質問と回答

市場社会では,国民の大部分が盗みを正当化したら崩壊してしまうので,そのような意味ではある意味自由,平等,私的所有を思い込むことで成立していると思う。国民の大部分がその様な考えを変えると崩壊してしまうという意味で,市場社会は脆弱だと思う。

政治経済学1では以下の事柄を論じました:

  • 市場社会には実体がないのだから,今すぐ世界中の人々が商品交換を止めれば直ちに消滅する。
  • しかし,交換関係は生産関係に基づいている。
    • ここでの文脈でいうと,交換は選択の自由の問題ではなく,生産レベルにおいて必然化されている。要するに,生産者はたまたま余ったものを市場で販売するのではなく,最初から市場むけに生産している。その帰結として,消費者もたまたま足りないものだけ市場で購買するのではなく,欲しいものはほぼすべて市場で購買する。現在の生産関係──商品生産関係──を前提する限り,われわれは交換しないと生きていけない。
  • それゆえに,1秒後にはすぐに市場社会が復活するだろう。

こういうわけで脆弱だというのは全くその通りであり,この脆弱性を補完するために市場の外からの法的・政治的・道徳的な,一言で言って自覚的な(注1)制度設計が必要になります。制度設計というと大げさですが,おまわりさんが泥棒をとっ捕まえるというのもこれに当たります。

しかしまた,現代市場社会が崩壊しても,ローマの崩壊のような自滅にはなりにくいと思います。(世界の一部ではほとんど無法状態になっている地域がありますが,そういう地域はむしろ商品生産の未発展から説明されうると思います)。

前近代での共同体の中の個人と現代での共同体から抜け出た個人の違いがイマイチわかりにくかった。責任の有無か?個人における責任はどちらも同じだと思うが。共同体にいようと,いなかろうと。

個人における責任が前近代的共同体と現代市場社会とで同じかどうかについて言うと,原則と例外とが違うと思います。市場社会としての現代社会において,個人責任が原則で,連帯責任は(特定の条件を必要とする)例外です(注2)。これに対して,前近代的共同体においては,非常にしばしば連帯責任が原則になります。一方では,行為能力が個人にある場合にでも個人の責任が連帯に押し付けられます(村八分から一族皆殺しまで)。他方では,行為能力が個人にない場合にでも連帯の責任が個人に押し付けられます(お家のために死んでくれい)。どちらも個人が共同体に埋没している証拠の一つです(注3)

前近代的共同体においては,共同体が主体で個人がその手足になっているものです。この場合の個人というのは,別に百姓だけではありません。殿様から最下層の身分に至るまで全員が共同体の器官です(殿様は手足ではなく頭でしょうが,共同体の単なる器官であるという事に変わりはありません。共同体の存続が第一であって,そのためにはすげ替えは効くものです。ところがまた,共同体の存続が第一であるからこそ,誰でもいいというわけではなく,その世襲的原理に基づくすげ替えしか,つまり血縁関係に基づくすげ替えしか選択することができないのです)。

前近代的共同体が持続的・安定的に運営される際のキーワードである世襲制というものを考えてみてください。リーダーがその能力に関わりなく世襲でなければならないということ自体,個人が共同体に埋没している証拠です。現代人の感覚から見るとおかしなものだと思うのですが,重要なのは個人の能力よりもみんなが従うかどうかです。どんなに能力があっても,みんなが従ってくれなければどうにもなりません。共同体の安定・持続が第一義であるからこそ,同じ構造を保障する世襲制がマッチするわけです(マックスウェーバーの“伝統的正統性”)。

え?前近代的共同体は英雄の時代でもあるんじゃないかって?英雄は多かれ少なかれ共同体に埋没せずに共同体から自立した個人としてイメージされます。しかし,正にこのことは共同体への個人の埋没を意味しています。共同体に埋没しているからこそ,共同体に埋没していればしているほど,そうではない個人を渇望するわけです。とは言っても,その個人の力の大部分は実は共同体構成員の力です。共同体構成員の力を個人に負わせているわけです。そして,世襲的な共同体がもはや時代にマッチしなかった時には,単なる世襲とは別の原則が必要になるのです。特に旧来の共同体から新しい共同体に移行する時期には甚だしくなります(マックスウェーバーの“カリスマ的正統性”)。

