1. 協業と分業

〔協業において二人で行う協業は〕一人で行う仕事スキルは越えていたとしても,両者のスキルに差が生じていた場合,労働過程において平等なたもたられる〔平等が保てる〕関係になるのか?

スキルと言う場合に,それは同じ具体的労働における熟練の違いを意味すると考えます。この点については「5. 資本主義のイメージ」で詳しく説明します。

スキルの違いがそれ自体として労働過程における不平等な関係をもたらすとは限りません。少なくともその必然性はありません。違いがあるとしたら,労働過程ではなく,過程の結果である生産物の分配についてでしょう。

その理由は,第一に,スキルの違いがこの協業の敵対的な(不平等な)管理をもたらすとは限らないからです。スキルが高い方はスキルが高いなりに貢献し,スキルが低い方はスキルが低いなりに貢献するだけです。スキルの違いは,もし必要ならば,結果の違いをもたらすでしょう。つまりスキルが高い方はより多くをぶんどり,スキルが低い方はより少なくに我慢しなければならないでしょう。これは確かに不平等ですが,結果における不平等であって,労働過程における不平等ではありません。協業そのものにおいては,どちらが上でどちらが下だということはありません。そして,それぞれの貢献度の違いにおいて,異なる結果を受け取るだけです。とは言ってもまた,スキルが低い方もスキルが高い方も,どちらも,自分で行うよりは大きなメリットを得ることができます。一方が他方を一方的に搾取するわけではありません。

なお,通常は,労働過程の管理の労働は,異なる具体的労働を意味します。例えば,岩を動かす労働と,みんなの労働を管理し,指揮する労働(そっち,力が足りないやつが多いから,もっと人数を加えろ,等)とは異なる具体的労働です。それは岩を動かすのが上手かどうか,岩を動かす力が強いかどうか,という違いではありません。

第二に,それじゃぁ管理労働が存在すれば敵対的・不平等な社会的労働になるのかと言うと,管理労働そのものが労働過程における不平等を,つまり敵対的な管理をもたらすわけでもありません。オーケストラがオーケストラの指揮者を誰かに依頼する場合に,当然に団員は(自分の自由意志で,自分たちの自由な合意で)指揮者に従いますが,だからと言って演奏における不平等が生じるとは限らないでしょう。管理労働の存在が敵対的な管理になるためには,ここで考察しているような協業一般ではなく,協業の特定の社会的・歴史的な形態が必要です。

そして,こような協業の特定の社会的・歴史的な形態の問題は「7. イノベーションの構成要素」で扱います。ここで説明抜きに結論だけを言うと,管理労働が敵対的な形態を受け取るのは,そもそも協業が不平等なシステムの下で行われているからだ,ということになります。例えば,資本家が管理労働を行う場合には,他の労働者を一方的に従わせながら行うことになるでしょう。しかし,管理労働を行っているから資本家であるのではなくて,そもそも資本家だから管理労働を行っているわけです。要するに,資本家と賃金労働者との対立があるからこそ,協業も不平等になるわけです。とは言っても,実のところ,資本家かどうかなんてのもどうでもいいことです。多くの大規模会社では管理労働を行っているのは,資本家ではなく,それ自身,賃金労働者でしょう。しかし,このような管理労働も通常は敵対的・不平等なものです。これは要するに,資本家かどうかと言うことではなく,そもそも資本主義的生産が不平等なシステムであるということに尽きます。

協業と分業の関係性がわからない。分業に協業が内包されているのか? 協業と分業の違いがよく分からなかった。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

ここで問題にしている関係について言うと,社会的な協業に社会的な分業が内包されています。要するに,社会的分業とは役割分担し合っているような社会的な協業の形態です。つまり,社会的な協業⊃社会的な分業。この点については,以下をも参照してください。

ただし,後に,「7. イノベーションの構成要素」においては,企業内の協業について,企業内分業ではないような企業内協業として企業内の単純協業を考察することになります。この場合には,企業内の単純協業≠企業内の分業。

社会的分業がそもそもなぜ行われるのか,効率性という話とは別なのか?

効率化を達成するために社会的分業が行われます。例えば,講義で出した例では,社会的分業に参加しない場合,私の魚釣りの具体的労働の生産力はゼロです。しかし,社会的分業に参加すると,社会の生産力を通じて,私は魚4尾を入手することができます。生命活動の変換の結果,私は1時間当たり4尾の,魚釣りの具体的労働の生産力を獲得したことになります。

人間も生まれた家庭の経済能力によって社会的な役割が決まってしまうと思うので,必ずしも自由に役割を選択できるとは限らないのではないか?

