このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年05月06日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
先ずは自分自身を,(1)自己を制御する《自己としての自己》と,(2)自己によって制御される《対象としての自己》に二重化する。それを通じて,──
動物とは違って,労働する個人は,(1)“対象を食い尽くしてしまい,対象をなくしてしまう”のではなく,たえず対象を生産物として再生産します(綿の布や鋏を使ってしまっても,無にするのではなく,シャツを生産し,綿の布自体,別の生産過程で再生産します)。かつ,(2)“自己が対象に埋没してしまい,大自然の一部となってしまう”のではなく,たえず主体として自己を維持します。こうして,労働する個人は(1)自己を対象に一体化させ,かつ(2)対象を自己に一体化させています。こうしてまた,労働する個人は自己を,(1)自己自身と,(2)対象とに二重化しています。
まず,純粋に本能的な活動は労働ではありません。従って,動物は労働を行いません。
その上で言うと,どういう無意識の行動をどういう場面で用いるかの問題です。例えば,寝ている間に寝返りを打つのは無意識の行動ですが,それは純粋に本能的な活動であって,しかるに労働ではありません。これに対して,熟練した職人が金槌で釘を打つ時にほとんど無意識に手を動かしているというのは,労働の中に自分の無意識的な活動を位置付けているのであって,労働の一環です。労働は自覚的な行為ですが,その個々のパーツは本能的な活動なのです。本能的な活動を,自分が自分の活動として媒介しているからこそ,労働が成立するのです(この点については,『[2–B] 労働の媒介性』参照)。
えっと,通常は,具体的労働と人間的労働(=抽象的労働)とは区別されています。具体的労働/抽象的労働というのは労働の一側面であって,現実の生きた労働は常にこの両者の統一であり,しかも常に具体的労働として現れます。で,答えなのですが,ここでの議論では,両者の統一としての現実の生きた労働を問題にしています。それと同時に,ここでは効率化が問題になっています。そして,効率化を問題にする際には,常に労働の具体的な形態の変化,つまり具体的労働の側面を問題にしています。要するに,両者の統一を問題にしているのだが,ただし専ら具体的労働の側面に着目しているということです。
その通りです。この講義の定義では,猿は労働しません。
その通りです。動物と同じく,直接的な生命活動です。
対象と手段が違えば生産物の品質とコストも違ってくるのではないか?
──その通りです。そして,その生産物を消費するのが生産者自身であるとしても,重要なのは結果(=生産物)であって,過程ではありません。換言すると,重要なのは目的であって,手段ではありません。生産物の品質とコストを変えるために労働対象と労働手段と変えるのであって,逆ではありません。
布という対象がシャツという対象に代わったということにはならないのか?
──その通りです。
この点は,市場での商品交換の場合のように,消費者と生産者とが全くバラバラに分離され,消費者は交換過程でのみ生産者と関係を結び,しかるに全く生産者の生産過程を知らない場合には,よりいっそう顕著になります。市場でわれわれが商品を選ぶ基準は商品の品質と価格です。もちろん,イベリコ豚を使った生ハムというのも(つまりどういう労働対象を用いたのかも)ウリになりますが,それはあくまでも生ハムという商品の品質を担保する限りでのことです。イベリコ豚を使った生ゴミは市場で売れません。
生産物(結果)は生産手段と労働から成り立っている……か?
