このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年04月22日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
要するに,毎日毎日,毎秒毎秒,繰り返し繰り返し,自分を生かすということです。
政治システムや法について論じる場合には,生命論や物質代謝論を論じる必要はないと思います。経済活動は,自分で媒介した生命活動,自分で媒介した物質代謝なので,生命論や物質代謝論について簡単に説明しています。生命活動および物質代謝それ自体が経済学のテーマというわけではなく,それをうまいこと媒介するのが経済学のテーマです。
そもそも植物の定義自体,はっきりしません。一応,光合成をする生物を植物と定義しておくと,植物も物質代謝をしています(光合成は典型的な物質代謝です)。その中で自己の力も制御しています。ただし,制御の単位となる自己の範囲が曖昧ですね。この点から,講義で触れた生物の特徴を満たしていないように感じる
という感想が出てくるのでしょう。例えば,竹の場合,一本の竹が自己なのか,根で繋がった竹林全体が自己なのか。そういう問題に対する答えはこの講義からは,というよりも社会科学からは,得られません。
もっと原始的な生物になると,ますます講義で触れた生物の特徴を満た
すかどうか怪しくなってきます。例えば,ウィルスが生物かどうかなんて,この講義の生命論では解決不可能です。でも,この講義の課題は人間の経済活動を解明することですから,そこらへんは,まぁ,どうでもいいのです。以上の点については,『[2–A]生命・物質代謝・自己』の「この講義の生命論(2)」のスライドをご覧ください。
『生命・物質代謝・自己』で述べた「生物は,周りを拒絶するのではなく,周りと全面的に関係を持ち,しかして,この関係の中で自分を維持し続ける」という場合の「関係」とは,何よりもまず,「自分の周りの自然との関係」のことです。もちろん,それを通じて,特に人間の場合には,「自分の周りの人間との関係」もそれに含まれます。と言うわけで,人間がまわりの人間に埋没したからと言って,「自分の周りの自然との関係」で自己消失してしまっているわけではないから,もはや無生物と同じ
ということにはなりません。
その上で言うと,「自分の周りの人間との関係」に埋没してしまうというのは,現代に限ったことでは決してなく,寧ろ前近代的共同体の特徴です。但し,いわゆる“アイデンティティの危機”という問題は,共同体から自立してアイデンティティ(自己同一性)を確立したはずの現代的個人がそれを喪失してしまうという問題ですから,現代社会に特有の問題と言えます。
逆に,社会との関係を拒絶しようとしている人間
は,自分の必要な生活手段は市場から入手しているはずです。要するに,このような人間は,モノ(後に物件として定義し直します)を通じて,他の人間と希薄な,しかし全面的な関係を築いているわけです。もしそうならば,社会との関係を拒絶するどころか,ますます以て全面的に社会と関係しています。ただし,その内容は,モノを通じてなので,希薄になっています。しかし,このような,モノを通じての社会関係こそは市場社会において必然的な社会関係なのです。
孤独
というのは,通常は,他の人間から切り離された状態のことを指すと思います。経済的には生物・無生物
という区別は,ここでの文脈では意味を持ちません。自然・人間という区別は重要ですが……。人間が生物として生きるためには,無生物であれ人間以外の生物であれ自然に対して関係するということが不可欠ですし(物質代謝の効率的運営のレベル),また現実的・文化的に生きるためには,直接的にであれ,間接的に(モノを通じて)であれ,他の人間と関係するということがほとんど不可欠です。
えっと個体の維持も,種の維持も生命一般の目的(本能的な目的)であると言うことにご注意ください。人間は,これとは別の自分だけの個人的な目的を自由に設定することができます。このような人間特有の自由については,『2』で見ていきます。
個人個人の主観的・偶然的・個別的な意識に即しては,生きる目的はそれぞれです。あるいは,なんにも目的を意識していない人もいるかもしれません。ともあれ,いずれにせよ,──全く同義反復ですが──,生活している限りでは,自分の生命が維持されます。換言すると,自己の生命が維持されている限りでは,自己の生命が維持されています。ほら,同義反復でしょ? 要するに,主観的な目的を離れて客観的に見ると,生きるということは単純な自己目的(生きるために生きる)なのです。すなわち,この結果から客観的に見れば,自分の生命の維持こそは客観的な自己目的であって,遊ぶのも食べるのも働くのも寝るのも何もしないでぼーっとしているのも,悩むのも泣くのも怒るのも呆けるのも,すべて,この客観的な自己目的にとっての手段になっています。自殺ですら,失敗した限りでは,自己の生命を維持するための手段になってしまっています。なにしろ自殺に失敗することでまさに今生きているのですから。まぁ,成功しちゃったら手段になりませんが。
種の維持もこれと全く同じことです。先進国の出生率が低くても,一部の先進国では人口増加率がマイナスになっていても,結果的に人口消滅しないでいる限りでは,種が維持されています。
