《岩を動かした時は社会が一瞬にして消滅したが,役割分担した時は社会が持続した;と言うのも,労働そのものがこの社会を毎日生産しているからだ》,というのを思い出してください。

所有の場合にも,ひとたび労働が所有関係を生み出すと,毎日この所有関係の下で労働が行われ,毎日労働がこの所有関係を再生産します。この関係は,《昼間労働している間は,互いに村人同士が所有者として認め合っているが,夜になったら豹変して村人全員が盗み合う》ということを排除します。夜になって生産手段を盗み合い殺し合ったら,次の日の労働ができません。

何故所有の条件に労働することが入るのか?

えっと,条件そのものについて言うと第一条件も第二条件も意志による媒介であって,労働ではありません。実際,事実の問題としても理念の問題としても,労働と無関係な所有なんてくさるほどあります。例えば,自宅の庭にたまたまカラスが桃の種を落っことし,それが発芽して,手入れもしないのにいつの間にか桃のみがなっちゃって,あぁ,この自然果実は俺の所有物だ,なんて時には,その関連だけを見ると(注4),所有と労働とは全く無関係です。

スライドの中で労働という言葉が入っているのは,自己の意志の場合にも,社会的承認の場合にも,《それらが必然性として何に基づいているのか,それらが必然的にどこで生まれざるをえないのか,それらが最初に生まれるのはどこか》と考えると,そこで労働が出てこざるをえないということです。もちろん,労働以外のところでも普通に意志というものが生まれますが,労働において必ずや,そして他の場面に先行して,意志というものが生まれざるをえないわけです。

何故,所有一般が〔と?〕どの人類社会にも共通な経済的活動とが対応するかは,その社会の中で労働が行われることで所有が成立するという考えでいいのか?

いいです。どの人類社会においても,社会的労働が行われれば,その労働の社会的形態に照応する(その労働の社会的なやり方に上手いこと当てはまる)ような所有形態が生まれます。あまりにも生産力が低くて,個人個人ではとても労働して生活することができず,ただ部族の一員としてのみ狩猟採集に勤しんでいるような共同体ではそれに応じた所有形態,例えば共同体成員間で完全に生産手段を共有するような共有形態が生まれるでしょう。もう少し生産力が発展して,共同労働の指揮を初めとする公共サービスを共同体(およびその首長)が担うようになると,共同体が生産手段を専有するような所有形態(共同体所有)も生まれるでしょう。はるかに生産力が発展して,江戸時代の日本の農村のような感じだと,水源や裏山は共同体メンバーによる共有,土地そのものの所有権は,直接的には各百姓家族にあるが,最終的にはより上位の共同体機関(藩主とか将軍)にあるというような感じで,非常に複雑になってくるでしょう。

生物としての人間が,意志を持つ人格として存在する所与の条件として,労働が挙げられていたが,この場合の労働の定義は,一般的な人間活動のような広義のものなのか?

一般的な人間活動というのがちょっと分かりませんが,あなたの問題は,例えば,社交活動とか,政治活動とか,文化活動とかも労働なのかということでしょうか? それらも,本能的な活動ではなく,自覚的な活動──理論の実践──である限りでは,それこそ広義には労働といっても構わないのですが,ここで問題にしているのは,あくまでも経済活動としての労働です。あなたが問題にしているような人間の実践的活動一般の出発点であり,必然性であり,根拠であり,構造であるのが,ここで問題にしているような経済活動としての労働です。

政治経済学1を受講していない方は,以下のドキュメントを参照するといいかもしれません。わからない点があれば,教室で直接,あるいはメールで質問してください。

労働によって自己や所有の意志が生まれるという部分はよくわからなかった。

政治経済学1を受講していないと確かに分かりにくいと思います。一言で言ってしまうと,こういうことです:労働は何よりも,(1)自分で自分を上手いこと自由自在に操る行為であり,(2)これを通じて自分で自然を上手いこと自由自在に操る行為である。最初にまずこれによって,動物にはないような自己(主体性),動物の意識にはないような自分の意志が生まれざるをえない。

この点については,以下のドキュメントをも参照してください。

また,動物の意識と人間固有の意志との違いについては,政治経済学1のリアクションペーパーへの回答で何度も答えています。こちらも参照してください。

3. その他所有についての問題

人格がもたらす所有の権利は形にすることができるのか?

例えば,会社に対する所有の場合には,株式と言う権利は,以前には実際に株券という紙っ切れ(有価証券)の形で目に見えていました。もっともも,以前からも株主側からの株券不所持の同意の下で事実上,また今日では株式不発行制度で原則上,株券は発行されないのが普通です。それでもやはり,株式不発行制度の下でも,媒体が紙から電磁的記録に変わっただけで,株式は形になっていると言えるでしょう。

人間関係の中で所有が失われるとどうなるか?

