このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年05月13日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
ここで言っている利益というのは自分が設定した目的を実現するという意味です。そこから効率化が派生します。
要するに,金銭的な利益(利潤)のことではありません。また,楽しいか苦しいかということでもありません。
ボランティアの労働は文字通りvoluntary(自発的)なものだと,ここでは仮定します。そうすると,このような自発的な労働の結果が,他者に奉仕して満足したということだろうと,ただの自己満足だったのだろうと,社会からの敬意を受けて満足したのだろうと,その他の結果だったのだろうと,いずれにせよ,それがこのボランティア労働者の利益です。
この講義で見たような,動物集団とは区別される本来の人間社会──これを啓蒙主義者たちは社会状態(social state)と呼びました──は成立しません。
契約内容を限定すればするほど,不一致の部分が増えるでしょう。一致できるところだけ一致すればいいだけです。
社会システムはトータルなシステムであって,経済システムだけからなるわけではありません。しかしながら,その特徴は,社会の経済的なシステム経済システムを考察すると明らかになります(社会の特徴は『社会と共同体』でまとめられているので,ご覧ください)。と言うのも,経済システムは全ての社会ステムの根拠でもあり出発点でもあるからです。そして,経済システムは自己の利益を意識し,利益が一致することで合意のもと
で形成されるわけです。
繰り返しになりますが,どの人類社会でも共通な経済活動で考察しているのは,歴史的な形態発生(つまり昔に起こったこと)ではありません。現代社会から,現代社会に特有の形態を削ぎ落として出てきたものです。
で,歴史からわれわれが想定できるのは,人間はもともと動物で,人間の祖先はもともと群生していたということです。利益の奪い合い,というか殺し合いになるのは,協力しあっている集団と協力しあっている集団との間でしょう。もちろん,協力しあっている集団の内部は上下の構造になっていたのかもしれません。しかし,どのみち,上位にいる者も下位にいる者も,一人では生きていけないのです。従って,利益の独り占めということはありえません。虐げられた個体は虐げられた個体なりに集団に依存しています。
これは商品交換のところで例を出しますが,商品交換は最初は共同体と共同体との間に生じたと想定することができます。商品生産が行なわれていない状態においては,貝はあるが茸はない海辺の共同体と茸はあるが貝はない山中の共同体とがある場合には,通常は,一方が他方を屈服させます。例えば,武力が均衡しているとか,特別の関係があるとか,そういう例外的な状況において,商品交換が発生すると想定することができます。しかし,この場合にも,共同体内部では協力しあっているのです。
質問者が想定しているのは,むしろ,個人が共同体から排除された状態であり,必然的形態としては近代の産物だと思います。共同体を失ったバラバラな私的個人と,共同体を失ったバラバラな私的個人とが相対した場合に,質問者が言うように,協力がないような利益の奪い合いが生まれるでしょう。
全く無関係な場合には相互の利益になりませんし,一方が他方を一方的に利用する場合も相互の利益にはなりません。呼び方は,好きなように。
極度に抽象化された社会か?
──その通りです。
現実における社会というよりは利益団体に近い。
──プロジェクトごとに発生しては消滅するミニ社会から,社会の全体が成り立っているとイメージしてください。見たのは社会の細胞ですが,社会全体も同じ原理で成り立っています【ただし,資本主義社会の場合には,ここで言うミニ社会の支配的形態は資本主義的営利企業ですが,それはゴーイングコンサーンとして,倒産するまで自己目的として存続し続けます。】。
小さな社会が集まって大きな関係となることもありえるか?
