質問と回答

企業と会社の具体的な違いについて知りたい。 企業と会社との違いというのが分からなかった。 企業と会社の違いがよく分からなかった。 企業と会社の違いがいまいち分からなかったので,もう一度説明して欲しい。 企業と会社の違いが少しわかりづらかった。 企業ではなく会社の資本に今後は着目していくと言うことを聞いて,企業と会社の違いとはなんなのかにも興味を持った。 企業としての資本と会社としての資本の,企業と会社のギア年概念の相違性が少し分かりにくかった。 政治経済学1では企業(enterprise)について,政治経済学2では会社(company)についてとりあげるとあったが,2の方では「所有」に,1の方では「労働」に観点をおくという違いから使い分けているということでいいのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

これについては,2014年09月30日の講義内でかなり詳しく説明しました。付け加えるとしたら,以下のドキュメントを参照してください。

2の方では「所有」に,1の方では「労働」に観点をおくという違いから使い分けているということでいいのか?──そうです。

経済における「現代社会」あるいは「現代」の定義は歴史学のそれと同じであると考えても良いのか?それとも,市場の成立,あるいは資本主義の成立をもって「現代」と言うような独自の定義があるのか?

『0. はじめに』にあるように,現代社会=資本主義的市場社会です。従って,現代とは,資本主義的市場社会の成立を以て画期されます。とは言っても,市場の成立そのものではありません。市場は大昔から,つまり現代社会以前からありました。しかし,市場が社会を支配する(具体的には社会の構成員の圧倒的大部分が市場を通じて社会的分業に参加し,従ってまた社会的富の圧倒的大部分が市場向けに生産され,市場で流通する)ようになったのは,資本主義社会,すなわち現代社会としてです。

システムにおいて絶えず瞬間的なnow)を生み出し発展させ続けているのが持続的な現代modern)です。今から1秒後も,江戸時代に戻るのではなく,絶えず変化しながらも同じシステムに留まり続けています。この《同じシステム》が現代社会です。それはもちろん,決して不変なものではありません;そうではなく,絶えず発展していくものです;しかしまた,発展しながらも自己維持し続けています。ただし,あまりに発展してしまい,もはや現代社会として自己維持できるかどうか,やばくなりつつあるのが現状です。そして,このような絶えざる発展と自己維持との矛盾がこの政治経済学1および2のテーマになります。政治経済学2では,資本主義的生産が発展しすぎて,もはや市場のタテマエが維持しづらくなっているということを考察していきます。

現代社会は江戸時代の共同体から区別されるだけではなく,およそあらゆる前近代的(premodern)共同体から根本的に区別されます。で,その区別が何かというと,これすなわち資本主義的市場社会がどういう社会なのかということに帰着します。そして,それがこの講義のテーマなのです。

「意識」↔「現実」を理解することができなかった。私の感覚では「意識」の対比は「無意識」や「実体」となり,「現実」の対比は「非現実」や「理想」という認識である。

正確に言うと,「現実」と「意識」との対比は,「存在」と,「意識」との対比です。この対比において,意識とは,意識された存在です。要するに,現実に存在するものであれ現実には全く存在しないもの(空想)であれ,あるいは,現実と一致していようと一致していまいと,いずれにせよ,意識は現実の存在とは無関係に成立するものではありません。

意識,現実,それぞれ,文脈に応じて,つまりどういう意義でそれが用いられるのかという観点から,対義語を異にします。あなたが言う,理想と現実との対立は政治経済学1では労働の契機に即して用いました。で,ここでは,意識と意識の外にある現実との対比,あるいは,現実と意識された現実(つまり意識)との対比という文脈で,両者を用いています。以上を大前提とします。

まず,意識について。「無意識」と「実体」とでは意味が異なります。それぞれ見ていきましょう。まず,意識とは異なる「実体」とはまさしく意識の外にある現実のことです。これに対して,無意識とは,意識の外にある現実のことではなく,意識の中にあり,意識下にあるが,まだ明確化されていないような意識のことでしょう。例えば,私は飛んできたサッカーボールを無意識によけた,なんていう場合には,反射神経でよけたとか,本能的によけたとかとほとんど同じ意味です。しかし,こう言う本能は切り落とされた腕(グロな表現で申し訳ありません)は発揮できないわけであって,少なくとも人間の場合には,それ自体,やはり意識の無意識的な作用だと言うことができます。要するに,人間の場合には,意識と無意識との対立は,意識の内部での対立になるでしょう。

次に,現実について。理想がどこにあるのかと言ったら,それは現実の中にではなく,意識の中にあるでしょう。非現実の方は難しいですね。もしそれが現実化していない単なる可能性という意味であるならば,現実と非現実との対立は現実の内部での対立になります。例えば,晴天の日に降雨は非現実ですが,この非現実性は可能性であり,晴天と降雨とは現実性と可能性との対立です。実際にまた,条件が変われば,すぐにでも降雨というこの可能性は現実性に移行するでしょう;つまり雨が降るでしょう。これに対して,ネッシーは非現実ですが,この非現実性はどういう条件でも現実性に移行しないような(現実化しないような)空想であり,地球の現在の生態系の現実とネッシーとは存在と意識との対立です(もちろん,ここではネッシーがただの空想であると想定しています)。

下等な生物と人類の違いのところで,自然と個体が一体化独立しているかというものがあったが,「自然と個体が一体」という表現がいまいち理解できなかった。自分なりの推測では,下等生物は自然にまかせて活動しており,人類は自然にまかせず自分で活動を運営するというものと捉えたが合っているか?