──そう言っても構いません。あるいは,そういう言い方をするならば,自然と労働から成り立っていると言っても構いません。ただし,こういうのは一般的な言い方なので,文脈ごとに使いどころが分かれると思います。例えば,原料について考える際には,労働を無視して,“このパンは小麦粉と水と塩から成り立っている”と言っても間違いではありませんし。
人間固有の概念です。この講義での定義では,動物は労働しません。それ故に,動物が使う棒は労働手段ではありませんし,エサも労働対象ではありません。
一言でサービス業と言ってもいろいろあります。生産的なサービス,流通サービス,金融サービス,それから対人サービスなど。で,質問者は対人サービスを想定しているのだと思います。例えば教育なんかを想定してみましょう。
教育の場合には,教員の労働にとって学生の頭脳が労働対象です。別に手術とかをして物質的に変化させるわけではありませんが……。ただし,教員が共同で講義する場合なんかは,たの教員の労働は媒介(手段)です。
大丈夫です。大きく分けて,労働手段には道具と機械とがあります(これについては『7』でやります)。しかし,他に,土地や建物のようなものも労働手段に含まれます。また,それを別にしても,労働手段とも労働対象とも分けにくいものもあります。例えば,燃料とかダイナマイトとか。そういうものは,たとえ,労働対象と同様に,一回の生産ですべて使われるとしても,労働の媒介性の発展であって,労働手段に入れても構わないと思っています。
労働そのものは人間の行為であって,労働対象とか労働手段とかのような対象物ではありません。しかしまた,労働はラジオ体操ではありません。一つの運動,一つの過程をなすには労働は自らの対象を必要とします。そして,労働は,人間の媒介的な行為であって,自分だけではなく,物を自分の特殊的な契機にします。こうして,過程としての労働,すなわち労働過程は,労働そのものという特殊的契機とその対象という特殊的契機とからなります;もっと詳しく言うと,通常は,労働・労働対象・労働手段という,労働の三つの特殊的契機からなります。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが,労働と労働過程とが(労働そのものと過程としての労働とが)区別されています。例えば,お茶を入れるという労働過程には,お茶を入れるという労働だけでは不十分で,急須やら茶葉やら湯やらが必要です。パントマイムのようにお茶を入れる動作だけしても,お茶は入りません。
両者の関係については,『2014年04月15日の講義内容についての質問への回答』の「社会的に行うことと効率的に行うこととは具体的な区別はどのようなものか? 」をご覧ください。
労働と運営(上記の2つ)には何か関係があるのか?
──効率的運営を効率的にする媒介的行為,社会的運営を社会的にする媒介的行為が労働です。経済活動すなわち物質代謝の効率的・社会的運営は労働(ここ,どの人類社会にも共通なレベルでは,生産)だけではなく,消費をも含んでいます。
社会的運営の方が効率的運営よりもいいということになるのか?
──いいかどうかは分かりません。ただ,効率的運営は,たとえ社会の外であっても,なお有効だという意味では根本的です。社会的運営は,効率化を十分に実現するという意味では,ハイレベルです。社会が形成されると,個人による効率化も社会によって媒介されたものになります。こういう問題をこの講義では,『7』において個人の労働力の向上について,熟練形成が分業によって,また知識労働力の形成が科学的知識の意識的・計画的適用によって媒介されているという形で見ることになります。
労働による社会形成です。『4. 社会と労働』で詳しく見ます。
効率的運営を講義で捉えている限りでは,問題ありません。ただし,社会的運営については,“社会を利用して効率的な運営をおこなうこと”と言った方でいいでしょう。
そういうことです。
どこで
?──自給自足する際にです。例えば野草を刈るとか,魚を釣って焼くとか。
根拠は何か?
──完全な自給自足であっても,魚を釣って焼く時には,この人は(もし狼に育てられた的な人でなければ),自分で自分の生活を運営しているからです。
買って使うという行為のことを言っているのか?
──違います。現代社会の引きこもりは自給自足ではありません。買い物するということは社会と関わりを持ち,生活を社会に頼り,社会を通じて生活を効率化しています。ここでは主として前近代にはいたかもしれない(村八分とかで)完全に自給自足の個人のことを想定しています。まぁ,実際問題としては,せめて家族単位でないと,生活していくのは厳しいでしょうね。家族もいない完全に共同体から孤立した個人だと生き抜くのは非常に厳しいと思います。まぁ,どのみち,そういう完全に共同体から孤立した個人は,繁殖することができませんから,一代限りで絶滅します。
買い物ができる小学生やそれ以下の子供も経済活動をしていると言えるのか?
