1. 労働と所有との関連について

1.1 概論

原始時代を除けば,所有していなければ労働はできないし,労働しなければ所有は生まれません。つまり労働は所有を前提し,所有は労働を前提します。この相互的前提の関係が議論の大前提であって,その上で“じゃどっちが規定的なのよ”というのが議論の出発点になります。

そもそも社会に関する現象は(自然における現象と同様に)多くの場合に相互的前提・相互的依存の関係にあります。じゃなんで,相互的前提・相互的依存の関係(相互的関連と呼びます)にあるのにどちらが規定的なのか(発生的関連と呼びます)を論じなければならないかと言うと,どちらが規定的なのかを明らかにするということによって全体の構造が動態的なシステム(次々と変化していくシステム)として明らかになるからです。もし静態的な構造を考えるだけならば,全体を相互的依存において,つまり因果論を無視して,把握するだけでいいのです。しかし,社会のダイナミックな変動を考えるためには,つまり社会を歴史的に発展するものとして把握するためには,発生的関連を無視するわけにはいきません。社会が新たな構造に移ためには,規定的な要因の方変化なければならないからです。

事柄は単に現実の理論的な把握だけに関しているのではありません。理論的な把握が実践的な行為の根拠になります。つまり,実践的に,当事者が社会新たな構造に移ためには,規定的な要因の方変化させなければならないわけです。この点を,講義では,国有化論・私有化論(privatization)という実践的・現実的な問題に即して,説明しました。

1.2 回答

講義の立場である労働一元論については疑問が残った。所有していなければ労働はできないという所有基礎論の単純な理由の前には労働一元論の根拠は少し抽象的で弱い気がする。これは労働前の労働,頭で思い描いた労働が生産手段を決定し,所有を決定するということなのか?

確かに,目の前に自然(土地と言い換えてもいいです)がなければ労働ができないというのは具体的でしかも単純明快ですね。しかし,所有の意義が,単に目の前に自然があるってことではなく,社会的意識が間に入っているってことだと,話が違ってくるのではないでしょうか。“いやなんで労働の前提になっている自然が俺のものになってるのよ,みんなそれを認めちゃってるのよ”,と考えてみると,労働が所有の前提であるというのは,所有が労働の前提であるというのと同じくらいのリアリティはあります。で,問題は,そこから先なのです。

なお,労働前の労働,頭で思い描いた労働の話は恐らく政治経済学で行った構想の実現の話を念頭に置いているのだと思います。けれども,所有のは人間の自覚的な社会(これ自体,何よりもます労働によって形成されたものです)との関連における概念です。したがって,個人の労働について生じる構想の実現という契機(社会的労働の場合にはこの契機を計画として再定義しました)はそれ自体としては所有問題とは一致しません。

土地の私的所有について,登記によって成立しているということだが,社会的承認の成立は交換過程での相互的承認によって成り立つということだが,労働がどう関わっているのか?

現代市場社会における土地の私的所有についてでいいのですよね? 市場社会に最もマッチするのは自営業者ですから,それを例に出して述べます。端的に言って,労働して得た貨幣(自分の労働によって生産した自分の商品を市場で販売して,それと引き替えに他人から得た貨幣)で土地を買うということによってです(注1)

「人類の歴史」という観点から考えた時に,資本主義国家・社会主義国家にかかわらず,戦争によって領土を奪い合ってきた歴史がある。領土=所有を巡っての争いは現在もなくならないし,その現状を考えるとやはり労働よりも所有が先に来るのではないだろうか。所有によって,それぞれの国家にあった社会システム(労働のあり方も包括したシステム)が形成されると私は考える。このことは「国家」という概念が存在しなかった前近代的共同体では当てはまらないと思うが。争いごとは互いが「正統性」を主張する。確かに法律という絶対的な存在はあるにせよ,個人のレベルを超えた「国家」間での所有を巡った争いにも目を向けるべきだと思う。

時代を遡れば遡るほど,単に暴力で奪って終わり(力がない方は泣き寝入りするか,力を付けて暴力で奪い返す)になると思います。これは要するに,ビデオで見た樹液を巡る猿の紛争とどっこいどっこいです。

