1. 労働一元論と所有基礎論

〔所有基礎論と労働基礎論とについては〕どちらかが正しくどちらが間違っているのではなく考え方の違いということなのか,それとも所有基礎論は間違っていて,労働一元論が正しいのか? 〔所有基礎論と労働一元論との〕どちらの立場をとるかという結果の部分が理解できなかった。 労働と所有どちらが先かはいろいろな説がある。結論が出ることはあるのか? 労働一元論の見解,概念が少し根底の部分が弱いのではと感じたが,今井の考えはどうなのか?

どちらが正しいか,どちらも正しいか,どちらも間違っているかは皆さんが判断して下さい。一応,この講義の立場では,労働一元論が正しくて,所有基礎論は間違っています

所有と労働との関係について,もし逆の考えを支持する人が講義をした場合,授業内容は全く別のものになるのか?

うーん,根本のところで正反対なのです。根本のところで正反対だからと言って,枝葉の部分が何から何まで別のものにはならないでしょう。それどころか,同じ社会を見ているのですから,むしろ,同じ部分が多いかもしれません。けれども,枝葉の位置付けが違ってくるでしょう。つまり,同じ現象を見ても,社会システムの形成・発展において異なる位置付けをすることになるでしょう。

労働が社会を生みだすが,土地〔資本のこと?〕を所有するだけの資本家は直接的な労働を行わずに所有している。これは労働様式が所有関係を決めるという理論に合わないのではないか?

いいところを付いていると思います。理論の問題とタテマエの問題とを分けて考えなければなりません。

理論の問題

労働一元論の考えでは,資本を所有するだけの資本家直接的な労働を行わずに所有しているのは,そのようなことを可能にする生産関係が形成されているからであり,そのような生産関係が形成されているのはそのような労働を労働者が行っているからだ,ということになります。

要するに,資本がなくなっちゃったら資本の所有も何も無いのです。そして,資本はただのモノではなく,モノの形をとった社会関係(ここでは生産関係)です。それが証拠に,同じミシンだって,家の中でぞうきんを縫うために使われる限りでは,ちっともカネモウケができません;つまり資本ではありません。これに対して,資本主義的営利企業としてのシャツメーカーによって工場でシャツ生産のために用いられる限りでは,カネモウケの役に立ちます;つまり資本(この場合には生産資本)になります。あるいは同じパンだって,家の中で家族が食べるために焼かれた限りでは,ちっともカネモウケになりません;つまり資本ではありません。これに対して,資本主義的営利企業としてのパンメーカーによって売り物(=商品)として焼かれた場合には,カネモウケの役に立ちます;つまり資本(この場合には商品資本)になります。

そして,この資本を生み出すのは資本を生み出すって仕方の労働,つまり賃労働です。それが証拠に,同じパン焼き労働であっても,家庭の中で家族のために焼かれた限りでは,ちっとも資本を生み出しません;カネモウケにはなりません。このパンは,自分または家族が食べてそれで終わりでしょう。この人の財布の中の金はビタ一文,増えていません。これに対して,資本主義的営利企業としてのパンメーカーの工場の中で,この企業に雇用された労働者によって,この企業の業務命令に従って,この企業が販売して利潤を得るために行われる限りでは,売れば利潤が手に入るはずの魔法のパン,つまり資本を生産しているわけです;カネモウケになるわけです。両者は何が違うのか。まぁ,使っているオーブンも業務用と家庭用とでは違うでしょうし,労働力の熟練度も違うでしょうが,そんなことよりも社会関係(生産関係)が違うのです。一方は,資本主義的営利企業とは無関係な,家庭の中の家事労働です。これに対して,他方は,従業員のために焼くのでも株主のために焼くのでもなく,資本主義的営利企業によって雇われ,資本主義的営利企業の業務命令で働き,資本主義的営利企業が販売して利潤を得るためのパンを生産する労働です。

タテマエの問題

しかしまた,このような事態──一言で言って不労所得という現象──は市場社会の想定外です。そこで出てくるのは,“確かにこれは不労所得だが,最初の資本は額に汗水たらして働いて手に入れたものなのだ;だから,俺が資本家として不労所得を手に入れ続けることができるのも,俺が最初に頑張ったからなのだ”というイメージです。しかしまた,このようなイメージも,崩壊してしまうということを『資本主義と私的所有のゆらぎ』以降で考察していきます。

所有基礎論と労働一元論の2つの立場があるが,どちらをとるかでどのような違いが生まれるのか?