──難しいですね。一応,親からお小遣いをもらって買う場合を想定します。そもそも未成年は法的には行為能力が制限されています。しかも,小学生やそれ以下の子供
となると,意思能力すら怪しくなります。この観点から見ると,経済活動をしているのは,親権を持つ代理人(親が親権者なら親)だということになるでしょう。
しかし,前近代なんかでは,通常は子供の頃から家族の一員として労働しているのが普通です。この場合には,機能的に考えると,経済活動していると言っていいでしょう。
引きこもりの前提
──現代の引きこもりはネット通販とかでものを買っている限りでは,ホンモノの引きこもりではありません。外に出るのが嫌なだけで,思いっ切り社会に参加していますがな。ホンモノの引きこもりは他の個人と縁を切って完全な自給自足を行うことです。
〔完全に自給自足の〕ヒッキーの行為は社会的運営であるということか?
──違います。
お金の発生しない経済活動なのか?
──その通りです。例えば料理を作る際に,例えば掃除をする際に,あなたは自分で自分の生活を運営しています。金が発生するかどうかはこの定義には関係ありません。例えば,江戸時代の農民は基本的には自給自足でした。だからと言って,江戸時代の農民が経済活動をしなかったわけではありません。つまり,経済⊃市場経済ですが,逆は真ではありません。“現物経済”なんて言い方があるのを想起してください。そもそも商品交換からして,物々交換はお金の発生しない
商品交換です。
家事労働はGDPに含まれないはずだ
──家事労働の生産物は,市場で売り上げが上がらないから,貨幣タームで産出されることができず,従ってGDPには含まれません。しかし,例えば,貨幣タームで計算可能かどうかと言う形式面ではなく,その活動の内容面で見ると,家で家族に炒飯を生産する活動(売り上げは上がらない)と,中華料理屋で客に炒飯を生産する活動(売り上げが上がる)とはどちらも同じです。
以上,この講義では,経済活動一般と,その中でお金の発生
する経済活動とを分けています。市場が発生する限りでは,大昔から,お金の発生
する経済活動も発生していたのですが,特に現代社会において,お金の発生
する経済活動が経済活動の主要部分を占めるようになりました。そこで,この講義では,どの人類社会にも共通な経済活動を論じた後で,市場社会としての現代社会に特有な経済活動を考察するようにしています。もう一度,「1. 経済と経済学」を読み直してください。
最初に一つ。物質代謝の効率的運営という言い方がよくないのかもしれないのですが,経済活動には生産だけではなく消費も含まれます。これに対して,労働は基本的に生産において発揮されます(市場経済の場合には流通においても)。要するに,労働は物質代謝の効率的運営そのものではなく,物質代謝の効率的運営を効率的にする媒介的行為です。
で,以上を前提にしていうと,人間の場合には効率化は自覚的な意識によって,それを通じて達成されます。反射神経を磨くなんて,本能的な能力の向上の場合にも,自覚的な意識がそれを媒介にしているのです。何故ならば,この能力は労働において発揮され,労働の繰り返しによって向上するからです。要するに,人間の効率化は自覚的に達成されるのであって,自覚的行為は効率化の必要条件,《効率化⇒自覚的》です。それでは,自覚的行為は効率化の十分条件《自覚的⇒効率化》かと言うと,まぁ,抽象的な可能性としては,たとえ自覚的に行っても,もし不要ならば効率化しないということはありえます。すなわち,敢えて効率化しないという選択肢もありえはします。
例えば市場社会です。市場社会では,多くの人は一つのことをして貨幣を獲得し,この貨幣を支出して自分にとって必要なものを手に入れます。要するに,自分の成果と引き替えに社会から必要なものを手に入れます。
協力に反する“競争”が出てこないこの段階では,そう言っていいと思います。競争(協力に反する)と競い合い(協力の一部分)との違いについては,後に補足で見ることになります。
加わります。なお,生産物の観点からは,何が労働手段であり何が労働対象であるの稼働でもよかったのと同様に,個人的労働の生産物なのか社会的労働の生産物なのかもどうでもいいことです。