えっと,人間関係の中で所有が失われれると所有が失われます。そのまんまなんですが,と言うのも,そもそも人間関係の中でしか所有が成立しないからです。

元の所有者が占有していない物件であれば,なんの摩擦もなく,新しい所有者のものになるでしょう。不動産なんかの場合には,元の所有者が占有している場合には,不法占拠になります。

人類の所有の歴史はどこからはじめればよいのか? 旧石器時代の頃なのか? 弥生時代なのか? どの程度社会が確立されていると所有なのか? 所有がそもそも発生した歴史的過程には何かあるのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

人類の発生史については,いまだよくわからいところが多くあります。ましてや私は考古学や人類学の専門家でもありません。また,今後様々な資料が出てきたとしても,○年○月○日に所有が生まれたなんて事は絶対に言うことができません。

以上を前提にして言うと,現生人類に限らず,絵画なんかが残されているところから見ると,明らかに旧石器時代には既に所有のシステムの萌芽はあったと思います。なんで労働が生み出す石器の発達じゃなくて絵画なんてものを出すのかと言うと,一日中,絵画を描いて暮らすなんてことは不可能であって,描いている時間も狩りをしている時間もあって,要するに,描いた絵は壊さないように他の個体が尊重していた,つまり(恐らくは群れの)所有として承認していたということが見て取れるからです。

もちろん,意志の明確化,従って承認,従ってまた所有も,言語が発達し,文字で意志を明確に表現・伝達できるようになって──そしてこれらはまたこれらで,社会的労働の発達によって達成されます──,初めて,“こりゃもう完全に猿と違うぜ”ということが言えるくらいの発展を遂げたのでしょう。そして,そこまでの発展を示した証拠が見付かっているのは現生人類だけでしょう。ここまで来れば,もう確実に所有のシステムだといっていいでしょう。

政治経済学1の時に労働について注意喚起しておきましたが,基準になるのはあくまでも現代社会であり,しかも現代社会の現実そのものではなく現代社会が生み出している理念だけです。要するに,厳密な意味で,と限定をおくと,労働しているのも所有しているのも今までのところでは現代人だけです。しかしまた,この現代人が生み出しているモノサシを当てて,過去を見ると,そこでもやはり動物とは異なる労働や所有のシステムが成立しているわけです。そしてまた,この政治経済学2で強調したように,モノサシとしては,労働よりもは所有の方がより一層,動物と人間との違いを可視化してくれるわけです。

次に,所有がそもそも発生した歴史的過程についてですが,現実的には,社会がいつ発生したのかは発生はタイムマシンを持っていないので分かりません。しかし,理論的には,社会的労働によって発生したということができます。大体以下のような感じです:

  • そもそも動物集団か人間社会かなんてのは,原始人の集落を見ても分からないだろう。どの道はっきりしていることは,現実的には,人間の祖先は最初から類猿人として動物集団(群れ)を形成していたといこと,最初から(現代人とは異なって個人として自立していたのではなく)共同で生活していたということだけである。だから,現実的には,この共同生活の中で共同労働が形成されるのに連れて,群れが群れとしての意志を持つ共同体に発展し,この共同体に構成員が互いに帰属し合っているという意識を通じて,生産手段が共同の所有物として意識され,こうして所有のシステムも形成されていったと考えることができるだろう。消費手段については,猿も人間も自分の分を占拠して消費するのだから,猿と人間との区別は分からない。そうすると,生産手段の所有で区別するということになる。定住していようといまいと,最初から人間にとって,生活の基盤は土地であって,この土地はもともと労働の手が加わっていないような,つまり労働の結果ではないような,天然自然の生産手段として原始人の目の前に現れていたはずである。要するに,群れで暮らしている原始人が群れで労働するようになると同時に,何よりも先ず,天然自然の食糧の宝庫であり,居住のための空間でもある土地という生産手段を群れで所有するようになったのだろう。その後で,道具のような労働によって生産された労働手段をやはり群れで所有するようになったのだろう。つまり,現実的には,この講義が区別している様々な契機は──この講義が想定しているような整然とした仕方で,ではなく──すべてゴッチャになりながら,だんだんと,いつのまにか所有のシステムが形成されたのだろう。要するに,現実的には,最初の所有は労働の結果だとは言えないし,前近代的共同体は,労働を通じて自立した主体としての個人が自覚的に形成したもの(つまり本来の意味での社会)だとも言えない。

  • このように原始人の集落をいくら見ても動物集団と人間社会との区別はわからないのだから,理論的には,人間社会を定義するためには,原始人の集落ではなく,動物集団とは完全に区別された発展した人間集団を基準にするしかない。現代社会はこの《発展した人間集団》=人間社会の姿をその理想・理念として照らし出している。それは何かと言うと,独立した自由・平等な人格が自覚的に形成する集団である。

