このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年11月18日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
2015年01月25日:ちょこちょこと更新・追加。
利貸関係
とは,企業向け設備投資資金長期貸付のことでしょうか? それはまぁ,信頼も必要かもしれませんが,基本的には信用が必要だというのがこの講義の考え方です。
国内貨幣市場に関してどの投機マネーよりも多くの利益を求めている
については,そんなことを言った覚えはないので,ちょっと答えられません。もし企業向け設備投資資金長期貸付について言っているのであるならば,それは利子の総量についてはともかく利子率については非常に低利にならざるを得ません。これは,直接金融市場(株式・社債等市場)の発達を別にしても,企業向け設備投資資金長期貸付の年利子率は期待利潤率以下にならざるをえないからです。直接金融市場が発達するのにつれて,ますますこの下方圧力は強まります。
もし本当に信用があったら,それは客観的に通用しうるものですから,他の高利貸しもこの人の支払能力を信用して貸そうとするようになり,結局のところ,利子は高利ではなく,下がっていくはずです。自分以外の誰もその人の支払能力を信用していないと言うことだと,やはり,主観的な信頼の側面が高くなるのではないかと思います。
以上を前提として言うと,前近代にも,客観的な信用に基づいて貸し付けるということが絶対になかったのかと言うと,それはまぁ,例外的にはありえたと思います。
ここで述べているのは,恐慌の定義あるいは恐慌の原因ではなく,恐慌という形でハードランディングするしかないということの理由です。景気循環上の理由を別にしても,もともと人々の欲求は絶えず変化するものです。それに応じて,社会的労働は弾力的に変化することができます。しかし,資本(=私的所有物)の方はそうではありません。だから,資本が過剰になっても,スムーズに減ることができず,資本の価値破壊という形で,需給不一致を調整するしかないわけです。
もともと工場も危機設備も物としては弾力的に増えたり減ったりすることができないではないかと思われるかもしれません。しかし,問題はそこではないのです。ただの物ならば,儲けが減ったら稼働率を落とせばいいだけの話です。しかし,資本は私的所有物であり,カネモウケするべきものです。儲けが減り始めたら,なおいっそうのこと稼働して少しでも儲けようとするわけです。こうして,もう生産すればするほど赤字になるまで生産してしまい,そうすると今度は弾力的にではなく,一気に稼働率をゼロ近くまで落とすか,あるいは閉鎖してしまうか,そこまで追い込まれるのです。
えっと,社会的労働の方も,短期的に一社会の労働力人口総数が一定かつ社会的生産力水準が一定だと仮定します。もちろん各個人の労働時間は弾力的に変化することができるのですが,これも一日24時間という物理的な限界がありますし,それ以前に生理的な限界があるでしょう。そうすると,最終的には,一社会の全体の社会的労働ももちろん総量としては制限されているのです。
しかし,個々のプロジェクトを考えてみると,プロジェクトごとに必要な労働が変わります。これは結局のところ,生産物の種類とそれに対する需要量が決めます。多くの場合に,一つの企業は複数のプロジェクトに参加しますし,同じ一つのプロジェクトを行う複数の企業が存在します。例えば,カップ焼きそばという生産物を生産するプロジェクトを考えてみると,複数の企業がカップ焼きそばを生産していますし,そのどの企業もカップ焼きそば以外の生産物をも生産しているでしょう。──以上のところで,プロジェクトが社会的労働の単位であり,企業が私的所有の単位であるということに留意してください。もちろん,プロジェクトには,生きた労働だけではなく,生産手段も必要です。しかし,この生産手段も労働生産物であり,社会的労働の一定量なのです(注1)。
大きなプロジェクトには必要な社会的労働の量は多くなければなりませんし,小さなプロジェクトには必要な社会的労働の量は少なくて済みます。いずれにせよ,労働の方はいくらでもくっついたり離れたりすることができるので,一社会の全体の社会的総労働の枠内であれば,いくらでも有機的に増えたり減ったりすることができます。もちろん,他のプロジェクトとの間に競合が起きますが,それはそれで一社会の全体の社会的総労働の問題です。──これが社会的労働の無制限性の一例です。
これに対して,個人的な私的所有の方は個人によって絶対的に制限されています。私が一億円かかるプロジェクトに参加することができないのは,私という個人が一億円を私的所有していないからです。そして,もしこのような私的所有の制限を克服していくような社会的・制度的なメカニズムがないのであれば(そして,このようなメカニズムを私的所有の制限から展開していくのが今後の講義の内容になります),社会に存在する他の個人が私的に所有している価値額が超能力なんかで,有機的に,プロジェクトにあわせて,私が私的に所有している価値額にくっつくなんてことはありませんし,また私が私的に所有している価値額が,魔法なんかで,なんの経済活動もなしに増殖するなんてこともありません。──これが私的所有の制限性の一例です。
社会的労働と私的所有の場面で……つぎはぎして補正するということでいいのか
──その通りです。私的所有がカネモウケに邪魔だからといって,私的所有をなくしてしまったら,カネモウケはできません。
シャツを着ている人の体が大きくなるというのは,……国外に出て行くというつなげ方でいいのか?