実践面では,両者の対立軸は,講義の中でもスライドの中でも答えました。

理論面では,労働一元論の場合には,この講義で見ていくように,労働が,従ってまた資本の能動的・動態的な現実的運動が既存の所有関係の受動的・静態的な存在を打ち破っていくというイメージになります。

これに対して,所有基礎論の場合には,非常にしばしば,所有関係の変化をして,社会システムを規定する能動的・動態的な原因として強調します。曰く,所有構造が変化して独占が形成されたことでシステムががらっと変わった,国有が主かどうかでシステムの性格(例:資本主義か社会主義か)が区別される,等。

労働によって所有が規定されるならば,二ートの人は所有権を持っていないということになるのか? 親の労働によって所有を保っている状態なのか?

二ートの人も家の中では労働していることが多いと思うのですが,……。まぁ,ここでは家の中ではネトゲばっかりしていると仮定しましょうか。

この問題は,『2. 私的所有と市場社会』の「2.2 市場における所有権の移転と所有の正当化」で述べます。結論だけを言うと,労働を行っていない人も自分の消費手段を所有していますが,その場合に,保護者の自由意志による(あるいは公的機関からの)譲渡という形式を媒介にします。で,それじゃ,保護者はどうやってその金を手に入れたの?と言うと,汗水垂らして働いたからだというタテマエになります。保護者も働いておらず,保護者の親からの遺産を手にした場合には,保護者の親が汗水垂らして働いたからだというタテマエになります。要するに,遡っていくと,事実はどうであれ(ひょっとしたら御先祖様はドロボーかもしれない),どこかで労働に基づく正当な取得があったというタテマエになります。

公的援助の場合は,民主的に立法された法律に従って正当に援助を手にしたというタテマエになりますし,その原資となっている公的資金はこれはこれで法律に従って正当に納税者等から取得したというタテマエになります。で,納税者は汗水垂らして働いたフローの所得か,汗水垂らして働いて手に入れたストックの資産か(この場合にはやはり自由意志による無償譲渡を媒介にしているかもしれません),それらから支払ったというタテマエになります。間接税の場合にも,結局同じ類推になります。なお,ここでも,資本主義的企業(法人企業)および法人税は異物です。

物事の見方で所有が先に生まれたのか,労働が先に生まれたのか,分かれると考えられる。つまり,相方において因果関係があるということなのか?

見方で分かれるのは,両者が相互依存,相互前提の関係にあるからです。そこから,じゃぁ,現実の変化はどこから始まるのか?と考えると,因果関係が見えてくるというのがこの講義の立場です。

所有基礎論と労働一元論,一般的,もしくは経済学の世界ではどちらが一般論なのか?

一般的なのは所有基礎論です。所有基礎論という形で明確に理論化されているかどうかは別として。

非主流派の経済学(いわゆるマルクス経済学)では,遅くとも1930年代以降は伝統的に所有基礎論が主流です(注1)。そして,主流派の経済学では,そもそも所有関係──しかも私的所有のシステム──が自明の前提として所与です。その上で,パレート効率性が成立する私的所有のシステムを基準にして,所有関係の違いに応じて,システムの効率性を論じるのが通常です(社会主義計算論争,共有地や漁場における外部不経済,など)。

