1. 労働の特質

二重化=媒介化の部分で〔労働が〕二重の運動であり続けるのは自己という主体がこの運動を媒介し続けるというのはどういうことか? 二重化とは,自分自身で自分の生命活動を媒介しているから二重化となるのか? 自己の二重化について……それは分裂するわけでもなく収斂するわけでもないというのはどういうことか? 労働が自己を二重化するということは人間が自己を客観視できるからだと感じた。この認識で正しいか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

二重化といった場合に,自分自身の二重化,そこから派生する自分と対象との二重化をこの講義では「[2–B] 労働の媒介性」の中の試験範囲外の部分で扱っています。そこらへんの細かい話はそちらを参照していただくとして,皆さんが質問している二重化は「[2.5] 効率的運営から社会的運営への移行」の中で扱っている主体(=自分)としての自分と客体(=対象)としての自分との二重化,つまり自分自身の二重化ですね。

まぁ,個人の場合には,分裂しちゃうなんてことはあり得ないですよね(但し,これは政治経済学2でやりますが,システムの場合には,諸契機が分裂して発展します)。と言うわけで,個人の場合には,収斂してしまうか,それとも二重化したままかということになります。

収斂しちゃうってのは,上記[2.5]のスライドについて言うと,自分に従う自分もなく,自分を従わせる自分もなく,あるのは無印の自分だけってことになります。これは要するにただの本能的存在,動物です。要するに,人間が没落して動物に戻っているわけで,こういう没落(単なる本能的な状態,自分を二重化しているのではない状態)をわれわれは例えば夜中に寝ている間なんかに経験しています。寝ている間も,心筋は動き,肺は呼吸し,腸は消化しています。それは自分が自分に従わせているわけではありません。心筋をどう動かすのが効率的なのか考え,その通りに心筋を動かしているわけではありません。自分が自分(=心筋)を自覚的に動かしているのではなく,自分(=心筋)が本能的に動いているのです。

こういう風に収斂してしまうのではなく,主体(=自分)としての自分と客体(=対象)としての自分とが二重化したままであるのは,要するに主体としての自分と客体としての自分とが同じもの(=自分)の異なる側面として関連づけられているからです。誰が関連づけているの?自分──主体としての自分──意外にありえません。こうして,二重化が成立しているというのは,主体としての自分が主体としての自分自身と客体としての自分とを絶えず関連づけている──媒介している──ということによってだということになります。

二重化できるのは人間が自己を客観視できるからか?──非常にいいところを付いています。そして,逆です。二重化できるから,客観視できるのです。新しい意識(=客観視)が生まれるためには,新しい現実(=二重化)が必要です。

人間は「全面的に」〔自然を再生産している〕と言っていたが,天候など変えられない部分がある限り,動物と同じく一部を再生産しているのであって,後は程度の問題ではないか? 人間にとっても食べること自体は一面的にしか自然を生産していないと思うのだが,この食べることは労働に入るのか?それとも媒介性がないので労働とは言えないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

この食べることは労働に入るのか?──食べることそれ自体は消費であって,労働ではありません。箸で口にご飯を運ぶのくらいは労働に入れてもいいですが……。

天候など変えられない部分がある限り,動物と同じく一部を再生産している──全自然を再生産するというのは,別に冥王星を再生産しているという意味ではありません。自分にとっての自然を再生産しているということであり,この自分にとっての自然というのは,当然に,人類の能力の発展に応じて(つまり生産力に応じて)歴史的に発展します。重要なのは,人間は消費と生産とを分け,自分と対象とを自分自身で媒介することによって,対象を自分の対象として再生産しているということです。収穫したホウレンソウを食いまくっても,食い尽くすことなく,種を取り分けておきそれを発芽しやすいように加工して再度撒き,常に自分の欲望の対象であるホウレンソウを自分の意志で,自分自身で再生産します。こうして,人間は自分と自然(=この例では菠薐草を栽培するのに必要な自然環境)とを同時に再生産しています。これに対して,動物は,自分と対象とを分けておらず,ただ本能のおもむくまま自然を消費しているだけですから,結局のところ,自分(と自分の種族)しか再生産できていません。