しかし,(資本主義的生産によって)市場が世界を支配するようになると,市場社会の正当化原理が世界中の至るところに押し付けられます。土地は私有地である限り,どの国の領土に属していようと,(国内法的な規制が無い限りでは)どの国の経済主体によっても,私有されえます。もちろん,国ごとに固定資産税等が異なったり,治安が異なったり,土地利用に法的制限があったりするならば,この経済主体にとってその土地がどの国に属しているのかは保有コストの問題として重要です。ともかく,それは量的な問題,程度の問題です。その土地の管轄がどの国に属していようとも,その土地は私が私的に所有しているのです。私的所有の問題としては,基本的にここで話は終わりです。政治経済学2の問題としても,ここで話は終わりです。私は国際法についても国際関係についても素人ですが,政治経済学2の観点から,領土問題にコメントしておきます。

国家間での土地の管轄も,奪い取り奪い取られてというのが原則である限りでは戦争状態の恒久化であり,領土の経済的利用も安定しません。これに対して,現代社会ではやはり市場社会の正当化原理がこの問題をも規定するしかありません(換言すると,私人の関係が国家間の関係を規定するしかありません)(注2)。すなわち,領土を安定的に支配するためには,隣接諸国と条約を批准し(市場での合意と相互的承認に対応),それができない場合には(それができる場合にも),他国の承認が必要になります。そして,相手国や他国に承認されるためには,所有の意志の表明(労働による自覚的自己の形成に対応,換言すると対象に対して自分のものに対する仕方で関係するということに対応)と実効支配(労働に基づく所有に対応)とが重要になります。もちろん,市場で実現される私的所有とは違うのですが,国際的な紛争も私人間での市場での私的所有権を巡る紛争によって規定されているわけです。

しかしまた,──市場社会は事実的・無自覚的に世界を覆っていますが,まさにそのような仕方で支配するからこそ──,世界的な自覚的公共性(ここでは世界的な紛争解決機関)の形成にはまだ至っていません。事柄の因果関係からいうと,私人間での紛争解決の原理で国家間での紛争も解決されるべきだし,それ以外に紛争解決の方法はないのですが。しかし,私人の場合には,当事者間で紛争がある場合に市場での正当化原理を市場の外から暴力的に実現する司法機関があるわけですが,国際紛争ではまだ国際的な司法機関は有効に機能していません。

以上,このことは「国家」という概念が存在しなかった前近代的共同体では当てはまらないと思うがといいますが,むしろ逆に,現代の「国家」間での所有を巡った争いを考える限りでは,政治経済学2でやっている私人の間での関係の議論が基本的な部分ではあてはまりやすいのではないでしょうか。

なお,領土問題の重要性を根拠にして労働よりも所有が先に来るとか所有によって,それぞれの国家にあった社会システム(労働のあり方も包括したシステム)が形成されるとかと主張するのはちょっと言わんとするところを掴みきれませんでした。一応,コメントだけ述べておきますと:

  • 社会の正当性とその変化が現れるのは所有の分野においてであり,したがってさまざまな社会問題を解決するには所有の変化が鍵になるということ,──このこと自体にはなんの異論もありません。そうだからこそ,この政治経済学2は所有を鍵にして社会システム全体の把握に近付こうとしているわけです。問題は,じゃ,その所有の変化はなんで生じるのか,なんで現実にマッチしたりマッチしなくなったりするのかということです。ちょっと先取りになりますが,政治経済学2の立場では“現実の方はめまぐるしく発展するのに,タテマエの方は変化できない。そこで,タテマエと現実との間にギャップが生じてしまい,これによって現実が含んでいる問題が明らかになる”ということです。で,この場合の「現実」というのが,一言で乱暴に言っちゃうと,資本主義的生産の発展(資本主義による生産力の発展)であり,資本主義の発展は,やはり一言で乱暴に言っちゃうと,労働の発展だという感じになります。

  • 国ごとの制度的な違いについては,この講義の中ではあまりこれを取り扱いません。しかるに,この講義が扱うのは,資本主義の発展の一般理論です。そして,グローバル化の発展の中で,“そもそも市場とか資本主義とかとはなんなんだろうか”という問題はますます重要になっていると思います(注3)