所有基礎論のところで,「所有形態を変えたらなにもかも上手くいくという解に陥りがち」とあったが,例えば業績が悪かったり不祥事があったりする企業(東電など)を国有化すれば経営が改善せられるとか安全なイメージに変わると考えがちだということで良いのか?また〔……〕どうしてそうなるのか?が分からなかった。

東電の場合にはまさにその通りであって,人びとの意識の中で国有化が自己目的になり,国有化すれば上手くいくという幻想がばらまかれました。

どうしてそうなるのか?──講義で述べたように,所有は結果であるのに過ぎず,目的を達成するためには原因を変えなければならないわけです。もちろん,所有という結果を通じて社会的な問題を引き起こす原因は,個々の特殊的事情に応じて,いろいろと異なって現れます。しかし,それをこの講義では労働という根源的な原因に還元しました。社会的意識を媒介にする所有という結果の変革は人びとの目に見える派手な手段です。これに対して,原因の方はいまいちよく分かりにくいものです。そこで,この手段が原因から切り離される時に自己目的化するわけです。

所有の変革が問題解決の手段であるということを否定するわけでは決してありません。いや,むしろ,所有がわれわれの意識に直接に現れるものである限り,社会的問題を解決するためには所有変革が避けられないでしょうし,所有変革が旗印にならざるをえないでしょう。ただし,それが自己目的化しないようにするには,絶えず,所有という静態的・制度的な形態を生み出す動態的・実体的な原因から切り離されるようにしなければならないわけです。そして,絶対常に必ず,というわけではありませんが,しばしば,所有基礎論は問題をすべて所有という静態的形態に還元してしまうということによって,この形態を生み出す動態的な行為から目を逸らさせてしまうわけです。

労働によって所有が規定され,その後は互いに依存して労働と所有が成立するということか?

大体そうなのですが,正確には,“互いに依存し,互いに前提しているのだが,能動的・規定的な要因は労働の方にある”ということです。

所有基礎論者が所有形態の変化によって現状に変化が現れるという考えに至るのは,所有する者が代わることによって所有者の人格が変わるという考えで正しいか? ならば,所有形態を変えることは正しいことのように思った。何もかもが良くなるという訳ではないだろうが,現在は労働者という存在もいるが,その所有者である資本家が労働に対する影響力を強く持っている。労働は,資本家,つまり資本の所有者によって規定されているのではないか?

最初にまず,若干の修正を。労働者という存在もいるが,その所有者である資本家労働者は就業時間中は資本家の命令に従わなければなりませんし,資本家は就業時間中は労働者の労働力を(労働力に回復困難/不可能な損害を与えない限りで)自由に利用することができます。しかし,このことは,資本家をして,労働者の所有者にはさせません。労働者(正確に言うと,人格としての労働者,労働者の人格性)を資本家が所有してしまったら奴隷制になってしまいます。

本講義では労働が先という考えを軸にしているが,生産手段によっては所有が先と考えた方が自然なものが〔前近代的共同体における土地の〕他にあるのか?

個々の物件に対する所有を想定する限りでは,いくらでもあります。要するに,労働の生産物ではないものが労働の前提になっているということが問題なのですから。

しかしまた,講義で述べたように,システムとしては,まさにそのような所有のシステム自体は労働によって生まれるわけです。

現代の資本主義社会では賃金労働者は生産手段を所有していないから資本家に従属し,労働力を得ることによって賃金を得て,様々なものを所有することができ,すなわち現代の資本主義社会においてはそのような理由で所有は労働を前提しているのではないか?

その通りなのですが,個別的な例を考えてみると,所有が労働を前提しているとも言えますし,労働が所有を前提しているとも言えるわけです(両方の側面があるわけです)。しかしまた,システム全体の連関の中で考えてみると,労働が能動的・動態的な原因であって,所有の方は受動的・静態的な結果だということがわかってくる。──これがこの講義の考え方です。

労働によって生産される生産物が所有され,その一部である消費手段は消費され,生産手段によって,また労働が規定される。また,所有はそもそも社会によって承認される必要がある。その社会は労働の関係によって規定される。よって,所有は労働を前提するといったような二つのとらえ方でいいのか?