〔労働が〕媒介的な活動と言えるという点は理解できた。ただ,その後の「すなわち,なんでも~普遍的な活動」という意味がわからない。何を基準に「特殊」としているのか? また「普遍的」というのも分からない。

自分を基準に特殊としています。自分にとって,自分の手,自分の足は,どれも自分の特殊的契機です。従って,自分こそは,手,足,脳,神経等を自分のものとして位置付ける普遍的な主体です。しかし,これは生物一般の特徴です。犬の前脚,犬の後脚もどちらも“犬の”形態であるのにすぎません。この場合に,犬こそは普遍的なものであり,犬の前足は犬という普遍的なものの特殊的契機に過ぎません。ただし,犬の場合はそこで終わりです。

人間の場合には,労働において,手足のような自分の有機的身体を自分の特殊的契機にするだけではなく,ありとあらゆる自然を,それどころか社会を自分の特殊的契機として位置付けています。こうして,労働はなんでも自分の特殊的契機として位置付ける普遍的な活動です。

「他人のために働く」というのも「自分の媒介」=「自分の特殊的な契機」,つまり「自分」が主体に来るということか?

そうです。

労働がなんの目的の媒介になるのか?人間自身が欲する利益などが意志に従って労働が媒介する目的物と考えていいのか?

間接的・究極的には生きるという目的です(但し,講義で強調しているように,人間の場合には単に動物として生きるだけではなく,文化的に生きるわけです)。生きるというのは欲求の充足を通じて行なわれるのだから欲求の充足と言うこともできます。利益が,この講義でこれまでのところ使用している意味であるならば,まさに自由に,思うように生きるということが利益です。もちろん生産手段の生産の場合には直接的に欲求を充足するような生産物が生産されるわけではないのですが,生産手段の生産は最終的には消費手段の生産の媒介になります。

直接的・個別的には生産物という目的です。個別的と言うのは“この労働過程に限って”という意味です。例えばシャツを生産する労働過程においてはシャツが目的です。

どの人類社会にも共通な経済活動のレベルで考えると,利益はこの生産物という目的(質・量が一定と仮定して)に必要な,労働という媒介を減らすということにあります。

資本主義的営利企業の場合にはどういうことになるのかって? と言うのも,資本主義的営利企業は人間ではないからそれ自身,労働するわけがなく,また資本主義的営利企業で労働している人間にとっては生産物は自分のものではなく企業のものになるからです。でも,それはこの先(『5. 資本主義社会のイメージ』以降)の議論です。

例えば,自然物である化石燃料を使い,様々な物を生み出しているのはどうなのであろうか? 短期的な味方かもしれないが,現代社会において人は自然を使って使いっぱなしだと感じた。そのため,本日の講義における,人は自然を使い,再生産するというメカニズムは崩れていると言えるのではないか? 〔環境問題に関して〕再生産できない経済活動は経済活動ではないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

使いっぱなしにして,地球を搾取している限りでは,崩れています。それがたとえ短期的には,そして個々の企業の立場からは,効率的であったとしてもです。結局のところ,今日か未来か判りませんが,──環境汚染による社会的生産力の低下(外部不経済)は別にしても──いつかは資源枯渇にともなう非効率化が生じます。

化石燃料は技術の発展によってその利用可能埋蔵量が増えています(シェールガス,シェールオイルなど)が,ともかく有限であり,そして,現在の技術では,それを有意味な短期間に生産する術がありません。

同等なものを有意味な短期間に生産する技術を開発するか(非常に困難),さもなければ再生可能なエネルギーを短期的観点からも化石燃料と同等な効率性を満たすようなコストで生産する技術を開発するか,それまでは,人間はこの面において自然を完全に支配し,わがものにしているとは言えないでしょう。

再生産できない経済活動は経済活動ではないのか?──厳格に考えると,そういうことになりますね。但し,労働は,それまでは再生産できなかった自然を再生産できるように試みます。要するに,再生産できるかどうかは,かなりの部分では技術的な問題です。しかるに,労働は自然を喰らい尽くす行為ではなく,自然を自由自在に制御する行為です。従って,現時点で技術的に制御できないのであれば,無理な制御の試みを放棄するのが労働の概念に即しています。自然を自由自在に制御するというのは,制御できないものを制御しようとするということではなく,無理をせずに,制御できる能力を手に入れてから制御するということです。

能力と欲望のスパイラルは,永遠に能力は向上し続けるのか?

