1. 現代社会と自由・平等

大企業と中小企業との取引は平等とは言えないのではないか?それは外部の事情か? 個々の会社にもパワーバランスがあると思うのだが,これも市場の外の事情か? 大きな企業が下請けの小さな会社に不等な条件で商品交換を強いることは市場の外部での事情となるのか? 経済力の不平等は〔……〕市場に参加しているのになぜ外部事情として取り扱われてしまうのか? 商品交換の形式的自由や形式的平等が市場の外部で成立しないことに対して何か対策とかはとられているのか? 現代社会ではどれだけの対等なパートナーシップの基で商品交換が行われているのか?どんな企業間であっても力関係が存在し,対等という関係はないのでは? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

企業同士もタエマエ上は平等なんです。実態は違っていますが,それは市場の外部の事情です。

で,この外部の事情が市場内部でも露呈して,もはやタテマエが維持できなくなっているのが,今日の資本主義社会です。タテマエの上での平等は依然として維持されているのです。それにもかかわらず,そのタテマエと実態とが異なっているという現実,すなわち,本来は市場社会のタテマエによって覆い隠されるべき資本主義社会の現実が露呈しているわけです。いわゆる社会法(労働法を含む),経済法など,私法の原則の修正をもたらすものの多くは,このようなタテマエ(形式的な自由・平等,労働と所有との一致)と実態(実質的な不自由・不平等,労働と所有との不一致)に基づいているように思われます。

(1) 講義で強調したのは,何よりもまず労働力市場での労働者と資本主義的営利企業との間での取引です。当事者同士が平等だというタテマエが維持できないからこそ,自由意志に基づく対等な私人同士の取引には社会は介入しない(侵害がない限りは私法に任せる)というタテマエももはや維持できず,労働法および監督行政機関という形で国家が干渉しています。

(2) 大企業と中小企業との取引も同様です。不平等であるという実態が平等であるというタテマエをもはや維持できなくなったら,独占禁止法(優越的地位の濫用等)および監督行政機関という形で国家が干渉しています。

なお,タテマエと実態との食い違いの問題は,政治経済学2のテーマです。興味がある方は政治経済学2を受講してください。

自由とはどの範囲のことをいうのか疑問に思った。今日の市場参加者(個人消費者)等は1人1人所得格差がありどうしても制約が生まれてしまい,自由には限界がある。特に貧困層等の人々は,そもそも価格の低いものを質にかかわらず選択せざるをえない。このような状況の下での自由はなんなのか,単純に制約はあれどその中で選択ができていれば自由なのか? つまり,自由とは,個人の線引きで決まるものなのか? 今日のブラック企業のように「働かなければ生きていけない者」を不等にギリギリの賃金で働かせているような事情においても恐らく市場における「自由」に当てはまるものだと思うが,では市場における自由の範囲とはどこまでか?〔/〕また,もし先の例でブラック企業等のサービス残業等で仕事をさせながらもその分の代償を支払わなかったとしたら,これは商品交換と言えるのか? 〔……〕資本主義的営利企業の内部ではそれらの原理は形式的などころか,正反対になっているということが明らかになる」という部分がイマイチよく理解できなかった。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

選択の自由はあってもその範囲が著しく狭い「貧困層等の人々」は金持ちと較べて実質的に不自由だと言うべきでしょう。しかし,市場は金持ちであろうと「貧困層等の人々」であろうと,そんなことにはお構いなしに,タテマエ上の,形式上の自由を原理にするわけです。と言うわけで,この講義で言う「自由とは,個人の線引きで決まるもの」ではなく,社会的な,客観的な原理です。

ブラック企業であっても,労働力市場ではタテマエ上,互いの自由意志で契約を結んだということになっています。一方では,タテマエ上は,ブラック企業が自分が雇ってもいいと思う労働力を自分が受け入れざるを得ない価格で自由意志で買いました。もし条件が合わなければ,別にその労働力を買わなくても良かったのです。誰に強制されたのでもなく,自由意志で買ったわけです。それはあたかも,あなたがコンビニで自由意志でおにぎりを買ったのと同じことです。他方では,タテマエ上は,労働者も自分が務めてもいいと思う企業に自分が受け入れざるを得ない価格で労働力を販売しました。もし条件が合わなければ,別にその企業に自分の労働力を売らなくても良かったのです。誰に強制されたのでもなく,自由意志で売ったわけです。それはあたかも,コンビニがあなたに自由意志でおにぎりを売ったのと同じことです。