違います。私Aとは異なるただの他人Bです。しかし,このただの他人Bは私Aと同様に,労働しており,その点で私Aと同様に“自分”(自我,自己意識,人格)という資格を持っています。そこで,私Aも“自分”であり,他人Bも“自分”であるということになり,ここに自覚的な相互性が発生します。
他者の手を借りるということです。自分の目的を達成するために他者を利用するということです。
しかしまた,講義でやったように,他者もまた自分と同様に労働する個人である以上,この関係が労働の原理によって成立するためには,一方的な利用関係ではなく,自覚的な相互性が成り立つ必要があります。
まず,第一の質問について。いいところを付いています。そして,逆です。「他の人間との社会関係を手段として利用する」ということに,市場での商品交換が含まれているのです。ただし,ここで展開している経済活動のポテンシャルを市場社会がどのように実現しており,どの部分でまだ実現していないかは『4. 市場社会のイメージ』で詳しく見ていくことになります。
次に,第二の質問について。労働の媒介性は,労働手段と同様に他の人々の労働も手段として利用するのですから,その限りでは答えはYesです。ただし,ハサミとは違って,他の労働する個人の場合には,関係は相互的かつ自覚的です。そして,この関係(つまり社会)は単なる手段ではなく,目的でもあります(この点については,試験範囲外のスライド『[3–A] 社会と共同体』参照)。ところが,自分と社会とが,それを通じて自分と他の個人とが完全に分離してしまっている市場社会においては,他の個人は自分の私利私欲を達成するための単なる手段として現れます。
奴隷と対比してでの賃金労働者の二面的な正確については,社会的運営ではなく,効率的運営についてはすでにお答えしています。
で,社会的運営について言うと,『1. 経済と経済学』で述べたように,資本主義社会における社会的運営については,(1)市場の拡大(企業の外部の関係)と(2)企業という非市場的組織の拡大(企業の内部の関係)との両面から考えなければなりません(この他に企業間での産業組織の拡大という問題もありますが,ここでは度外視します)。
賃金労働者の観点からまとめると,上記の(1)について言うと,効率的という以前に,そもそも生きるためには労働者は交換関係という社会関係を結んで自分の労働力を販売し,消費手段を購買しなければなりません。通常の場合には,労働力の販売も消費手段の購買も,選択の自由の問題ではなく,必然性の問題です。(2)について言うと,労働者ではなく資本が利潤最大化を達成するために労働者を集めるのです。集めるということの中には,利潤の絶対量の増大とともに効率化が含まれています。このような資本の利潤最大化の手段としての協業(企業内協業)と,しかしその中での賃金労働者の共同利益の形成とについては,政治経済学2で株式会社について詳しく考察することになります。
なお,農奴の位置は,現代の賃金労働者と前近代の奴隷との中間です。
資本主義社会の現実については,今後見ていくことになります。一言で言って,資本主義的営利企業は自己の利潤最大化の手段として自己だけの効率化を追求しますが,その必然的結果として社会的には人間の破壊(過労死とか労災とか)と自然の破壊とをもたらします。単純に生産力だけで考えても,これは外部不経済をもたらします。それだけではなく,特に資本による効率化の飽くなき追求とそこで雇用されている労働者の生活の効率化とが矛盾するようになります。と言うのも,賃金労働の場合には特に,一日の労働時間が長ければ長いほど,その不効用は逓増するからです。賃金が増えればいいというわけではないのです。ましてや,賃金労働者は明日も来年も自分の労働力を販売しなければ生活することができません。この非効率性の極限が労災や過労死です。
どの人類社会にも経済活動でも見るように,経済的な社会形成の原理は自由・平等・人格性(=所有)です。市場社会においても,これはタテマエ上,達成されます(注1)。法的に言うと,これが私法的な世界です。平等な人格同士が自由意思で契約(雇用契約もこれに含まれます)を結ぶ限りでは,もし契約の侵害がないのであれば,外部からの干渉は不要です。ところが,資本主義社会の現実は市場社会のこのようなタテマエに矛盾しています。労働者と資本とはちっとも対等(=平等)ではありません。
