このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2013年06月04日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
この仮定の前提として,出来高(労働の個人的生産力)では,熟練労働と不熟練労働とのどちらが高いのでしょうか?もし不熟練労働の方が高いのであれば,実は熟練労働は熟練労働では無かったというだけの話です。もし熟練労働の方が高いのであれば,出来高賃金は低すぎるのですから上昇し,時給は高すぎるのですから減少します。
例えば,もしシャツ生産において,不熟練労働力に時給制が,熟練労働力に出来高制が採用され,不熟練労働力の時給が2000円であり,出来高賃金がシャツ1着あたり800円であり,不熟練労働力が平均的に1時間にシャツ1着,熟練労働力が平均的に1時間にシャツ2着を生産しているのであれば,出来高賃金換算で(熟練労働力の出来高賃金が1着あたり800円であるのにもかかわらず)不熟練労働力のそれは1着あたり2000円になってしまいます。これは明らかに不合理ですから,もしこの熟練がその企業特有のものでないのであれば,理論的には労働力市場での競争を通じて熟練労働力が他の企業に移るでしょうし,実際にはそれ以前にこの企業内で給与体系の変更が行なわれるでしょう。
どのような変更になるのかはこの企業の基準ではなく社会的基準に基づきますし,結局のところ,労働力市場での競争を通じて実現された基準になります。例えば,もし他の企業でも出来高賃金が1着800円であるならば,明らかにこの企業の不熟練労働力の時給は高すぎるのですから,不熟練労働力の時給が2000円から800円に引き下ろされます。こうして,時給換算では,不熟練労働力の時給が800円であるのに対して,熟練労働力のそれが1600円になり,労働の個人的生産力の格差と賃金格差とが一致します。
同じ具体的労働について熟練/不熟練労働が発生する限りでは,出来高(生産高)の違いで(そういう形での労働の個人的生産力の違いで)決まってきます。要するに,同じ労働手段と労働対象とを使って同じシャツを製造する労働については,熟練労働は不熟練労働よりも同じ労働量でより多くのシャツを生産することができます。
理論的には,どれが一番大きいということはありません。試験の模範解答的に言うと,これが正解です。
現実的には,以下の問題を考慮に入れなければなりません:
この三者は別々に現れるのではなく,実際には複合的に現れます(熟練工が気合いを入れておこなう高い強度の熟練労働,半芸術的な職人による複雑な熟練労働,等)。
同じコストを支払った複雑労働力間でも,才能の違い等により,実際の労働力(=能力)は相異なります。このような違いは,熟練度の違いに解消しきれるものではありません(つまり,少なくとも部分的には,複雑さの違いです)が,結局のところ,熟練労働力と同様に出来高賃金(業績給)の違いでペイされるしかないでしょう(注1)。
以上を前提にして,あえてバラバラに切り離して考えると,まず,高い強度の限界は非常に狭いものです。頑張って集中してやると言っても限度があります。こうして,高い強度の労働を除外します。
これに対して,熟練労働力と複雑労働力とは,労働力の発展であるからこそ,伸びしろが大きいと言えます。『7』で詳しく見ますが,科学的知識の意識的・計画的適用を前提すると,熟練労働力は,常に発生しては生産力を高め,しかしそれが賃金上昇等によってヒューマンコストになると機械設備で置き換えられます。これに対して,複雑労働力は知識労働力として置き換え不可能な基礎的な生産力になります。この意味では,最も付加される分が一般的に大きいのは
複雑労働だと言えます。
『7』で検討します。
労働力の違いではない
というのは,換言すると,同じ労働力であっても,強度が違えばアウトプットが違ってくるということです。同じ労働力(=同じ能力)というのは,まぁ,もしかしたら全く同じ能力を持つ二人の人がいるのかもしれませんが,そんなありそうにもない例よりは,講義でやったように同じ人物と考える方がいいでしょう。すなわち,私は,今現在,一定の能力を持っていますが,それを一所懸命に発揮するのと,サボりながら発揮するのとではアウトプットが違ってくるわけです。例えば,いま私が鯛を三枚におろすとして,一所懸命に集中してやったら一時間に20尾おろせるでしょうが,サボりながらやったら10尾しかおろせないでしょう。同じ私なのですから労働力(=能力)は同じです。それにもかかわらず,強度の違いに応じてアウトプットが違ってきます(10尾と20尾)。