そして,現実の生産過程で,労働者が不自由であり,会社から強制されて労働するのであるということは,つまり実態はタテマエとは正反対になっているということは,資本主義的生産の一般的本質です。それは別にブラック企業に限ったことではありません。

ブラック企業のブラックたる所以は不当に労働時間を延長したり,不当に労働強度を高めたりして,現実の賃金を最低賃金以下に落としてしまったり,労働者を精神的・肉体的に酷使したり,あるいは,労働基本権を侵害したり,などという点にあります。つまり,他の企業がやらないような異常な搾取をすること点にあります。

しかし,これについてもまた,利潤最大化という動機と自由競争という条件との下では,もし法的規制がなければ,他の企業もカネモウケのために同じことをしていたのです。それ故に,いま利潤最大化を資本主義に内在的な与件(ひとまず動かせないもの)だとするならば,可能であるのは,競争が行なわれる条件が法的に規制されるということだけです(不買運動等,法的圧力以外の社会的圧力もあるのですが,それらは充分ではありません)。そして,それは競争そのものの法的規制として現れます。

従って,ブラック企業と他の企業との違いは,法的規制を守るかどうかだけです。もちろん,それは大きな違いだとは言えますし,確かにそれによって人が命を落とすほどの違いです。しかし,一般的な本質は変わりません。それは,別に,企業が従業員を苦しませるのが趣味だからでありません。そうではなく,競争で負けるわけにはいかないからです。だからまた,法的規制なしに,無制限に競争がおこなわれると,自分以外の企業がやっているからどの企業も無制限な搾取をやらざるをえない──みんながやっているから,どの企業もやらざるをえず,かつ,どの企業もやっているからこそ,みんながやっているという状況が成立している──という悪循環に陥る傾向にあるのです(注1)。無制限な搾取をやめた企業だけがババを引くことになります。そこで,労働力市場では法的規制が必要になるのです。

「もし先の例でブラック企業等のサービス残業等で仕事をさせながらもその分の代償を支払わなかったとしたら,これは商品交換と言えるのか?」──この場合には,ブラック企業は賃労働させておいて賃金を支払わなかったのです。要するにただ働きさせたのです。上の例を使って言うと,ブラック企業は代金を支払わずにコンビニの棚からおにぎりをマンビキしたのです。当然に,商品交換の形式が侵害されています。一言で言って,ただのドロボーです。そして,ドロボーが商品交換ではないのは『3. 市場社会のイメージ』で見た通りです。

市場の外部の事情の例は他に何があるのか? 市場の外部の事情とは何か? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

うーん,千差万別です。市場の外部として主に生産と消費とを考えておけばいいでしょう。

従業員と資本主義的営利企業との関係なんかは生産に属する事柄です。その他には,中小企業と大企業との関係なんかについて言うと,もちろん下請け関係の場合には生産に直接基づきます。しかし,それ以外は,直接は生産とは関係ないように思えますし,実際にメーカーとディーラー(生産は行わないと想定することができる)とのあいだでも生じるのです。しかし,交渉力の背後にある経済的格差を資本主義社会で生みだす起点は生産ですから,生産に属する事柄と言ってもいいでしょう。

後,よく例に出される,保険会社と被保険者との間,中古車ディーラーと中古車需要者との間での情報の非対称性なんかは消費者がからんでくるような,市場の外部の事情です。

百姓と殿様の所で示されていた労働の平等の不成立さは自由も否定されていることと同義か?

同義ではありません。が,通常,自由が否定されている場合には,平等も否定されています。講義で述べたように,自由と平等とは,もともと労働の原理として一体のものです。この一体のものが対立して現れるというのはむしろ──資本主義社会に特有,というわけではありませんが,少なくとも──資本主義社会を特徴付けるものです。

奴隷関係以外に自由が不成立となり物品交換が成立しないような場合は他には何か?