繰り返し強調しておくと,人間はこのような本能的な生命としての自分を超えて,自由に目的を設定します。従って,先進諸国に住む人間
が自分の主観,自分の意識において,種を維持するためには生活していな
いのは当然のことです。人口が増加している発展途上国の人間の中にも,種の維持なんてことを主観的目的にして生きている人はほとんどいないでしょう。もしどの人間個人も必然的に種の維持を自分の意識の中で目的として設定するとしたら,それはホモサピエンスが絶滅の危機にある場合でしょう。要するに,生命一般の客観的な目的と,それとは異なる人間個人の自由な,主観的な目的とは両立するのです。
講義で述べたように,人間は自分の生命活動を自分で媒介する存在です。このことから,他の生物の生命活動よりも人間の生命活動はレベルアップします。それは別に音楽に限りません。動物の個体の生存に必要な栄養摂取に楽しい会話や手の込んだ調理を介在させますし,動物の種の存続に必要な交尾に精神的な愛を介在させます。要するに,人間が生命活動をおこなうというのは本能的にそうであるだけではなく,文化的・社会的にもそうなのです。
もちろん,出発点は本能的な生存にあります。栄養摂取をしなければ人間は生物として存続できません(本能的な意味での古典的物質代謝)。しかし,人間が人間として生きるには,自分が生きてい時代に社会的に共有している文化的な水準(要するに生活水準)を満たすような仕方で《食事》(栄養摂取)をする必要があるわけです。そして,文化的食事から本能的栄養摂取を分離するのは不可能ですし,無意味でもあります。このことを延長すると,音楽を聴くというのも人間の文化的・社会的な生活(生命活動)には必要なことです。
リアクションペーパーはその回の講義の内容・形式に対するリアクションを書くためのものです。質問はその回の講義でおこなった範囲にしてください。詳しくは『2』の中で今後見ていきます。
「能力と欲望のスパイラル」も……成り立っているということなのか?
──もちろんそうです。
構想は……に該当するのか?
──この講義の考え方では,どちらも労働の契機であり,生産的労働においては「生産活動」に該当
します。要するに,頭の中で構想した時点で既に労働がはじまっているのです。
最近の
と断っているところを見ると,人間によって調教されたチンパンジー,あるいは実験対象のチンパンジーのことでしょうか? そのような能力はチンパンジーが自分で手に入れたものではありません。チンパンジーが鍵を使ったり,図形言語を並び替えたりするのは,人間の真似をしているのであれ,人間の真似をさせられているのであれ,チンパンジーの知能の高さ以上に,人間の能力の高さを示しています。
いやそもそも,制御が高度かどうかということは,現代人の赤子なり,原始人なりとチンパンジーとを比較しても全く分かりません。『2』では,結果から見て,結果論として,この高度な制御がもたらした結果を考察します。そして,この結果から見ると,人間の力の制御はチンパンジーの力の制御よりも高度だったのだと導き出します。
この講義の定義では,厳密に言うと,人間以外の動物は労働しません。労働は動物と人間とを区別する差異の概念上の徴表(区別する特徴)です。と言っても,これはあくまでも概念上のものであって,講義でも強調したように,木の実を採集する猿と木の実を採集する原始人とを較べても,その違いなんかよく分かりません。ぶっちゃけ,猿の祖先から現生人類の祖先が枝分かれした時点では,ヒトはまだ動物だったと言っても間違いではありません。政治経済学2では,より目に付きやすい違いとして,“労働”に代わって“所有”を持ってきます。
人間と他の動物との違いについては『1』のレベルでは,大体それであってます。もっと積極的にいうと,効率的であるかどうか
,と言うよりは“効率化できるかどうか”ということです。より詳しい違いについては,『2』の中で明らかにしていきます。
第1回目の講義で詳しく述べました。マイクの調子で聴けなかった場合には,Blackboard上でWeb補講を用意しています。
答えを簡潔に言うと,効率的にすることができない/効率的にすることに意味がない/人間の生活水準が上がれば効率的になるというものではないからです。
政治活動なんかは度外視して,経済活動に論点を絞ります。ちょっと難しい話かもしれません。
意識そのものは人間も動物も持っているので,問題はどういう意識なのかということになります。一言で言ってしまうと,人間特有の意識は自己意識であり,換言すると,自覚的ということになります。つまり,単に意識的
なのではなく,自覚的
に媒介しているということが人間の生命活動の特徴だと,ひとまずは言えます。
ところが,自己意識的または自覚的に媒介するためには,そのような“自己”が形成されていなければなりません。要するに,自分として生きているから,自分として意識するわけです。現実があって初めてそれに対応する意識が生まれるわけです。この意味では,人間の生命活動の特徴または経済活動とは,何よりもまず,物質代謝の自己自身による媒介だということになります。ここから効率的運営が出てくるわけです。この点については,とりあずは,『1. 経済と経済学』の「人類一般の生命活動」を参照してください。この問題は今後も振り返ることになります。
高度な生命体というよりは,力の制御が高度なのですが,そう読み替えて答えるならば,その通りです。
自然への働きかけは必要ではないのか?