所有はその原因としての労働に基づくとの見解だったが,所有なくしての労働とはどのようなものだろうか。

労働が社会(たとえ,本来の社会ではなく,原始的な前近代的共同体であっても)を形成し,その中で行なわれるようになれば,労働は必ず所有を前提します(同様に所有は労働を前提します)。つまり,そのような条件のもとでは,所有なくしての労働というのはありえません。

もちろん,労働の発生地点を想像してみるならば,そこではまだ所有は発生していませんでした。所有とは,ただ単に対象物を持っているだけでは駄目であって:

  • 自分が対象物に対して自分のものに対する仕方で社会に向けて振る舞い,かつ
  • 社会がそのことを媒介する(要するに,社会がそのことを認める)

ということが必要でした。その意味では,時間的な順番でも,──ここで述べているような社会を生み出すのが労働である以上──,労働の方が所有よりも先に生まれます。要するに,群れ(まだ動物集団にすぎない)からはぐれた人間が労働をおこなっているような姿として,所有なくしての労働をイメージすることはできます。しかし,所有が根拠か労働が根拠かという議論においては,こういう原始時代のような話はおよそ問題になりません。あくまでも,現代社会の所有現象を解明するための問題設定です。

同じような誤解が繰り返し生じているところを見ると,私の説明の仕方が悪かったのでしょう。社会の中で労働が行なわれている限り,労働が所有を前提し,かつ所有が労働を前提しているというのが議論の大前提です。このような相互的な関連,相互的な前提の中で,じゃどっちが規定的なのよ,というのを考えてみたわけです。そして,その解答については,未熟な前近代的共同体のイメージにおいてはこれを解きえず,ただ成熟した現代社会の分析によってのみこれを解きうるということになったわけです。

相互の自由意志の結果としての社会,市場が形成されるとあるが,自由意志というものの条件がよくわからない。あと略奪行為は商品交換でも相互承認でもないが,結果として略奪した者の物として私的所有が社会で認められる場合(戦争)がある。これをどう考えたらいいのか。

2012年10月25日追記:読み直してみたら,結果として略奪した者の物として私的所有が社会で認められる場合として,質問者が戦争を明示しているのに気付きました。当方の転記ミスでした。回答を一部変更します)。

自由意志の条件というのは難しいですよね。実質的な条件ではなく,形式的な条件なので。商品交換については,自由意志による契約は流通の内部での形式的なタテマエです。簡単に言うと,互いに命令されたりしないということです。コンビニの店員と私とが互いに命令したりするのではなく,売りたいから売り,買いたいから買う。そしてそれの派生としては,私と私の背後にある社会関係についても,自由意志で結ばれているということを想定するしかありません。要するに,背後の社会関係を問題にしません。しかし,背後の社会関係を問題にしないということは,その社会関係もまた自由意志で結ばれているということを想定するしかないということを意味します。と言うのも,商品交換には他に原理がないのですから。自由意思だってタテマエでやってる以上,背後が見えないからといって,その背後がホントは自由意思に基づいていてないってわけにはいかないのです。

むしろ,背後が見えないということはこの原理にとっては都合がいいのです。背後を問題にしなくていいわけですから,いくらでもこの原理を一般化することができます。内容(背後の関係,すなわち,交換関係を生み出している生産関係)から分離した形式だからこそ,私的所有は労働から,または占有から,分離することができるのです。一度も見たこともない土地であっても,その所有権が社会から承認されていれば(最終的には行政機関への登記によって担保されます),私的所有として成立するわけです。

