質問と回答

人は考えて行動するからどんなに結果が悪くても他の動物より優れているという認識でいいか?

うーん,はしょって言うとそういうことなんですが,「考えて」の内容を労働に,したがってまた経済活動に即してここで詳しく分析しているわけです。あと,「どんなに結果が悪くても」といのもその通りなんですが,労働においては結果が良くなっていくと言うことを期待することができるわけです。

何故に人間が労働において力を高度に制御し,統一することが可能になったのか,よくわからない。

力の制御・統一の仕方が他の動物よりも高度になったのは,そのこと自体としては,単にそれが進化の到達点だったからです。猿は蛙より高度に力を制御し,人間は猿より高度に力を制御する,というわけです。もし現生人類の先祖がそのようなものでなかったのであれば,あるいは環境に耐えることができずに滅亡したとしたら,他の進化の系統によって,労働に至るほどの,高度な制御に至った生物が登場したか,やがて登場するでしょう(もしそれまでに地球で生物が死滅しなければ)。

したがって,政治経済学が問題にするのは,その制御・統一(つまり媒介性)の発展です。この発展において,講義で述べたような,猿の生命活動には不可能な,人間の労働の特徴が固定され,そしてこの発展の結果として現代社会における生産力が生まれます(これについては『7. イノベーションの構成要素』まで待って下さい)。力の制御・統一の仕方が高度であったということそれ自体は政治経済学においては初期条件として前提されます。

「人間は自分の力を高度に制御・統一する」という場合の「高度」とは1.未来を構想する,2.意志を持つ,3.自由な行動をするの三つの分類でき,〔中略〕3では,自分で自由に試行錯誤し,最適解を追求する──ということなのか?

一言で言うと,この講義では,「自分で自由に試行錯誤し,最適解を追求する」というのは「2」に含まれます。

自由について予告をかねて若干の補足をしておきます。05月08日の講義で説明する『労働の媒介性』のスライドの中で出てきますが,根本的に言うと,1も2も労働の媒介性の具体的な現れであり,きっかけなのです。「高度な制御」とは要するに媒介性の発展です。ただ,それが誰にもわかるように見えてくるのは,1とか2とかのような具体的な現れにおいてなのです。

その意味では,自由とは,別に2の契機に限定されたものではありません。1も人間の思惟の自由(思考の自由)を表しています。しかし,自由は実践的自由(行為の自由)として実現され,かつ実践的自由(行為の自由)は,ここでの議論においては2の契機で現れるから,2に即して人間の自由を説明したわけです。

なお,自由は,ここで見るような自然に対する自由だけではなく,社会に対する自由,すなわち社会的自由をも含んでいます。いやむしろ,今日,自由と言う場合には社会的自由を意味するのが通例でしょう。ここでは,社会的自由のベースをなすところの,自然に対する必然的な経済的形成について明らかにしているわけです。

なお,社会的自由の必然的な経済的形成については,『3.労働と社会』への補足スライド『社会と共同体』で詳しく論じます。

現代社会が未来社会へとつながる通過点とあるが,ソ連の五カ年計画は始めは成功したが後に失敗し最終的に民主化を止められなくなった。ソ連の社会は未来につながっているとは思えない。つまり歴史の流れは革命等で容易く逆流するために全ての社会が未来につながっているとは限らないのでは?

まず,ソ連がどういう社会だったのか,──私はロシア/ソ連の経済史の専門家ではありませんし,この講義のテーマともずれてしまいますが,必要な限りで──,まとめておきましょう。ロシア/ソ連史については素人考えが入り込んでいますが,資本主義の一般理論の枠組へのそれの位置付けについては,それほど外したものはないでしょう。

社会の性格を判断する際に,その公認の支配的イデオロギーでそれを判断するということはできません。例えば,現在,北朝鮮はその国名において人民による民主主義的な共和国だと名乗っていますが,それを額面通りに受け取る人はほとんどいないでしょう。そして,体制を正当化する支配的イデオロギーの奇麗事を抜かして言うと,少なくとっもネップ以降のソ連は,開発独裁の下での初期資本主義国(発展途上国)だったと思います。これ自体は珍しいものではなく,体制を正当化する支配的イデオロギーがどういうものであれ──社会主義であれ,民族主義であれ,宗教であれ──,民間市場が,したがって民間の私的資本が未成熟であるために,国家が強大なイニシアチブの下に資本蓄積を進めていくというのは,発展途上国のキャッチアップ戦略上,ありふれたものですし,国家主導の資本蓄積のために基幹部門の一部を国有化するというのも珍しくはありません(ソ連の場合には,一部どころか大部分だったわけですが)。

そして,この開発独裁が急速な経済成長の達成に成功すればするほど,ますます独裁国家に対して市場と資本主義とが成長し,しかしまた市場と資本主義との発展は独裁国家の権力基盤と矛盾し,したがって独裁国家は自分の歴史的使命であった市場と資本主義との発展を政治的に阻害するようになり,こうなると開発独裁の歴史的役割も終わって,崩壊する──というのが一般的なルートだと思います。問題は,むしろ,何故にこのような専制的な体制が70年も続いてしまったのか,ということにあります。