──もちろん,必要です。「生命活動(生活)を自分自身で運営する」と述べている限りでは──要するに生命活動と述べている限りでは──,広い意味での自然(注1)への働きかけが当然に入っています。この点は物質代謝について確認しました。
「自分自身」のみでは成り立たないのか?
──成り立ちません。自分自身の振る舞いこそが出発点ではあるのですが……。
一言で言ってしまうと,最小のインプットで最大のアウトプットを得るということであり,本質的には最小の労働量で最大の生産物を得るということです。なお,この場合の「最大」には量的に多いということだけではなく,質的に高いということが含まれています。詳しくは『6. 生産力の上昇』で見る予定です。
というわけで,エネルギー効率ともパレート効率性とも,──無関係ではありませんが──,異なります。まず,エネルギー効率は,──これについては私は全く専門外なのですが──,それ自体としては,人間にとっての効率性ではなく,エネルギー同士(投入したエネルギーと産出するエネルギーとの)効率性でしょう。要するに,エネルギー効率は自然と自然との関係であり,これに対して,この講義の効率性は(直接的には)人間と自然との関係(この関係を人間自身が何よりもまず個人で,やがては社会を通じて,媒介していくということ)です。
パレート効率性は所与の生産力水準の下での主観的効用の最大化という観点から社会的な資源配分の効率性を考えたものです。これに対して,物質代謝の効率的運営という場合の効率性は:
個人的生産の内部でも成立します(もちろん,社会的にも成立します)。と言うより,社会的運営との対比で言うと,何よりもまず,個人が達成する効率性を指します。
生産力水準の上昇そのものを問題にするための概念です。
なんの最大化という観点から見た効率性かと言うと,最大化されるべきであるのは,人間が行う投入のコスト(本源的には労働量)と産出の効果(生産物の量と質)との客観的な比率です。
疑問点は,要するに,経済活動と労働との関係がどうなっているのか,ということでしょうか? 経済活動(自分自身が運営する物質代謝)と言った場合には,生産も消費も入ります。この図式(どの人類社会にも共通な図式)では,労働は生産において発揮されるものです(市場が入れば流通においても発揮されます)。消費そのものにおいて発揮されるのは労働とは呼びません。しかるに,『1』で見たように,自分自身で物質代謝を運営することができるのは生産を消費から分けたからです。以上をまとめていうと,物質代謝を自分自身で運営する際の力の発揮が労働です。
例に挙げられていた江戸時代の年貢の話は,……つまり経済というベースの上に政治活動があるということではないか?