高い強度の労働の場合には,単位時間あたりに支出される労働量が増えているのです。従って,1時間あたりに高い強度の労働が通常の労働の2倍のシャツを産出することができるとしても,それは1時間あたりに高い強度の労働が通常の労働の2倍の労働を投入したからです。要するに,アウトプットが2倍になったのはインプットが2倍になったからです。インプットとアウトプットとの比率が変わっていないのですから,「生産性が上昇しているわけではない」のです。人類はこの高い強度の労働によってちっとも楽になっていませんし,ちっとも効率的になっていません。
『7』でやりますが,職人的・半芸術的な労働の場合には,熟練労働と複雑労働両方を兼ね
ています。要するに,具体的労働の内容が単純化されていないまま,長時間かけて熟練が形成されます。この場合には,通常,比較的に長い期間のOff the Jobの修行期間(従って比較的に多くの特別の育成コスト)がかかり,しかもOn the Jobで形成される熟練にも比較的に長い期間がかかります。才能の役割が比較的に大きいのも特徴になります。才能の役割が決定的になると,もはや職人的・半芸術的な労働ではなく,純然たる芸術労働になり,市場での競争の法則が機能しなくなります(その生産物は需要と供給だけで価格決定されます)。
職人的・半芸術的な労働は,多くの場合に,自営業者によって行われます。その場合には,形式上,この自営業者(職人)の収入は賃金労働者の賃金ではなくなります。内容上,この収入の中で利潤相当部分と賃金相当部分を規定することもできます。通常は,賃金相当部分は,市場での自由競争を通じて実現される資本主義的営利企業における熟練労働者の賃金よりも化なり高くなります。もちろん,このような自営業者の職人的・半芸術的な生業が成立するのは,それが資本主義的生産による代替財によって駆逐されないような社会的需要を獲得しているということを前提します。
同じ時点において,私の能力(=労働力)は同じです。例えば,今現在,私は一定の,真鯛の三枚おろし能力を持っています。しかし,一所懸命,注意深くおろしたのと,サボりながら,注意力散漫でおろしたのとでは,一時間におろすことができる尾数も,その品質も,テンで違うでしょう。これが強度の違いです。
これに対して,複雑労働力の場合にも,熟練労働力の場合にも,能力(=労働力)が高まるためには,一定の時間が必要です。同じ時間で同じ人間が異なる能力(=労働力)を持っているということはありません。例えば,毎日まいにち何百尾も鯛をおろしていたら,私は一年も経てば見違えるほどのスピードで,しかも綺麗におろすことができるようになっているでしょう。これが熟練形成です。
複雑労働のまま熟練形成しようとすると,相当な時間がかかります。鰻職人が裂き8年,串打3年、焼き一生とか(恐らく比喩的に)言われていることを思い起こしてください。資本主義的営利企業の内部での分業は,労働を単純化するということによって,比較的に短時間である程度のところまでは熟練形成可能にします。
年功序列を正当化する立場からは,熟練労働力の形成(および複雑労働力の形成)を年功序列の根拠にすることが多いです。ただ,この問題は厄介です:
もし個々の労働者の出来高を正確に測定することができるのであれば,熟練は年功ではなく出来高賃金によって測定するのが最も正確でしょう。従業期間が長くても,熟練の獲得には個人差があるでしょうし,熟練の獲得へのモティベーションも高まるでしょう。
しかしまた,現実には,個人には還元できない資本の生産力(『7』でやります)が生まれる限りでは,そもそも個人の業績(出来高)を正確に測るのは不可能です。しかも,労働種類に応じて,出来高が測定しやすい労働種類とそうでない労働種類とが分かれます。この場合に,無理矢理に業績給をどの企業内部のどの労働種類にも押し付けると,サポートなどのように業績を測定しにくいような労働を行わずに,業績が数字で出やすいような労働ばかりを一所懸命に行うようになり,全体最適を損ないます。