2. 例解としての奴隷制の性格について

2.1 総論

以下では,奴隷制について,愛玩動物等々として飼う(消費手段として不生産的に消費する)場合なんかは別にして,労働力として奴隷を生産的に利用する場合を想定します(実際,一般に奴隷制と言われる場合には,そのようなものが想定されています)。その場合には,家畜や道具とは異なる人間として利用するわけです。要するに,労働を行うものとして人間を利用しているわけです。

政治経済学1で見た人間の労働の概念から見て,奴隷制はそれに全く反しています。その意味では,奴隷制生産はまだ人間にはなりきれていないような人間の生産様式であると言えます。

奴隷制の例を出したのは,このような奴隷制さえも,安定的に運営・経営されるためには,動物と違って,社会的意識の媒介が必要だという観点からです。そして,土地とは違って奴隷の場合には,所有対象それ自体が人間ですから,社会的意識の媒介という問題がますますシビアに現れます。奴隷制が安定的に運営されるためには,奴隷主が奴隷を奴隷(=自分の所有物・所有客体)として,かつ自分を奴隷主(=奴隷の所有者・所有主体)として一方的に認めるだけではなく,奴隷の方も奴隷主を奴隷主(=奴隷の所有者・所有主体)として,かつ自分を奴隷(=奴隷主の所有物・所有客体)として認めなければなりません。

このように奴隷制は自分たちが作り上げた結果です。しかし,毎日毎秒このシステムを形成し続けているていると,奴隷にとっても奴隷主にとっても,このシステムが当たり前の前提になってきます。奴隷は奴隷として,奴隷主は奴隷主として,当たり前のように振る舞っており,このシステムを慣習として,規範として受け入れています。奴隷が奴隷主の所有物だということは当たり前の話,当然の話,自然な話になっていす。逆に言うと,もし“あれ?俺って奴隷主の所有物じゃないんじゃね?”と奴隷が気付いてしまったら,つまりもし“奴隷制って不公正なんじゃね?”と奴隷が気付いてしまったら,それだけで途端に奴隷制は危機に瀕します。その結果として,奴隷が集団で反乱したり,あるいは集団でランナウェイしちゃうわけです。

さて,社会的意識の媒介によって,奴隷制は動物の本能的生活よりも遙かに高い生産力を達成します;つまり正当化によって,機能的にも優位に立ちます。とは言っても,奴隷が奴隷の地位に甘んじているとしても,それでもやはり奴隷の労働においては自分という形式が全くなくなっています。すなわち,形式的には,奴隷は奴隷主の手足にすぎません。しかしまた,実質的には,奴隷はやはりアカの他人です。そして,奴隷と奴隷主とが認め合ったとは言っても,それは対等に(平等な人格として)認め合ったわけではないから,真の相互性は成立していません。

従って,そもそも奴隷に罰ではなく賞を与えるのは,つまりインセンティブを外的に与えるのは難しいですのです。奴隷は犬ではなく意志を持った人間なのですから,モノが欲しくて働くということ自体,実質的には奴隷の自由意志を認めてしまっています(もちろん,奴隷制である限り,形式的にはそれを認めることができないのですが)。そんなことを続ければ,奴隷のくせに図に乗ってモノで釣らなければ働かなくなります。一度モノで釣ってしまうと,犬と違って,ますますモノで釣るようにしなければ,バレないように手抜きをするかもしれません。なにしろ,どうせ頑張って働いたところで,その成果そのものは全部奴隷主の所有物なのですから。犬と違って奴隷は狡い,狡賢いのです。なにしろ労働する人間なのですから(注4)

その点はクリアして,インセンティブを与えたところで,やはり奴隷による生産力の上昇はすぐに制限に突き当たります。どうせおこぼれをもらったところで,自分の消費生活は全く不自由です。奴隷制の必然的形態においては,自分の生活は奴隷主のものです。空間的に言うと,奴隷は奴隷主の所有地の中で逃げ出さないようにして暮らします。時間的に言うと,自由な時間もありません。自由人でないのですから自分で欲しいものを市場で手に入れることもできません。このような条件の下では,インセンティブが十分に機能しないでしょう。え?インセンティブが機能するようにもうちょっと自由にさせてみたらって? 自由にさせすぎたら,それが奴隷制の崩壊です。