──その通りです。経済システムがベースだということは現代でも前近代でも変わりがありません。ただし,このベースである経済システムが,前近代では他の社会的サブシステムと混ざり合っているのに対して,現代では独立するものとして現れているわけです。
現代資本主義社会における資本主義的営利企業そのもの,企業組織に対する対極
はその通りです。ただし,資本主義社会で支配的な生産・流通の担い手が資本主義的営利企業であるのに対して,市場社会が想定する生産・流通の担い手という対極
は個人,すなわち自営業者です。要するに:
組織について営利か非営利かという対極
においては資本主義的営利企業vs.利益追求を求めない団体
です。
社会が想定する担い手について組織か個人かという対極
においては資本主義的営利企業vs.自営業者です。
大体その通りです。注意点を2点だけ。
商品売買が市場社会の経済活動であり,営利活動が資本主義社会の経済活動だというのは,あくまでも,イントロダクションにおいてこの問題にファーストアプローチする際に分かりやすくするために,単純化した物言いだと言うことです。今後,両者をもっと詳しく,もっと正確に見ていくことになります。
講義の中でも強調しましたが,営利活動は商品売買があって初めて成立します。
社会の完成というのは,失敗がなくなるということでもなければ,人間の能力に発展がなくなるということでもありません。
まず,人間は必ず失敗をします。しかし,『2』で見るように,それは悪いことでもなんでもなく,失敗を直ちに修正できるところに,労働のポテンシャルがあるわけです。要するに,社会の完成とは,人間が自らの失敗をすぐに修正するのを社会が邪魔しなくなるということです。
次に,人間の能力は現代の自由主義社会
ではじめて解放されました。現代の自由主義社会
はカネモウケに役に立つ限りで無限に人間の能力を利用し,開発しようとします。ところが,このことは,「カネモウケに役に立つ限りで」という形で人間の能力の発展が制限されているということをも意味しています。社会の完成として想定しうるのは,人間の能力に発展がなくなるということではなく,逆に,人間の能力の発展に課せられている最後の制限もなくすということです。
その通りです。全く以て結果論です。人間という生物に至るポテンシャルはそれまでの進化の中に現れていたのですが,どのポテンシャルがどのように帰結するのかということは結果論でしか分かりませんし,この結果論を基準にして,未成熟なものを判断することになります。
全く同様に,社会の発展についても,現代社会に至るポテンシャルはそれまでの前近代的共同体の中に現れていましたが,だからと言って,前近代的共同体をそれ自体としてどれほど調べても,資本主義社会という一応の完成形態を導出することはできません。要するに,資本主義を知っていれば,安土桃山時代のどういう契機が発展して資本主義に至ったのかが分かりますが,逆に安土桃山時代しか知らない大坂の町民が資本主義を導出するのは無理です。
一応の完成形態というのがミソです。それが完成形態である所以は講義の中で述べました。それと同時に,この完成形態は自らのポテンシャルに即して,未完成な面(自らのポテンシャルを自分で制限してしまっている面)を明らかにしています。こうして,われわれ現代人は,資本主義社会から,未来を展望することが可能になるわけです。
資本主義社会は,これまでのすべての前近代的共同体に対しては,完成形態です。それはこれまでの共同体的な束縛から人間を解放するのとともに,歴史上初めて,世界システムを形成しました。これによって,地域ごと/時代ごとに異なるこれまでのすべての前近代的共同体の発展は資本主義に至る道だったと言うことができます。
それとともに,資本主義社会はこれまでの歴史そのものの制限を明らかにしています。完成したものそのものの未完成さを明らかにしています。資本主義が明らかにした──資本主義が共同体的束縛から解き放った──人間のポテンシャル,個人の能力を資本主義自身が抑圧してしまっています。この観点から見ると,資本主義社会は完成形態ではなく,未完成な形態であり,未来社会において初めて社会は完成すると言うことができます。(社会の完成の意味については他の人の質問に対する回答をご覧ください)。
高度の差
をもたらした物質的な基体については,私には分かりません。自然科学の対象分野でしょう。経済学の観点から言えるのは,高度の差
が帰結した決定的な差です。この決定的な差を『2』で見ることになります。
大体その通りです。一つ付け加えると,猿については,ヒトが不変のモノサシになっているのです。進化の系統は決して一直線ではなく,次々に分化して,分化した系統ごとに完成していくものですが,地球レベルで考えると,ヒトこそが進化の頂点,完成形態です。
講義で見たように,社会については,現代社会がこれまでのプロセスについては完成形態だと言える根拠があるわけです。
基本的には
その通りです。ただし,注意していただきたいのは:
講義内容には,いわゆるマルクス経済学の理論以外のものも含まれます。
この講義の内容は,いわゆるマルクス経済学の主流から見て標準的ではありません。この点については以下もご覧ください。
理解に役立つ
参考文献というと,私がかなり前に原論の講義用に作成したレジュメがあります。それについては以下をご覧ください。
理解に役立つ
とは限らないのですが,イノベーションの問題全体については以下で回答した文献『技術革新の経済学』をご覧ください。
(注1)例えば,対人サービスの場合には,対象は他の人間です。ところが,対象となっている他の人間も,労働する自分にとっては自分の周りの自然です。