平等のところで挙げた例も,自由が成立しない例と解釈することもできます。自由と平等とは本来は不可分のものなので。で,その上で,どちらかに最も相応しい例を挙げたわけです。また,私的所有のところで挙げた例も,万引き犯が店の営業の自由を抑圧していると解釈することができます。万引き犯ではピンとこないかもしれませんが,例で挙げた太古の共同体の場合には,戦力に差がある場合には商品交換などせずに,相手の共同体の自由を侵害し占領して欲しいものを手に入れるということが一般的に想定可能です。

「商品交換における平等の実現」について「価値」ではお互いに損得なしとなっているが,「使用価値」においてはお互いに「満足」となっている。この両方が同時に成立して初めて「平等の実現」となるのだろうか?(「お互いに満足している」だけでは「平等」は成り立たないのだろうか? あるいは,時に「満足している」ということはないけど,価値的には等価物同士を交換したバイでは成り立たないのだろうか?)

片方だけでもいいのですが,不完全です。両方が同時に成立して初めて,平等のタテマエが完全になります。

「不要なものを手放して,必要なものを入手したから」の「不要なもの」の概念がよく理解できない。

私がコンビニで定価100円のおにぎりを買う場合に,おにぎりの方は私の欲求の対象であり,それを入手したのだから「必要なもの」です。で,100円玉の方は,定価100円のおにぎりと引き替えに手放したのだから,「不要なもの」です。もちろん,私はこの100円玉をドブに捨てる気は毛頭ありませんでした。100円玉は私の欲求を,私の目的を実現する手段として「必要なもの」でした。しかし,私は本当に「必要なもの」である定価100円のおにぎりと引き替えならば,喜んで手放したわけです。「不要なもの」というのはそれ自体として不要かどうかということではなく,これこれと引き替えなら不要なものということです。

今井が例で上げた〔能力が足りなくて努力してもなかなか結果に結び付かない従業員〕とサークルにおいての“不利な人”〔身体的にハンディキャップを負った人〕は同じ分類のものととらえてよいのか?

えっと,講義の中ではいくらでも直ちに自己弁護,言い訳できますが,インターネット上でお答えする以上,若干,表現に気を付けたいと思います。ここでは,努力が常に結果に帰結するとは限らない,あるいは努力できるとは限らないという例を挙げました。その上で,条件が違うと平等かどうかも違ってくるということを説明しました。還元すると,平等の形式は同じであっても,平等という形式の具体的内実(なにをモノサシにして平等の中身を測るのかということ)は生産関係に応じて異なってくるということを説明しました。

資本主義的営利企業にとっては結果が,カネモウケがすべてなので,過程に関わりなく,すべて「同じ分類のもの」になります。法律だのイデオロギーだのによる資本主義の原理の侵害がない限りでは,あるいは他に差別待遇がコスト上の有利をもたらさない限りでは,すべて同じものとして扱おうとします。それが資本主義社会の原理としての諸個人間での平等です。しかし,それは同時に個人と資本との,労働と資本との根本的な不平等に基づいているわけです。

しかし,それは平等の具体的内容についての資本主義のモノサシであって,永遠不滅の,絶対的なモノサシではないだろうということを明らかにするために,サークルの例を出したわけです。

物価が上昇しているときに購入しても,それは平等なのか?

うーん,質問の趣旨がよく分かりません。ともあれ,物価が上昇していても下落していても,契約締結時点での物価で取引される限りでは,等価交換です。掛け売買で,支払時点にはすでに物価が上がってしまっているということもありえますが,そういう場合にも,等価の内容は影響を受けません。もちろん,価格変動を織り込み,価格変動そのものを商品として組み込んでいるような金融商品もありますが,そのような商品の場合にも,価格変動と平等性とは関係ありません。関係あるとしたら,インサイダー取引のような不公正な取引の場合だけです。

この講義においての「自由意志」とはどういうことか?

意志については,『2. 労働と人間』で既に見ました。労働において発生した意志は,普遍化し,労働以外のあらゆる領域において,発揮されます。『2. 労働と人間』で見たように,もともと意志は自由なものでした。ですから,自分の意志が自分の意志のまま発揮されるならば,それは自由意志が発揮されたということになります。これに対して,例えば,誰かによって完全に奴隷化して,自分の意志を発揮することができず,他人(=奴隷主)の意志に従属している場合に,その奴隷は自由意志を発揮していないことになります。

市場の平等〔……〕とはあくまで財・サービス,買い手,売り手の平等なのか?

