このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2015年05月12日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
奴隷の場合には,そもそも形式的にも自由・平等は成立しません。会社の従業員の場合には,市場の内部,つまり労働力市場では,形式的には自由・平等が成立しています。
市場の外部と言っても,いろいろあって,たとえばこの従業員の家庭生活も市場の外部です。けれども,ここで問題にしている市場の外部とは会社
の内部のことです。
もともとのことを言うと,市場社会では生産と交換とが時間的にも場所的にも分離します。市場の内部とは交換の場面のことであり,市場の外部とは何よりもまず生産の場面のことです。資本主義的営利企業が出てくると,どの企業も流通過程そのものを企業が運営することになります。しかし,その場合でも,市場で,例えば,この会社の内部の上司と部下とのような対内関係はこの会社の流通過程においても市場の外部の関係であって,これに対して,この会社とお客さんとのような対外関係は市場の内部の関係になります。
えっと,分からない
のは実質的に自由・平等かということです。やや乱暴に言うと,交換の根拠である生産では自由・平等の原則が支配してるのかということです。で,市場にとって自由性や平等性は本当に全く影響し
ます。交換が成立したということは形式的に自由・平等が成立したというこです。
なりません。
一方では,資本主義社会は搾取・不労所得に基づいています。労働しなくても,他人の労働を搾取によって所有が成立しています。
他方では,自由・平等が社会的な原理になるということは,止むを得ない理由で労働ができない人(失業者,労働困難者,労働不可能者)の所得を,したがってまた所有をも,保証することになります。これもまた,労働による社会形成の帰結です。
労働と所有との一致の問題については,政治経済学2で詳しく見ていくことになります。
奴隷主だろうと奴隷主でなかろうと,奴隷が生産したオリーブだろうと自営の農民が自ら生産したオリーブだろうと,オリーブを市場で販売する限り,形式的自由の原理が生じます。
すべては自由から始まります。
二者の社会関係において一方だけが一方的に自由だということが,また数多くの人たちの社会関係において少数者だけが自由だということがありうるわけです。
これに対して,商品交換においては,両者が自由だという建前(形式)になります。これだけでも,形式的平等の原理が形式的自由の原理とは違うものとして,ただし形式的自由からはせいするものとして,現れてきます。
資本主義社会の成立です。
資本主義社会では,市場外では実質的に自由・平等が否定されます(それどころか正反対になります)が,市場の中を見ると,相変わらず,形式的に自由・平等が成立しています。
やがて,この二分法(市場の外と市場の内)も破綻して,市場の外の現実が市場の中にも侵食してきて,形式的な自由・平等は形骸化されているということがバレてしまいます。私法の制限と社会法・経済法の成立はこのような現実の反映です。例えば,労働力市場は,個々の労働者と資本主義的営利企業とは平等だという建前ではもはややっていけません。建前上自由なんだから労働者が同意すれば時給100円でもいいよね,とか1日15時間働かせてもいいよね,とかにはなりません。
グローバル化を世界化と考える限りでは,これまでの歴史では,つまり歴史的事実としては,市場社会が前提条件でした。ただしまた,やはり歴史的事実としては,市場社会が成立するためには資本主義社会が必要でした。
労働力移動の場合には,動機とともに阻害要因を考えなければなりません;すなわち,単に賃金と労働条件とが労働力移動の動機になるだけではなく,言語・文化の相違,生活水準の相違,そして何よりも政策的な移民制限が労働力移動の阻害要因になっています。こう言うわけで,現状,資本の移動がほぼ完全にグローバル化しているのに比べて,労働力の移動はまだまだグローバル化したとは言えません。
この点については,政治経済学2で考察することになります。なお,以下をも参照してください。
講義で強調したように:
こう言うわけで,──前近代的共同体のようにたまたま余った生産物だけを市場で販売するのとは違って──商品生産関係に組み込まれている限りでは,その交換をおこなっていない時点の人は市場社会の一員
であり続けます。行為は一瞬でも関係は持続するのです(この点は政治経済学2で所有関係に即して見ていくことになります)。
資本主義の成立とともに,市場社会が完成します。
一応,この講義で市場社会といった場合には,世界で一つの市場社会というグローバルな社会を考えています。したがって,この講義の抽象レベルでは,日本の市場社会とか,アメリカの市場社会とか,中国の市場社会とかは定義されません。
それを前提にした上で,抽象レベルを下げてより具体的に考えると,中国なんかは,なんとか市場社会,遅れた市場社会です。
商品交換は形式的自由・形式的平等の原理を生みます。したがって,市場社会の政治的表現である現代的国家において,形式的自由・形式的平等・私的所有が個人の権利として法律的に通用するようになります(日本なんかでは,憲法の基本的人権の尊重の原則)。しかし,これは市場社会の完成です。そこにいたるまでのプロセスでは,専制国家が市場に介入して,資本主義を暴力的に育成することによって,経済成長を促進するというのが普通です。その場合に,専制国家は自由・平等を弾圧します。
なお,中国の現状については,以下をも参照してください:
市場社会の完成形態を考えてみると,そこでは,すべての社会的生産物が市場向けに生産され,すべての社会的生産物が市場で購買されるということになります。なんでこれが完成形態かと言うと,社会的生産のすべてを市場が支配しているからです。このような完成形態としての市場社会において,それだけあれば,他に何もなくてもこのような完成形態ができあがるよね,と想定することができるのが私的生産の純粋モデルです。より適切に言うと,私的生産の必然的・範疇的形態と言うことができます。これに対して,例えば,サープラスだけ市場で販売するという私的生産のモデルだけでは,市場社会は完成しません。
自分もその野菜を食べ,市場でも販売する場合は,何モデルと言えるのか?
──中間形態(中間モデル)です。
物質代謝を自分自身で効率的に運営している限り,必ず経済活動を行っています。『[2.5] 効率的運営から社会的運営への移行』の「効率的運営」を参照してください。
うーん,江戸時代の年貢と現代国家の租税との対比を講義内で行ったので,このような結論が出てきたのでしょう。ただし,現代でも,租税は強制徴収であって,交換ではありません。“私は国家のサービスは不要です”,と言っても,やっぱり税金は取られます。年貢と現代の租税とで根本的に違うのは国家の性格です。
労働によって得られた剰余価値が他人の労働力を購買するという理解でいいのか?
──詳しくは政治経済学2で見ることになります。理論的には,前提としては,自己労働によって獲得した価値が他人の労働力を購買するということでも構いません(歴史的には,このことは当てはまりません)。しかしまた,資本蓄積を繰り返していく中で,他人労働の搾取によって得られた剰余価値が他人労働力の購買の,したがって他人労働の搾取の条件になります。後者の点については以下を参照してください。
物が売れない不況時には失業者が多くなるが,これは労働の剰余価値がなくなるのか,それとも会社の都合なのか?
──ちょっと質問の主旨が分かりませんが,通常,不況期には剰余価値が減少しますし,それは会社の都合でもあります(剰余価値を生産しても剰余価値を実現できない,つまり商品が売れないのだから,会社は倒産したり,資本を廃棄したり,工場の稼働率を低下させたりする)。
国庫から皇室費が出ています。その他の収入については知りません。
当然に,バランスを崩してしま
います。
商品はなによりもまず人間にとっての有用性を持つもの,つまり人間にとって有用なものです。誰にとっても無用なものはゴミであって,商品にはなりません。このような有用性(効用)が商品の使用価値をなします。このような有用性は商品の物的諸属性と不可分なものです。その限りでは,使用価値とは有用物と,言い換えることが可能です。
当然に含まれます。