1. 商品交換の原理

自由と平等の形式性の中で市場の内部,外部という表現があったが,いまいち理解できなかった。実質的に自由かどうかは外部での事情であるとあったが,だとすれば奴隷の例もまた同じではないのか?会社の業務命令での売買と奴隷の例の違いがよく分からなかった。

奴隷の場合には,そもそも形式的にも自由・平等は成立しません。会社の従業員の場合には,市場の内部,つまり労働力市場では,形式的には自由・平等が成立しています。

市場の外部と言っても,いろいろあって,たとえばこの従業員の家庭生活も市場の外部です。けれども,ここで問題にしている市場の外部とは会社の内部のことです。

もともとのことを言うと,市場社会では生産と交換とが時間的にも場所的にも分離します。市場の内部とは交換の場面のことであり,市場の外部とは何よりもまず生産の場面のことです。資本主義的営利企業が出てくると,どの企業も流通過程そのものを企業が運営することになります。しかし,その場合でも,市場で,例えば,この会社の内部の上司と部下とのような対内関係はこの会社の流通過程においても市場の外部の関係であって,これに対して,この会社とお客さんとのような対外関係は市場の内部の関係になります。

市場の内部だと,自由性,平等性は分からないということだったが,市場にとって自由性や平等性は本当に全く影響しないのか?

えっと,分からないのは実質的に自由・平等かということです。やや乱暴に言うと,交換の根拠である生産では自由・平等の原則が支配してるのかということです。で,市場にとって自由性や平等性は本当に全く影響します。交換が成立したということは形式的に自由・平等が成立したというこです。

労働によらない所有,例えば盗みは犯罪だが,その他の場合でも労働によらない所有は犯罪になるのか?

なりません。

  • 一方では,資本主義社会は搾取・不労所得に基づいています。労働しなくても,他人の労働を搾取によって所有が成立しています。

  • 他方では,自由・平等が社会的な原理になるということは,止むを得ない理由で労働ができない人(失業者,労働困難者,労働不可能者)の所得を,したがってまた所有をも,保証することになります。これもまた,労働による社会形成の帰結です。

労働と所有との一致の問題については,政治経済学2で詳しく見ていくことになります。

奴隷主が奴隷の産出したオリーブを市場で売買することは,奴隷主と奴隷の関係は市場の外部での事情なので形式的自由な商品交換として認められるのか?

奴隷主だろうと奴隷主でなかろうと,奴隷が生産したオリーブだろうと自営の農民が自ら生産したオリーブだろうと,オリーブを市場で販売する限り,形式的自由の原理が生じます。

形式的自由と形式的平等は同じ性格を有するものと感じ,この二つの違いがよく分からなかった。

すべては自由から始まります。

二者の社会関係において一方だけが一方的に自由だということが,また数多くの人たちの社会関係において少数者だけが自由だということがありうるわけです。

これに対して,商品交換においては,両者が自由だという建前(形式)になります。これだけでも,形式的平等の原理が形式的自由の原理とは違うものとして,ただし形式的自由からはせいするものとして,現れてきます。

2. 市場社会と私的生産

前近代的共同体においては補完的な市場であったということだが,そこから現代市場社会のように市場取引用の生産に切り替わっていくきっかけとなった理由,時期というのはいつなのか?

資本主義社会の成立です。

市場外部での諸要因と市場での,形式的とは言え,自由や平等が成立しないならば,市場よりも市場外のことを気にしなければならないのではないか?

資本主義社会では,市場外では実質的に自由・平等が否定されます(それどころか正反対になります)が,市場の中を見ると,相変わらず,形式的に自由・平等が成立しています。

やがて,この二分法(市場の外と市場の内)も破綻して,市場の外の現実が市場の中にも侵食してきて,形式的な自由・平等は形骸化されているということがバレてしまいます。私法の制限と社会法・経済法の成立はこのような現実の反映です。例えば,労働力市場は,個々の労働者と資本主義的営利企業とは平等だという建前ではもはややっていけません。建前上自由なんだから労働者が同意すれば時給100円でもいいよね,とか1日15時間働かせてもいいよね,とかにはなりません。

個々の交換が結果的に自分以外の人間にも社会的に関係していくようになる市場社会の形成がグローバル化の前提条件になっているのか?

グローバル化を世界化と考える限りでは,これまでの歴史では,つまり歴史的事実としては,市場社会が前提条件でした。ただしまた,やはり歴史的事実としては,市場社会が成立するためには資本主義社会が必要でした。

労働力市場がグローバル化すると言った時,具体的な労働力市場のイメージがつかみにくい。

労働力移動の場合には,動機とともに阻害要因を考えなければなりません;すなわち,単に賃金と労働条件とが労働力移動の動機になるだけではなく,言語・文化の相違,生活水準の相違,そして何よりも政策的な移民制限が労働力移動の阻害要因になっています。こう言うわけで,現状,資本の移動がほぼ完全にグローバル化しているのに比べて,労働力の移動はまだまだグローバル化したとは言えません。

この点については,政治経済学2で考察することになります。なお,以下をも参照してください。

商品交換は相互の合意,利益の一致で成り立ち,終わったら消滅するものとあるが,その交換をおこなっていない時点の人は市場社会の一員として考えていいのか?