大体合ってます。労働によって生産される生産物が所有され,その一部である消費手段は消費され,生産手段によって,また労働が規定されるというのは労働と所有との(生産関係と所有関係との)相互前提の関係ですね。これに対して,所有はそもそも社会によって承認される必要がある。その社会は労働の関係によって規定されるというのは,労働が所有を規定する(生産関係が所有関係を規定する)という規定関係ですね。

「労働一元論」は極端な話,「まず,働かなければ何も始まらない」という概念に基づくものか?

個々の人についてではなく,社会全体についてはそう言うことができます。個々人は働かなくてもいいですが,誰かが働いていなければ社会ができません。社会ができないと所有もできません。

未耕地などの土地は労働そのもののやり方によって所有者が決まるということであり,それ以前に国が所有していると考えた場合,労働より先に所有が来るのではないか?

何故に無主物の不動産が国有になるのかというと,それは実定法で定まっているからです。何故に実定法で定まっているのかというと,社会がそれを承認したというタテマエになっているからです(現実的・具体的には国民の代表である立法機関で承認を受けます)。で,まぁ,ここからちょっと省略して言うと,社会が承認するということの条件は社会の成立であり,社会の成立の条件は労働にある。──こういう考えになります。

私は労働よりも先に所有があると考えるに至った。〔/〕労働は古来より行われてきた人間の行動であるが,所有の正当性の概念が存在しない時代においても同様に行われてきたように思う。〔……〕所有の正当性が存在しない時代の所有の概念とはどのようなものだったのか?

この講義の定義に従うと,所有とは物件に対する人格の正当な関係なのですから,そもそも所有の正当性が存在しない時代の所有というのが成り立ちません。現代的な正当性ではなくても,群れの一員として生き,群れの一員としての意識を持ち,群れの外の人間からの略奪行為に対しては意識的に一致団結して群れの財産を守ろうとする時,すでに正当性と所有とが生まれているのです。この場合,現代的に解釈すると,群れの構成員たちは,“群れの財産は,この群れが持ち,この群れが利用するのが正当であり,この群れの外の人間が略奪するのは不当だ”と意識しているのです。

前近代的共同体の時代においても「労働一元論」が正しいという根拠はあるのか?

これはもう,“現代社会を基準にしなければ前近代的共同体の性格を規定することはできないし,かつ,そのように規定すると,前近代的共同体ではなにもかもが玉虫色で現れる”ということに帰着します。要するに,前近代的共同体を,それだけを独立させて考える限りでは,どっちとも言えません。

自分にはなんとなく所有基礎論の方がしっくりときた。未開の土地に放り出された原人ならともかく,普通に日本に住んでいれば土地は誰かの所有物なので,所有を移転する方が先ではないか?

所有の移転はどうやって行うのでしょうか? 一番単純には,不動産市場で購入することです。それでは,土地を買うためのお金はどうするのでしょうか? 自分なのかそれとも他人なのかは知りませんが,誰かが努力して労働した結果としてあなたの手許に生じています。もちろん,労働は生産手段の所有を前提しているのではないか?しかしまた,その生産手段を買うためには,等々……。というように,こういう問題の立て方では,どちらが先かなんてことは言えないわけです。

所有基礎論の根拠の中で,休耕地の例が出たが,未耕地とは言っても,そこに住む微生物や生き物の労働の結果が未耕地であると感じたが,やはり労働が先に来るのではないか?

所有基礎論でも労働一元論でも,微生物や生き物の労働を労働とカウントしていないと思います。あくまでも,人間の労働と人間の所有関係との間の関連です。

「どういうやり方で労働するかで,生産手段の帰属も決まってくる」というここでの生産手段の帰属とはどのようなことか?