もっとも,経済的な歴史的意義が終わっても政治体制が残存するということそれ自体は不思議なことではありません。理論的には,上で述べたように,市場と資本主義とが発展すればするほど,硬直的な政治体制と柔軟な私的経済とが矛盾して,政治体制の方が崩壊するはずですが──この問題については政治経済学2で少し触れる予定です──,現実的には,開発独裁の体制は(ひとたび専制的な統治体制が確立すると,この統治体制は既得権益と結合してある程度は自律的に再生産されるので)歴史的意義を果たした後でもなかなか崩壊しません。とは言っても,資本主義発展と開発独裁との矛盾が“要らない物はあるけど欲しい物はない(滞貨と行列)”という形で現れてきた1950~60年代にでもソ連は崩壊しても不思議ではなかったのですが,実際には70年も独裁体制が続いてしまったというのは,ソ連の開発独裁を特別なものにしています。

つまり,ソ連は資本蓄積をもたらすべき専制的な政治的体制としては,失敗どころか成功しすぎたのであって,成功しすぎたためにその歴史的役割が終わった(すでにそれ以上の資本蓄積を阻害するようになった)後でも崩壊できなくなってしまったのだと私は考えます。実際に,冷戦時代は軍事的・政治的な支配を通じて,東側諸国を先進国の国際的市場から閉め出し,こうして世界市場の完成を阻害するほどのスーパーパワーを獲得したわけですから。

さて,この講義が“どの人類社会にも共通な経済活動”において強調しているのは,(生産力の要因を脇に措いて言うと),以下の通りです。──

  • マイクロで見れば自由・平等な個人の自立,マクロで見ればグローバルな社会形成が“どの人類社会にも共通な経済活動”のポテンシャルである。
  • ただし,このポテンシャルは,前近代的な共同体では実現されなかった。
  • しかるに,現代社会(資本主義的な市場社会)において初めて,しかし,逆立ちした形で,形骸化された形で,実現された。上記のソ連の問題との関連で言うと,──
    • 人々のグローバルな人格的結合はモノの交換による世界市場の形成──特に国際的な投機マネーと超国籍企業(これらについては政治経済学2で取り挙げます)──という形で実現された。
    • これまでのすべての歴史は地域・民族の偶然的な歴史の交流であって,必然的なのはすべての歴史は世界市場の形成による世界資本主義に向かっていたということである。その限りでは,(やや短絡的に言うと),これまでの人類の全歴史は資本主義に向かう歴史である。
  • そうであるならば,未来社会はこのポテンシャルを完全に発揮する方向に進むはずであって,その観点からは現代社会は「未来社会へとつながる通過点」である。

この点から上の問題を再検討してみましょう。世界市場の形成によるグローバルな資本主義(世界資本主義)の形成こそが,現代における歴史の到達点であり,未来社会はこれを前提し,その先にあります。しかるに,ソ連崩壊前には,二つの市場が分断されていたわけです。ソ連の崩壊によって,真にグローバルな資本主義(世界資本主義)が形成されました。逆にまた,ソ連の形成はロシアという後発国での資本蓄積を(ある時点までは)強圧的に助長し,こうして世界市場を形成するべき地域経済の発展に(ある時点までは)貢献しました。その意味では,ソ連の形成・崩壊もまた「未来につながってい」ると思います。

学んで知識を増やすという点で人間は確かに猿より優れているが,それにもかかわらず,人類は失敗から学ばず,他の動物と同じように繰り返しているだけのように感じる。例えば第一次世界大戦において戦争の悲惨さを学んだにもかかわらず,再び第二次世界大戦を引き起こしている。これは自分の意志で止めることすらしない,ある意味他の動物以下の無能と呼べるのではないか。

個人の行動を考えてみて下さい。失敗に学ぶこともあれば,失敗を繰り返すこともあるでしょう。失敗を繰り返している限りでは,人間も他の動物と変わりがありません。そこで,本能的にではなく,失敗に学ぶということ(つまり知識の産出と適用)によって,失敗を克服するということが人間の特徴だと言えるでしょう。そして,この講義では,それを,経済活動に即して,個人的労働の,したがってまた社会的労働の原理として,説明したわけです。

そうすると,問題は社会の経験として,社会が失敗を必然的に──つまり法則的に──繰り返すということにあります。しかしまた,その繰り返しが単純な円環ではなく,螺旋を描くということも明らかでしょう。例えば,第一次世界大戦と第二次世界大戦とでは,結果が全く異なっています(帝国主義国による単純な領土分割から,旧植民地の政治的独立と経済的従属へ,世界戦争から局地戦へ)。経済システムの例を出すと,例えば,バブルの発生と崩壊も,同じことを繰り返しているようで,その結果が全く違っています(大恐慌の時は一国レベルの対応,結局のところ,戦争による完全雇用。リーマンショックの場合には,もはや一国レベルの対応は無意味)。

社会が同様の失敗を繰り返すということこそは,社会が完成していない証拠です。と言うのも,このような失敗の繰り返しは,労働の,したがってまた社会的労働の原理とは異なっているからです。そして,失敗を必然的に繰り返すのは何故でどのようににしてか(how and why),その繰り返しは螺旋運動の中でどの方向に進んでいるか,それを考察するのが政治経済学のテーマです。ただし,もちろん,この講義では,そのすべてを十分に扱うということはとてもできませんが。