このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年05月20日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
この場合には,部分がシームレスに繋がって全体をなしており,しかもどこででも切ることができるということです。
まず,分業という日本語は専ら労働の社会的分割(あるいは社会的労働の分割)の意味に用いられています(『7』では,社会的労働に対して,企業内分業が出てきますが,これも,企業の内部で労働を社会的に分割しているわけです)。労働の個人的分割は分業とは言いません。この講義でも,労働の個人的分割を分業とは呼んでいません。
その上で言うと,両者の違いは,分割された労働が,個人的分割の場合には一人の個人の相異なる時間に異時的に割り振られるのに対して,社会的分割の場合には異なる個人の間で共時的に割り振られる(少なくとも異なる時間帯に行われる必要はない)ということです。両者の関連は,どちらも,有機的全体としての労働がさまざまなパーツに分割されているということ,もともと一人の個人の場合にも分割可能だからこそ,相異なる個人の間で役割分担できるということです。です。
そもそも協力したからと言って所期の成果を得ることができるとは限らないという意味ではリスクだらけです。もっとも,これは,協業・分業に限ったことではなく,そもそも労働というのはそういうものです。ただし,すでに何度も述べているように,動物とは違って,自分自身で,自分の意志でリスクテイカーになるというところに,リスクを減らす契機も含まれているのです。
あと,もともと資本とも顕在的に,他の労働者とも潜在的に,利害が対立している資本主義的営利企業における比較的に大規模な協業について言うと,誰かが自分だけ得をしようと思ったら成り立たなくなる
よりも,むしろ成り立ってしまう方が問題です(free-ride;ただ乗りの問題)。
ここでは,得意がない人
は,労働することができないわけではない(例えば乳児などではない)と仮定します。
で,まぁ,抽象的可能性としてはそういうことがありえます。特に,2~3人のグループでプロジェクトの規模が小さい場合なんかは足手まといになるくらいなら,得意がない人
は何もしない方がマシということがありえるでしょう。ただし:
社会的分業にはなりません。
実際には,分業において協業の利益が発揮されています。つまり,講義で述べたように,一日の総欲望の充足を考えると,得意なことが全くなくても,畑から海に行く移動時間がなくなるだけでも,分業を行う方が有利です。従って,分業の範囲が,もし例えばシチューのための下拵えをするという程度であるならば,器用な人が人参の皮を剥き,不器用な人あるいは不慣れな人がジャガイモの皮を剥くよりも,全部器用な人がやったほうが効率的だということはあるでしょう。しかし,分業の範囲が,講義でそうしたように,もし一日の全欲望を満たすという程度まで拡大するならば,協業の利点を打ち消すほどのよほどの生産性格差が必要です。要するに,充足されるべき欲望の数が多ければ多いほど,原則的には,分業する方が効率的になります。
講義で述べているように,分業しているうちに,能力が高くなっていきます。
なお,協業・分業には特有のコストがかかります。これについては今後いていきます。
比較生産費説では,
商品交換,しかも不等価交換を前提します。そして,この前提は,資本移動と労働力移動との不自由を前提します。
そのポイントはどちらの商品についても絶対劣位であっても比較優位にある商品に特化すればメリットがあるということです。
もしもともと最初から(貿易取引以前から)A国の特産品とB国の特産品とがあるならば,あるいはまた,もしA国がa商品について,かつB国がb商品について絶対優位であるならば,それらが貿易取引されるのは当然のことであって,比較生産費説の対象にはなりません。
ここで考察している分業論は,そのような特殊な仮定を置くものではなく,一般的な理論です。
講義では,「単純に割り算すると」と断りました。また,スライドの中で「(これ以外の分配ルールであってもいい)」と書かれています。
それが市場社会としての現代社会における社会形成の特徴であって,『4. 市場社会のイメージ』で詳しく見ていきます。
およそ社会的労働が行なわれる場合には,どういうルールにおいてであれ,分配が生じます。分配はもちろん生産物の分配です。生産物の分配があって始めて,その生産物が享受でき
ます。しかし,その生産物の享受は,もしこのような分配がなければ,自分自身でそれに対応する具体的労働を行っ
て生産しなければならないものでした。ところが,実際には,この社会的分業のシステムにおいて,この人はその労働を行っ
てはいません。それ故に,この社会的分業のシステムを通じて何が達成されているのかというと,この具体的労働を行っていないのに行ったのと同じことになっているということです。