生産手段がどの個人/集団/その他にどのような形で属するのかということです。で,ここでのミソは,生産手段の根本部分は今日では労働生産物だということです(水や空気は除く)。従って,どういうやり方で労働するのかで,どのように労働生産物が帰属するのかが決まり,そして,どのように労働生産物が帰属するのかで,生産手段がどのように帰属するのかが決まるわけです。

2. 社会と正当性

所有することすべてが正当化されるとは一概には言い切れない。資本主義や社会主義など現代社会の形成の仕方によって,所有の正当化の見方も変化する。〔……〕正当化を決定づける要因は主に何なのか?

その通りであって,講義で強調したように,永遠の正義なんてものはありませんし,自由・平等も時代に応じてその中身が違います(自由は何の自由を含み,誰がどう享受し,どう責任を負うのか? どういう状態が平等なのか?)。所有の正当性を決定づける要因は,要するにわれわれが社会を形成する上で必要とする──つまり社会が必要とする──客観的原理であり,市場社会においては原因と結果との一致という客観的原理,すなわち労働と所有との一致です。大昔から,所有は労働に基づくというのが客観的な原理だったのですが,現代市場社会は,この因果性という客観的原理を,正当性という主観的原理として打ち立てたのです。

資本主義社会が自由や平等などから正当化されているが,実際には貧富の格差や働くことのできない状況が深刻化している中で部分的にも崩壊ははじまってしまっているのではないか?

自由や平等などから正当化されているのは,市場社会としての現代社会です。現代社会を資本主義社会として捉えるならば,最初から不自由・不平等が原理です。そして,自由・平等によって正当化されている市場社会としての現代社会が,必然的に,資本主義社会としては貧富の格差や働くことのできない状況深刻化をもたらしているわけです。

承認のシステムの危機に陥り正当化を意図的におこなうというのは具体的にはどういう状況か?

システムの本来の正当化は,システムが安定している限りでは,人びとにもう慣習的に受け容れられています;つまり今のシステムはもう疑うまでもないもの,当たり前のものになっています。システムが危機に陥るというのは,──もちろん,現実の社会的生産構造を上手く運営することができなくなっているというのが根本にあるのですが──,直接的には,人びとの意識の問題として,“既存のシステムはちょっとおかしいんじゃない”と感じるということに現れます。この場合,もはやシステムは当たり前のものではないのですから,システムの方の側で,“いや,既存のシステムはいいもんだ”というのを力説しなければならなくなります。“いいもんだ”というは,もちろん,本来の正当性に基づくしかありません。それもできなくなっていると,機能的な擁護をするしかなくなります。

で,まぁ,その過程は具体的にはそれぞれいろいろであって,各ケースを見ないで,一般論を言うのは無理でもあるし,無意味でもあります。一例として,われわれに馴染みが深い日本の例を挙げてみましょう。これならば歴史学の素人である私にも語れそうですし。──それまで当たり前のものだった幕藩体制も,幕末になると,“これっておかしいんじゃね?”という考えが,最初は一部の人から始まり,じわじわと民衆にもしみだしていきます(注2)。これに対して,江戸幕府は司法・行政の責任者が行き当たりばったりの方策を行ったために,一方では蘭学弾圧(外国否定)だったり(蛮社の獄),他方では無勅許調印批判の弾圧(開国肯定)だったりするわけで,政策の方向が目茶苦茶だというだけではなく,でっち上げばかりだったという点でも目茶苦茶だったのですが,ともかく,江戸幕府に対する批判,あるいは批判となり得るものを弾圧しているわけです(実際には,この弾圧は権力闘争と一体のものですから,当事者の主観的意識に即しては幕藩体制の自己維持ではなく,個人的権力の自己維持の側面が大きかったのでしょうが,結果的に見ると,つまり幕府がやがて崩壊したという客観的結果から見ると,どれも幕府を維持する方向の政策ということができます)。え? この例でどこに正当化を意図的におこなうなんてのがあったって? はい,まともな正当化ができないから,とりあえず弾圧するわけです。弾圧の根拠は幕府の正当性にしかないのですから,弾圧を以て対応するということ自体,正当性の意図的な主張です。

現代の資本主義の悪いところは具体的にどのようなことなのか? 良いわけでもないがそこまで酷すぎるわけでないのなら,どのよにしたらよりよくなるのか?

