質問と回答

ドレイのような人々やそれに近い身分の人々は自覚的に労働していると言えるのか?

いくつかのポイントに分けて説明します。

まずは,奴隷制に限らず,前近代的な労働を考える場合の一般論

第一に,既に何度も強調したように,どの人類社会にも共通な経済活動は,過去の経済活動を見ても出てこず,現在の経済活動を見て初めて出てきます。第二に,過去の経済活動においては,どの人類社会でも共通な経済活動の考察で明らかになった諸規定は,多かれ少なかれ,実現されていません(注1)。以上については,以下のスライドを思い出してください。

要するに,奴隷労働に限らず,一般に前近代的共同体においては,労働の自覚性の規定は多かれ少なかれ当てはまりません。

次に,奴隷制という特殊なシステムの下での奴隷という特殊な身分についての特殊論。

一口に奴隷制と言っても,奴隷制は,ものすごく長いスパンで生まれては消え,消えては生まれた制度です。そして,その経済的基盤は時代ごとに全然違います。例えば,ローマの家内奴隷と,南北戦争以前のアメリカ南部の大規模棉花プランテーションの奴隷とでは,その経済的基盤が全然違います。

ここでは,そのような経済的内容の違いは無視して,奴隷という形式の共通性に着目しましょう。そして,奴隷という形式についても,権利能力が全て剥奪されたものから,ある程度は自由を得ているものまで,これまたいろいろあるのですが,やはり奴隷の奴隷たる所以に着目すると,権利能力が全て剥奪されたものを想定するのがいいでしょう。この場合,奴隷には一切の自分の時間も,自分の空間もありません。すべては奴隷主のものです。

このような奴隷労働の場合には,自分がやっているという形式そのものが消滅します。その意味では,奴隷は物言う道具であって,人間でありながら,人間性がすべて剥奪されています。このような状況の下では,奴隷は奴隷主の鞭が怖くて働くのです。それならば,労働の自覚性もほとんど剥奪されています。自分を確立し,自分で自分を動かさなければ(つまり二重化しなければ,すなわち媒介的にふるまわなければ),自覚性も生まれません。このことは,奴隷がすぐにサボるとか,奴隷が道具を大事にしないとか,そういうことに現れます。こういうわけで,あなたが疑問に思った通り,ドレイのような人々……は自覚的に労働していると言えないでしょう。

しかしまた,それでもやはり,奴隷もまた,人間なのです。その限りでは,この講義で述べたような自覚性を完全になくすことはできません。実際にまた,奴隷主が奴隷を使うのは,──時と場合に応じては,牛馬よりも低コストだからという理由もありうるのですが,必然的形態としては──,労働を行うからです;鞭が怖くて働くのにしても,他の家畜にはできないような高度な作業を行うからです。その意味では,奴隷の労働もまた自覚的だと言えるでしょう。

こういうわけで,奴隷主は,奴隷の労働に自覚性を(従って生産性を)求めているのですが,しかし自覚性を(従って生産性を)剥奪すると言う手段でこの目的を達成しようとしているのです。このような奴隷制の矛盾した性格については,主として(労働との関連ではなく)所有との関連ですが,以下のドキュメントをご覧ください。

「労働は媒介的な活動」とあるが,反対の直接的な活動は本能的な活動のことなのか?

いいところに目を付けましたね。

  • 媒介的・自覚的な活動も,すべて本能に基づいています。逆に,講義でも述べたように,人間の本能を満たす活動の多くは,人間の場合には,媒介的に行われています。調理法を想像し他の店と比較しながら食事をする時,愛し合って性交する時,安眠グッズを使って睡眠する時,どの動物でもしている本能的な活動が人間の場合には媒介的に行われています(本能のおもむくままではなく,自覚的意識を媒介にして,さらには社会を媒介にして,行われています)。ですから,講義では,人間が行う純粋に本能的な活動として,睡眠中の心筋運動とか,気絶中の呼吸とか,そういう例を出したわけです。

