このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2013年10月08日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
2013年10月22日:途中まで暫定公開。残りの質問に対してはできるだけ早く回答します。
厳密に言うと,恐らく成立しません。しかし,固有の意味での資本家の数は最小化されるかもしれません。その理由は株式会社のところで詳しく見ます。ここではほんの先取りだけ。
既に現在,アメリカでは年金基金のような機関投資家が,そして日本では株式相互持ち合いによって法人投資家が発行済み株式のかなりの数を所有しています。この傾向から見ると,労働者が受けとった賃金が元手になって,株式保有に向かうのであれば,自然人としての,固有の意味での資本家は不要です。
一般論としては,敗戦から生じる戦争奴隷とか,債務を払えないことから生じる債務奴隷とか,犯罪者が身分剥奪されて奴隷に落とされるとか,いろいろな発生源が考えられます。いずれにせよ,世襲的身分として固定されると,奴隷の子は,生まれながらにして奴隷です。
理論そのものには欠陥がないと私が考えているからこそ,この講義で肯定的に紹介しています。
実際問題としては,自戒を込めて言うと,労働一元論の立場は,社会問題をなんでも労働に還元してしまい(単純化してしまい),それぞれの社会問題が抱えている独自の要因を無視してしまう傾向があるかもしれません。
所有基礎論には大きな欠陥があります。理論的には,その欠陥は,現代社会の所有の変化が,労働生産力の上昇に起因しているということと整合しないという点にあります。そして,この点は,今後,この講義で見ていくトピックスになります。実践的には,講義で話したように,この考え方は,しばしば,所有形態を変えれば万事上手くいくという考え方になりがちです。
で,もちろん,労働一元論は今井の考え方に合っています。ただし,この講義の柱としているのは,それが私というちっぽけな存在の個人的・主観的な好悪を越えた,社会的・客観的な普遍性を持っているからです。
分野というか,個別的な現象を見ると,労働と無関係な所有なんてくさるほどあります。例えば,犯罪で手に入れた家でも犯罪がバレなければ,バレない限り,事実上,所有として通用してしまいます。しかし,そういうのは社会を形成するのに必然的なケースではないでしょう。ここでは,あくまでも,社会的な原理,社会のタテマエを考えています。
じゃ現代社会の必然的なケースでは,所有が労働に基づいているのか,と言うと,実はそうはなっていません。これが今後,この講義で考察していくところです。つまり,所有は労働に基づいているはずなのに,現実にはそうはなっていません。
そうではなく,昔
も現代社会
でも所有は労働に基づいているのです。けれども,昔
は労働と所有とが不可分であったからこそ,労働が所有に基づいているというのがわかりにくかったわけです。これに対して,市場社会では,両者が分離して,労働は本来の労働過程で,所有は(労働過程の後で行なわれる)交換過程で発生するということを通じて,所有が労働に基づいているということがはっきりと分かるようになったわけです。
比較級ではなく,最上級だからです。つまり,奴隷制が他のシステムに較べて優れているのではなく,素晴らしいシステムは奴隷制しかないからです。と言うか,むしろ,奴隷制が安定的に栄えている次期は,そもそも奴隷制が素晴らしいという意識すらなくなります。奴隷制はもう当たり前のものであって,地上に奴隷制が存在するのは空気が存在するのと同じくらいに自然なことになります。本来の正当性は,完成している限りでは,正当性を意識させないような正当性です。
実は,この講義で問題にするような現代社会における正当性も,正当性危機が生じているからこそ,明確になっているのです。
これまでのところは,多くの革命の場合には,フランス革命の場合にもロシア革命の場合にも,あるいは20世紀の革命の場合にも,革命政権が素晴らしかったというよりは,革命政権が打倒した旧体制(アンシャン・レジーム)が酷すぎたということに,革命政権の勝利が起因していたと思います。要するに,革命政権は腐った壁を壊しただけです。と言うわけで,帝政ロシアについては,正当性も破綻していたし,機能的にも不全に陥っていたと思います。ケレンスキー政権を飛ばしますが,それを打倒した社会主義政権は,正当であるとも機能的にも優れているとも期待されていたと思います。