国内でもどんどん大きくなるのです。国外にも手を広げるというのはその帰結です。
有機的なのは労働ですから,資本家がとか,労働者がとかはとりあえず関係ありません。その上で言うと,資本主義的生産においては,基本的に,社会的労働を組織する(organize=有機化する)のは資本です。この場合に,有機的になった社会的労働は,むしろ,個々の賃金労働者にとっては,よそよそしいもの,他人のものです。と言うのも,実際に社会的労働を管理し,ハーモナイズさせているのは資本を代表する資本家なり,資本家から権限を委譲された管理労働者(専門的経営者から一般管理職まで含む)なりです。その意味では,あなたの言っていることは核心を突いています。
カネモウケの無制限性の話をした時に,貨幣の限界効用は逓減するとは限らないという話をしたので,こういう疑問が生じたのだと思います。で,この問題は私的所有が社会的労働を制限する場合にも,当てはまるのです。ここで言う私的所有制限性は資本が“無制限にカネモウケしよう,そのためにはなんでも利用しよう”と追求していく中で,私的所有のせいでカネモウケが阻害されるということを意味しています。
生産力一定と考えると,社会的労働は最終的には社会の労働力人口によって量的に制限されます。その範囲内では制限はありません。また,社会的労働の生産力ということで言うと,生産力自体が可変的です。
講義で強調したように,そもそも個人的労働が有機的な総体なのです。家庭内の例を出すと,皆さんは,いまから12分掃除して,その後にシームレスに(別に休憩を挟んでもいいのですが)34分調理をします。その総体があなたの労働です。あなたというユニットにおいて,様々な具体的労働が有機的な総体になっています。そもそもまた,調理という具体的労働からして,キャベツを剥く,湯通しする,挽肉に下味を付ける,挽肉をこねる,湯通ししたキャベツに挽肉を入れる等,異なる具体的労働を連続的に,一連の作業として,全部合わせて,ロールキャベツを生産する労働として行っています。そもそもまたまた,キャベツを剥くという具体的労働からして,……以下略。
この問題については,前近代的共同体については荘園生なんかの例で,また現代社会については家族従業者だけを雇用している(事実上の)自営業者の例なんかで説明したことを思い出してください。
家のテレビは,家族の中では共有ですが,対外的には私的所有物になります。例えば,家のテレビをセコハン市場(中古市場)で売る場合,○○家のテレビという名義で売るわけではありません。代表者である私的個人の名義で売ります(もちろん行為能力があることが必要です)。そういうのが共有財産であるということ,つまり私的家族の内部の事情が,対外的にも通用するのは離婚したりする場合です。そういう場合には,個人の特有財産と夫婦の共有財産とを分けて,後者を私的個人に分割することになります。
弾力性(elasticity)はもともとは物理学(古典力学)の用語でしたが,社会科学でも好んで転用されます。例えば,価格についての需要の弾力性とか。
ここでは,需要の変化に応じて供給が弾力的に変化するということを指しています。
大体合ってます。
最低必要資本量が生産力の増大を条件とするのとともに,生産力の増大は最低必要資本量の増大を条件とします(特に設備投資とR&D投資)。このロジックでは,後者の関連の方を重視しています。
非有機的です。「有機性」のスライドをご覧下さい。
実際には,典型的・必然的な多国籍企業と典型的・必然的な超国籍企業との間には様々な中間形態があります。それを前提にしてください。
定義された例では,生産地点と販売地点(現地のニーズ
)とが全く同じものであるようです。ポイントになるのは,販売地点が単一だということです。この場合に,もし,その製品を販売する地点が,同時にまたその製品のトータルコストが最も安くなる地点である場合には,提示された例は超国籍企業の例でありえます。それは財の性質に依存するでしょう。価値的に見て,発展途上国向けの安価なバイクなどの場合には,しばしば最適な生産地点と最適な販売地点とが一致するということもありうるでしょう。また,このトータルコストには,開発費用も含まれています。使用価値的に見て,地域差があるような製品の場合には,生産地点と販売地点とが一致するという事もありうるでしょう。
