1.私的生産一般

自己のためだけに行う生産だから「私的生産」であって,少しでも他者に売るつもりがあったらそうではなくなるのではないか?〔……〕売ってしまった時点で他者との関わりができ,他者の責任も発生するのではないか?

まずは,私的生産とは文字通り,《生産》の話をしています。他者に売るつもりがあろうとなかろうと,私的生産は,私的個人が私的に行う生産であるということに変わりはありません。他者に売るか,自家消費するのかは,交換の問題であり,形式上はこの私的生産者の自由意志に任されています(ただし,実質的には市場社会では商品生産関係によって必然化されています)。

次に,講義で述べたように,商品交換における自己責任の原則には狭い条件が必要です。たとえば,紛い物を売った場合なんかは,騙された側の責任ではなく,騙した側に責任が生じますし,さらには市場社会を維持するために社会(警察とか裁判所)が責任を負って介入することになります。この場合には,全然,自己責任の原則は成立していません。要するに,そのような他者責任は,ここで考察しているような単純な商品流通のレベルでも生じるわけです。

さて,サポート契約なんて結んでいる場合には,サポートサービスそれ自体が独自の商品であり,これはこれで自己責任の枠内に解消します。つまり,サポート契約付きのコピー機なんかの場合には,コピー機はコピー機で自己責任で売買され,サポート契約はサポート契約で自己責任で売買されています。

PL法のような無過失責任の場合には,これは市場社会一般の原理からは生じません。そうではなく,PL方なんかの根拠は,巨大な資本主義的営利企業が,その高度に社会化された生産でありながら,私的生産の営業秘密によって内部情報が保護されブラックボックス化されているということです。つまり簡単に言って資本主義的な生産者と個人消費者とでは製品情報についての非対称性という点でも,経済力という点でも全く平等ではないということです。要するに,資本主義社会の現実が,市場社会の原理を突き破ってしまっているということ,一言で言って市場社会と資本主義社会との間での原理の対立です。その製品が消費者の生命や健康を害しうるというのは,上記のような現実が法律的に承認され,この現実に対して立法的・行政的に対策がたてられなければならない条件に過ぎません。

〔……〕現代の市場社会では,自給自足のみで生きていくことは難しいため,結局,完全に市場向けの生産であり,社会的労働にならなければいけないので,完全な社会からも他人からも干渉をされない私的生産はありえないという解釈でいいのか?

生産だけで言うと,干渉されないということが建前になります(実際には,資本主義社会では,この建前はやがては破綻します。例えば,生産現場での労働条件が違法ではないか,社会から干渉されます)。しかし,その後で必ず社会的な交換が生じます。ただしまた,交換もまた,当事者同士の自由意志による契約に基づく限り,社会が干渉してはならないという建前になります。この場合に,干渉し合うのは,当事者だけです。

私的生産の形態で,部分的に市場向けの生産はどのような生産のことを言うのか?

西洋の前近代的共同体における農村の自営農民のように,基本的に自家消費する消費手段は自分で生産し,自家消費を越える部分,つまりサープラスの部分だけを市場で販売し,それで得た貨幣で,自分では生産できないような消費手段を市場で購買するような,生産のことです。

私的労働の〔は〕排他的労働とあるが,排他的という意味がよく分からない。

プライベートな空間で,社会との関連を排除して,孤立的に行うという意味です。

プライベートな空間の中に従業員の社会的関係を内包している資本主義的な私的生産ではどうなるのかと思う人がいるかもしれません。しかし,原理的には,この場合でも,社会全体に対しては,換言すると市場では,従業員が行ったすべての労働は私的生産者である資本家の労働として通用します。すなわち,原理的には,市場では,私的な自営業者が生産したパンも資本主義的な私的生産者が生産したパンも区別ないものとして通用します。何故ならば,第一に,原理的には,市場は,私的生産の現場からは切り離されており,私的生産の内部はプライベートな空間だからです。第二に,市場で重要であるのは,商品の品質と価格とであって,この商品が自営業者によって生産されたのか,それとも資本主義的営利企業によって生産されたのかと言うことではないからです。

私的労働が私的労働たりえ,社会的労働たりえるためには,売れることが必要となっていたが,もしそうなら,インセンティブにおいて,自由と深く結び付いているというものと,商品を売りたいという願望から,結局制限は設けられ,具体的に言えば,商品を売るためには社会を考慮せざるをえないので,結果,私的労働はそれ以前に私的労働たりえないのではないか?

商品生産者は当然に売れそうなもの,社会的欲求に受け入れてもらえそうなものを生産するでしょう。そして,それは事実においては選択の自由では決してないでしょう。要するに,公法や前近代的共同体からは形式的には自由ではあっても,市場というシステムからは実質的には決して自由ではないでしょう。

それとともに,売れそうな商品を生産したからと言って,その商品が売れるとは決して限りません。そういう意味で,私的労働は,社会を考慮していようといまいとも,社会から切り離されているわけです。

農家の人が野菜を作って売る場合に,自分で作った野菜を家で食べると思うのだが,そういった場合は作ったものの中で余ったものを市場で売るという考え方でいいのか?