労働の原理から考察する限りでは,もちろん様々な条件のもとに,ではありますが,嬉々としてであろうと渋々にであろうと,いずれにせよ自覚的に役割を選択するはずです。しかし,実際にはそうはなっていません。

とは言っても,前近代的共同体の場合には,そもそも身分関係によって,生まれつき,社会的分業が決まっていました。自由がありませんでした。これが現代社会になると,建前上は,機会均等と職業選択の自由が保証されます。しかしまた,現代社会の最初期では,本人の適性などお構いなしにやはり最初に割り当てられた企業内での分業に一生従事していくという技術的な要請がありました(マニュファクチュア的分業)。これが現代社会における主要な生産力,すなわち,科学的知識の意識的・計画的適用が導入されると,少なくても企業内では分業はかなり流動的になります。また,プロフェッショナルとして一生,特定の業務に従事していくとしても,それはもはや他の人の労働との連関から切り離されて歯車になってしまうというのではなく,他の人の労働との連関をたえず意識していくということを技術的に要請されるようになります。機械設備という労働の媒介性の発展によって,一つのことにしか役立たないという技能の制約がどんどん解消していきます。もちろん,各人の間に能力──特に生まれつきの才能──の違いがなくなるわけもありませんし,また能力を伸ばす努力の違いがなくなるわけでもありませんが,それでも,自分の適性に応じて,自分の能力を十分に高め,社会の中で十分に発揮できるような技術的な条件は整いつつあるわけです。

それでもまだ,今日でも,初期条件つまり生まれた家庭の経済能力によって機会の均等は妨げられています。ですから,機会均等なんて,建前であって嘘っぱちです。だれもが自分の適性を十分にのばしているなんてことは決してありません。

しかしまた,労働の原理から考察された限りでの社会的分業の形成原理は自覚性原理ですから,われわれに与えられている今後の課題は,これまでだんだんと改善されてきて,労働の原理に近づいてきた現実を,できるだけ労働の原理に一致させるということだということになります。建前を現実にし,各人が自分の能力に応じて,自分の能力を最大限に発揮できるように,社会的生産を組織していくということにあります。

なんの目的で,社会というフィルターを通すと労働の変換がおこなわれるのか?

社会的欲望の充足です。

社会的分業ではスペシャリストが重宝されそうな気がするのだが,現代社会ではスペシャリストであるべきなのか,それともジェネラリストであるべきなのか?

この問題は「7. イノベーションの構成要素」で詳しく取り扱います。

リカードの比較生産費説のように,生産を特化させる意義がよく分かった。

この問題については以下を参照してください。

最近では分業の一部が機械によってまかなわれてしまい,失業する人も増えているので,必ずしも分業は言いものではないのではないか?

この点については以下を参照してください。

2. 動物集団と人間社会

ある意味では動物も合意を形成し,自覚的に食物を集めていると言えるのではないか?

この問題は,要するに,個体の生命活動が自覚的か本能的かということに帰着します。動物の場合には,個体の生命活動が本能的だから,集団の生命活動も本能的だということです。

動物の進化こそ動物の能力と欲望のスパイラルの結果ではないか?よってやはり構想ももっているのではないか?何かに特化し,他のことを捨てているあたり,人間の欲望よりも更に上をいっているのではないか?

この問題を考察する際には,動物と人間とを身体的に比較するのではなく,手段(生活手段,生産手段)の発達という形で比較するのがいいでしょう。台風に負けない鉄筋コンクリートの家を作るクモは見たことがありません。台風が直撃すると,クモの巣は吹き飛んでしまいます。つまり,クモは鉄筋コンクリートの家を作る能力を発達させることができなかったのです。クモの場合には,クモの巣を作るというのは自然に適合した結果であって,自然を自分に適合させた結果ではありません。それ故に,クモは上記のスパイラルに入り込みませんでした。このことは,さかのぼって考えてみると,クモがクモの巣の生産において,どうしたら台風に負けないような家ができるか,構想を練っていなかったということを意味します。そして,台風によって,別に個々の個体が吹っ飛んでしまっても,種としてのクモは絶滅しなかったわけです。

人間の場合には,特化は,他のことを捨てているということにはなりません。そうではなく,他のことを社会を通じて実現するために,つまり欲望を多様化し,かつ多様化した欲望を実現するために,特化しているわけです。

自分を例に考えてみると,そんなことは意識していないなと思ったのだが,社会形成は無意識や自然の流れではなく,意図的なのか?