また,奴隷はしばしば労働手段を大事にしません。別にラッダイト運動(機械に反抗した運動)のように労働手段に反抗し打ち壊すわけではなく,ただ単に労働手段を雑に扱うのです。自分も労働手段も等しく奴隷主の所有物ですから,奴隷主の鞭が怖いという以外に(ノルマと関係ないのであれば)労働手段を大切に扱う必然的理由はないのです。

2.2 回答

奴隷は労働生産物ではないから労働と所有の一致では直接的に正当化することはできない,そのためこじつけ的な正当性がたくさん出て来たとプリントにあったが,奴隷主が奴隷主であることを,奴隷が奴隷であることを当然と受け入れていたような社会で,このような言い訳は本当に必要だったのか疑問に思う。また実質彼ら(奴隷)は労働生産物であったのでは?

いいところに気が付いた質問ですね。本来の正当性は,完成している時には,「自然」なものとして(すなわち当然なものとして,永遠不滅なものとして)意識されています;すなわち:

  • 社会的・人為的ではないものとして
  • 歴史的・一時的ではないものとして

意識されています。要するに,当たり前のものとして意識されているということは,意識されていないということに等しいものです。あまりに当たり前すぎて,正当性の根拠は明示的・顕在的には問題にならないわけです(ただし,暗黙的・潜在的には問題になっている;つまり,この“当たり前”の事態が侵害された時には,“当たり前”のことが何故に“当たり前”なのかが明示的・顕在的に問題になるのですが)。明示的・顕在的に問題になるのはむしろ,まだ現実そのものが未熟であって新しい正当性の意識のサポートが必要であるような時期か,あるいはまた特に,現実そのものが発展しすぎてもはや既存の正当性の枠組みには収まりきれない時期かのいずれかでしょう。

この講義での議論もまた,後者の現実──つまりもはや“当たり前”ではないという現実──の経験をふまえて,その観点から,“当たり前”の正当性を定式化したものです。“当たり前”の世界にどっぷり浸かっている限りでは,この“当たり前”の理論的な定式化は困難だと思います。

実質彼ら(奴隷)は労働生産物であったのでは?というのは,奴隷主が戦争労働などによって奴隷を獲得したということでしょうか?それとも,奴隷主が奴隷を使って子供を産ませるということでしょうか?(最近,ニュースで奴隷工場のことが話題になりましたね)

どちらにしても,鍵となるのは,奴隷は道具であっても,それは物言う道具だということ,つまり無生物としての労働手段とも生物としての労働手段とも異なって,人間だということです。たとえば,野生の馬を労働で獲得したらその馬は労働生産物です。また,家畜の牛を繁殖させて育てた仔牛は労働生産物です。これに対して,労働力として利用される奴隷の場合には,そのメリットは人間であるということに尽きます。意志を持つ人間として,奴隷は奴隷主の意志を自分の意志と一致させることができ,奴隷主の手足として,しかも工夫しながら,働くことができます。奴隷主の手足として,奴隷は道具も家畜も奴隷主の意志に基づいて使役することができます。その意味では,奴隷は道具や家畜のような労働生産物とは最初から異なっています。

実質と言うのは,まぁ,事実上,動物に近い状態になるということはありえます。と言うか,よくあったことでしょう。特に,生産活動をさせるためではない場合には。しかし,前近代的共同体の構造を支えたのは,そういう奴隷ではなく,労働力として利用された奴隷です。

その上で言うと,まぁ,労働で奴隷所有を正当化する場合もあったでしょう。たとえば,血を流して戦って獲得したから俺のもの(戦争奴隷の場合)とか,一所懸命働いて稼いだ金を貸したのに返せなかったから俺のもの(債務奴隷の場合)とか。けれども,奴隷が偶然的・特殊的・一時的な現象ではなく,システムとして必然的・一般的・持続的に固定され,そのシステムが安定的に運営されたらどうなるでしょうか?つまり奴隷が身分として固定されたらどうなるのでしょうか?その場合には,システムにおいては,奴隷制は,労働以外の正当化論拠を持ってくるしかないでしょう。もちろん,このシステムの中でも,奴隷が売買されている限りでは,奴隷を買った奴隷主は“俺が一所懸命稼いだ金で買ったから俺のもの”と言うかもしれません。けれども,そのような個別的現象では,この身分的なシステム全体は正当化されないでしょう。

奴隷に所有の〔=奴隷に対する奴隷主の所有に〕正当性を認めてしまった場合,ビデオの猿の例(弱い猿が掘った穴から出た樹液を強い猿に奪われ,それに反発することなくただ逃げるだけ)でも所有の正当性が認められるのでは?