    こういうわけで,媒介的直接的と言った場合には,通常は,水と油のように分けることができます。これに対して,自覚的本能的と言った場合には,自覚的なものは本能的なものに含まれていながら,しかも本能的なものに対立していると言うこともできます(この場合には,(媒介的∩直接的)=∅,だが,自覚的⊂本能的)。

    水と油のように分けることができるというのは絶対的な関係においてそうだと言うだけではなく,相対的な関係においてもそうです。つまり,この行為は媒介的,この行為は直接的というように絶対的に(=無条件に)分けることができるだけではなく,労働という同じ自覚的行為についても,こっちのやり方の方がより媒介的,あっちのやり方の方がより直接的というように相対的に(=比較して)分けることもできます。

  • あと,もう一点,もっと重要な点があります。講義でも言いましたが,媒介的だからこそ自覚的になるのであって,逆ではありません。現在のわれわれの行為を考える場合には,どの媒介的な行為も自覚的な行為ですが,厳密に言うと,媒介的というのは意識に先行して現実そのもので人間が(ここでは労働において)行っている振る舞い方です。要するに,自分を自分として確立し,自分以外のすべてのものはなんでも自分のもの,自分の手段として位置付けていっちゃうやり方です。このような労働の現実的な振る舞いは,自分の意識もまた自分の手段として,“自分自身の”意識として,位置付けちゃうわけです。こういうわけで,この意識は,自分自身の現実の振る舞いを意識します。つまり,自分以外のすべてのものも自分のもの,自分の手段,自分の形態として意識するわけです。この意識は,逆に言うと,“自分は他の何でもない自分だ,つまり自分以外のすべてのものに対してそれを自分のものとしてマーキングしちゃう主体だ”という意識であって,これが自覚的=自己意識的=自我的な振る舞いの出発点です。

能力と欲望のスパイラルというところで能力が高まれば欲望が深まるということで,大体はそうだと思うのだが,例外もあるのか?〔若干編集しました〕

一般論を言うと,ここで論じている労働の特徴は,個々人を無作為抽出してみれば,例外だらけになるでしょう。しかし,それはあくまでも例外,偶然性です。必然的なのは,インフレスパイラルの方です。何故ならば,実際に,これまでの人類の歴史で,いや毎日の日常においても,能力も欲望も上昇しているからです。この単純自明な事実こそは,例外が原則ではなく,例外だということを証明しています。

特殊論としては,どういう例外なのでしょうか? ありそうなものとしては,怠け者で,欲望だけは膨らんでいくのに能力は全然高まらないという感じでしょうか? ここのケースを見てみれば,そういう例外はいくらでもあるでしょう。

経済の世界は本当に大きく広い。それと正しくとらえるのには本来はどのくらいの範囲にわたって見なければならないのか?(授業でも物理学や生物学などの言葉が時々出てくるが)

物理学や生物学の話は,それ自体としては経済学には含まれません。そういう話が出てくるのは,この科目が労働という基礎に基づいて現代社会の生産力現象を位置付けようとしているからです。そのような理論的態度は,人間と自然,人間と生物との関連を扱わざるをえません。その行論上で,そういう話を取り扱いました。

それを前提して言うと,自然の話が入ってくるのは,まさに経済活動が生物としての人間の生き死にに関わってくる低レベルの(=自然寄りの,生物寄りの)活動を含んでいるからです。従って,経済活動の基礎を考察する際には,行論上,こういう話をするわけです。

これに対して,例えば政治活動のような,人間以外の動物には真似できないハイレベルな(=社会寄りの,人間寄りの)活動を扱う場合には,自然の話なんてあまり要らないのではないでしょうか(注2)。猿山のボス猿選びと選帝侯による皇帝選出とを比較したところで,それほど有意義な結論が出てくるとも思えません。

動物の一面的な自然の再生産とは? 一面的というのが分からない。

動物による自然の一面的な再生産は,人間によるその全面的な再生産と比較したものです。講義での例を使っていえば,ミミズはまわりの土と一体のものです。ミミズは生きるということそれ自体によって自分を再生産していきます;そのおまけとして自分の周りの土と再生産しています。が,せいぜいそれだけです。ミミズは自分と自分の周りの土とを区別した生き方をしていないので,自分の再生産のおまけとして自分の周りの自然の再生産をしているのにすぎません(ミミズと土とが違うというのは人間が見てわかることであって,ミミズ自身は自分自身とこのおまけとを区別するような生き方をしていません)。このちっぽけな世界こそがミミズにとっての全宇宙です。

