質問と回答

経済活動が時代によって質的に違うというのは理解できるのだが,量的にというのはどういう意味か?

「量的に」というのは,質的にと対比させた言葉で,要するに,「程度の問題として」という意味です。これに対して,「質的に」というのは「決定的に,全然,根本的に」ということです。経済的に見て,前近代的共同体と現代的社会とは「決定的に,全然,根本的に」違うけど,江戸時代と鎌倉時代とでは,確かに違うけど,どちらも同じく前近代的共同体に属しているのであって,前近代的共同体という枠組みの中の違いでしかないということです。つまり,市場社会ではない(従って資本主義社会でもない)という点では,江戸時代の日本も鎌倉時代の日本も同じであって,その中で色々な違いがあるということです。

「すべてのコストを貨幣表示で一元化」とあったが,労働のような抽象的なものはどのように貨幣で表示されているのか?

貨幣の量,つまり価格として表示されています。

労働が本源的なコストであって,そのコストは労働量つまり労働時間で決まります。しかし,このコストは個人個人で違うものです。例えば,同じ家を造るのにAさんは100時間分のコストが必要であり,Bさんは120時間分のコストが必要である,というように。従って,個人が費やすコストとしてはともかく,社会の中で通用するコストとしては,なんらかの基準が目に見える形で確定されなければなりません。

市場社会では,このような基準が市場での競争を通じて,価格という目に見える形で確定されます。市場で,Aさんのコストが基準になり,それが1000万円という形で目に見えるようになれば,だれもBさん基準のコスト(単純計算で1200万円)で家を買わなくなるでしょう。

「お布施」のようなものは経済活動になるのか?

えっと,本来のお布施(ただ信仰にのみ基づいて行うもの,お布施してもいいし,しなくてもいいし,するとしてもその額がいくらか決まっていないし,また貨幣でも貨幣でなくてもかまわない)についていうと,宗教活動になると思います。

ただ,現代社会におけるお布施の機能を考えてみると,それで宗教団体は団体として運営されているのでしょうし,例えば葬式をやって金を一銭もくれないというのは宗教団体の運営にとって困るものでしょう。払う方も,純粋な宗教心の発露というよりは,例えば葬式サービスに対する対価として支払うことが多いでしょう。そうなるともう,これは宗教団体の,事実上の経済活動と呼んでもいいような気がします。

昔は政治・宗教が経済の中に混ざっていたというのはわかるが,今は果たして純粋な経済がおこなわれているのか?

もちろん,ここのケースを見てみると,政治活動や宗教活動と混じり合った経済活動も多くあるでしょう(上記のお布施の話をご覧ください)。しかし,純粋な経済活動が行われているという前提に立ってみても,資本主義的市場経済はちゃんと機能します;つまり,宗教活動や政治活動と混じっていなくても,資本主義的市場経済はちゃんと機能します。

これに対して,江戸時代は,殿様の経済活動については,殿様が農民から米を買うというモデルが原則的に排除されていたのです。農民が自分の自由意志で取引をおこない,“この値段じゃ米をうちのお殿様には売らない,あっちの殿様に売る,あるいは大坂の米問屋に直接に売る”ということでは,江戸時代のシステムは原則として運営することができなかったわけです。

自分自身で生産をするということが強調されていたのは何故か? 消費と生産が切り離されていることを「自分自身で」という言葉で強調しているのか?

惜しい。少し違います。

厳密に言うと,生産と消費との分離は,「自分自身で」自分の生命活動を運営するということの──なによりもまずは──結果です。そして,ひとたび生産と消費とが分離されると,(生産の方は自分自身で運営することができますから)ますます自分自身で自分の生命活動を運営するようになり,そうなるとますます生産と消費とを分離するようになります。(講義は,生産と消費との分離がますます自分自身による自分自身の生命活動の運営を円滑にするという側面の方を強調していました)。

「自分自身で」というのが強調されているのは,人間以外の動物はあくまでも自然の一部として本能的な生命活動しかできない──「自分自身で」自分自身の生命活動を運営することができない──からです。自分自身で自分自身の生命活動を運営するということは,自分自身の周りにある自然をも自分自身の生命活動の一部として自覚的に位置付けていくということを意味します。

江戸時代などの前近代では経済活動と政治活動が混ざっていたようだが,現在も税金とかは政治の強制力があるのではないか?

その通りです。税金徴収は法に基づく政治権力の行使です。政府も経済活動をおこなっていますが,政府の経済活動は基本的に政治活動と混じり合っています。

ただ,われわれはその租税をどうやって支払っているのかと言うと,市場で販売によって手に入れた貨幣で支払う(所得税や固定資産税の場合)とか,市場で購買する際に支払う(消費税やガソリン税の場合)とか,市場での純粋な経済活動がそのベースになっているわけです。要するに,財貨・サービスの圧倒的大部分をわれわれは市場で買い,そのために必要な貨幣は市場で入手しているわけです。そして,こっちの方は政治活動とは混じり合っていない,純粋な経済活動です。

市場が成長していくと企業などができるのか,それとも上手くいかないとできるのか?