講義で強調したように:

  • 一面では,市場社会には実体がないから,みんなが商品交換を止めたら市場社会は直ちに消滅します。しかしまた,
  • 他面では,商品交換が商品生産関係によって必然化されている限りでは,つまり生産が完全に市場向けの生産になっている限りでは,商品交換そのものが必然的なものとしてみんなに対して外的に(つまりみんなの意志に関わりないものとして)強制されています。

こう言うわけで,──前近代的共同体のようにたまたま余った生産物だけを市場で販売するのとは違って──商品生産関係に組み込まれている限りでは,その交換をおこなっていない時点の人は市場社会の一員であり続けます。行為は一瞬でも関係は持続するのです(この点は政治経済学2で所有関係に即して見ていくことになります)。

市場社会は資本主義を前提としているということか?

資本主義の成立とともに,市場社会が完成します。

現代の中国のように取引や交換が多くされているが,政府によって自由や平等が制限されている社会はいわゆる“市場社会”だと定義することができるか?

一応,この講義で市場社会といった場合には,世界で一つの市場社会というグローバルな社会を考えています。したがって,この講義の抽象レベルでは,日本の市場社会とか,アメリカの市場社会とか,中国の市場社会とかは定義されません。

それを前提にした上で,抽象レベルを下げてより具体的に考えると,中国なんかは,なんとか市場社会,遅れた市場社会です。

商品交換は形式的自由・形式的平等の原理を生みます。したがって,市場社会の政治的表現である現代的国家において,形式的自由・形式的平等・私的所有が個人の権利として法律的に通用するようになります(日本なんかでは,憲法の基本的人権の尊重の原則)。しかし,これは市場社会の完成です。そこにいたるまでのプロセスでは,専制国家が市場に介入して,資本主義を暴力的に育成することによって,経済成長を促進するというのが普通です。その場合に,専制国家は自由・平等を弾圧します。

なお,中国の現状については,以下をも参照してください:

最後の野菜農家の例示のところで,純粋モデルでは,生産したものはすべて市場に対して作った者といっていたが,そもそも「純粋モデル」とは何か?もし,自分もその野菜を食べ,市場でも販売する場合は,何モデルと言えるのか?

市場社会の完成形態を考えてみると,そこでは,すべての社会的生産物が市場向けに生産され,すべての社会的生産物が市場で購買されるということになります。なんでこれが完成形態かと言うと,社会的生産のすべてを市場が支配しているからです。このような完成形態としての市場社会において,それだけあれば,他に何もなくてもこのような完成形態ができあがるよね,と想定することができるのが私的生産の純粋モデルです。より適切に言うと,私的生産の必然的・範疇的形態と言うことができます。これに対して,例えば,サープラスだけ市場で販売するという私的生産のモデルだけでは,市場社会は完成しません。

自分もその野菜を食べ,市場でも販売する場合は,何モデルと言えるのか?──中間形態(中間モデル)です。

自給自足の農家などは経済活動を行っていると言えるのか?

物質代謝を自分自身で効率的に運営している限り,必ず経済活動を行っています。『[2.5] 効率的運営から社会的運営への移行』の「効率的運営」を参照してください。

3. その他

現代の税制度は一応,交換であると言えよう。税を納め,直接的に何かをもらえるわけではないが,その税が生活・暮らし・学校などで使われ,私たちの生活に影響を与えている。

うーん,江戸時代の年貢と現代国家の租税との対比を講義内で行ったので,このような結論が出てきたのでしょう。ただし,現代でも,租税は強制徴収であって,交換ではありません。“私は国家のサービスは不要です”,と言っても,やっぱり税金は取られます。年貢と現代の租税とで根本的に違うのは国家の性格です。

資本主義社会においては「労働力は市場で他人の労働力を購買する」とあるが,労働によって得られた剰余価値が他人の労働力を購買するという理解でいいのか? もし上記の前提があったとして,物が売れない不況時には失業者が多くなるが,これは労働の剰余価値がなくなるのか,それとも会社の都合なのか?

労働によって得られた剰余価値が他人の労働力を購買するという理解でいいのか?──詳しくは政治経済学2で見ることになります。理論的には,前提としては,自己労働によって獲得した価値が他人の労働力を購買するということでも構いません(歴史的には,このことは当てはまりません)。しかしまた,資本蓄積を繰り返していく中で,他人労働の搾取によって得られた剰余価値が他人労働力の購買の,したがって他人労働の搾取の条件になります。後者の点については以下を参照してください。

物が売れない不況時には失業者が多くなるが,これは労働の剰余価値がなくなるのか,それとも会社の都合なのか?──ちょっと質問の主旨が分かりませんが,通常,不況期には剰余価値が減少しますし,それは会社の都合でもあります(剰余価値を生産しても剰余価値を実現できない,つまり商品が売れないのだから,会社は倒産したり,資本を廃棄したり,工場の稼働率を低下させたりする)。

例に殿様の例があったが,今の皇族はどこから収入を得て商品を買っているのか?

国庫から皇室費が出ています。その他の収入については知りません。

もし予想の生産が天候や労働力不足で減少してしまった場合,この市場社会のメカニズムはバランスを崩してしまうのではないか?

当然に,バランスを崩してしまいます。

価値と使用価値との違いがよく分からない。

商品はなによりもまず人間にとっての有用性を持つもの,つまり人間にとって有用なものです。誰にとっても無用なものはゴミであって,商品にはなりません。このような有用性(効用)が商品の使用価値をなします。このような有用性は商品の物的諸属性と不可分なものです。その限りでは,使用価値とは有用物と,言い換えることが可能です。

サービスは商品交換には含まれるか?

当然に含まれます。