現代日本の専業農家でしょうか? もしそうならば,逆です。多くの専業農家は余ったものだけを市場で売っているのではなく,最初から市場向けに生産し,その中から自家用のもの(および贈答用のもの)を取り分けています。つまり,余ったものを売っているのではなく,売らないものだけを自家消費しています。

私的労働は社会的労働に変化した時に,本来有していた性質を失い全く新しい存在になってしまうのか?

本来有していた性質を失い全く新しい存在になるというよりは,正反対のものになります。

2. 本来の私的生産(自営業)

本来の私的生産と奴隷制とは全く正反対の概念なのか?

正反対というか,全く異なる概念です。歴史的には,奴隷制を内包しているような私的生産がローマ時代から,あるいはもっと昔から,南北戦争に至るまで,あるいはもっと後まで,ありました。しかし,それは本来の私的生産(自営業者の私的生産)ではありません。

自営業者の中でも家族経営であったりして,ある役員の自由が制限されてしまっているような形態のものはどういう位置付けになるのか?

中間的な位置付けです。この講義で定義しているような典型的・範疇的な自営業者ではありませんが,内実は自営業者と言って構わないでしょう。

もし自営業などの私的生産を行っている人が,銀行などからの資金融資によって介入を受けている時は,このような場合も私的生産と言えるのか?

まぁ,なんとか私的生産です。しかし,このような自営業者はもはや本来の私的生産とは言いにくいですね。

なお,高利貸しではない,現代的な銀行制度は資本主義的生産を前提します。自営業者だけでは,現代的な銀行制度を支える巨額の預金,従って巨額の取引を想定することができません。この点については,政治経済学2で見ていきます。

自分一人で音楽を作り,それを無料で配布した場合,それは市場に参加していると言えるか? また,もしその音楽を有料で売ったとしたらそれは「自営業」と呼べるか?
無料で配布した場合

市場に参加していません。この人は,市場とは別のルートを使って,社会的富(この人が作った楽曲)を分配しています。

有料で売った場合

業として営んでいるならば間違いなく自営業と呼べます。業として営むというのは,講義で述べたように,たまたま余ったサープラスだけを販売しているのはなく,もともと市場向けに生産しているということです。この場合で言うと,営業から定期的に収入が発生し,また主としてこの収入によってこの人が生活している(市場から消費手段を購入している)ということです。

業として営んでいるわけではないならば,まぁ,販売している限りでは自営業に携わっているということになるでしょう。

仕事に対して自分の意志で働いているのではなく,金という対価のために働くアルバイトにとって,奴隷制と同じように生産手段を大切に扱うことは難しい。つまり,アルバイトは,企業にとって,生産力上昇に限界があるのではないか?

これは資本主義的生産の矛盾です。資本主義的生産は,一方では,金儲けのために,賃金労働者をボロぞうきんのように使い捨てようとします。労働者に求めるのはクリエイティビティではなく,命令に従って動く歯車です。しかしまた,資本主義的生産は,他方では,やはり金儲けのために,賃金労働者のありとあらゆるクリエイティビティを利用し尽くそうとします。労働者に求めるのは,やる気を出して,自分の能力を最大限に発揮させて,会社の業績に貢献させることです。この点は「7. イノベーションの構成要素」で詳しく見ていくことになります。

本来の私的生産者が自営業者である時,雇用者と賃金労働者といった被雇用者との関係は奴隷制に当てはまると言うことなのか?

賃金労働者は会社の内部では会社の命令に従います。しかしまた,会社の外部では,自由・平等な私的所有者としてふるまいます。後者の点で,賃金労働者は奴隷とは全く異なります。前者においても,全く自分という形式を失ってしまい,物言う道具になっているような奴隷とは異なって,賃金労働者の場合には,自分の労働を行うということがそっくりそのまま他人の労働(会社の労働)を行うということになっています。つまり,賃金労働者は,自分の意志を会社の業務命令と一致させて,自分の意志で,自分自身で,会社のために働き,そして会社は賃金労働者のイニシアティブを発揮させるために適切なインセンティブを与えます。

「労働の社会的生産力を使わない」という点での本来の私的生産の限界について。生産手段によってはすでに社会的労働の成果でできたものを使っている場合はあると思うが,これでも社会から排除されていると言えるのか?