社会科学において個々人の価値判断や個々の利害を語るのはナンセンスなのであって(そんなもの,各人,違っているのに決まってます),社会システムの当事者たちが客観的な原因に基づいて《悪い》と意識せざるをえない点を挙げます(これだけというわけでは決してないのですが,わかりやすい点だけを挙げます):現代の資本主義の《悪い》ところは,機能的には(発展も凄いのだがしかしまた)無駄が多すぎるということ,やがては資本主義自体が資本主義の発展の足枷になってくると言うことです。要するに,失業を引き起こしたり自然破壊をしながらでないと発展できないということです。正当性という点では,実質的には,自由でもなければ平等でもないし,所有が労働に基づいていないということです。

資本主義社会は労働と所有という関係が釣り合いながら成り立っていたと思う。しかし,最近は労働と所有が釣り合わなくなっているから格差が拡大しているのか?

大体合っています。ただし,資本主義社会の実態は,最初から,もともと,そもそも,労働と所有という関係が釣り合わないというものなのです。両者が釣り合うというのはずだというのは市場社会のタテマエです。で,市場社会と資本主義社会とは一体のものなのですが,資本主義の方がますます発展するのに連れて,“釣り合うはずだ”というタテマエが崩れてきてしまっているのです。

他のシステムよりは資本主義社会〔は〕よりマシだろうとあったが,他のシステムとは共産主義などが当てはまるのか?

そうですね。あとは,歴史的に一社会を形成することはありませんでしたが,いまでも理想としては残っている,単純商品生産者の社会(自営業者ばかりで,資本主義的営利企業がないような市場社会,自由・平等な私的所有者個人からなる社会)でしょうか。日本ではあまり意識されませんが,本来,アメリカの保守主義の源泉は,入植者のそれであって,根本としては個人主義,自由主義,経済的には反企業主義,反独占主義,反資本主義,政治的には反官僚主義,反国家主義,中小自治体での直接民主主義(タウンミィーティング主義),国際的孤立主義です。そこで理念化されているのは,(家族単位での)個人の経済的自立であって,生産者としては自営業者になります。ティーパーティー運動の人たちなんかの中には,比較的にこの考えに近い人たちがいますね。さすがにゴリゴリの反企業主義(反組織主義,経済的個人主義)はあまりに現実離れしているので,少ないかもしれませんが……。この講義でのフレームワークを前提して言うと,この考え方は,市場社会としての現代社会の側面を理想化して,資本主義社会としての現代社会の側面を批判するような考え方です。

もちろん,中には,理想としては前近代的共同体,例えば封建制を理想とする人もいるでしょうが,現実的選択肢としては体制選択の比較(他のシステムよりマシ)において意識する人は少ないように思われます。

すべてを満たすような社会がうまれるのか? 机上の空論で終わるような気がして,結局,今の社会が続いていくか,一歩二歩進んだ社会で止まるのではないか?

いきなりすべてを満たすような社会がうまれるなんてのはどう考えてもあり得ないことです。同様に,今の社会が続いていくというのも不可能です。そうすると,一歩二歩進んだ社会ということになりますが,問題は,何をモノサシにして,一歩二歩進んだと言えるのかということです。そして,──そのコロラリ(系論)ですが──,三歩四歩はどこに向かうのかということです。と言うのも,一歩二歩進んじゃったら,次の可能な一歩二歩は最初の地点から見ると三歩四歩になるだろうからです。で,そのモノサシおよび歩みが向かう方向は,現代社会の矛盾を解決した社会ということになります。これはまたこれで,現代社会自身がネガとして提供しているものです。

資本主義に変わるより効率の良いシステムが確立された場合,そのシステムに変わるのか?