そういうのを別にすると,超国籍企業は,しばしばグローバル製品を開発しています。たとえば,Appleのiphoneは開発段階から基本的にはグローバルな企画にだけ準拠しています(ワンセグやFelicaに対応していないでしょう)。そのような場合には,超国籍企業の販売地点は世界中ということになります。それならば,たとえ販売地点と生産地点とが一致したとしても,それは偶然であって,その販売地点だけではなく,他の販売地点でも販売しているということになります。iphoneの場合には,自社製造ではなく,EMS(鴻海等への委託生産)ですが,実際には,中国で製造されています。そのiphoneをAppleが中国で販売したからといって,Appleが超国籍企業でなくなるわけではありません。したがって,あなたが挙げるような例は超国籍企業の例ではなく,多国籍企業の例だということになります。
結論を先に言うと,資本主義的な世界市場の下ではありえません。
フラット化は最近の傾向なのではなく,資本主義の一般的な傾向です。地理的に経済的条件の“違い”があるということは大きなもうけ口です。しかしまた,この“違い”を利用し続けると,違いそのものが縮小していきます。例えば,資本は価格の安いところから価格の高いところに販売するということによって利潤を獲得しますが,これを続けていくと一方では,商品価格の安いところでの商品需要増大,商品価格の高いところでの商品供給増大によって価格差を狭めていきます。あるいは,資本は賃金が高いところから安いところに生産をシフトするということによって利潤を獲得しますが,賃金が高いところでの労働力需要の減少,賃金が安いところでの労働力需要の増大によって賃金格差を狭めていきます。
このように,確かに間違いなく,資本主義は世界市場の形成とともにフラット化を進めていきます。しかしまた,それとともに,資本主義は“違い”を生み出そうとします。“違い”は利潤増大の契機になるからです。(このことを,政治経済学1では,イノベーションが引き起こす革新的企業と従来型企業との“違い”として考察してきました)。
この講義は,社会化の帰着点として,一国内での社会化ではなく,世界全体での社会化を世界化と呼んでいます。
正確には,世界化≡世界市場の形成では決してありません。あくまでも現代的な社会システムにおける世界化は世界市場の形成として何よりも最初にまず実現されたということです。すなわち,世界市場という形で,経済的に,しかも資本のカネモウケという形で,世界化が実現されたわけです。
例えば,世界市場と言うと,以下のような世界化は含まれません。
当然に,生産拠点の変更にはコストがかかりますから,頻繁に生産拠点を変更することはできません。しかしまた,これまた当然に,生産拠点を変更するコストよりも,生産拠点を変更するベネフィットの方が高くなるという長期的な期待が生じれば,生産拠点を変更することになるでしょう(生産拠点の変更コストの中には設備投資が含まれますので,短期的な期待では生産拠点を変更するのは難しいでしょう)。
で,それを極限まで突き詰めると,講義での説明のようになります。もちろん,実際には自社生産の場合には,もちろん,多額の設備投資を行いますので,生産拠点の頻繁な移動は不可能ですし,無意味です。しかし,例えば,現地での労賃他のコスト(クーデター,暴動のような政治的コストも含みます)が臨界点を超えると,もっと安いところに逃げることになるでしょう。
当然に,営業していくのに多額の費用がかか
ります。それを十分にペイして余りあるほどの売上高と,この売上高をもたらす世界的な規模での生産・流通を支えるだけの資本とが必要です。
何にとって良い点,悪い点かということで,答えが違ってきます。当たり前ですが,企業側にとっては,規模が世界的になればなるほど,全体の調整が難しくなるし,また商品販売が失敗した場合のリスクも高くなります。
Appleの場合には,今日では基本的に製造は外注してるので,講義の例とは少し違いますが,紛れもなく,超国籍企業です。
業種は関係ありません。産業(製造業,情報サービス等)でも商業でも金融業でも超国籍企業があります。
世界企業なのですから,それはそもそも最早,厳密には日本の企業
とは言えないのですが,日本発の企業ということになると,トヨタもソニーも超国籍企業の名実を持っています。ただし,この分野では,やはりアメリカ発の企業の方が進んでいます。