逆に言うと,背後の強制関係が交換関係においてバレちゃったら,市場のタテマエからして,この強制関係を正当化することはできません。私が自分の銀行口座から自分の意志で金を下ろすのは商品交換の原理にマッチしており有効です。この場合に,私の背後にどういう強制関係があろうと,通常の注意義務を行員が負っている限りでは,自由意志のタテマエが通用し,取引も有効です。けれども,銀行のドアの向こうに,私のバッグに爆弾を仕掛けて,トランシーバで金を下ろせと命令している犯人の姿が見えてしまったら,その取引を認めるわけにはいかないでしょう。つまり,行員は(犯人にはわからないように)警察に通報するでしょう。

資本主義社会としての現代社会においてもやはり,市場社会としての現代社会の,交換におけるこの形式的な自由意志の関係に対して,実質的な強制関係がバレちゃいます。とは言っても,もちろん,資本主義社会としての現代社会は犯罪によって成り立っているわけでは決してありません。しかしまた,市場社会としての現代社会が想定する自由・平等・私的所有の原理で成立しているわけでもありません。不自由・不平等・私有否定(自己労働に基づく個人的な私的所有の否定)は最初は隠蔽されているのですが,資本主義的生産が発展すればするほど,露呈してしまうものです。このように,現在では,背後にある強制関係(資本・賃労働関係)がすすけて見えてしまっているのが市場での商品交換の現状です。この問題を,政治経済学2では特に私有否定に着目して論じていきます。

結果として略奪した者の物として私的所有が社会で認められるというのは,手形などの善意取得や土地などの時効取得ではなく,文字通りの意味(暴力的な取得)で考えていいのですよね? 市場をつうじての(承認を通じての)所有の原理と,戦争をつうじての(暴力をつうじての)所有の原理とが異なるということに留意して下さい。そしてまた,現代社会が市場社会であるからこそ,市場の所有原理が社会の所有原理として一般化しているわけです。このような原理が一般化している現代市場社会では,暴力をつうじての所有はそのものとしては承認されません。

以下,質問者の意図を外してるかもしれないので,関連する問題として,三点だけ補足しておきます。

  • 現代社会における非市場的な取得を考える際には,譲渡をつうじての取得があります。これは自由意志による取得です。

  • 無権利者からの手形などの善意取得について言うと,その正当化事由は取引安全による商品流通の活性化であって,要するに,この講義の分類で言うと,本来の正当化ではなく,機能的な擁護です。

  • 他人の不動産などの時効取得の場合には,誰でも納得することができるような明快な正当化事由はありませんし,何よりも占有状態の持続を条件とするという点で,それはこの講義で扱っている一般化・形式化可能な私的所有権の観点からは例外的と考えるべきです(注4)。例外的というのは,実務上大したことないという意味ではなく,そこから現代社会の所有現象を展開していくのは無理ということです。


  1. (注1)講義内で述べたように,部分としての個別的な商品交換は自覚的な関係ですが,全体としての市場社会は無自覚的に形成されたものです。市場社会は,独裁者がつくったわけでもなければ,みんなが合意してつくったわけでもなく,みんなが欲しいものを手に入れるために商品交換したらいつの間にかできちゃった社会です。

  2. (注2)これはあくまでも共同体からの個人の分離に基づく市場社会としての現代社会の話です。組織社会である資本主義社会としての現代社会においては,前近代的共同体とは全く異なった意味で,個人の責任の限界が現れてきます。それは社会の至るところで現れるのですが,この政治経済学2では,端的に言って株式会社の責任という形でそれを取り扱います。

  3. (注3)原則というのは,無数の例外を含みうるものだと考えてください。ぶっちゃけ,前近代的共同体においても,お家のために死んでくれなんていうのはそれほどおおくはなかったのかもしれません。逐電しちゃうやつも多かったのではないでしょうか。それにもかかわらず,労働を起点として生み出されている共同体の構造は規範として個人の意識と行動とを制約しているわけです。

  4. (注4)特に,時効についての正当化事由の多くは,この講義の分類で言うと,機能的な擁護であって,本来の正当化にはなっていません。