質問と回答

〔物質代謝の〕効率的・社会的な運営をすることがない限り,経済活動につながる,また経済活動とは呼べないのか?

以下,講義で述べたように,物質代謝という言葉は広い意味で使います。すなわち,細胞レベルの代謝反応ではなく,個体の生命の維持という観点から使います。

  1. まず,物質代謝の社会的な運営ができなくても,効率的な運営ができていれば,経済活動と呼ぶことができます。

  2. 次に,物質代謝の効率的運営ができなくても,自分自身で物質代謝を運営していれば経済活動と呼ぶことができます。

ただし,物質代謝を本能任せではなく,自分自身の労働で運営するようになれば,必ずや,自分自身による運営は効率的運営に帰結します。何故ならば,自分自身でわざわざやる以上,コストとして意識せざるを得ませんし,また,生産的労働はコストとして減らすことができるからです。また,効率的に運営するようになれば,必ずや,効率的運営は社会的運営に帰結します。何故ならば,効率性の追求の延長線上で,個人の能力の制限を,社会関係を手段にすることによって克服しようとするからです。

そして,この意味での経済活動は,人間ならいつでもやっていることであり(と言うか,これができていない限りでは,生物学的にホモサピエンスであっても,まだ人間になっていません),動物にはできないことです。

自然から個体が独立するというのは,生産と消費の面から説明していたが,具体的にはどういうことか?

生産の面で考えてください。

例えば,あなたは寝ている間も本能の赴くままに呼吸しています。その限りでは,あなたも,他の動物と同じ本能的な生命であって,大自然の一部にすぎません。しかし,それと同時に,自分がその一部であるところの自然を自分の思うように,自由自在に操ってもいます。

いま大自然をホウレンソウで代表させましょう。ホウレンソウが大自然というのはずいぶんとチッポケな感じがしますが,紛れもなく,あなたの周りにある自然であって,しかもあなたが生物として生きていくために必要な自然です。

あなたは目の前に自生しているホウレンソウを本能の赴くままむしゃむしゃとかぶりついている限りでは,単に大自然の一部にすぎません。地球の歴史の一部として,大自然の営みとともに生き,大自然の営みとともに死ぬだけです。温暖期が来て食べ物が増えたら繁殖するでしょうし,寒冷期が来て食べ物がなくなったら死滅するでしょう。

しかしまた,人間は,もちろん大自然の一部であり,生物として本能的に生きていながらも,それと同時にまた,自分の生活を自分自身で営んでもいます。つまり,自分が消費するホウレンソウを大自然の営みに任せるのではなく自分自身で生産しています。こうしてまた,“ホウレンソウを食べたらなくなっちゃった,てへっ”というのではなく,食べたホウレンソウをきっちり再生産しています。つまり,自分自身で自分の周りの自然(=ホウレンソウ)を再生産しているわけです。

それは何も,自然法則に逆らったりしているわけではありません。そうではなく,自然法則を利用して自然を思い通りに操っているわけです(ホウレンソウは光合成をしているから日陰には種をまかない)。逆に,他の動物の方が自然法則に逆らおうとして,痛いしっぺ返しを喰らいます。

こうして,人間はいまや“自分”というものを確立して,自分の周りの自然を自由自在に操っています。自分は自然を操る主体であり,自然は自分によって操られる客体です。そうでありながら,いやそうだからこそ,動物のように,自然法則に逆らって痛い目に遭ったり,自分の周りの自然を食い尽くして痛い目に遭ったりはしないわけです。これがこの段階(どの人類社会でも共通な経済活動のレベル)での自然から個体が独立するということの意味です。

この問題は第2回目,第3回目でもテーマになるので,なお疑問があればまた質問してください。

「経済」と「哲学」は近いものなのか?密接な関係があるのか?

私は哲学者ではないので,ボロが出るのであんまりやりたくないのですが,「哲学」の定義次第だと思います。哲学とは,一般に,人間の意識を扱う学問だと思います。しかし,この意識を,大脳の物理的作用として扱えば(哲学ではなく)自然科学の範囲内になりますし,社会形成の契機として扱えば(哲学ではなく)社会科学の範囲内になります。狭い意味では(自然科学でも社会科学でもない限りでは),哲学は意識と対象との関係を,それ自体として(物質的基礎からも歴史からも独立に)扱うということによって,現実世界(自然・社会)についての科学(科学は知識の体系であり,知識は意識と対象との統一です)を基礎付けるものだと思います。その場合に,哲学の柱は論理学と認識論とになります。数学なんかも,自然科学者が発展させてきたので大学のカリキュラムでは自然科学に入れられることが多いのですが,実際には,意識の外側にある現実の自然を扱うものではなく,われわれの意識の法則を扱うものであって,その意味では記号論理学の一部として統合されうるものです。要するに,このように定義する限りでは,数学も“哲学”の一分野です。

このように,狭義に定義する限りでは,「哲学」は,現実世界に関するすべての学問の基礎になるべきものであって,別に経済学だけではなく,すべての科学と「密接な関係」があるはずです。

下等な生物と人類との違いのところで,下等な生物というのは人間のように思想も自我も持っていないため,生産をしても,それは人間のように消費という行動と分けることができないために一致するということなのだろうか?

逆に考えてください。下等な生物の場合には,分かれていたものが「一致する」わけではなく,もともと一致しているのです。これに対して,人間の場合には,もともと一致しているものが分かれるのです。

生物が生きるための契機としては,もともと,消費の方が根源的であり,生産は消費の一部にすぎませんでした。人間の場合には,逆に,もともと一部であった生産を本来の消費から分けて,その生産を思うようにあやつるようになりました。そして,消費を生産の一契機にするということを通じて,自分自身の生活も自分自身で好き勝手にできるようになったわけです。

人間の場合にも,生産は,「生産的消費」と言って,もともと消費の一部なのです。ただ,人間はこのもともと一部だった生産を分けることができ,これによって,自分を自然から独立させるのとともに自然を自分の一部にしました。“自分”という生き方からは“自分”という意識が生まれてきます。自然に埋没して大自然の一部として本能の赴くまま生きている限り,“俺は俺だ”なんて意識は生まれようがありません。こうして,最終的には,人間は「思想も自我も持」つのにいたったわけです。