──ありえます。と言うか,通常はそうなります。なお,『4』で見ますが,市場社会では,二者のミニマムな関係(ただし交換関係)が集まって,市場社会を形成します。
講義では,赤の他人でさえ利益の一致があれば協力することができるということを強調しました。と言うことは,もちろん,友達同士でも,恋人同士でも,親類同士でも,なんでも,利益の一致があれば当然に,ここで『2』で明らかにしたような意味での協業を行います。
原理的・理論的に見ると,つまり,必然的な形態としては,アカの他人同士での協業と,親密な人たちの間での協業も,違いはありません。
もちろん,現実的に見ると,つまり,偶然的なケースとしては,両者に違いが出ることが当然にありえます。アカの他人同士の協業ではコミュニケーションコストが発生することがありえますし,逆に親密な人たちの間では合理的な計算が成立しにくいことがありえます。
ここでは,ひとまず,分業は協業の一種だと考えてください。要するに,協力し合って労働することが協業であり,役割分担しながら協力し合って労働することが分業だと考えておいてください。より正確な規定は『7. イノベーションの構成要素』で与えます。
個人的能力を,従って個人的労働を社会的に相互補完し合う
と言う方が適切でしょう。
偶発的に一致した場合は,ここで言っているような協業,モノサシになるような協業ではありません。もちろん,人間はそういう協力をも行っているわけですが,その限りではその原理は動物の協力と本質的に違いません。
「互いに利益が一致する」と……意識をするようになった……時点で
と言うか,「互いに利益が一致する」と……意識をする
ということを前提して,始めてそれは「協業」と言えます。
歴史の話ですか? 一応,この講義のどの人類社会にも共通な経済活動は,現代社会での経済活動から抽出してきたものだということを想起してください。
その上で言いますと,人類の祖先はもともと群生していたので,歴史的には本能的・動物的な協力がもともとあって,各人の活動が労働という形を取るのとともに,家族・部族内での本能的協力も協業に至ったと考えることができます。
協業(分業に基づく協業を含む)による生産力の上昇については,『7. イノベーションの構成要素』で,企業内の協業の問題として考察していきます。逆に非効率が生まれる
というのは協業ではなく,協業の失敗です。このようなケースについては,ビデオの中でプログラミングにおいて実際に発生した問題として取り挙げていくことになります。
動物状態の人間も,協力しあいますし,役割分担もするでしょう。もともと,群生動物から人間の先祖は進化したのですから。
動物も,それが進化の過程で生き残った結果として,協力しあったり,役割分担し合ったりするかもしれません。それはあくまでも自然選択の結果ですから,全く偶然的です。進化すればするほど集団の規模が大きくなるなんてことはありませんし,進化すればするほど役割分担が複雑になるなんてこともありません。講義で例に出したように,日本ザルは,真社会性のの昆虫ほどは役割分担が固定されていないでしょう。なにしろ,女王蜂と働き蜂とは,生まれたときから死ぬときまで,肉体レベルで役割分担が固定されているのですから。
ともあれ,人間の場合とは違って動物の場合には,この講義で見たように,自覚的相互性を原理として──すなわち労働の原理で──協業したり分業したりするわけではありません。
今後見ていきます。あらかじめ結論だけ言っておくと,資本主義社会においては,従業員と資本主義的営利企業とは,労働力市場では(要するに市場社会としての現代社会では)相互的に自由・平等という(つまり相互的自覚性という)タテマエが出発点になります。これに対して,資本主義的営利企業の内部(資本の生産過程および流通過程)では(要するに資本主義社会としての現代社会では),労働者は企業に(資本に)一方的に搾取されているというのがひとまずの帰結になります。こういうわけで,交換過程と生産過程とでは,あるいは市場社会と資本主義社会とでは,原理がバラバラです。
しかしまた,話はそう単純ではありません。
それじゃ,市場社会としての現代社会は本当に自覚的相互性を原理としているのかというと,自覚的相互性が成立するのは二者間での関係だけです。しかるに,全体としての市場社会は,専制君主が命じて作らせたのでも,みなが合意して民主的に形成したのでもなく,みなが勝手バラバラに二者間での交換を行っていたら,無自覚的に(いつの間にかに)形成されてしまったものです。
そして,この二者間での関係の相互的自覚性もどこまで徹底しているのか怪しいものです。“本当に命令とかないのか,本当に一方的な関係とかないのか”と言うと,それがないというタテマエになっているのは市場の内部,交換過程の内部だけであって,交換に先立つ生産において実際に労働がどうなっているのかは,よく分かりません。労働において相互的に自覚的かどうかという実質を抜きにして,社会的労働において発揮される社会的承認の契機を労働から分離して交換において実現しているわけです。
資本主義的営利企業の内部は確かに市場とは正反対の原理で機能しています。従業員は会社の業務命令に一方的に従ってます。営業時間中は従業員は会社の付属品だというのが原理です。しかしまた,従業員は労働する個人,自覚的な個人であって,機械や道具ではありません。会社の方は会社の方で,従業員の意志を取得して会社の権威に従わせなければなりませんし,奴隷の場合のように一方的に鞭で脅してこき使うのではなく,絶えず従業員にインセンティブを与え続けなければなりません。従業員の方は従業員の方で,会社の業務計画と自分の構想を一致させますし,会社の業務命令に自分の意志を一致させます。
しかしまたもや,話はそれほど単純ではありません。資本主義が発展すれば発展するほど,先の二分法──交換過程と生産過程との分離,市場社会の原理と資本主義社会の原理との分離──自体が破綻し,相互に浸透し合うようになります。一方では市場社会の原理が資本主義的営利企業の内部に露呈し,他方では資本主義社会の原理が交換過程に露呈するようになります。もっとも,この問題は,政治経済学1よりは政治経済学2で扱うことになります。これだけではわかりにくいでしょうから,興味がある人は政治経済学2を受講してください。
『7. イノベーションの構成要素』で考察しますが,そもそも資本主義的営利企業の内部で協業・分業をおこなっています。これを前提として答えます。
どういったものがあるのか?