  • このような定義から,人間をイメージしてみよう:何よりも先ず,人間は労働によって自分自身の生活(物質代謝)を自覚的に自分自身で,効率的に運営するようになる。個人によるこの効率的運営には制限があり,この制限を突破するためには他の人間との協力を必要としたはずだ。労働は自覚的な行為であって,他の人間との共同労働も自覚的な(意志を媒介にした)共同労働,社会的労働であるしかない。こうして,理論的には,この社会的労働が,それが生み出した社会を通じて安定的に機能するために,やはりそれが生み出した《構成員たちの意志》を媒介にして,生産物の所有関係から生産手段の所有関係を形成したはずだ。

所有の歴史的発生については,以下のドキュメントをも参照してください。

奴隷主が奴隷と生産手段を用いてある製品を作っている場合には,奴隷主にとっては生産手段を所有していることになるのか,生産手段と奴隷の両方を所有していることになるのか,またはこのような構造を利用している社会全体としての所有者となるのか?

奴隷制にもいろいろありますが,基本的には,奴隷主が生産手段と奴隷の両方を所有していることになります。

所有物件とあるが,その中に動物は含まれるのか,疑問に思った。物件とあるので,生きものでないもののことかと思った。

物件とは人格が対象とするものすべてです。そして,何が物件に含まれるかは,人格(≒社会形成主体)がどういうものかによって決まり,後者は後者で社会の形態に一致します。例えば,奴隷制の共同体では,奴隷からは人格が剥奪されて,奴隷という人間さえも奴隷主という人格の所有物件です。

現代社会では,人間そのものは所有物件にはなれませんが,動物は所有物件になりえます。実際に,他人が所有する動物を殺すと,器物損壊の罪,要するに他人の所有物件を壊した罪に問われます。

4. その他のトピックス

「所有」の授業や論を補う書籍はあるか?理論の発生背景を知りたい。

受講者の皆さんに推薦することができるような適切な参照文献はありません。

非常に,非常に難解でしょうが,例年,株式会社論の参照文献として,『株式会社の正当性と所有理論』,有井行夫,青木書店,1991年,を挙げています。同書の中心テーマは,書名の通り,株式会社論です。しかし,同書は所有論一般の基礎を理論的に扱っており,この講義の所有論の発生背景なんかを知るのには最適です。難解な本なので,胸を張って推薦することはできませんが,ここに挙げておきます。

消費と生産が分離しているイメージがあまり良くもってなかったのだが,どういうことか?

動物は,目の前にあるものを本能的に,本能の赴くままに,貪り喰らうだけだったでしょう。無くなったら,他のところに移り,それでもなくなったら,滅びるだけでしょう。これが本能的な生命活動です。もちろん,餌をとるということには,先天的な能力だけではなく,後天的に獲得する能力(他の個体を真似したり,自分で工夫したり)も必要ですが,それも込みで本能的な生命活動ということができます。

それと同様にまた,人間も,このような,単に本能的にすぎない生命活動もしています。夜寝ている間に心臓が動くなんてのはまさに本能的にすぎない生命活動です。

しかしそれと同時にまた,人間は,目の前にある餌を貪り喰らうだけではなく,ホウレン草を栽培・調理するということ(生産)と,ホウレン草を食べるということ(消費)と,を分けるような生命活動をもしています。これが生産と消費との分離です。

この点については,以下のドキュメントをも参照してください。


  1. (注1)共有にもいろんなレベルがあります。例えば,ドイツや日本の民法学では,共有における個人の持分の自立性に応じて,総有・合有・共有を区別しています。ここでは,共有のこのような細かい法的区分には立ち入りません。

  2. (注2)もちろん,前近代的な共同体は多かれ少なかれ地縁・血縁に制約された本能的関係からは完全に分離されておらず,そこでの所有も実際にはそのような本能的関係を前提としながらも共同体の分肢としての各共同体構成員の意志によって媒介されていたのです。現代社会においても,そのような関係は残っているでしょう。でも,そのような動物なんだか人間なんだか良くわからんような関係をモデルとするわけにはいきません。

  3. (注3)気付く切っ掛けはいろいろです。例えば,奴隷が生存できないくらいの搾取の強化かもしれません。この場合には,──そもそも奴隷制には奴隷の再生産が含まれているのですから──,奴隷主の側からの奴隷制の破壊です。あるいは,たまたま一人の奴隷が現状を当然のものと受け容れる意識に疑問を持ったからかもしれません。

  4. (注4)実際には,その庭を手に入れたのは自分が労働して手に入れた貨幣を支出したのかもしれません。その場合には,もちろん,結局のところは,この自然果実が自分に帰属するのも,労働によって媒介されています。