しかるに,資本の無制限な利潤追求は人間破壊と自然破壊とに帰着しました。ところが,上記のように個別契約の枠内では,すなわち市場社会のタテマエの枠内では,この問題を解決することができません。そこで,今日では,社会が干渉して,資本の無制限な利潤追求を法的に制限するようになっています。これが公法,私法とならぶ社会法の枠組みです。乱暴に言うと,私法の枠組みが市場社会のタテマエだとすると,社会法の枠組みは資本主義社会の現実の露呈による市場社会のタテマエの破綻の法的反映です。
これは,……これだけやっても一年間かかるような壮大な話ですね。と言うか,さすがにここまで来ると,経済理論と言うよりは経済史の範疇になってくるかと思います。働く側/働かせる側と言っても,いろいろなケースがあり得るので,ここでは,簡単化のために,働かせる側は全く働いていない(管理労働すらしていない)と仮定しましょう。通常は,このような支配,換言すると階級区分は,生産手段の所有関係によって保証されています。要するに,生産手段を独占している方が働かせる側,生産手段がない/あるいは足りない方が働く側になります。
前近代的共同体の場合には,共同体内で階級区分が発生することも,共同体外から階級区分が入ってくることも,共同体が崩壊して被支配階級になることも,とにかく千差万別にあります。で,どういうケースも遡ってみれば,共同体内での階級区分に帰着するとして,そういう階級区分がどこから来るのかと言うと,生産力の上昇,従って物質代謝の効率的運営そのものからです。
これも大きな質問ですね。今後講義の中でも触れますから,ごく簡単に。
前近代的共同体における阻害要因:共同体に個人が埋没していたから。生産力が低くて,生まれた時から属している共同体に頼らないと人々は生きていけなかったから。
現代社会における阻害要因:全体としての市場社会は,商品・貨幣すなわち物件(=モノ)のシステムとして,物件を通じて無自覚に形成されたから。人々自身がつくりだした物件的システムに過ぎない貨幣に人々が振り回され,人々自身がつくりだした物件的システムに過ぎない資本に人々が支配されているから。要するに,人々が自分たちで作り出したシステムによって,人々が支配されてしまっているから。最後の点については,特に政治経済学2で,株式会社という形で詳しく論じます。
うーん,余暇というのは定義が難しいですね。一応,労働との関連で,労働しない空き時間を余暇と考えておきましょう。そうすると,余暇に何をやるのか,ということは議論できるのですが,余暇自体は無内容なのではないでしょうか。たとえば,余暇に昼寝するとか,余暇に休憩するとか,余暇に食事するとか。要するに,空き時間があって,そこで何かすることで内容が生まれるという感じではないでしょうか。
あなたは,いわば自明のこととして,余暇は……自覚的でコストのかかる活動
と述べています。しかし,睡眠なんかは,睡眠しようと意識して寝ることもあれば,自然とウトウトとして寝てしまうこともあります。また,それは別にしても,そもそも睡眠中は無自覚的です。そうすると,あなたが考えている余暇というのは,たとえば食事したり,トランプしたり,DVDを見たりということ(つまり消費)をイメージしているのではないでしょうか。なるほど,これらはいずれも,自覚的な活動ということができます。
しかし,それらが労働と同じ意味でコストだとは決して言えません。なるほど,余暇を細分化するとトレードオフの関係にあります(総余暇が5時間ならばトランプ2時間とDVD視聴3時間はトレードオフの関係にあります。しかし,一方を放棄して(コスト削減して)他方に追加しても,総コストは変わりません。また,トランプ遊びにはトランプ代が必要でしょう。しかし,トランプ遊び自体は,消費としてやっているのであって,コストとしては意識されていません。もしコストだなんて感じたら,やめりゃいいだけの話です。
余暇に遊技をおこなうのではなく,自分で観賞するために花を育てている場合はどうか? この場合は,明らかに労働です。要するに,労働の空き時間に別の労働を行っているのです。会社で働く労働が疲れて嫌な仕事なのに,花を育てる労働は楽しくて仕方がないなんてことは,「自覚的でコストのかかる活動」かどうかということとはなんの関係もありません。