所有の場合には,(歴史的発展に応じて程度の違いはありますが)自覚的な社会によって媒介されていなければなりません。猿の場合には,これがないわけです。(種が違うからちょっとズルですが)弱い猿はあなたが言うとおりただ逃げるだけであって決して服従していません。ですから服従のメリットも生じていません。たとえば,服従と引き替えに最低限の生活の保障ができているわけではありません。強い猿も本能の赴くまま奪い取っているだけで,自ら奴隷制的生産を営んでいるわけではありません。ですから支配のメリットも生じていません。つまり,奴隷を自分の意志に従わせ自分の思うように使役して自分が楽することはできません。もちろん,強い猿は強い猿で,別のもっと強い猿から奪い取られる危険性の中に生きているのです。奪い取り奪い取られるのが自然の営みでしょう。利害の一致がない──正確に言うと,利害の一致を意識することができない──のですから,そこには正当性も生まれません。

奴隷制の例を出したのは,奴隷制のような,現代人であるわれわれの観点からは酷すぎる野蛮で動物的なシステムであっても,それが安定的に持続するためには正当性が必要だ,ということを明らかにするためにです。奴隷労働は人間の労働の原理である“自分の行為”を喪失してしまうような,その意味で客観的に見ても非人間的な労働,すなわち非労働的な労働,労働ではないような労働です。それはそもそも労働の概念に反しています。したがってまた,労働の概念,“労働というもの”を──それとは正反対の形態になってしまうとしてもなんとか──実現した現代社会の立場に立つと,市場の正当化原理から見て全く不公正であり,資本主義的生産と較べると全く非効率的です。

奴隷は社会的システムの中で奴隷主のものとして正当に認められている。それだからこそ奴隷として存在する。それは正当化の一例なのかがわからなかった。所有の正当性があっても社会は奴隷という存在を認めてもいいのだろうか?

そもそも労働の概念(労働というもの)から考えて,労働の概念が実現されればされるほど,奴隷制は不当なものになります。現時点では,市場社会を成り立たせているタテマエ──自由な人格が社会を形成するというタテマエ──から考えて,奴隷制は不当なものです。意識におけるこの不当性を現実そのものにおいて表すのは,奴隷制生産の生産力は低いということです。

と言うわけで,第一に,所有の正当性があってもについて言うと,そもそも現代社会では,奴隷の所有については正当性はありません。奴隷の所有は,現代市場社会における私的所有のタテマエに,従って現代市場社会そのものののタテマエとは正反対のものですから,不当です。所有の正当性は労働の振る舞いの仕方によって決まります。

第二に,社会は奴隷という存在を認めてもいいのかについて言うと,前近代的共同体の場合には,所有の正当性がある限りでは,奴隷という存在を認めていたのだし,もし所有の正当性がなくなったら,もはや奴隷という存在を認めることができなくなったというだけのことです。

そして,現代社会に生きるわれわれの立場から見ると,社会は奴隷制を認めることはできません。これは個人の個別的な倫理観の問題ではなくて,現代社会のタテマエが奴隷制を排除しているからです。もちろん,地球上にはまだまだ市場に支配されていない地域があり,そこでは部分的な奴隷制があるかもしれませんが,そのような地域にまで現代社会はその価値観を押し付けようとします。何故ならば,省略して一言で言うと,資本主義的な商品生産は,カネモウケのためにありとあらゆる地域,ありとあらゆる場面に市場を押し付けようとするからです(注5)

奴隷をつくるために小作りをした夫婦がいてその子供を奴隷として扱う場合,〔何が?〕成立するか?