これに対して,人間はまわりの自然から独立し,かと言ってまわりの自然を拒絶して真空に生きるのではなく,まわりの全自然を“自分のもの”として位置付けて,自分の都合よく使います。都合よく使うというのは,都合良く生み出すということを含みます。ホウレンソウを食べたら,その分(あるいはそれ以上)のホウレンソウを人間自身が生み出します。こうして,人間は自分にくっついていようと,遠くにあろうと,そんなことにはお構いなしに,自然を自分のものにしちゃっているわけです。これが全面的という意味です。まわりの自然と一体である限りでは,全面的には慣れないのです。

え? 人間の生命活動には酸素が必要だが,過酸化水素と二酸化マンガンで自分が吸う酸素を再生産している人を見たことがないって? 当たり前です。もともと,自然を都合良く生み出すというのは,何も自然を無から生み出すというわけではありませんし,ありとあらゆる自然の構成部分に介入するというわけでもありません(そんな非効率的で無駄・無意味なことはしません)。そうではなく,自然の法則を知り,それを使って自然の過程に介入し,よろしくやっちゃうわけです。神にでもなったつもりで自然法則に逆らうのではなく,自然法則を上手いこと使っちゃうのが人間です。ですから,植物が酸素を光合成してくれているのに,人間がそれに逆らって酸素を無理に使うことはないのです。これに対して,植物任せの状態よりも多く(例えば酸欠の病人),あるいは植物任せの状態とは異なる仕方で(例えば潜水中),酸素が必要である時には人間は自然を利用して酸素を自ら生産するでしょう。

別に植物任せにしているから,人間は酸素を“自分のもの”にしていないということではありません。“植物任せで何とかなるからそうしているだけだ”という時点で,その時点でもう,自然の過程に介入しちゃってます;地球上の酸素を“自分のもの”にしちゃってます。実際にまた,植物任せではどうにもならない時には,自分自身で生産するわけです。

ミミズはバカですからね。雨が降ると,苦しくなって地上に出て来ちゃいます。雨が上がって晴れると,アスファルトの上から戻れなくなって干物になってます。“つらいなら無理すんなよ,YOU,酸素を化学合成しちゃいなYO!”とか私は思ったりしますが,そんなことはミミズにはできません。いや,知識がないとかそういうレベルの問題じゃなく(人間も知識がなければ酸素を合成できないでしょう),ミミズはそもそもそういう風な“生き方”をしていないのです。自分をまわりの自然から独立させ,まわりの全自然を“自分のもの”として位置付けていないからです。これすなわち,ミミズは自然を一面的にしか生産できないということです。

物質代謝とは何か?

講義でやりましたが、古典的には:

  • 1. 周りの自然から必要なものを取得して,やがて周りの自然に不要なものを還していくということを通じて,
  • 2. 個体としての自己を維持し,種としての自己を生産し(要するに子孫を残し)ていくという,

生物のふるまいのことです。1.に着目して物質的な変換突き詰めれば,細胞レベルの代謝反応に帰着します(人間のような高度に発達した多細胞生物の場合には,物質代謝は個体の生命から独立します)。これに対して,この講義では,人間を全ての生物のモデルとしてとらえ,2に着目して自己というものを突き詰めていったわけです。

その系論として,人間の物質代謝の多くは,生産の媒介性によって規定されて,消費を含めて,多かれ少なかれ媒介的に行われています(例えば栄養を摂取するにしても友人たちと楽しみながら食事します)。そこで,この講義では,人間限定で,純粋に物質的な変換だけではなく,精神的な充足etcもまた人間の物質代謝に含めて考えることにしました。人間が自己を維持するめに必要な契機ですので。

以上,この講義における物質代謝の取扱については:

を確認してください。

犬が行うものは意志を持っていないと言っていたが,私が飼っている犬は明らかに意志を持っているように見える時がある。気のせいか?