一般論として言うと,分業それ自体にはマイナス点
はありません。だからこそ,例えば家族単位での自給自足が基本であるような江戸時代の農村経済においても例えば農具生産(村の鍛冶屋)なんかは専業化していたわけです。以下では,特殊論,つまり,分業の特定の社会的・歴史的形態から生じる問題,分業のやり過ぎ(細分化しすぎ)等から生じる問題を扱います。
(1) 社会的労働(協業・分業)には特有のコストがあります。講義で述べたように,労働の二契機(構想と意志)が社会的労働においては個人の外部に外部化し,計画と権威として現れます。個人の場合には,構想として結果をイメージできないとか,自分の意志に自分が従えないとか,そういうことはありませんでした。しかし,社会的労働においては,自覚的相互性の原理からして,そういう問題が出て来ます。すなわち,生産する前に計画が必要であり,生産している間はみなが従うべき権威が必要です。このコストは分業が複雑になればなるほど,潜在的には増加します。
(2) 分業においては同じ労働を繰り返し行うということによって,熟練が形成されます。しかし,このような一つの能力の熟練はしばしば他の能力とトレードオフになります。しかし,この問題は,──社会的分業でも生じるのですが──が顕在化するのは,資本主義的営利企業の内部での分業の場合です。この場合には,企業全体の社会的生産力の上昇が個人の労働の生産力の破壊を条件とします(個人の熟練が上昇すると,特定の企業内分業をもたらす企業の生産力は上昇する;しかし,このような熟練の上昇はいまや特定の企業内分業の中でしか役に立たない──この企業の外では役に立たない──のだから,個人の熟練の上昇は同時に個人の生産力の破壊でもある)。それだけではなくまた,このような替えの効かないような熟練に依存するということは,企業全体の社会的生産力の上昇の限界にもなります。しかしまた,資本主義的営利企業が追求した生産力の発展は,科学的知識の意識的・計画的適用を通じて,この問題を解決し,分業の利点という形で協業一般の利点をフルに発することができる可能性をもたらします。以上については『7』で詳しく見ます。
ここで述べているような,どの人類社会にも共通な経済活動における社会的な協業・分業について言うと,現代資本主義社会ではそのポテンシャルは十分に発揮されていません。資本主義の問題を克服して初めて,それが十分に発揮されると考えます。
以前に“社会主義”を名乗っていた/現在“社会主義”を名乗っているような国は遅れた資本主義国(発展途上国)だと考えます。この点について,詳しくは以下をご覧ください:
で,発展途上にある限りでは,先進資本主義国で発揮されているような社会的協業・分業のポテンシャルさえ,そこでは十分に発揮されていません。
『3』の「労働の社会的分割」のスライドをご覧ください。社会的分業そのものは労働の社会的分割であって,それには労働の成果を享受する
ということは含まれません(注1)。労働の成果を享受する
というのは恐らく生産物の分配のことを指しているのだと思うのですが,社会的分業の必然的帰結として生産物の分配が生じます。そこで,社会的分業を論じる時には,生産物の分配をも論じているわけです。そのような意味で,結論のスライドの一分,「社会的分業は労働の変換のシステム」ということになるわけです。
分業と協業との関係については『2014年05月13日の講義内容についての質問への回答』の「2. 協業と分業との関係」をご覧ください。
分配を通じてです。そのやり方は一義的には決まりません。講義で述べたように,いろいろなやり方があります。
ただし,分配関係は生産関係によって決まります。例えば,江戸時代の場合には,お殿様とお百姓さんとの間での社会的分業は,お殿様による年貢の一方的徴収によって媒介されます。要するに,農民によって生産された米の一部分が藩主に分配され,さらに藩主を媒介にして家臣団等に分配されます。農民が米の一部を藩主・家臣団のために生産しているから,土地の所有関係を媒介にして,米が藩主・家臣団に分配されるわけです。もし仮に農民が一切サープラス(この場合は剰余生産物)を藩主のために生産していなければ,分配しようもありません。それにもかかわらず,藩主が強引に年貢を徴収しようとしたら,一揆や逃散が生じるでしょう。要するに,《藩主に米を分配するから,藩主のために農民が米を生産する》のではありません。
その社会/共同体に生きている当事者にとってブラックボックスというのではなく,その社会/共同体を観察しているわれわれ観察者にとってブラックボックスということです。
ブルーカラーかホワイトカラーかを問わず,管理職か平社員かを問わず,およそ賃金労働者は資本主義的営利企業の内部では,喜んでであろうと嫌々にであろうと資本の業務命令に従うという意味で強制労働を行っています。そういう契約を賃金労働者は労働力市場で結んだのです。しかも,タテマエ上,強制力は不要