いいところを突いています。ただし,人間の場合には自然から個体が独立したからこそ,その結果として,人類は自然にまかせず自分で活動を運営するようになったわけです。動物については,大体,それで合ってます。あと,この点については,『2013年05月07日の講義内容についての質問への回答』の「動物の一面的な自然の再生産とは? 一面的というのが分からない。」をも参照して下さい。

人類一般の生命活動において消費と生産とが分離とあるが,それは,社会において働き,資本を生産し(給料をもらい),家庭などにおいて生命活動のために資本を消費するということか?

現代社会においてはそういう感じになります(ただし,消費者側から見ると,消費手段は資本ではありません。例えば,ビスケットはスーパーの棚に陳列されていればスーパーにとっては商品資本ですが,それを買って今から食べる消費者にとってはただの消費手段です。消費者はこのビスケットを使ってビジネスをするわけではありません。この講義における資本のイメージについては,後に『資本主義と私的所有のゆらぎ』において説明します)。

しかし,ここで問題にしている生産と消費との分離は,何も現代社会に限った話しではありません。大昔から人間は,目の前に落ちている木の実を本能的に貪る(木の実の生産と消費とが一体化している)だけの生活から脱却して,自分が食べる(消費する)ホウレン草を,自分で栽培・調理する(生産する)ようになっているわけです。これが生産と消費との分離です。

市場の生まれる前と生まれたあとで人間の生活にはどのような変化が生まれたのかについて知りたい。

具体的な違いについては,壮大なテーマであって,私には網羅的に論じることはできません。抽象的・原理的な違いについては,講義で述べたように,要するに市場を通じて効率化・社会化するといことによって,人間の物質代謝の効率性・社会性に根本的な変化が生まれたわけです。効率性について言うと,価値という形で(結局は貨幣額という形で)コストが《見える化》して,また市場というコストを減らすためのメカニズムが形成されたということです。社会性について言うと,市場によって,社会的分業の人格的な制限が突破されて,地縁・血縁を越えたグローバル化が達成されたということです。

〔この講義とは別の機会に〕「非営利法人でも海外では市場社会となっていることがある」という話があったのを,資本主義社会の話しのところで思い出した。何か関連があるのか?

非営利法人の調達基準のことでしょうか? 非営利法人の場合にも,市場社会で活動している限りでは,当然に,市場を通じて調達しています。また,非営利法人の場合には,効率化が自己目的になってはなりませんが,効率化が必要な場合には,市場の原理を通じて効率化していくことになります(競争入札など)。

資本主義的営利企業が生産と流通を担うようになるのはその通りだが,消費というのもその企業が関与していると思った。

ちょっと,具体的に何を想定しているのか分かりません。

第一に,メタなレベル(すごく一般化したレベル)では,生産も消費だということができます。生産活動とは,生産手段と労働力とを消費して生産物を生産するということですから。もちろん,企業が消費を担っていないという場合の消費は,こういうメタなレベルでの消費(生産と同じものである消費)ではなく,生産から区別された消費のことです。

第二に,企業は宣伝・広告を通じて消費者の需要に影響を与えています。これは間違いなく事実ですし,この点を重視する議論もあります(ガルブレイスの依存効果論など)。また,独占は消費者の選択の幅を狭めることがあります。しかし,そのことは不生産的な(つまり生産とは区別される)消費を企業が行うということを意味しているわけではありません。消費者の需要に影響を与えるということによって,企業が間接的に消費に関与しているとは言えるかもしれませんが,それは企業が直接的に生産・流通をになっているというのとはレベルを異にします。

先の見えない変革の波の中を生きるためには,現代という確実な存在について把握することだと言っていた。その根本は,〔資本主義的〕市場社会を把握するとあるが,それは組織が〔資本主義的〕市場システムを理解するのか,それともその構成員が把握する必要があるのか,どちらななのか? (組織としてシステムを把握し,不確実性に対応する事前作〔動?〕を図るのが現実なのか?)