人類が死滅するまで向上し続けると思います。別に個人の能力そのものでなくてもいいのです。社会の能力,しかも対象の形態(労働手段など)の形態で応用される能力が向上すればいいのです。

自分の労働によって,従ってまた自分の意志で環境を自分に適合させるというのは,人間が自らの手で環境に働きかけて形を変えて自分自身にとって最適な解を獲得するということか?

大体そんな感じです。ただし,最適解自体はその時点その時点の自分の(ここでは問題になっていませんが結局のところは社会の)能力に依存します。台風を避けるのに,原始人が一気に鉄筋コンクリの家を建てられるわけではないので。

あと,たとえ最適解の獲得に失敗したとしても(堤防を作ろうとしたら失敗しちゃった),自然を自分の意志の領域に設定した時点で,上記の適合の試みは始まっています。

人が元々猿だったことを考えると,少しずつ知性を得たということになる。……となると,人の知識と欲望の根本がどこから来たのか?

少しずつ知性を得た──その通りです。

知識と欲望の根本がどこから来たのか──欲望の根本は生物であるということ自体から生じます。もちろん,そこから先は人間特有の欲望を展開していきます。

知識の根本は,講義で述べたように,労働を通じて少しずつ獲得したのだと思います。もちろん,人間は,消費においても,ただボケッとしてても知識を獲得しますが,労働において獲得する知識はそれとはレベルが違うということを講義で強調しました。あと,もちろん,人間はありとあらゆる場面(政治や文化のような高度な社会的活動においても,純粋な思索においても)で知識を得ることになりますが,それらは労働において獲得された知識が前提になります。

2. 人間と動物との違いとしての経済活動について

動物と較べると人はすごく苦労していると思う。「理想と現実」にあるギャップを埋めようと能力を向上しようとするが,講義で指摘されたように制限がある。その結果,悩んだり等の精神的な苦痛をともない,諦める等の逃げか,ひたすら四苦八苦する。一方で,クモ等は〔……〕エサとなる虫がかからない等の苦悩があると思う。どちらの方が「苦」なのか?

どちらの方が苦かという量的な問題はわかりません。しかし,質的な問題ははっきりしています。

自己が対象

人間は労働を通じて,自分自身を対象として見ることができます。二重化のところ参照してください。従ってまた,単なる本能的な活動とは違って,主体として自分自身の労働を苦しいと意識したり,楽しいと意識したりします。人間にとって消費(遊びを含む)が楽しいのもここから派生します。

対象が自己

しかし,それだけではありません。労働が苦しかったり楽しかったりするのは,それが他ならない自分の行為だからです。苦しみについて言うと,例えば料理を作るという労働において,生産する前に何を作ろうか,どう工夫して作ろうか,どういう風にすれば美味しくなるか,苦悩します。生産している間も,絶えずこういう選択肢を活用すればもっと手間が省けるのではないか,他の食材を加えればもっと美味しくなるのではないか,いろいろと苦悩します。労働は創造であり,創造は苦悩をともないます。この苦悩を越えたところに歓びがありますし,越えられなかったら苦悩の経験として残ります。

動物も生命活動が苦しかったり楽しかったりするのでしょう(インタビューしたわけではありませんが)が,この苦楽は生命活動と一つのものです。要するに,われわれが高山に登ると(酸素が薄くて)本能的に息苦しくなったり,春になると(暖かくて)本能的に楽になったりするのと同じです。不味いものを食べたら苦しくなったり,上手いものを食べたら楽しくなったりするのと同じです。自分で自分を楽しんでいるわけではありません。

後は二点ほど補足。

  • 労働が苦しみでもあり,楽しみでもあるというのは,孤立した個人として労働するのではなく,社会を形成して共同労働するようになると更に新しい規定を受け取ります。
  • ここで述べたような,労働がもともと苦しみであるという場合の苦しみは,ブラック企業で長時間労働させられて嫌だとか,業務命令で働くのが嫌だとか,金のために働いているのだからできるだけやりたくないとか,そういう,資本主義的生産に特有の苦痛とは分けてください。

人間は実際に生産する前に頭の中で生産している点が異なると言っていたが,それが本当に人間だけのことなのかは分かっているのか?