なんの成立を問題にしているのか,よくわかりませんでした。これは夫婦が自分たちの子供を奴隷として販売するという例なのですよね? 現代社会では論外として,前近代的共同体では,子供売りの話はありますね(通常は奴隷を作るために小作りをしたのではなくて,食うに困って止むを得なく売るのでしょうが)。しかし,少なくともそれを原則として前近代的共同体のシステムを構築するのは無理だと思います。

もし,原則論ではなく,例外的な現象として,現代社会におけるそういう夫婦を問題にしているのでしたら,それはもう,そもそも子供は親の所有物としては認められません。


3. その他

「人間は所有するが猿やヒョウ等の動物は所有しない」ということだったが,ハチについて考えてみると,所有しているのではないかと思う。ハチは女王バチと働きバチとにわかれ,働きバチが外部から食べ物を持ってきて女王バチと自分たちの肥やしとしている。この時,女王バチが奴隷主であり,働きバチという奴隷を所有しているとは考えられないのか?

所有というのは,自覚的な人間社会を媒介にした対象支配のあり方,従って人間特有な対象支配のあり方です。蜜蜂の集団は動物的・本能的集団であって,自覚性によって媒介されていません。女王バチは,働きバチがこいつこそ女王バチだと認めているから女王バチになっているわけではないのです。それはもう,生物として種の保存のために本能的に女王バチを育てているわけです。

世襲制の共同体の長も女王バチに似ています。生まれながらにして長として運命的に決められているのですから。けれども,そこから先は違います。世襲制の共同体の長(王)が長であるのは,その他の共同体の成員(臣下)が彼/彼女を王/女王として認め,彼/彼女に対して王/女王に対する仕方で振る舞っているからです(注6)。だからこそ,お家騒動も起きるし,また,その承認と振る舞いが変化すると,革命も起きるわけです。

正統性というのも国によっても違うし,人それぞれによっても異なる気がする。

正にその通りですね。何が正当なのか,──それは個人の価値観であって,個人に応じて違います。全く同じ価値観を持つ人間なんて二人といないはずです。

この講義では,現代社会が市場社会である限り,システムによって必然的に生み出される(つまりこのシステムを形成する上で人々が認めざるをえない)ような正当性だけを取り扱います。例えば,ドロボーが正当だと考える人は,割と結構,いちゃったりするかもしれませんが,その正当性の観念からはこの市場社会を形成することができません。要するに,市場社会が安定的に運営されるためには,“ドロボーが素晴らしい”が原則ではダメで,“自己労働に基づく私的所有が素晴らしい”が原則でなければならないわけです。

つまり,そのような社会的基準(これを道徳と言います)をなす価値観は,──もともと個人がつくりだしたものですが──,個人の価値観を越えており,そのようなものとして個人に押し付けられ,個人の行動を制約するわけです。そして,市場社会というシステムに適合した──個人の価値観を越える社会的基準をなす──このような主観的な意識は,市場社会を構成する客観的な交換関係から必然的に生まれます。そして,この交換関係は,これはこれでまた,商品を生産する客観的な生産関係から必然的に生まれるわけです。それゆえに,突き詰めて言うと,そのような社会的基準をなす主観的な意識は,市場社会という客観的なシステムを形成する私的労働から必然的に生まれるわけです。

2つの正当性で,機能的正当性が崩壊するのはわかるが,本来の正当性が崩壊する場合というのは実際に起こりえるのか,気になった。

まず,これまでの歴史(過去の歴史)について言うと,起こり得るのかというか,実際に起こって歴史が発展してきました。奴隷制について言うと,奴隷が所有物だという意識が奴隷の側でも奴隷主の側でも破綻していき,崩壊したわけです。奴隷の側では,逃げちゃったり反抗したりします。奴隷主,と言うか共同体の側では,奴隷解放令をだしたりします(注7)

次に,現代史(現在の歴史)について言うと,すでに本来の正当性が崩壊しつつあります(完全に崩壊してしまったわけではもちろんありません)。それがこの政治経済学2のテーマになります。