えっと,今後のお楽しみになります。一言で言っちゃうと,(もちろん企業形成が市場の失敗の結果として現れることもあるのですが,それ以前に)そもそも市場が上手くいくためには企業が必要であるというのがこの講義の考え方です。

非市場的な組織とは?

家族も親友も恋人も,NPOも資本主義的営利企業も,非市場的な組織です。NPOや資本主義的営利企業が非市場的な組織であるというのは,対外的な問題ではなく,対内的な問題です。企業の従業員の組織というのは,労働力市場で同じ企業によって購買された従業員たちの集まりですが,それはあくまでも企業の外部の話であって,企業の内部では,基本的に,市場を形成していません(注1)たとえば,同じシャツの生産であっても,原料である綿布を外注化する場合には,市場を通して手に入れます;これに対して,それを内製化する場合には市場を通さないで上流工程(綿布製造工場)と下流工程(シャツ製造工場)とが結合し,両工程に従事している従業員の組織が形成されます。この従業員の組織は市場を通じて(つまり綿布の商品交換を通じて)結合したものではありません。

資本主義的営利企業は何をどうしているから効率的・社会的なのか?生産・流通を担っているからか?
効率的

いろんな側面がありますが,この講義との関連で言うと,金儲けのために絶えずイノベーションを行うから。

社会的

形式的な社会化:(一番大きな側面は,金儲けのために,市場を社会の隅々に内包的に,また(商品と資本との輸出を通じて)世界の隅々まで外延的に,広めていくということです)。

実質的な社会化:それとは別に,資本主義的生産特有の意義としては,資本主義的営利企業の内部に大規模な企業内組織という形でミニ社会を形成し,やがては企業間にも企業間組織を形成し,こうして組織原理=社会的原理を徹底させます;すなわち,社会的な労働の生産力を十分に発展させます。

資本主義社会という考え方が市場社会という考え方に〔何故〕含まれるのか?もしくは,市場社会という考え方の方が何故広いのか?市場社会と資本主義社会が個人を含むかどうかで違うというのはどういう意味か?資本主義社会は経済主体がどこにあるのか?〔3名の学生からほぼ同じ問題をめぐる質問があったので,統合しました〕
資本主義社会が市場社会に含まれる理由

資本主義的営利企業は金儲けを目的に設立された組織です。金儲けを行うためには,そもそも市場が必要です。その意味では,その限りでは,資本主義社会は市場社会に含まれます。

市場社会の方が広い理由

市場社会という場合には,その生産・流通の運営主体を問いません。資本主義的営利企業だろうと,個人すなわち自営業者だろうと,商品の売り手・買い手としては変わるところがありません。これに対して,資本主義社会という場合には,生産・流通の運営主体は資本主義的営利企業に限られています。その限りでは,市場社会の方が資本主義社会より広いということになります。

2点ほど補足を。これらの点については,講義の中でもっと詳しく論じていくことになります。

  • その1。実際には,市場が社会全体を支配する──市場社会が成立する──ためには資本主義的営利企業が必要です。

  • その2。市場社会は,その生産・流通の運営主体を問わないのですが,それが想定しているのは,その原理にマッチしているのは,あくまでも個人,すなわち自営業者です。

自然から個人が独立し,物質代謝を自分自身で効率的・社会的に行えるようになったために人間は発展できた,という話は,人類は農耕を始めた時から自然のサイクルから独立し,生産性を上げるために協業・組織化していったという中学社会科の内容を難しく表現しているだけか?

結果的には同じ問題を扱っていると思うのですが,表現だけではなく,内容も難しくなっているのではないかと思います。いくつかポイントを。

講義では農耕の例を挙げましたが,農耕を行うかどうかが決定的なポイントではないのです。農耕はあくまでも自分自身で自分の生活を運営するということの結果であり,かつ通過点です。農耕を中心に考えてしまうと,その後の発展を論理的に導出することができません。

この表現では,自然のサイクルから独立していったということと,生産性を上げるために協業・組織化していったということとの内的関連がよく分かりません。

この講義のどの人類社会にも共通な経済活動の対象は,もちろん明らかに,あなたがおっしゃることと重なり合います。この講義では,それを労働という一般的な根拠に即して,かつ労働という統一的な原理に基づいて,内的関連として,必然的発展として,説明していきます。その「労働」を導き出すための論理的な道具が「物質代謝を自分自身で効率的・社会的に行」うということなのです。


  1. (注1)企業と企業とがますます発展すると,企業と市場とのこの絶対的な分離自体が相対化されます。つまり,一方では,市場に非市場的な組織の原理が浸透し,他方では,資本主義的営利企業の内部に市場の原理が浸透していきます。こうして,企業と市場という両原理の垣根がどんどん混じり合います。しかし,それはあくまでも「ますます発展すると」という話であって,出発点は両者が全然違うもの,という前提から出発するしかありません。