であるような,自由意志
で。
基本的な構造については,とりあえず,『2014年05月13日の講義内容についての質問への回答』の「15. 資本主義的営利企業の場合に企業と労働者との間は相互的な関係なのか?」をご覧ください。
大体合ってます。正確には自由から平等が派生するということです。どちらも労働の原理であり,自由の方が本源的な契機です。
このようにもともと切っても切り離されないものが,現代社会においては,分断されて現れ,しかも対立して現れる(自由を選ぶか?それとも平等を選ぶか?)ようになっているわけです。しかしながら,もともと切っても切り離されないものですから,自由なき平等も,平等なき自由もどちらも不可能です。
過程で見ると,お互いに,同じ目的を達成するのに,自分を相手の手段にすることによって相手を自分の手段にしているから,どちらが上とか下とかはないような関係です。一方が他方を一方的に手段にしているわけではありません。
結果で見ると,お互いに生産物という形で目的を達成しているから,どちらが上とか下とかはないような関係です。一方が生産物を一方的に奪っているわけではありません(社会的形態に関するなんの前提をも置かずに考察する限りでは,もしAがBから奪うのであれば,BはAに協力しないでしょう。もともと自分の利益を追求するために協力しているわけですから)。
サープラス(剰余または余剰)とは,何よりもまず,物量タームで言うと(1)剰余生産物(その期間の総生産物の中で今年度と同じ規模で経済活動するために必要な生産手段の補填部分と必須生産物とを超える部分)であり,労働タームで言うと(2)剰余労働(その期間に行なわれた総労働,すなわち新労働の中で,必須労働を超える部分)です。そして現代社会ではそれは(3)剰余価値(貨幣タームで考えて構いません;主として企業の利潤)です。
サープラスは歴史的に多様な形態をとります。サープラスは,例えば江戸時代では主として年貢として(剰余生産物の形態で)存在していましたし,例えば荘園制では夫役として(剰余労働の形態で)重きをなしていたでしょう。現代社会では,サープラスは主として企業が受け取る利潤として(剰余価値の形態で)存在してます。
そうとは限りません。生活水準と生産力と労働力人口とが一定であり,かつ労働力の就業率および生産手段の稼働率が100%だと仮定すると,結局のところ,このサープラスは一人あたり労働時間の増大か,労働強度の強化によって増大するしかありません。みんなが好きで長時間労働するのならばいいのですが,そうとは限らないでしょう。適度なところで,ワークライフバランスをとればいいのです。
生活水準によってです。生活水準は社会の文化的な程度と生産力水準とによって決定されます。
労働する個人が消費手段の消費によって生活し,この生活によって自分の労働力を維持するということです。
そうです。コスト削減≒効率化です。
単純再生産(経済成長しない場合)の場合には間違いです。拡大再生産(経済成長する場合)の場合には正しいのです。
廃物の再利用というのがあるのですが,ここではそういうものではく,全くの無用物,つまりゴミですね? 入りません。ゴミはゴミであって,そもそも年間生産物に入りません。それは生産されたものではなく,消費されたものです。
生産力一定の下では原則的に不可能です。原則的に不可能というのは,例えば,社会の構成員の一部を餓死させてその分の生産物を蓄積用に転用するとか,そういう持続不可能な無茶なやり方が例外としてありうるからです。あと,生産力が上昇すると,当然にサープラスの一部を蓄積しなくても,社会が享受する富の物量は増えます。
現代社会の場合には,一部は追加的生産手段(労働手段と労働対象との双方を含みます)の充当に,一部は追加的労働力の雇用に廻します。
コスト削減と生産の規模の縮小とは直接的には無関係です。何故ならば,コストは単位物量あたり価値タームで測られるのに対して,生産の規模は物量タームで測られるからです。例えば,生産規模一定であっても,生産力が上昇すれば,コストは削減されます。あるいはまた,例えば,うどん100kgのコストが10000円から5000円に削減された場合に,それに合わせてうどんの生産規模が100kgから50kgに減少する必然性はありません。と言うか,一定の需要関数(もちろん減少関数)を前提すると,市場価値の低下によって,需要量が増大し,それに応じて,供給量も増大するでしょう。
違います。一日〔=一定期間〕の生活に必要な消費手段
だけです。
剰余生産物の中で消費手段からなるものの一部は,その期間にせよ,将来にせよ,労働力の再生産に用いられます。残りの部分は社会的な労働をしない階級(現代社会でいう不労所得者としての財産所得者),あるいは社会的に用いられる労働力を持っていない/失った人たち((1)リタイヤした人たち,(2)乳児・幼児などの未就労者,(3)障碍の程度によりますが障碍者)が消費します。なお,現代社会で考える限りでは,失業者とか専業主婦とかは労働力人口に含めてください。