労賃に労働条件および生活条件を含めて考えます。利潤が低い国から利潤が高い国に資本が自由に移動するのと同様に,労賃が低い国から高い国へ自由に移動すると労働力移動が世界化したということになります。
こう言うと,労働力の世界化なんて不可能だと思うかもしれませんが,この場合の労働力の国別の移動というのは,必ずしも物理的な移動を意味していません。オートメーション化が進んで直接的な製造現場の人員が最小化され,かつクラウドソーシングとテレワーキングとが一般化すると,例えば,日本に在住しながら,アメリカの企業と契約して,世界中の労働者とネットワーク上で航空機を共同設計するということが主流になるということもありえます。この場合には,労働力が物理的には国際的に移動してくても,経済的には国際的に移行することになります。
短期的には,人件費がいちばんの利点でしょう。それ以外には,労働条件の問題があるでしょう。労働条件によって絶えず国内労働力供給が不足している職種(3K)なんかは人件費とともに労働条件の問題が大きいでしょう。特定条件を満たさない限りでは,日本では,しばしば,これらは違法です。
短期的要因を考えると,それ以外には,このような安価な一般的労働力に対する需要とともに,特定職種の特殊的労働力に対する需要があるでしょう。このような特殊的労働力として想定されているのは(研究者・技術者などの)複雑労働力であって,これは一般に国籍を問わずにすでに合法であり,移民受け入れの議論に上ることは少ないと負います。。
しかし,労働力人口の絶対数が一国の付加価値の絶対量(と言うのも付加価値総額は労働総量によって制約されるから)を,したがって一国の利潤の絶対量を,したがってまた一国の経済成長(と言うのも社会的生産力の増加を別にすると,利潤の一部分が追加投資に回されるからであり,また労働者が受け取る賃金が消費支出の絶対額を制約するから)を制約するからです。
GDPは集計値なので,GDPが上がれば超国籍企業が生産しているということにはなりません。しかし,超国籍企業がその国で生産をすれば,当然に,生産勘定で考えると,その生産高はその国のGDPに計上されます(GDPは属地主義なので)。ただし,超国籍企業は企業内で国際的分業を行っています。支出勘定で考えると,その国で販売されない分については,輸出に計上されます。と言うわけで,改めて言うまでもなく当然のことですが,超国籍企業による現地生産はその国のGDPの増大に寄与します。
上記の企業が進出してきていなかったということか?
──そもそも日本の超国籍企業自体,円高の下で大幅に海外生産を進めました。設備投資はリスクを含んだトータルコストで決定されますが,通貨安(円安)が続けば,国内回帰もありうると思います。
あなたの質問の中にすでに回答がります。講義で述べたように,資本主義的であるということは,そもそも格差を広げます。
法人は,事業所・工場がある各国に存在します。各法人は当然に資本関係を持っていますので,連結で考えれば,大規模になります。
いつ頃なのか?
──まさに現在成立中です。
何を以て成立したというのか?
理念的にいうと,国内市場と国際市場とがシームレスに結合した上で,財貨・サービスを世界中から自由に購買し,世界中に自由に販売する状態です。この場合に,自由というのは,もちろん,国際取引に関する国民国家による政治的障壁の撤廃が含まれます。世界市場という特別な市場(例えば国際市場)があるのではなく,国内市場も国際市場もすべて世界市場の構成要素です。で,金融商品について言うと,それはかなりこれに近い状態になっていると思います。一般の財貨・サービスについて言うと,世界レベルでの関税撤廃が行われないと,世界市場の完成には至りません。
労働力の移動の完全な自由化は,もちろん,歴史的に形成された民族に基づく国民国家に対立します。
貧富の国際的な格差はむしろ労働力の移動が不自由であるということに根拠を持ちます。もし労働力が経済的な利益にのみ基づいて完全に自由に国際的に移動することができるのであれば,生活水準も賃金水準も国際的に均等化する傾向にあるはずです。そのことと,貧富の格差そのものがなくなるということとは別のことです。東京都と埼玉県との間には貧富の地域的な格差はそれほどないでしょうが,東京都内でも埼玉県内でも貧富の個人的な格差は当然にあります。
労働力の世界化とは移民の受け入れと捉えて良いのか?