効率性で考える限り,体制変革にはコストがかかりますしリスクもあります。そこで,いわば慣性の法則が成り立ちます。

従って,新しいシステムに移行するかどうかは,効率性よりもまず,正当性に依存しています。要するに,資本主義がもたらす不自由,不平等,などの問題を解決できるかどうか,と言うか,すぐに解決なんてできないに決まっているのですから,解決に向けて進むことができるのかどうか,──これが第一条件です。

今ある現代社会の観念はこれまでの集大成としてのものであり,それも本来の正当性はすでに失っているという理解で良いか?

現代社会そのものは,これまでの前近代的共同体の集大成であり,しかもそれらとは逆のものです。要するに,これまでの前近代的共同体の最も発展したのが現代社会であり,しかもそれはこれまでの前近代的共同体を徹底的に解体するということによって成立しているわけです。ですから,同じ側面と逆の側面との両方に着目する必要があるわけです。

正当性についても全く同じであって,自己労働に基づく私的所有という観念は,もともとどの歴史的社会においても(観念においてではなく)現実において所有が労働に基づいている以上,その集大成であると言えます。しかしまた,これまでの前近代的共同体では,それが純粋に現れなかったのですから,この正当化は前近代的共同体におけるそれとは逆のものだとも言えます。

現代社会は市場社会であるのと同時に資本主義社会でもあります。今後詳しく見ていきますが,資本主義社会としての側面においては,このような正当性が否定されます(自己労働に基づかない,他人労働の搾取に基づく私的所有が現れちゃいます)。しかし,否定されたからと言って,なくなっちゃうわけじゃないのです。現代社会は,一面では市場社会ですから,絶えずこの正当性を基準にするしかないのです。

現代社会における「市場社会」と「資本主義」における明確な違いは何か?

原理の違いです。今後見ていきます。

社会主義諸国の上に立つ人は資本主義的なやり方で賃金を得ているのではないかと思うのだが,社会システムの頂点はやはり資本主義なのか?

私の考えで言うと,“そこに住む労働者が資本主義的なやり方で賃金を得ているのであれば,それは,社会主義と名乗ろうと,あるいは別の主義と名乗ろうと,そんなことには関わりなく,現実的には資本主義なのだ”,ということになります。要するに,政治体制のタテマエで,システムの現実を決めてはならないということです。現在の世界で,《民主主義》と名乗りながら,非民主的な国家なんていくらでもあるでしょう? それと同様に,“ここは社会主義だ!”と名乗ったから資本主義じゃなくなるってもんじゃありません。

で,社会システムの頂点は資本主義じゃありません。その理由は単純であって,この講義でやるように,タテマエと実態が食い違っているからです。この食い違いを克服したところに本来の社会システムがあります。現在は,本来の社会システムに行く前の段階です。

この段階を考える限り,その頂点は資本主義です。その理由も単純であって,歴史上,資本主義だけが世界市場という形で世界システムを形成したからです;すなわち,すべての民族のすべての歴史は,資本主義に向かう歴史だったからです。人類は,ちょんまげを結ったり,キリスト教なり仏教なりイスラム教なりを信仰したりする必然性はありません。しかし,人類が資本主義を経験するというのは必然的です。人類は,この資本主義というシステムを経験し尽くさないことには,先に進めないのです。

その他,かつて社会主義と名乗っていた,あるいは今でも社会主義と名乗っているような国々の経済システムの性格付けについては,以下をご覧下さい。

もしこの労働が欠落し,所有も社会もさせ得ないような状況があるとしたら,それはどのような(市場)社会になるのか?

労働がなければそもそも社会システムが成立しませんし,従ってまた市場社会も成立しません。

3. 所有と私的所有

泥棒が物を盗むという行為は,ただ奪って,ただ保っているだけという点で動物的な行為と似ていると思った。

その通りです。正当性を介在させないような対象支配は動物のそれと共通します。

例えば,自分が食べるために作った野菜があったとしたらそれは私的労働による生産であるように思われる。そして,一般的にそれは野菜を作った人が所有(私的所有)しているとみなされている。〔/〕このような例の場合,市場を介さない労働(私的労働)でありながら,社会一般的に承認された所有(私的所有)が成立している気がするがどうなのか?