こういうわけで,余暇と労働とを対立させるのは,──現実の社会問題(例えば労働時間が長すぎて余暇が足りない,など)を考える際には重要だとしても──,概念的な区別をする場合には,持ち込まない方がいいと思います。その中には,自覚的な活動も無自覚的な活動も,コストとして意識される活動もコストとして意識されない労働も,生産も消費も,なんでも入り込んでしまいます。
固定資本(ミシン,針,鋏等)は無視します。10万円(これがどの人類社会にも共通な旧労働に相当する,市場社会での貨幣的コストです)の綿布を市場で買ってきて,今日,5時間働いて(これが新労働です),10着のシャツを生産したとします。今,他の業界では,無料の労働対象だけを使って,5時間労働で生産された商品が1万円の市場価値を持っていると仮定します。そうだとすると,10万円の綿布は50時間労働分のコストがかかっていることになります。
もしこのシャツをあなたが1万円で売ったら,あなたは大損こくことになるでしょう。何故か? 旧労働を回収できていないからです。原価には10万円(=旧労働)が含まれているのに,原価割れしてしまっているからです。
こういう風に,現代社会をイメージしてみると,原料代や機械の価値移転部分が原価に入っているということは明快です。しかし,こういうように,今日のコスト(1万円=5時間労働=新労働)と昨日までのコスト(10万円=50時間労働=旧労働)とを合計しないとトータルコストは分からないというのはどの人類社会にでも共通です。これを新労働と旧労働というちょっと分かりにくい形で考察したのです。
新労働・旧労働の考え方はGDP等における付加価値の考えと似ているのではないか?
──GDPはすべての商品の付加価値の合計であり,付加価値をなすのは新労働だけです。上記の例の場合,もし綿布が当該年間に生産されたのであれば,綿布の付加価値も,シャツの付加価値とともに,GDPの中で合算されます。
両方です。労働は,効率化をおこなうことが可能である
からコストとして節約され,自覚的意識的である
からコストとして意識されます。
すでに『1. 経済と経済学』で見たように,社会関係と言っても,経済的関係だけではなく,法的・政治的・文化的……など様々な社会関係があります。また,諸契機が分化した現代主義社会を考えてみると,経済的関係の中にも,労働そのものの関係である生産関係だけではなく,交換関係,所有関係,分配関係……などがあります。ここでは,どの人類社会にも共通な経済活動における経済的関係=生産関係と考えて話をします。
社会的労働過程として考えるならば,当然に生産手段が社会的労働過程の契機として含まれます。その中には,労働間での結合の度合いが低い場合には,個人が利用する道具が含まれるでしょうし,結合の度合いが高まり,かつ科学的知識の意識的・計画的適用が発展すれするほどば,共同的にしか利用できないような労働手段の役割が大きくなるでしょう。
構想の実現も意志への従属も労働の契機ですから,労働力の発揮であって,労働力そのものではありません。で,構想を実現する能力,意思に従属させる能力と考えると,それは労働の自覚的な媒介性の根本だと考えることができます。しかし,労働力と言った場合に,そのような自覚的に媒介的な能力だけが含まれるわけではありません。
要するに,労働力とは,人間のすべての能力を,その発揮が労働であるという観点から,見たものです。いわば自分(=人格・主体)を“力”(=対象・客体)という観点からまとめたものです。つまり,労働するために自分が使う力が労働力です。つまり,あらゆる能力が入ってくるのであって,無自覚的な能力も入ってきます。
例えば,毎日大根を切っていれば,なんというか,もう無我の境地で大根を切るほど熟練するかもしれません。こういう力も労働力には含まれます。鍛冶屋は酸化鉄をほとんど反射神経で避けるでしょう。こういう力も労働力に含まれます。それだけではありません。全く本能的な能力,例えば心臓を動かす能力だって労働力に含まれます。と言うのも,労働している際に心臓を止めている人は見たことがないからです。
『2014年04月22日の講義内容についての質問への回答』の「本講義の“政治経済学”の“経済学”とは……」をご覧ください。
(注1)本当はタテマエ上成立している現代市場社会における形式的自由・形式的平等・私的所有から抽出してきたのがどの人類社会にも共通な経済活動の理念です。