試験範囲外のスライド:「[Ex.3.1]サープラス」をご覧ください。また,このスライドのWeb補講がBlackboard上で公開されています。
トラックで運ぶ(物流)なんてのは,工場敷地の中でもやってることです。つまり,純然たる生産活動
です。講義で例に出した岩の移動が生産活動であるのと同じです。物流と流通とは区別してください。
交換そのものと流通とも区別してください。交換は流通の一契機です。
交換とは商品交換です。どの人類社会にも共通な経済活動を考察した時に明らかになったように,労働による社会形成は相互的自覚性を要件としていました。市場社会においては,潜在的には商品生産関係として社会が形成されています。しかし,市場社会においては,生産そのものは私的・排他的に行なわれています。従って,社会的承認の契機は交換という,生産の後に行なわれる,二商品(商品と貨幣)の──それを通じて,その担い手としての二人の人格(商品所持者と貨幣所持者)の──社会的な過程に委ねられます(注2)。このような《契機》という観点から見る限り,交換という契機は生産(そこに含まれている労働)という契機と対立しています。すなわち,その限りでは,すなわち契機としては,交換には労働は含まれません。
市場社会では,物件がこのような交換を通じて,このような交換を契機として,特定の人格の下で,主体的に運動し,他の物件の同様な主体的運動と絡みあっています。これが流通です。例えば,商品なら,特定の私的所有者Aの手の中で,ビール1ダース(商品)が売れて1000円札3枚(貨幣)になり,1000円札3枚(貨幣)で買われてジーパン1着(商品)になる,というように。この場合に,特定の私的所有者Aの手の中で,3000円という特定の価値額が, ビール1ダース→1000円札3枚→ジーパン1着 という主体的運動をとります。また,この運動は,ビール1ダース→1000円札3枚という販売は,他の私的所有者の手中での1000円札3枚→ビール1ダースという購買と絡みあっています(1000円札3枚→ジーパン1着という購買も同様)。この主体的運動のそれぞれが商品の流通過程です。
産業資本の場合には,資本という物件は,購買→生産→販売という運動のサイクルを描き,他の物件の運動と絡みあっています。この全体が資本の流通過程です。ただし,その中で,生産を除いた,購買と販売とを,資本流通の中の本来的な流通過程と呼ぶことができます。
もちろん,このような物件の流通は人格によって担われており,またそのために物件の流通では労働が投下されています。要するに,運動の全体としては,流通において労働が投下されています。その中には,上で見たように,物を運ぶとか,保管するとか,仕分けるとか,棚に陳列するとか,その類の,市場でやっても工場の中でやっても代わらないような純然たる生産労働もあります。しかしまた,売り上げの金を数えるとか,キャッシュレジスターを打つとか,その類の,工場では絶対にやらないような純粋な流通労働もあります。
私の感覚としては自由な商品交換の総体が市場社会だ
。──その通りです。講義では,部分(商品交換)から全体(市場社会)へという順序で事柄を展開していったわけです。
市場社会では私的労働という様式が商品生産関係を形成しているのに対して,商品交換においては社会的労働を基にしている
。──私的労働が商品生産関係をなすというのは,つまり,私的労働と社会的労働との分離が商品生産関係をなすということです。この点については,『4. 市場社会のイメージ』の「私的労働と社会的労働との分離(1)」および「私的労働と社会的労働との分離(2)」をご覧ください。
要するに,部分(=商品交換)で考察しても,全体(=市場社会)で考察しても,私的労働で生産が行なわれ,商品が売れて始めてこの私的労働が社会的分業の一環をなす(従って社会的労働として自己を実証する)わけです。
逆に,圧倒的大多数の商品の場合には,コストが価値を決めています。それがはっきりと現れるのがダイナミクな運動,例えば生産力が上昇した場合です。要するに,コストの低下が商品価値の低下として現れます。
コストが全く関係ないというのは一部の骨董品くらいのものです。
で,必ず一致するかというと,当然に一致しません。あくまでもそういう傾向にあるということです。
現代社会の減価償却に相当するものは,考慮されています。『2. 人間と労働』における,カマド(=労働手段)と生鮭(=労働対象)とを充当して焼き鮭(生産物)を生産する例を想起してください。カマド繰り返し使うことができる労働手段に支出されていた旧労働については,一部分だけが焼き鮭のコストとしてカウントされていました。この部分を現代社会においては,更新に備えての減価償却基金として積み立てるわけです(注3)。