違います。単純労働はあくまでも複雑労働ではない労働のことです。もちろん,高い強度の労働や熟練労働が単純労働であるということもありえます。しかしまた,複雑労働力が高い強度で発揮されることもありますし,講義の中で取り挙げる半芸術的な職人の場合には複雑労働が複雑なままで長い年月を掛けて熟練していきます。
もちろん,個別的なケースを見れば,どちらとも言えないことは山ほどあります。講義ではあくまでも,原理的・必然的・範疇的な違いを見ています。
グローバル競争と国内産業,特に食の生産との関係については,生産技術そのものの発展とともに,物流技術(保存技術をも含む)の発展がどうなるかで違ってきます。青物野菜なんかは以前は都市近郊でないとどうにもならないといわれていましたが,現在はかなりの部分,日本では外国から輸入しています。しかしまた,これも,青物野菜の工場生産の技術革新次第では,消費地に近い方が有利になるかもしれません。こういうわけで,この問題についてある程度の長期的スパンで述べるには,技術的には不確定な要因が多いとお考えください。
日本の農業が食い潰されてしまったら日本の「食」はどうなるのか
──現在の費用構造から考えると,大部分については外国産の農産物を輸入することになります。人口増大と新興国(特に中国とインド)の富裕化にともなって,食糧不足の危機が迫っていることから,食糧安保の論点からこの問題を論じる人がいますが,そんなこと言ったら,国土が極めて小さい国とかはどうにもなりません。大体,食糧危機になって自国だけ助かろうというのが非現実的であって,世界中で分業して世界全体で食糧生産を増やすことが根本でしょう。
なお,以上の点は,あくまでも生産に即した議論です。食品の安全性の面については,また別問題です。食糧輸出国の独自基準を押し付けていては,安全性が損なわれるというのは大いにありうることです。安全性については,これまた,A国の国民には毒まみれの食品を食べさせてもいいが,自国の国民には安全な食品を食べ競るというのがナンセンスであって,本来は,TPPなどというケチな枠組みではなく,世界的な枠組みで,食糧輸出国・輸入国の利害から独立した委員会が,科学的根拠に基づいて,安全性の国際基準を決定し,大部分の国家が条約を締結するというのが好ましいのですが,残念ながらそこまで国際的公共性が成熟していません。
農業を「人」が行うのではなく,大きな「会社」として行い競争するようになるのか
──一部の高級食材を除くと,大規模化・集団化はどの生産分野でも必然的であり,食糧生産でも必然的でしょう。大規模化・集団化の一つの形態として農業経営の株式会社化があります。もちろん,大規模化と言っても,日本での土地利用の大規模化には,アメリカ・オーストラリア等に較べるとリジットな限界があります。
企業に入る
というのはちょっとおかしくて,この問題をきちんと立てるのであれば,経営者は賃金労働者か,それとも資本家かということになると思います。
社長だろうと部長だろうと平社員だろうと派遣だろうと,働いていれば常に労働者です。逆に,社長だろうと部長だろうと平社員だろうと派遣だろうと,労働とは無関係に利潤のおこぼれ(たとえば株式の配当)をもらっていれば,資本家としての一面を持ってきます。問題は,経済的範疇として,賃金労働者なのか,資本家なのか,ということでしょう。
この問題は政治経済学2で詳しく考察するので,興味がある場合にはぜひとも受講してください。ここでは,簡潔に回答だけを述べておきます。
資本主義的営利企業が個人企業である限り,その経営者は,原則的に,資本家です。何故ならば,個人企業とは,(多数の従業員を雇用しているが),特定の個人が資本家であるような企業だからです。しかしまた,例外もありえます。資本家が資本家として行う機能は,生産過程の内部での管理・指揮と,流通過程での私的所有者としての売買です。しかし,企業内協業の規模が大きくなると,個人でこれらの機能を媒介することができなくなり,必然的に,これらの機能を管理労働者や(表見)代理人に部分的に委譲します。この委譲は偶然的には全面的になりえます。少なくとも,全面的になるということを妨げる資本機能上の必然性はどこにもありません(注2)。