あなたがどこからのサークルに入る時に,無意識のうちにサークルに入っちゃったということは多分ないと思います。そのサークルからして,無意識のうちにいつの間にかできちゃったということも多分ないと思います。よって,人間の社会形成の原理は「意図的」です。

人は自分の利益を優先するというのは誰に教えてもらうことでもなく,本能的に身についていることではないか?

個としての自分の利益を追求するということも,類としての自分の利益(要するに他者の利益)を追求するということも,本能的に身についているのと同時に,歴史的に発展させてきたものです。ボールが目の前に飛んできたら思わずよけようとしますし,となりの人が崖から落ちそうになったら思わず助けてしまいます。

なお,私利私欲だとか,利他と対立する利己とかは,私的生産に特有な,歴史的な,自分の利益の追求形態です。

社会の中の共同体はとにかく自立しているという理解で正しいのか?

ちょっといっている意味がわかりません。現代社会の中でのコミュニティについて言うと,それは規模は小規模ですが,前近代的な共同体とは違います。

自然からも,そして社会からも自立してしまえば,人は,所属するコミュニティのない,独立した存在となるが,逆にそんなことは必ずないのではないか?

自立や独立は,孤立とは違います。

そもそも生命(生物)というものは,自然との関係の中で自分を維持するものだったということを思い出してください。人間が自然から自立するというのはこれを完成させたものです。つまり,自然から孤立して真空の中に生きるのでは決してなく,自然の真っ只中で,自然との全面的な関係の中で,全自然を自分のものとして位置付け,これによって自分自身を自立させるわけです。

集団の場合も全く同様です。人間が集団から自立するというのは,集団から離れて,山奥で仙人になるというのでは決してなく,集団の真っ只中で,集団との全面的な関係の中で,集団を自分のものとして位置付け,これによって──集団に埋もれるのではなく──自分自身を自立させるわけです。

ただしまた,商品生産では,孤立化するということによって自立化を達成します。この場合にも,社会と全く無関係な仙人になるわけではなく,逆に交換を通じて社会と全面的な関係を結ぶのですが,しかし,生産においては社会から孤立します。この点については,「4. 市場社会のイメージ」で詳しく見ていきます。

貧しい国の人だからと言って企業の人が不当なやり方で仕事をさせることが多いと聞いた。労働社会では平等になるのが当たり前だと考えていたが,このようなできごとは資本主義社会ではどうしようもないことなのか?

ここで考察している労働による社会形成は,現代資本主義社会の現実から,資本主義を資本主義にしている形態上の特質を剥ぎ取って得られたものです。そして,そのように抽象する限りでは,原理的にはだれもが自由なので,その意味で平等が原理になります。しかし,実際には,資本主義社会では,この平等の原理はそれとは正反対の不平等として現れています。資本主義社会は単に不平等な社会だというだけではなく,不平等を原理とする社会です。すなわち,資本と労働との根本的な不平等こそが資本主義社会の原理です。

このように平等の原理が不平等な原理として現れるということとともに,ここでの労働の原理を導出する根拠であるところの個人の全面的発展の可能性について,今後考察していくことになります。

人間共同体には具体的にどのようなものがあるのか?

前近代的共同体としては,大家族でも村でも藩でも好きなものを例に出すことができます。

3. その他

「3. 社会と労働」スライドp.7の右下の消費手段と,p.8真ん中の消費手段だが,前者ではいわゆる商品として売れる物を指していて,後者では給料のことを指していると思う。

違います。ここでは市場社会の話はしていないのですが,市場社会で考えると,「p.7の右下」について言うと,消費手段(シャツ)だけではなく,生産手段(綿布と鋏)も市場で売られる商品です。市場社会では,シャツの生産過程においては,生産手段である綿布と鋏を使って,消費手段であるシャツが生産されます;しかし,これらの生産手段は,それぞれ綿布の生産過程と鋏の生産過程とにおいて商品として生産されました;そして,シャツの生産メーカーは市場で綿布と鋏とを商品として購買したのです。こう言うわけで,市場社会では,消費手段も生産手段も商品として生産されます。