その通りです。

2. 個別的行為としての商品交換

税金について,納税の対価としてサービスを受けるという意味で商品交換の一形態と考えられるか?

必ずしもそうではありません。

まず,一般論として,市場社会である限りでは,政府が生産する財貨・サービスだろうとNPOが生産する財貨・サービスだろうと,すべて,市場の原理から逃れることはできません;つまり,市場の原理によって規定されます。しかし,そのことはそのようなサービスが商品として交換されているということを必ずしも意味しません。

政府サービスの場合には,受益者負担の財貨・サービスの場合には,商品としての性格が色濃く出ます。例えば,政府系の住宅公団・公社がマンション販売する場合には,それは商品だと言えるでしょう(ただし,所得制限のような,特殊で公的な性格があるオプションを持つ商品)。

これに対して,刑事警察のサービスなんかは,商品として売買されていません。例えば,被害者が犯人を捕まえてもらうために相応の代金を支払って警察サービスを買うという形式になっていません。もちろん,全体としてみると,警察官の給与も警察の固定資本もすべて税金でまかなわれています。しかし,だからと言って,たとえば税金を支払わない人はボコボコにされても救済されないということにはなりません。逆に,高額納税者はより多くの保安サービスを受けるということにもタテマエ上はなりません。

交換として,どのくらいの価値を払えば良いのか,どこで決まってくるのか?

実現されるのは市場において,市場価値としてです。しかし,それを規制するのは社会的生産です。それぞれの商品を生産するのに,どのくらいのコストが必要なのか,ということは生産で規制されます。

3. 全体としての市場社会

現代の市場社会に生きている人でも,地方などで自給自足を送っている人々は市場社会に関与していると言えるのか?

もし完全に自給自足で,日常的には自動車も電車も使わず馬にでも乗って移動し(多分,道路交通法違反ですが),食糧だけではなく,衣料品を含むすべての消費手段を自分で生産し,そして家ももちろん,自分で建て,お金なんて見たことがないなんて人がいるならば,その人は「市場社会に関与してい」ません。しかし,実際には,自給自足と言っていても,せいぜい食糧程度のものではないかと思います。少しでも市場で商品を売買している限りでは,「市場社会に関与している」ことになります。

「資本主義的な生産モデル(1)」のところで,従業員や株主向けではなく,とわざわざ補足した意味は何かあるのか?株主に向けて販売することは一切ないのか?

自動車メーカーが市場で販売している自動車を従業員や株主が買うなんてことはもちろん当然にあります。ただ,その場合には,従業員や株主は,従業員や株主として買うのではなく,一般消費者として買うことになります。それは別にして,従業員や株主は優待販売で買うこともありえます。この場合には,もはや従業員や株主は一般消費者として買っているとは言い切れないでしょう。しかし,優待販売している場合にもなお,自動車メーカーは従業員や株主向けに生産しているわけではありません。それは,例えば,100万台突破の記念に抽選で一名様に自動車を進呈したからと言って,自動車メーカーが無料譲渡するために自動車を生産したのではないのと同様です。自動車メーカーは従業員や株主に売るためにでもなく,無料譲渡するためにでもなく,市場で販売するために自動車を生産しています。

市場社会はグローバルな社会であるというが,為替リスクなどがあるので,ある程度は独立性があるのではないか?

その通りですね。資本主義的な市場社会は歴史上初めてグローバルな社会を実現したとは言っても,完全にグローバルになることはできません。これが資本主義社会の限界です。

ただし,講義の中では,これほど政治的には国家が分裂しているのにもかかわらず,経済的には国境を越えてしまっているという現実の方を強調したわけです。

資本主義的営利企業にとっては,ローカルに違っているということはおいしいことなのです。だからこそ,コストが安いところで生産し(特に賃金が安い国で搾取し),有効需要があるところで販売するのです。ただし,これは矛盾しているのであって,このようなローカルな違いを利用すればするほど,ローカルな違いは徐々に失われてしまい,グローバルにフラット化してしまします。例えば,賃金が安い国で搾取を続けたら,徐々にその国の賃金水準が上がってきてしまうでしょう。このような矛盾の中でグローバル化が進んでいるのだと考えてください。

ただし,外国為替については,上記の賃金とは事情が違っています。もともと各国通貨は質的に違っているのですから,これをフラット化するということは通貨統合以外にはありえません。

市場機能が公害問題や貧富の格差によって歪んだ場合でも常に世界の至る所で商品交換は行われるのか?