これに対して,株式会社の場合には,その経営者は,原則的に,賃金労働者です。何故ならば,何故に株式会社の設立の必然性は私的所有の枠を緩和した社会的資本の集中であり,この必然性は大規模公開株式会社を想定し,大規模公開株式会社では大株主と経営者とが一致する必然性がない(そもそも個人大株主が存在する必然性もない)からです。もちろん,現実的には,株式会社において,サラリーマン社長ではないオーナー社長(個人大株主であるような経営者)も存在するでしょう。しかし,株式会社制度の必然性に即して言うと,オーナー社長は偶然的な例外でしかありません。
以上の点については,詳しくは政治経済学2で論じます。とりあえずは,2012年度政治経済学2で用いた以下のスライドをご覧ください。
ちょっと違います。市場が資本主義的営利活動の前提であり,市場はもともとオープンなものです。しかし,因果関係としては,オープンになったから営利活動を求めるようになったというわけではありません。
大体オッケーです。
ただし,実際には,賃金労働者(wage laborer)というのが包括的規定であるのに対して,従業員(employeeすなわち被雇用者)というのは就業とワンセットになって定義されることが多いと思います。すなわち,完全失業者は,賃金労働者ではあっても,従業員とは言いにくいかもしれません。
生きた個人のことです。たいていの場合に,自然人ではないような法的人格(=法人)と対比して用いられます。生きた個人の集合でもなければ,生きた個人ではない法人でもないということです。法的人格(=法人)については,『2013年01月08日の講義内容についての質問への回答』の「1. 法的人格一般について」をも参照してください。
擬制資本というのは,ここでは,株式のことです。株式会社においては,資本価値が二重化して,関連はあるけど別々の運動を取るのです。例えば,発行済み株式(擬制資本)の価格が上がったからと言って,会社(現実資本)の売上高が増えるとは限りません。自動車メーカーにおいて自社の自動車(現実資本)の販売と株式(擬制資本)の流通とは全く無関係です。なお,株式会社においては,政治経済学2で取り挙げます。
えっと,このグラフの主旨は,企業のプレゼンスの増大を示すということにあります。で,そのためには,本来は資本主義的営利企業の売上高の推移と自営業者の売上高の推移とを較べるべきなのですが,適切なデータが無かったので,面倒くさくて,法人企業(これは自営業者ではなく資本主義的営利企業です)の売上高の推移とGNPの推移との比較で代用したわけです(長期時系列なので,名目GDPではなく名目GNPを用いています)。
で,資本主義的営利企業の売上高(中間財+最終財)の成長率が資本主義的営利企業+自営業者の最終財の売上高(つまりGNP)の成長率よりも高いということは,資本主義的営利企業の中間財の売上高の成長率が自営業者の最終財の売上高の成長率よりも高いということにほぼ等しくなります。そして,実は,産業連関表を見る限り,中間財と最終財との比率にはそれほど大きな差は出ていません(ただし,産業連関表には古いデータはありません)。こうして,件のグラフは資本主義的営利企業のプレゼンスが高まっているということの傍証になるわけです。
第一セクターが100%公企業,第二セクターが私企業だとすると,第三セクターは半官半民の企業になります。(この講義の説明では,NPOは第三セクターには含めていません)。
具体例は非常に多いのですが,一番目立つのは鉄道でしょうか。ゆりかもめも多摩都市モノレールも第三セクターです。
ホームレスにもいろいろあって,不定期で就労している人も多いと思います。そして,まったく市場に参加していないようなホームレス“業”は,当然に基幹産業じゃありません。これに対して,江戸時代の農民やローマ時代の奴隷は,それがないと共同体の経済構造が全く成り立たないような,基幹的な存在だったのです。