気のせいじゃないでしょうが,この講義で定義しているような,厳密な意味での意志とは違うってことになります。

比較的に高度な動物の場合には,感情を持つほどに脳が発達していますし,ましてや犬のように極めて高度な動物の場合にはその感情を他者(飼い主を含みます)に表明できるほどに脳が発達しているでしょう。私は犬を飼っていないので当てずっぽうですが,犬のように高度に発達した動物は,散歩に行きたい時には散歩に連れてけと訴えかけるでしょうし,嫌いな食べ物があったら断固としてそれを拒絶しようとするでしょう。──しかし,それらの感情の表明は,この講義で述べている意志とは違います。

意志と言った時にポイントになるのは,意志とは従わせるべきものだということです。──何を? まずは自分自身を,それを通じて周りの自然を,さらには社会を。ここで決定的に重要なのは,出発点である自分自身を自分の意志に従わせるということです。あとはもう,自然も,社会も,自分自身の形態(自分の一部)なので同じことです。犬の例で言うと,飼い主に自分の気持ちを伝達できるかということではなく,自分自身を二重化しているのか(意志する自分と,この意志に従う自分)ということです。

自分自身を二重化しているかしていないかということは,ありとあらゆる場面で現れますし,講義の中でも色々な例を出したので,一つの例だけにしておきます。この点はいろんな面で現れるのであって,あなたの飼い犬はボールを追いかける時,別の動いているものを思わず本能的に追いかけてしまうことはないでしょうか? もしあるならば,その時,あなたの飼い犬は意志の形成に失敗しているのです(注3)


  1. (注1)正確に言うと,現代社会において初めて明瞭に現れた労働の完成形をとことん突き詰めてわかったのがどの人類社会にも共通な経済活動としての労働です。それ故に,現代社会における労働さえも,どの人類社会にも共通な経済活動としての労働とは一致しません。例えば,ここで問題になっている自覚性も,会社の中で,“どうせ他人の命令で嫌々俺は働いているんだ”と思っている限りでは,十分に発揮されないでしょう。逆に,会社の中で金が欲しくて堪らなくて一生懸命働く限りでは,自覚性が発揮されるでしょうが,それでは《会社=社会》の思う壷,というか,個人が社会を自由自在に自覚的に使うのではなく,《会社=社会》に個人が使われていることになってしまうでしょう。

    しかしまた,このような現代社会における労働の自覚性の中から,現代社会を現代社会たらしめる特徴を剥ぎ取ってしまうとどうなるでしょうか。例えば,会社の命令で嫌々とか,金が欲しくて堪らなくてとか,そういう特徴です。と言うのも,会社なんてのは,前近代にはなかったからです。そこで出てくるのが,どの人類社会にも共通なものとしての労働の自覚性です。

  2. (注2)もちろん,政治活動の定義にもよるでしょうが,どういう定義をしようとも,人間の経済活動は人間固有のものとして定義しなければならないのと同様に,人間の政治活動もそのようなものとして定義しなければ,現代の政治現象の解明には役に立たないでしょう。そうである限り:

    • ヒッキーの政治活動なんてありうるはずもなく,政治活動は必ず社会を前提するはずです

    • また,単にぶん殴って殺しちゃったり,場所をどかせたりするなんてのも,人間の政治活動ではないでしょう。人間の政治活動である限りでは,暴力で他者を無理矢理従わせるのであろうと,合意形成で権力の形成に向かうのであろうと,いずれにせよ,意志を媒介にするはずです。

  3. (注3)え? 人間でも思わず本能的にそういうことをしちゃうってことがあるって? はい,そういう時は,人間もまた,自分の意志ではなく,自分の本能に従っているのです。しかしまた,人間はそうではない活動もしています。大工の例で言うと,あらかじめたてた作業手順(これ自体は構想の実現に含まれます)に基づいて,自分の体や自分のカナヅチをたえず意識的に動かして家を完成させる時に,この大工は自分の意志を形成しているのです。あるいは,作業手順の分担について,私は東側を担当し,君は西側を担当してくれ,なんて合意(共通意志)形成に至った時,この大工は社会関係を自分の意志に従わせているのです。