商品生産関係が成立している限りでは,商品交換が行なわれるしかありません。

その上で言うと,そもそも「市場機能」は必然的に歪むものです。市場社会は必然的に資本主義的な市場社会でしかありえず,そして資本的な市場社会は必然的に「公害問題や貧富の格差」をもたらさざるをえません。

分業の規模は市場の大きさによって制限されることから,市場社会も空間的に制約があるのではないか?

そういう制約を突破していくのが市場社会であり,特に資本主義的な市場社会です。その現在の姿を見てみると,国際的取引を通じて各国の市場が繋がり,一つの世界市場が形成されています。これに応じて,分業の規模も,国際的分業を含み,世界的分業にまで広がっています。もちろん,まだ完全にシームレスだというわけではありません。

野菜農家の人たちのように,都心や企業から離れている人たちにとっては,市場のメカニズムは身近あるいはしっくりくるものなのか?

「野菜農家の人たち」の意識調査はしたことがないので分かりません。いずれにせよ,野菜の大量消費地は都市であって,都市向けに商品として野菜を生産している限りでは,市場に巻き込まれています。ただし,実際には,市場と「野菜農家の人たち」との間には,農協がショックアブソーバーになっているかもしれません。この場合,価格メカニズムはある程度は規制されます。

市場社会が形成されるのは現代社会だけとの説明があったが,商品交換の総体が市場社会であるならば,現代より以前から形成されているように感じるのだが,なぜ違うのか?この講義内での「市場社会」と「資本主義社会」の違いがわからない。

前近代的共同体では,市場が社会をなしていなかったからです。市場が社会のほんの一部だったからです。『3. 市場社会のイメージ』の「前近代的共同体のメインの経済活動」および「何故に交換をやめられないの?(2)」をご覧ください。

市場社会と資本主義社会との違いは原理の違いです。原理の違いについては今後見ていきます。現代の資本主義的な市場社会は,市場社会の原理と資本主義社会の原理という相反する原理を抱えているということです。

生産の段階において社会的分業が実現されていないというのはどういうことか?

市場においては,商品を生産しても売れるとは限りません。もし売れなかったら,その商品を生産した労働は社会的分業の一環をなさなかったということになります。市場で売れて初めて,その商品を生産した労働は社会的分業の一環であるということが実現されるのです。

補完的市場とただの市場はどう違うのか?

市場としては全く同じです。違うのは市場参加者の性格(余った物だけ売るのか,最初から商品として生産したものを売るのか)だけです。

市場社会は商品が生産されている限りは,交換というものが生じるため,ずっと存続するという認識であっているか?

正確には「商品が商品として生産されている限りは」ということです。つまり,すべての私的生産者(資本主義的営利企業を含む)が,余ったものを市場に出すのではなく,最初からすべての生産物を市場向けに生産している限りでは,ということです。

市場社会が消滅ししたとしても,その直後には復活しているということは,現代社会においては交換がたえず行われているため,実質的に連続して存在しているということだと捉えても,問題ないか?

問題ありません。

現代市場は前近代市場よりも(量的に)活発になっているとは思うのだが,買い手が現れなかった時の余りというのが前近代市場に比べて多くなっているのか?

当然多くなっています。生産された商品の量がはるかに多いからです。

4. 商品交換の根拠としての私的労働

労働〔の原理〕が形骸化(形式化)していると言うことが理解できなかった。〔……〕労働によってうみだされた価値物の交換であるなら,労働とは切り離されていないと思うのだが。 商品交換において労働の外部で実現されたもので労働とは切り離されたものとあるが,それは労働という環境では商品交換ということ自体がおこなわれないということか,労働という行動内では商品交換という概念が存在しない,ものは働いてしか手に入らないという意味か? 商品交換が「社会的労働の内部の契機が,しかし労働とは別のものとして,労働の外部で実現されたもの」とは具体的にどういうことか? 内部の方は何となくイメージがわくのだが,外部というのがいまいち引っかかり理解できない。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