──移民受け入れと言うか,法的規制の撤廃は労働力の世界化の条件ですが,労働力の世界化そのものではありません。たとえ法的規制が撤廃されても,労働者が賃金と労働条件とに応じて,それらが低い国からそれらが高い国に移動しないと,世界化にはなりません。労働者の側での労働力の国際的移動に対するハードルは特に先進国の労働者の場合には比較的に高いと思います。
社会化というのはいろんな側面があるので,一言で言えるものではありません。で,『[4–A] 世界市場の形成』の「社会化の完成としての世界化」について言うと,(1)労働の形式的な社会化(社会的分業の拡張と深化),(2)労働の実質的な社会化(市場を経ない直接的な労働組織の形成と拡大),(3)所有の実質的な社会化(大規模公開株式会社において,機械設備という共同的にしか利用できないような生産手段を労働者の共同体が所有者の干渉から独立に占有してしまっているということ),(4)所有の形式的な社会化(私的所有の正当性の危機)の面を含んでいます。これらをにおける社会化を世界的なレベルで言い換えたのが世界化です。
世界化とはグローバル化という認識でよいのか?
──いいです。ただし,その場合のグローバル化
はここ10数年の話ではありません。グローバル化と言った場合に,最近のグローバル化だけを意味することがありますが,《世界化≡グローバル化》と言う場合のグローバル化の歴史は資本主義の歴史そのもの(現代史そのもの)です(講義で強調したように,例えば前近代でのシルクロードを通じた国際的交流,地中海交易圏の形成などは,諸民族の交流,諸地域の交流ではあっても,地球で一つの世界を形成するという意味での《世界化≡グローバル化》ではありませんでした)。
場所的な専門化は,場所に専門化した商品の開発を意味するのではなく,単にその方が安いからです。もちろん,逆に,地域的に特徴がある商品を開発するために,製造・開発拠点を販売拠点に設けるということがありえます。いずれにせよ,各国法人の部分最適ではなく,連結全体での全体最適を追求するのが超国籍企業です。
それに付け加えて言うと,超国籍企業は非常にしばしばグローバル商品の開発を意味しています。つまり,グローバルな商品を開発して,その上で地域的にカスタマイズしています。あなたが指摘するスマホなんてまさにそれですね。この場合には,超国籍企業のプレゼンスは,偏
っているのではなく,グローバルになっているのです。
電子マネーの定義が重要です。
支払手段がデジタルデータになったという定義で言うと,講義で強調したように,企業間決済は預金の振替で行われており,預金はすでにデジタルデータです。しかし,現金の世界では世界統一通貨なんてものがあるわけではないから,預金もまた,円建て,ドル建てという形態を取っています。しかしまた,今日では円転も円投も自由化されていますから,すでにその限りでは世界化されています。円転・円投も不要になるためには,世界統一通貨が必要になりますが,それは現時点では不可能です。しかし,世界経済はやがてその方向に向かうしかないと思います。
次に,現金が電子形態で発行可能かというと,これまた可能ですが,現時点では困難です。
上で述べたように,すでに為替市場を媒介にしてではありますが,貨幣資本は世界化しています。そして,通貨そのものの世界化の完成があるとしたら,それは世界統一通貨しかありえません。そして,各国が分裂していく中で,この世界統一通貨をどのように各国に分配していくのか,という問題が生じます。そういうことを考えると,少なくともその限りでは,経済的な世界統合は政治的なそれをも必要とします。
一般論で言うと,多国籍企業は各国現地法人ごとの部分最適,これに対して超国籍企業はグループ全体での全体最適を直接のターゲットにしています。多国籍企業は,各国現地法人がそれぞれ利潤最大化を追求し,その結果として生じた利潤を再配分します(一番単純な例では,本社に配当として送金します)。これに対して,超国籍企業はグループ全体での利潤の最大化を追求します。その意味では,まぁ,超国籍企業の方が効率的と言えますし,だからこそ今日ではビッグビジネスが超国籍企業によって担われているわけです。ただし,現実的には,これは企業の外的環境(自社が供給している商品の市場,世界の生産力水準──特に交通機関・情報通信技術の発達など──)に依存します。
『5. 銀行制度と私的所有』で詳しく見ます。
一般論として言うと,資本主義的生産は利潤追求の過程で,人間と自然とを破壊します。このような資本主義的生産のふるまいは当事者の目には,不当なものとして現れます。