もちろん,今日でも,市場に参入していない人はおり,その限りではその人たちは市場社会の社会形成から排除されていると言えます。しかし,社会の基盤がどちらにあるかというと,これはもう,語るまでもなく,市場にあるわけです。毎日使われる生産手段・消費手段の圧倒的大部分が市場向けに生産され,市場を通じて流通しているというのが現代社会を市場社会たらしめているのです。
別にホームレスなど出さなくても,われわれの生活のすべてが市場化されているわけではありません。カップラーメンをコンビニで買ってきても,大抵は自分で自宅内で湯を注ぐでしょう。自分で湯を注ぐのは非市場的な経済活動ですが,だからと言って,市場なしでカップラーメンを食べることができるわけではありません。つまり,市場を前提しているわけです。
カップラーメンに湯を注ぐなんてのは,市場と対立するような経済活動ではありません。しかし,すでに何度も述べ,また『7』でも見るように,資本主義的営利企業の内部では非市場的な経済活動を行っています。それは,──もちろん,生産要素の購買という点でも生産物の販売という点でも市場を前提するのですが,しかし──,市場との原理的対立をもたらします。これが政治経済学1のテーマの一つです。
えっと,これは講義内で一般論と特殊論とに分けで十分に説明したつもりなのですが。一般論としては,自営業者への賃金労働者への転化が進むということです。日本の特殊性としては:
労働力を販売する側が賃金労働者で,労働者を買う側は企業
──大体あってます。ただし:
労働者
(=人格)を買うのではなく,労働力(=この人格が所有している物件)を買うのです。労働者
(=人格)を買っちゃったら,奴隷制になってしまいます。
労働者を買う側は企業
──この講義ではそれでもオッケーですし,私はそう説明してもいますが,厳密に言うと,買う
という行為をすることができるのは資本の私的所有者であって,個人企業の場合には資本家,また会社企業の場合には会社です。
企業側には賃金労働者を雇う経営者等が入るのか?
──この問題については政治経済学2で扱います。一言言っておくと,上で述べたように,賃金労働者を雇う
のは経営者ではなく,資本の私的所有者です(もちろん経営者と資本の私的所有者とが一致している場合があります)。経営者自身は,もし専門的経営者(資本を所有していない経営者)であるならば,他の従業員と同様に,資本に“雇われている”存在です(契約上は委任契約ですが,実質的には賃金労働者です)。
現実的な運動主体は資本(capital)です。資本は投資・回収という運動を繰り返しながら,その中で貨幣,商品,生産在庫・仕掛かり品といういろいろな姿をとりながら,どんどん増えていく価値の運動です。この資本がいろいろな規定性で現れます。生産資本──特に労働組織──という規定性に即してわれわれの目の前に現れるのが資本主義的営利企業,つまり企業(enterprise)です。端的に言って,労働者の組織に即して資本を捉えたのが資本主義的営利企業です。これに対して,私的所有者の組織に即して資本を捉えたのが会社(company)です。以上の点については,以下の情報資源をもご覧ください。
基本的には市場の原理だからです。競争という点では,資本主義的生産はこの市場の原理を現実化し,強化するだけです。
これはやや複雑な問題です。
根本的には,市場での交換そのものが基本的なルールを生み出します。この問題については,政治経済学2で詳細に論じます。とは言っても,政治経済学1でも,ごく簡単にではありますが,商品交換が形式的自由・形式的平等・私的所有の原理を生み出さざるをえないということ,そして,商品交換が成立する限りではこれらの原理が規範として当事者を拘束せざるをえないということを確認しました。逆にまた,(a)形式的自由,(b)形式的平等,(c)自己労働に基づく私的所有という規範に基づいて,市場においては,私的所有者が行う意志行為である契約が法として通用するようになります。そうすると,今度はまた,このような私法の世界を安定的に媒介するために,実定法と司法・行政制度が必要になります。因果関係(発生的関連)を言うと,あくまでも,市場での商品交換が出発点であって,実定法が出発点なのではありません。