この講義の「イノベーションの構成要素」自体は,ほとんど関係ありません。
それはそれとして,シュンペータの「新結合」(die neue Kombination)の構成要素は『7』の中で簡単に解説します。
いえ,動物としては,人間はそもそも群生していました。近代になって共同体を失うまでは,暑苦しいまでにべったりした生き物だったのだと思います。前近代では,君主から最下層に至るまで,垂直的にも(上下の身分間で)水平的にも(同一の身分間で),とことん共同体に依存し,また共同体を通じて互いに依存し合っていました。社会的な孤立は近代の産物です。
で,この講義では,このような近代の産物を前提にして,その上で,近代に特有な契機を剥ぎ取って,経済的に人間の社会形成というものを考えてみたわけです。共通の利益がないと集団を形成しない
のではなく,共通の利益があれば社会を形成することができるわけです。
家族は共同体です。そして,共同体も広い意味では社会です。しかし,社会を定義するためには,その完成形態を想定するしかありません。例えば,自然界には純水は存在しません。自然界に存在するのは,多かれ少なかれ不純物を含んだ水です。だからと言って,泥水で水を定義することはできません(例えば,水は濁っているなどと水の属性を規定することはできません)。塩水で水を定義することはできません(例えば水は電解質であるなどと水の属性を規定することはできません)。純水を想定して,初めて水が水素と酸素とからなるということが明らかになります。そしてまた,それによって初めて,この水という実体が,温度・気圧に応じて固体・液体・気体という形態を受け取ることがわかります。
それじゃ社会とは何かと言うと,動物集団とは異なるものです。そして,それは動物とは異なる人間の本質から派生するべきものです。そこで,この講義では,労働という人間固有の実践を根拠として,動物集団とは異なる人間社会を,現代社会から抽出したわけです。こうして,狭い意味での社会,本来の人間社会が定義されました。共同体や家族は,このモノサシで測って,判断すればいいわけです。
こういうわけで,家族も共同体も,広い意味では社会です。しかし,それは本来の社会ではありませんし,またそうである必要もありません。
個と個の繋がり
に──関係そのものにおいては──制限がないということです。関係そのものにおいては制限がないということは,つまり,ただ労働によってのみその範囲が決まってくるということです。無制限なのですから,結果的には,この関係は当然に国境を越え
ることができます。
違います。労働対象と労働手段です(本当はどちらにも分類しにくいものが数多くあります)。『2. 人間と労働』の「生産手段」をご覧ください。
本能的な活動というのは,要するに,生物として人間が行きているすべての行動です。自覚的な行為である労働も,本能的な活動とは別の行為ではなく,本能的な活動を自覚的な行為として行っているわけです。例えば,コーヒーカップを持って食器棚にしまうという労働を考えてみましょう。この労働はすべて本能的な活動から成り立っています。腕を動かすのも,眼球を動かすのも。しかし,それは同時に,食器棚にしまうという目的を自覚的に実現する行為でもあります。
純粋に本能的な活動というのは,自覚的な行為による媒介がないような本能的活動です。例えば,睡眠中に心筋が動くという,人間の本能的な活動は,自覚的な行為によって媒介されていないから,純粋に本能的な活動です。
まぁ,メタな意味では,人間のすべての本能的な活動は自覚的な行為によって媒介されています。
『3-A 社会と共同体』の中では「2. 主体」のセクションは「どっちが主体か」のスライドを除いて試験範囲内です。「1. 原理」のセクションおよび「3. 規模」のセクションは試験範囲外です。
(注1)ただし,分配そのものは労働の結果であるだけではなく,労働の契機(一部分)として位置付けられうるものです。そのように労働を広義で考えるならば,生産物の分配も社会的分業の契機をなすとは言えます。
(注2)別に商品と商品との交換,すなわち物々交換でもいいのです。けれども,現実の市場社会で行なわれているのは原則的・必然的に商品と貨幣との交換です。そこで,このような表現にしました。
(注3)実際には,価値移転部分と減価償却部分とが正確に一致するとは限りません。通常は,売り上げが最も大きい初期に加速償却しようとするからです。しかし,結果的には,積み立てられた減価償却基金で更新投資を行うことになりますので,価値移転総額と減価償却基金総額とは一致するべきものです。これは銀行からの借入等によって更新投資を行う場合にも同じことです。その場合には,減価償却基金の積立は貸し手への返済という形態をとりますが,ともかく,価値移転総額は借入元金総額と一致するべきものです。