特殊論として,発展途上国による自然破壊について言うと,そこには南北問題,つまり先進国と発展途上国との間の格差の問題があります。今日先進国になっている国々は例外なく,──まぁ,現在でも自然破壊しているのですが──,過去に回復不可能なレベルで自然を破壊しながら経済発展してきました。発展途上国から見ると,“先進国が,自分たちが自然破壊しながら経済発展してきたのにもかかわらず,発展途上国には自然保護を押し付ける”ということは不当なものとして現れます。
もともと資本運動というのは順々に生産手段のような実在的な形態を取ったり,貨幣形態を取ったりします(この点については,『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』の第2頁左下のスライドを参照してください)。
貸付資本が産業・商業資本から自立化すると,貨幣形態での資本が貸付資本として自立化します。これがここで言及しているような(産業・商業資本から分離しているような)貨幣資本です。これに対して,産業・商業資本の方は(貸付資本形態での借り入れられた貨幣資本で出発し,商品売上高=貨幣資本の一部を貸し手に返却するような)現実資本として現れます(以上,『4. 貸付資本の成立』の第5頁を参照してください)。
そして,このような,現実資本と貨幣資本との分離という観点から見てみると,現実資本の現実資本たる所以は生産手段や商品のような実体的な富にあり,また貨幣資本の貨幣資本たる所以は貨幣的な富にあるわけです。
で,所有と機能との分離という観点からは,貨幣資本の方が所有の契機を,現実資本の方が機能の契機を代表します。貨幣資本を貸す貸し手企業が獲得する利子は純然たる資本所有の果実であり,借り手企業は借りた貨幣資本を生産・流通に投じるということによって機能させるからです(借りっぱなしで金庫の中にしまい込みなんにも使わなかったら資本として機能しません)。
物件的なシステムというのは人格的なシステムに対立するものです。とは言っても,もちろん,それが社会的なシステムである限りでは,水が流れるといった物の物理的な運動のシステムではなく(つまり人格とは全く無縁のシステムではなく),人格の対象が人格に対立するようなシステムのことです。
現実の日本の企業社会をイメージしてください。そこでは,自然人ではない会社という物件が経済的な社会関係を構成しています。これが物件的なシステムの分かりやすい例です。あと,『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』の「モノ(=物件)のシステムの自立化」(第2頁)も参照してください。
企業のメセナ活動については,『7. 経済学と株式会社』で問題にする──はずだったのですが,2014年度は講義内で取り扱うことができませんでした。で,質問に対する回答を一言で言っておきます。実質的には,メセナ活動は,直接的な利益(短期的な利潤最大化)に繋がらなくても,間接的な利益(中長期的な利潤最大化)に繋がるということになると思います。“メセナ活動を一生懸命やったんで利潤がなくなり無配でした”とか,“メセナ活動を一生懸命やったんで業績が悪化したんで大量解雇します”とかだと,直接のステイクホルダ(この場合には株主・従業員)から見ると,“ふざけんな”,ということになるでしょう。反感を買わないよう
という消極的な理由であろうと,企業ブランドのイメージアップという積極的な理由であっても,この枠に入ります。
ただし,この問題については,直接的な利益に繋がらないような社会貢献の方針がどこから出て来たのか,経営陣かそれとも機関投資家(特に年金基金)かということで,追加的な動機が出てきます。この点については,『7. 経済学と株式会社』を参照してください。
(注1)なお,ここでは,空気のように労働生産物ではないような生産手段は考察の外に置きます。空気の場合には独占不可能ですが,土地の場合には独占可能です。一般に経済的な意味で“自然”と呼ばれるような,量産不可能な,独占可能な生産手段は,われわれが住んでいる資本主義社会では,これはこれで社会的労働の有機的な性格に対して特有な制限をなしています。
しかしまた,このような制限性はやはりまた,これはこれで,私的所有の制限性です。生産手段が独占可能であるのは私的に所有されているからです。社会的労働の観点から見ると,有限なものは有限なものとして使えばいいだけの話です。それはもちろん,どのような所有形態においても,従って,私的所有以外の所有形態においても,間違いなく,プロジェクトの規模には影響を与えます。しかし,だからと言って,労働が柔軟に増えたり減ったりすることができなくなるわけではありません。