交換において行なわれる相互的承認(自覚的相互性の発揮),交換の総体としての市場で行なわれる社会的生産物の分配,総じて市場という形での社会形成は,どれも,もともとは『3. 労働と社会』で見たように,社会的労働の契機であり,社会的労働の実現でした。

ところが,市場社会では,このような社会的労働の契機(つまり社会的労働の内部の契機)は,労働そのものの後に行なわれ,労働そのものとは別の場所で行なわれる交換,つまり労働そのものからは時間的にも空間的にも切り離された交換において実現されています。実演販売なんかの場合でも,このことは変わりないということは,以前の年度での質問でお答えしましたので,そちらをご覧ください。

市場社会においては,労働そのものとは私的労働のことです。実際に商品を生産しているの商品生産者のは私的労働です(それが,交換されて初めて事後的に社会的分業の一環をなす,つまり社会的労働になるわけです)。従って,労働そのものは私的な,クローズドな,立ち入り禁止の空間において行なわれます。社会とは無関係に,とことんプライベートに行なわれるというのが私的労働です。これに対して,交換は市場という社会的な,オープンな,誰でも参加自由な空間において行なわれます。

これはちょっと難しく,またややこしいのですが,交換も広い意味では労働の一部です。だって社会的労働の諸契機の実現なんですから。でも,交換は労働そのものではないんだ,労働そのものからは切り離されているんだ,という形での,社会的労働の諸契機の実現なのです。こういう意味で,社会的労働の諸契機は,労働そのものつまり(市場社会においては)私的労働の外部で実現されているわけです。

以上をまとめると,交換は社会的労働の契機が労働そのものとしての私的労働から切り離されたものとして実現されたものです。従って,一面では,労働とは切っても切り離せないものです。しかしまた,他面では,じゃぁ,どうやってそれが実現されたのかと言うと,それは労働からは切り離された形で実現されたわけです。

私的生産のところで自分だけの利益を追求するとあるが,このことは資本主義における奴隷制度で雇い主が奴隷を働かせてその利益を自分だけが得るのと同じことではないか?

「資本主義における奴隷制度」というのが何を想定しているのかわかりません。賃労働のことでしょうか(賃金労働者は賃金奴隷だという比喩的表現があります)?それともアメリカ合衆国南部にかつてあった黒人奴隷制のことでしょうか? いずれにせよ,“賃金奴隷”なり南部の黒人奴隷なりを度外視して,私的生産者のことだけを見る限りでは,当然に「自分だけの利益を追求する」ということになります。そしてまた,資本家も南部の奴隷主も対外的には私的生産者であるのにすぎません。

で,その上で言うと,私的生産の内部を見ると,そこには私的生産者ではない“賃金奴隷”や南部の黒人奴隷がいるわけで,その人たちは自分の利益を追求しているかと言うと,特に南部の奴隷はそうはいえないでしょう。“賃金奴隷”は自分の利益を目指しているでしょうが,しかしそれは私的生産者=資本家が自分の利益を追求する単なる手段という位置付けを持っています。“賃金奴隷”は資本家の利益とは無関係に自分の利益を追求することはできません。“賃金奴隷”が自分の利益を追求しうるのは,ただ,それが資本家の利益になる限りでのことです。

ブラックボックスという用語説明として分配の機構というモノが人類社会にも共通な経済活動を考察しているわれわれにとって決められないという面でブラックボックスという意味である。これについて,理解が不充分なので,もう少し例を交えた説明が欲しい。

えっと,それで「理解が〔……〕充分」だと思います。ブラックボックスという言葉を使ったのが良くなかったのかもしれませんが,社会の構造──端的に言って生産関係──に応じて,分配の機構は多様でありうるわけです。見えないという点に強調点があるのではなく,いろんなものが入りうるという点に強調点があるのだと考えてください。

私的労働があるんだったら公的労働というものはあるのか?それとも社会的という言葉が公的という部分とイコール関係になるのか?

私的労働と対立するのは社会的労働です。公的労働という用語はこの講義では使いません。


  1. (注1)講義の中で述べたように,競争は一者が全体に加え,かつ全体が一者に加える圧力です。従って,そもそも,競い合いから区別される競争というものはこのような悪循環なのです。自分を苦しめる競争の社会的システムはほかならない自分が(他の資本とともに)つくりだしたものです。競争において資本は自分で自分の首を絞めているわけです。