一般論のレベルと,この講義のレベルとを分けてください。第一に,この講義について言うと,現代という確実な存在について把握するものとして私が想定しているのは,もちろん,受講者の皆さんであり,要するに個人です。

第二に,あなたが言う組織が企業組織のことであるならば,そこで生じるのは,認識の共有以上のものではありません。要するに,個人個人が認識を共有するだけの話しです。

第三に,あなたが言う組織が社会全体のことであるならば,異なる論点が入り込んできます,すなわち:それじゃ,一体,どうして,われわれが現代という確実な存在つまり必然性を把握することができるでしょうか。偶然的な個人,要するに天才的な認識主体がいるからでしょうか? そうではないでしょう。現代という確実な存在を意識的に形成しているのは,ほかならないわれわれ個人個人なのであって,この形成の経験を通じて,可能性としては誰でも現代という確実な存在を正しく把握することができるわけです。ホウレン草を生産する人は光合成を正しく認識することができる可能性が生まれるのと同じです。

いや,正しく把握する可能性があるのならば,それと同じくらいに,間違って把握する可能性もあるのではないでしょうか? もちろんです。と言うか,実は,──ここでは詳論しませんが──,現代という確実な存在は,われわれをして社会の真の姿を見誤らせるメカニズムをも備えています。ところがどっこい,現代という確実な存在は,われわれの思い込みとは矛盾する運動をすることによって,われわれの間違いを訂正するメカニズムをもまた備えているのだ。それこそが,この政治経済学2で問題にする,現代社会のタテマエと現実との矛盾です。そして,それは,政治経済学1および2を通じて論じるテーマで一言で言うと,市場社会と資本主義社会との矛盾です。

こうして,やや比喩的に言うと,現代社会そのものが,われわれ当事者に対して,「見てよ見てよ,タテマエとは違う僕の本当の姿を見てよ」と振る舞っているわけです。要するに,社会自身がわれわれをして,社会を認識させるようにしているわけです。こういう意味では(個人がたまたま見付けちゃうというのではなく,社会が必ずや見付けさせるという意味では),われわれ当事者個人の(偶然的な)社会認識は,社会自身の(必然的な)自己認識ということができます。

所有の方法,形態も様々あると思うのだが,どのように展開されていくのか? 会社としての資本所有に関することだけなのか?

所有形態には様々なものがありますが,この講義で論じるのは私的所有だけです。私的所有にも様々なものがありますが,この講義で論じるのは資本に対する私的所有だけです。会社としての資本所有は,資本に対する私的所有の一形態です。

「所有」と「労働」とは内訳がそれぞれ対になっていることから,「正反対のモノ」であると理解していいのだろうか?(つまり政治経済学1と2とは(基本的に)正反対の視点での講義になるのか?)

労働は所有の基礎であり,かつ所有の元で労働は安定的に行われます。要するに,労働と所有との間には,関連と相違との両面があるわけです。スライドの中では,分かりやすいように,相違の側面だけを捉えました。

現実資本と貨幣資本の話が出たが,これはそれぞれ「実体経済」と「貨幣経済」の話しと捉えていいのか?

大体合っています。ただし,現実資本と貨幣資本との分離が生じたからこそ,その結果として,「実体経済」と「貨幣経済」との分離が生じます。

共有財がもたらしている現在の問題はどのようなものがあるのか?

共有を広く捉えるならば,いろいろです。自然環境も知識も私的所有が困難であるようなな物です。

所有のゆらぎとは?

この講義では,一言で言うと,絶えず発展する資本主義社会の現実が市場社会の私的所有のタテマエを突き破ってしまい,もはや後者によって前者を正当化することができないような事態を指しています。

狭義の経済学における所有の理論はどういうものなのか?

20世紀中期までは,オーソドックスな経済学においては,私的所有そのものは自明なものであって,あまり問題にはなってきませんでした。20世紀後半以降はオーソドックスな経済学のメインストリームでも──中心的には,組織の経済学との関連で──私的所有の問題が取り上げられるようになってきました(注1)。その場合のポイントは:

  1. 第一に,契約で経済的な取り分なりなんなりを何から何まで正確に決められる場合には所有はあまり意味を持たないということです。所有が問題になるのはあくまでも,実定法や契約が決めた後で残るような,実定法や契約では決めきれないような,そのような残余(residual)の経済的処分に限定されます。要するに,やはりいまだに所有は“おまけ”的な位置に留まっていると思います。(もっとも,現実には,契約は常に不完備であるから,所有の問題は重要だというロジックになるのですが)。

  2. 第二に,所有の問題はあくまでも機能分析中心であるということです。要するに,所有がきちっとしていないとこういう不効率性が生じる,所有をこうするとこのように効率性が改善されるという問題が中心です。

  3. 第三に,大前提として,このように所有の範囲を機能性に限定している故に,所有と言った場合に,やはりしばしばそれが私的所有と同一視されます。従って,私的所有以外の所有形態において生じる──あるいは私的所有の一形態としての国有において生じる──不効率性は,しばしば,そのような所有形態特有の問題として捉えられるよりも,所有権の不在として捉えられがちです。

これに対して,この講義は以下の観点から所有を扱っていきます。

  1. そもそも実定法や契約に先行して,経済活動は必然的に所有を生み出すという観点
  2. 機能性という観点を軽視しはしないが,それととも,そしてそれ以上に,正当性という観点
  3. 所有の一形態──しかしまた現代社会における必然的形態──としての私的所有という観点
政治経済学1の内容が絡んでくることはあるのか?

大いにあります。ただし,試験等においては重ならないように出題します。


  1. (注1)オーソドックスな経済学における所有の取扱の概観については,やや古い本ですが,『組織の経済学』,ポール・ミルグロムおよびジョン・ロバーツ著,NTT出版,1997年,の第9章をお薦めしておきます。