その場合には,もちろん,本来の私的生産であっても,他者の労働の成果を,したがって社会的労働の成果を利用しています。そもそも経済活動は物質代謝の効率的・社会的運営ですから,そのような間接的な形での社会的労働の成果の利用はどんな社会的な生産様式においても,したがってまた本来の私的生産においても,生じます。本来の私的生産では,交換を通じての社会的労働の成果の利用です。生じるどころか,それまでの歴史的な生産様式,たとえば封建制だとか奴隷制だとかの生産様式とは比較にならないくらいに,本来の私的生産は高度にかつ後半に社会的労働の成果を利用しています。

しかしまた,それは生産過程そのものにおける社会的労働の生産力の使用,この自営業者の私的生産の内部での人びとのチームプレイの活用ではありません。私的生産が社会からも他の私的生産からも排除されているという場合に,あくまでも私的生産という単位の内部の話をしているということ,この生産そのものについて言及されているということに注意してください。

そして,この点では,本来の私的生産も,私的生産の内部に従業員の非市場的組織を内包する資本主義的な私的生産も,同じです。資本主義的な私的生産の場合にも,市場的な関係である限りでは(つまり継続的取引や戦略的提携などによって互いに浸透しあっているのでない限りでは),生産の単位と他の企業の生産の単位とは独立しており,互いを排除し合っているわけです。

3. その他

市場社会のイメージの今回の結論として商品交換は自由・平等な私的所有者を生み出すとあるが,そもそも自由・平等でなければ商品交換はできないと前回の授業であったと思うので,どちらが先なのか,そしてそれらは相互に生み出されるものなのか?

そもそも事実において(つまり当事者の意識だとか,社会的原理だとかを抜きにして),当事者が共同体から切り離されて,自由にふるまっていないと商品交換は生じません。そもそも事実において,当事者が人格として自分の商品(貨幣を含む)を排他的に所持していないと商品交換は生じません。しかしまた,商品交換において,自覚的・意識的に,かつ相互的に,当事者同士が自由・平等な私的所有者として承認し合うということによって,形式的自由・形式的平等・私的所有が自覚的・社会的な原理として生じます。

市場社会はまだ自由・平等の完全な実現ではないとあったが,どうなれば完全な実現と言えるのか?

まぁ,完全な実現そのものの実像は,未来の課題なので,われわれには分かりません。で,完全な実現の条件は,社会的労働そのものにおいて,自由・平等を実現していくということです。それは,一面では,市場社会と資本主義社会とのいいとこ取りをするということですし,他面では,いいとこ取りをすることによって(もはや市場社会とも資本主義社会とも違う)全く新しい社会をつくりあげるということでもあります。

国民というのはすべてその国に属しているとはいえ,現代社会においては,個人は私的個人として存在しているが,それは,具体的にいつから(労働者になった時から?職業選択時から?など)私的個人になるのか?

理念的には(つまり法的観念の問題としては)出生時からです。現実的には,事実において,自分で商品交換を行うようになった時からです。法的には原則として成人するまでは商行為には親の貢献が必要ですが,現実問題としては,高校生くらいになると,自分の私的所有物を持ち,

国家という枠組みの中に国家公務員という個人がいるが,時に公人と呼ばれたりする。この人たちは,私的個人であるのか?個人的には自己の利益を追求するのは該当するだろうと思うが,そもそも彼らの労働が市場で交換されているというイメージがない。

国家公務員であっても,一般職であろうと,特別職であろうと,家庭の中では,あるいはスーパーで自分が食べるための鮪の刺身を買う限りでは私的個人です。

おおざっぱに言って,公選によって選出された国家公務員を除くと,すべて,国家公務員は,自分の労働力を労働力市場で販売して,国家と契約しています。公選によって選出された国家公務員の場合には,労働力市場での労働力商品の売買のプロセスが,他の公務員の場合とは異なるので,やや話が難しいですね。選任のプロセスはともかく,結果的には,国家と契約することになります。選出されるのがヒラの労働者ではなく,紛れもない権力者であるということは,それ自体としては特殊なことではありません。例えば,CEO市場では,株主ではないような個人の管理労働力(経営者の労働力)が売買され,会社と契約して,会社の意志を代表する社内の権力者になります。この場合に契約上(形式上)は,雇用契約ではなく,委任契約ですが,内容上は管理労働力の売買です。

資本が社会全体で見ても価値が増え続けてなければならないと書いてあって,価値が増え続けるような印象を受けるが,実際に資本の価値は増え続けるのか?

一定の条件を満たせば増え続けます。

資本主義の効用を最大化させるには私的生産という形態が最適なのか?

最適というか,そもそも,資本主義的生産を成立させるためには,私的生産という形態が不可欠です。

労働による個人の社会形成が完全な実現でないことは何故なのか?

特定の社会的形態で労働が発揮されているからです。すなわち,労働は,市場社会としての現代社会では私的労働として発揮され,また資本主義社会としての現代社会では賃金労働として発揮されます。労働は,私的労働である限りでは,社会と対立した,社会を排除した仕方で労働が発揮されるしかなく,賃金労働である限りでは,自分の労働でありながら,会社の労働として,他人の労働として発揮されるしかありません。