──業務提携です。(M&Aによって同じ企業になってしまったらもはや企業間での協業ではありません)。
逆は真であるとは限らない
──別に企業間での協力なんてしなくても,もともと個々の企業内で従業員同士が協力しあっているということです。
M&A
──資本主義的営利企業の内部での協業・分業は社会的分業とは原理が違っています。M&Aの場合も同じです。それは企業内での分業・協業の範囲を拡げますが,この企業内分業は社会的分業ではありません。
えっと,どういう企業なのかで具体的な話が違ってきますが,一般論を述べます。あと,雇用関係については「15. 資本主義的営利企業の場合に企業と労働者との間は相互的な関係なのか?」をご覧ください。ここでは,労働における協力関係だけを対象にします。
資本家であろうと賃金労働者(=従業員)であろうとともかく協力しあって働く限りでは協業を形成します。ただし,この場合の協業は企業内協業です。ここで考察している社会的協業とは位相が違います。どう違うかは『7. イノベーションの構成要素』で見ていくことになります。
まず,大前提として,社会ができるかどうかは,個人的な気持ち
の問題ではありません。どんなに嫌いな人とでも,もし利益の一致があれば,合意して協力しあうことができます。
あなたの例では,結局,協業で協力しない
人は協力しないままなのでしょうか? もしそうならば,当然に,社会関係は成立しません。その上で言うと:
暴力等で一方的に協力させる場合には,支配隷従関係が成立します。これは,この『3. 労働と社会』で述べているような本来の社会関係ではありません。
交換過程での合意(労働契約)に基づいており,かつ労働過程では強制関係が成立するところの,資本主義的生産の場合にどうなるかはこれから見ていきます。
企業が従業員をこき使うというのはブラック企業という特別な企業の特徴ではありません。資本主義的営利企業一般の特徴です。あとは程度問題です。もちろん,実際に働いている人にとってはこの「程度」というものが重要なのですが……。「程度」の違いによって過労死してしまうかもしれないわけですから。
パーソナル・ローカルな関係がグローバルになる必然性はないと思います。世界の人口百万以上の都市には必ず一人は恋人がいるなんて必要はないでしょう。いや,別にいても構わないのですが,そうする必然性はありません。
そうです。ただし,赤子や寝たきりの老人も社会的には経済活動に含まれています。個人としては,限定的にしか経済活動に参加していません(赤ん坊は特に)。
経世済民(経国済民)は,第一回目の講義で説明しましたが,日本語の「経済」の元になった言葉です。ここでは,「世(国)」が物質代謝の社会的運営をイメージしたものだという文脈で使用しました。
そうとは限りません。第一に,労働を媒介にするのは,なによりも,人間が自分が生きていくために自分の労働を媒介にするということに現れます。要するに,社会を形成しなくても/社会を形成する以前に,人間は自分の労働を媒介にしています。第二に,労働に限らずありとあらゆる実践において,人間は社会を媒介にしています。
直接に関係があるのは法のシステム,中でも私法のシステムです。もちろん,システムの性格に関わりなく,協力しているように見えてただ乗りする人や,成果を盗もうとする人が出てくるでしょう。しかし,ドロボーが社会を形成することはできません。従って,公法や執行(=行政)
そういうことです。労働は手段ですが,同時に目的でもあります。あなたが目玉焼きを生産する際に,まずは頭の中で目玉焼きを目的として設定します。これ自体がすでに労働の契機です。要するに,労働には,目玉焼きという目的も,そのためにフライパンとガスコンロとバターを使い,手で調節しながら焼くという手段もどちらも含まれています。以上,『2. 労働と人間』をご覧ください。
大体そうです。
厳密に言うと:
ヒトと自然による物質代謝
ではなく,ヒトによる自然との物質代謝です。ヒトと自然とは主客の関係にあります。
意識的媒介ではなく,自覚的媒介です。人間以外の高等動物も意識を持っていますし,自己の物質代謝において──意識的に媒介しているとまでは言えませんが──意識を契機とします。しかし,この講義の定義では,人間以外の高等動物は労働は行いません。
このような自覚的な媒介をおこなうには,そもそも自分を客観視できるようなハイレベルな“自分”が成立していなければなりません。つまり,物質代謝を自分自身で媒介しているからこそ,自覚的に媒介できるのです。ハイレベルな意識は,ハイレベルな“自分”を前提します。
『2014年05月06日の講義内容についての質問への回答』の「社会的運営に関して“他の自分”がというのが出てきたが,“意識が異なる自分”というような理解でいいのか?」をご覧ください。
他の個人の一方的な利用による分業です。このような分業と,基本的に自給自足のシステムとは両立します。
かなりかぶっていると思います。ただし,この講義は専門科目なので,内容が詳しく高度になっていると思います。
なるべくかぶらないように,講義では基礎的な部分は飛ばすようにします(飛ばした部分はもちろん試験範囲外になりますが,基礎的な部分が分からないと,試験範囲に入る応用的な部分が十分にわからないかもしれません)。基礎的な部分については,レジュメ等を用意していますので,それをご覧ください。