その通りです。私的労働しているからといって,常に,市場が成立するわけではありません。この点は,『私的所有と市場社会』の「1.2 商品交換と私的所有」でまとめます。

所有の承認について対象が3つだった場合どうなるのか?人格Aの占有を人格Bは承認し,人格Cは承認しない場合の図が描かれている。

人格Cが承認しないというのは,人格Cが心の中で“俺はあんなの認めないよ”と思うだけではなく,明確に意思を表明しなければなりません。そして,人格Aが占有する物件に対して人格Cが所有権を主張する限りでは,紛争になります。紛争になっているのですから,上位の公共機関が存在する場合には,所有権の帰属はその裁定に委ねられます。

少なくとも,『2. 私的所有と市場社会』で見るように,現代市場社会を想定し,交換過程における相互的承認を想定する限りでは,人格Aと人格Cとが交換の当事者であった場合には,人格Cは心の中でどう思っていようとも形式的には人格Aの所有を承認したということになります。原理的には,この承認が社会的承認として通用します。ただし,人格Aがドロボーだった場合には,交換の当事者人格Cではなく,その本来の所有者が紛争を起こすでしょう。これは交換の枠外のことです。

現在における私的所有は過去のそれと比較して使用(消費)を前提していない?様々な蓄えが増加しているように感じるのだが,それは次にある商品交換の概念の影響?が拡大化されたからなのか?

ちょっと具体的に何を想定しているのかがわかりません。貨幣(現金)の蓄えについて言うと,むしろ,結果的に全く消費されなかった貨幣は前近代の方が通常です。現在でも,遺跡を発掘すると,地下に埋められて使われなかった(退蔵された)貨幣(埋蔵金)が出てきます。これに対しては,現代社会の場合には,例えば銀行に定期預金すれば,それは銀行による企業・個人への貸付を通じて,社会的に融通されます。その限りでは,それは,預金者にとっては当分の間は使用を前提しない貨幣ですが,しかし,銀行からの借り手にとってはすぐに使用すべき貨幣です。もちろん,実際には,銀行は当座性の(要求払の)預金で貸し出すのですが,そもそも預金設定で貸し出すことができるのは要求払預金が支払手段だからであり,要求払預金が支払手段として機能することができるのは銀行が現金をその支払いのための準備として社会的に集中しているからです。

物品の蓄えについて言うと,使用(消費)を前提していない蓄えというのがピンときません。一方では社会的生産力の発展により,他方では購買力の偏在により,ベブレン(ヴェブレン;Veblen)が言うような衒示的消費(見せびらかすための消費)は増えるかもしれませんが,それもまぁ,一つの使用の形態と言えるでしょう。


  1. (注1)ケインズの経済学(Economics of Keynes)と《ケインズ経済学(Keynesian Economics)》が同じものではないのと同様に,マルクスの経済学と《マルクス経済学》とは同じものではありません。この講義は,マルクスの経済学を批判的に受容しようとしていますが,マルクス経済学の主流的な考えである所有基礎論についてはこれを拒絶しています。

  2. (注2)まぁ,その意識は尊皇攘夷思想によって引っ張られたわけですが,歴史を後から反省して見ると,それとは逆に,明らかに,分散的な封建制(江戸末期には相当程度に中央集権的になっていたとは思いますが,それでもなお,幕藩体制は廃藩置県以後のシステムに比べると分散的でしょう)から絶対的・中央集権的な近代国家へ,また鎖国から開国に進むというのが体制否定の積極的な意識です。形式上,明治政府は王政復古という形をとりましたが,古代・中世の天皇制とは縁もゆかりもない,絶対主義的な近代国家です。