  1. (注1)理論的には,土地の売買が必然的・一般的に形成されるのには,たんなる私的生産ではなく,資本主義的な私的生産が必要になります。未耕地を含めて,すべての土地が潜在的に地代を生みうるからこそ,すべての土地が必然的に売買されうるのです。いや,もし個別的な現象を考えるならば,たとえ土地の貸借が禁止されていても,土地の売買は可能です。けれども,それでは,安定的な土地市場が成立しません(土地価格の基準ができません)。そして,すべての土地が潜在的に地代(もちろん封建的な貨幣地代ではなく,土地の私的所有に基づく現代的な地代)を生みうるというのは大規模な企業利得(利潤)が成立していなければなりません。もちろん,すべての土地が地代を生みうるのですから,企業だけではなく,自営業者も,あるいは消費者も土地を借りる時は地代を支払います。しかし,消費者への土地(=宅地)の貸し出しから出発することができないのはもちろんのこと,自営業者への貸し出しから出発するのも現実的ではありません。

  2. (注2)もちろん,起源から言うと市場社会(社会としての市場,社会を支配した市場)の成立よりも遙かに前から,略奪も合意もともに前近代的共同体間で通用していたやり方でした。前近代的共同体と現代市場社会との違いは,市場が押し付けられると,後者が原則になる(前者が例外になる)ということです。

  3. (注3)もちろん,グローバル化によって,国ごとの,あるいは地域ごとの制度的な違いが無意味になるわけではありません。そうではなく,人格が形成した制度の特殊性(違い)と資本という物件の運動の一般性(共通点)とのせめぎ合いという形でそれに位置付けが与えられます。

  4. (注4)労働とは自分自身による自分の生命活動の媒介であって,それは何よりも先ず生命活動の効率的媒介に現れるということを思い出して下さい。

    ヘーゲルは“理性”の特徴として狡賢い(listigということを挙げています。ヘーゲルによると,狡賢いというのは媒介的(≒間接的)だということであり,その媒介性は,思うがままに,自由自在に客体をその自然法則に応じて相互に作用させ合って,しかるに主体である自分自身は直接的にはこの相互作用に介入せずに楽をするということ;すなわち,客体に楽をさせないことで主体が楽をするということにあります(『小論理学』より)。しかし,政治経済学1で見たように,このような媒介性は,実は労働の特徴です。要するに,労働は狡賢い行為なのです。それ故にまた,奴隷も,労働する限りでは,狡賢いのです。

  5. (注5)実際には事態はそれほど単純ではありません。市場とは違って,カネモウケ(資本主義的生産)はそれ自体としては倫理を内包していないのであって,儲かるのであれば,奴隷制だろうと独裁政権だろうと前近代的共同体だろうと,なんでも利用しようとします。しかしながら,それでもやはり資本主義的生産が,そもそも市場に立脚し,かつカネモウケのために市場を世界中に押し付けるような生産形態である限りでは,市場の倫理をも同時に押し付けざるをえません。

  6. (注6)その際の臣下の個人的感情は様々でしょう。心の底から尊敬していたり,事実上,軽蔑していたり(媚び・へつらいは事実上,軽蔑を内包しています),なんとも思わなかったり。命を賭して使えたり,自分がのし上がるための駒として利用したり。個人的な感情・動機はいろいろでしょう。

  7. (注7)もちろん,本来の正当性が崩壊するといっても,崩壊した本来の正当性にしがみつく人は結構いるわけであって,崩壊にあらがうことに経済的なメリットがあればなおさらです。この講義では,本来の正当性が破綻した後に残るのが機能的な正当性(必要性という方が誤解が無いかもしれません)だと言いましたが,もちろん,現実の歴史においては事態がもっと錯綜して現れるでしょう。

    奴隷制自体,驚くほど長いスパンで発生しては消滅し,消滅しては発生してきたシステムであり,その時々の経済的内容の違いに応じて共同体の性格も違っています。奴隷解放令・奴隷禁止令も大昔から近代にいたるまで繰り返しだされています。アメリカの奴隷解放令なんかの場合には,本来的正当性の破綻(市場社会の原理からして奴隷制は不公正)と機能的擁護の破綻(北部の資本主義発展にとってはもはや奴隷制は不要)とが比較的にすっきりとマッチしているのではないかと思います。