一応,議論の前提:《現実に生産するということと頭の中で生産するということの違いは,後者は自由に変更可能だということである。それ故に,実際に生産する前に頭の中で生産しているならば,この構想に応じて現実を変革するはずだ。》

さて,私は蜘蛛の脳波を測ったことはありません。蜘蛛とお話ししたこともありません。しかし,上記の前提があれば,後はもう背理法です:《もし蜘蛛が人間と同様に実際に生産する前に頭の中で生産しているのであれば,蜘蛛の巣以外に環境と条件に応じて最適な住居を生産しようとしているはずだ。ところがそうはなっていない。だから,蜘蛛は実際に生産する前に頭の中で生産しているわけではない。》

ずるいですね。別に論点先取りではないのですが,それに近いという印象を受けるのではないでしょうか。でも,このずるい方法こそが正当なのです。

講義で強調したように,人間はチンパンジーとほとんど同じです。実際,赤ん坊の知能なんで大人のチンパンジー以下です。そして,もちろん,人間の赤ん坊は疑いようもなく人間です。講義では,もし仮に人間の先祖が猿の先祖から枝分かれした地点にタイムスリップしたとしても,両者の違いは絶対に分からないだろうと強調しました。

ところがまた,現在,人間と猿とは全然違っています。猿は環境や条件に適応して進化しているだけなのに対して,人間は環境や条件を自分に適応させてどんどん発展しています。

それじゃ,現在の経済活動の観点から両者の違いを考えるとどうなるか。例えば,猿には新幹線は作れません。それじゃ,新幹線を作るのが人間だと定義してみよう。いやいや,そしたら日本人以外は人間じゃなくなっちゃうじゃないか。と言うか,日本人の中でも新幹線の開発と生産に携わっているのはごく一部だろう。他の人たちは人間じゃないのか? また新幹線は1960年代に開発されたようだ。新幹線が開発される以前はヒトは人間ではなく,猿だったのか?

要するに,いくら猿と人間とを隔絶する証拠を持ってきても,新幹線が作れるなどという,このような特殊的な条件ではダメなのであって,条件を一般化しなければなりません。労働の特徴はこのような一般化こそがだったたわけです。

さて,さすがに蜘蛛の脳だと着手後のイメージを前以て抱いて巣を作るというのは(素人考えでは)困難だと思うのですが,知能が高い猿は(現実から分離された,自由度を持つ構想とは言えないものの)着手後のイメージを前以て抱いて生活しているようです。政治経済学2では,その日に食べる樹液のために前日に樹に穴を空けておくピグミーマーモセットを例に出しながら,今度は労働に加えて,所有というキーワードを使って,この問題に立ち返ることになります。

人間が知識を蓄積していくのと同様に,生物も少しずつ進化しているのではないか?

当然に進化しました。講義で述べたように,人間は自然を自分に適合させるのに対して,他の生物は自然に適合する,あるいは,もっと適切にはたまたま適合した個体だけが生き残るのです。人間の社会的な発展は,成功しようと失敗しようとも,自分の意志で行っているからこそ,必然的なのです。これに対して,他の生物の自然的な進化は偶然的なのです。

人間以外にも狼とかも狩りを学んでいく時,失敗から学んで徐々にコツをつかんでいっているように思ってしまい,さらにチームプレーで狩りをすることを覚えていってそこには社会というものが存在すると考えたが,人間との違いはどうなのか?

当然,動物個体も学んで成長します。で,私思うのですが,狼はなんで弓を使って狩をしないんですかね。弓が狼の肉体に合わないのであれば,他の道具を使えばいいのです。とは言っても,道具の使用自体が重要なのではありません。アリクイも上手に木の枝を使います。しかし,アリクイは最もアリをほじくるのに最適な棒を,寸分違わず同じ形態で,再生産することはできません。スコップ等他の道具を発明することもできません。とは言っても,道具の発明・改良それ自体が問題なのでもありません。自由自在に自然を操れないということが問題なのです。

広義で捉えれば簡単な道具を使うチンパンジー等も人間と言っても問題ないのでは?

“道具”を使うことができればいいのであれば,アリクイだって“道具”を使います。要するに,“道具”を使うというだけでは人間と他の動物とを区別する徴表(目印)にはなりません。

3. どの人類社会にも共通な経済活動と現代社会との関連について

もし大工が仕事のために決められたものだけを給料を得るために建てているとしたら,その場合はクモと同じように能力も欲望も高まらないということになるのか?

給料をもらって建築会社に雇われている大工は賃金労働者です。この大工は一面では業務命令で,会社の歯車として家を建ています。会社は他人ですから,この大工は自分としてではなく,他人として(会社の歯車として)働いていることになります。その限りでは,確かに,この人に能力を高める動機はないでしょう。

しかし,賃金労働者は会社の歯車ではあっても奴隷とは違います。完全な奴隷の場合には,そもそも自分という形式がなくなってしまっています。

第一に,会社の歯車として働いているとしても,タテマエ上,それを選んだのはこの人の自由意志です。自分の意志で契約して会社の歯車になったのです。そして,現場では紛れもなく自分の能力を発揮して,会社から与えられた目的を自分の目的(自分の構想)としてとらえ直し,かつ,会社の業務命令を自分の意志にとしてとらえ直し,この人は働いています。要するに,この大工は会社の歯車でありながら,しかも自分の力を自分で発揮しています。金銭的インセンティブの問題を別にしても,これだけでもこの人が能力を高める動機があります。

第二に,このことは実際には,金銭的インセンティブによって媒介されます。要するに,自分の能力を高めるということで賃金が増えるのであれば,この大工には,自分の意志で自分の能力を高める動機が金銭的にもあります。

経済システムは他の社会的なサブシステムにとっていつの時代においても規定的な要因だったとあったが,この規定的という意味は具体的にどのようなものなのか?

人間はいつの時代も必須の消費手段を手に入れなければ生きていけませんし,そのためには生産手段を手に入れなればなりません。要するに,人間にとっては,いつの時代も経済活動が必用です。そして,経済活動が社会的に行なわれるのも講義で見るとおりです。

ただ,講義で見たように,前近代的共同体では,その経済活動(の大部分)が現代社会でのように純粋に経済活動として行なわれませんでした。例えば,江戸時代の主役は武士であり,従って社会の全面に現れるのは政治(現代的な民主政治ではなく,世襲制権力による政治)でしょう。しかし,この政治が何を目指して争われたかと言うと,武士の場合土地であり,要するに農地です。この政治によって何が達成されたかというと社会的分業と富の分配であり,大名の富は農業生産物である米の量で量られました。

時代が遡ると,例えば卑弥呼の時代には,政治的権力よりは宗教的権威の方が歴史の主役だったことでしょう。しかしまた,この宗教的権威の役割は何よりもまず社会の経済的な再生産を(要するに社会的に運営された物質代謝を)媒介でした。それをしないとそもそも前近代的共同体が存続できませんので。

4. その他

自分を自分の意志へ従属させるとあったが,奴隷制度の下では人々はどのような思想であったのか?

奴隷労働は会社の業務命令の下で雇われ者の労働者が働く現代の賃労働とも,自分の命令の下で自分が働く自営業者とも異なります。で,奴隷制にも,いろいろと程度の違いがあるのですが,ここでは,全く自由が認められないような完全な奴隷制,そして生産における奴隷制を想定します。

実際には,つまり事実上は,奴隷も人間である限り“自分”として生きるしかありません。しかし,形式的には,奴隷が人格つまり“自分”ではないのです。つまり,物言う道具であって,人格として認められてはいないのです。そうであるとするならば,形式的には,奴隷は自分を自分の意志に従属させるのではなく,家畜がそうであるように,奴隷主の鞭の下に,つまり奴隷主の意志に従属してしまっているのです。