しかしまた,資本主義的生産の現実が市場社会のタテマエと対立しているだけではなく,政治経済学2で見るように,この対立そのものが人々の目に現れてきてしまいます。資本主義的営利企業は,労働者に対しても,消費者に対しても,自然に対しても,対立した存在として現れます。政治経済学1で見るように,資本主義的営利企業は個人に対立するような組織の力です。
要するに,この講義の枠組みに即して言うと,市場の原理が生み出した形式的自由,形式的平等,自己の労働に基づく私的所有は,資本主義の現実においては,実質的不自由,実質的不平等,他人の労働に基づく私的所有にそっくりそのまま変わってしまいます(注3)。こうして,個人主義,契約尊重,自由主義,機会平等,私的所有権の不可侵という法的原則もまたその法規範上の現実的根拠を失い,資本主義の中で,その部分的修正が不可避になります。こうして生まれてくるのが,私法でも公法でもない,社会法です。
えっとそういうことではなく,労働力の価値は,資本主義社会の原理というか,現実で決まります。要するに,労働力の価値は,資本主義社会が安定的かつ機能的に再生産され続けることができるのに十分なものです。資本主義社会が再生産され続けるためには,圧倒的大部分を占める賃金労働者が,一部は資本家になり,一部は労働者になりながらも,全体として再生産され続けるということが必要です。そして,労働者の一部は年齢的にリタイアしていくのですから,資本主義が持続していくためには,たえず新しい労働者の補充が必要です。以上,要するに,労働者がその社会の基準となる稼働年数の間,その社会の基準となる後継者育成モデル(要するに家族モデル)で,その社会の基準となる生活水準で,生活していけないと,資本主義は正常に再生産することができません。
もちろん,時間的・長期的に見ると,これはえらく弾力的な枠組みであって,定年も変わるでしょうし,家族も専業主婦モデルが基準か共稼ぎモデルが基準かで変わるでしょう(注4)し,生活水準も変わるでしょう。空間的に見ると,同じ国内でさえ,必要生活水準およびそれを満たすのに必要な費用は地域に応じて異なるでしょう。
とは言っても,ある時点,ある時期を点で取ってみれば,大体の基準があります。この基準が労働力の価値です。なんらかの理由(失業とか賃金低下とか)で,この基準を満たせない人が出た場合には,所得移転が必要になります。
一言で言うのは難しいですね。国家というのは,これまでのどの時代においても,個人から──それどころか社会からも──自立し,敵対した公共的な機関であり,当該社会を政治的に媒介します。資本主義社会においても全く同じであって,資本主義社会を守るために,公共的な機能を果たします。例えば,総資本の安定的な利益を達成するためには,時には個々の資本を弾圧するでしょう;時には国民の安全と財産とを守り,時には国民を弾圧したり財産を没収したりします。
まぁ,現実的には,公共的な利益を媒介せずに私物化されちゃう国家というのもあるのですが,それは国家の破綻形態です。
労働力の売買と言っても,労働者としては,自分の労働力を賃貸ししているだけであって,企業としても自由にできるのは業務時間内だけなんですよ。しかも,賃金を支払ったから何してもいいというわけでもありません。明日になったら,労働者が別の企業に勤めるかもしれません。また,企業がこの労働力を他の企業に転売するわけにもいきません。こういうわけで,労働者は自分の労働力の所有権を手放していません。
法的には,会社というのは資本家(株式会社の場合には株主)という人格のアソシエーション(自覚的協同体)としての組織です。例えば,従業員は会社の構成員でも機関でもありません。
しかしまた,われわれがあの会社は云々と言った時には,株主の総体だけではなく,そこで売ってている商品,そこに務めている従業員や取締役,そこの財産(工場とかオフィスとか)をイメージしています。すなわち,運動体としての現実資本をイメージしています。
以上により,会社は現実資本であり,しかしそれを資本家のアソシエーションとして定義したものだと言えます。
私的所有者として,人格として,形式上,タテマエ上,法的に,平等です。それは企業と労働者との関係でも全く同じです。
もともと自由主義を定義すると,個人の自由の尊重としてしか定義しえないということです。すなわち,古典的には,自由主義は,あくまでも個人と個人とが互いの自由を侵害しない限りで成立するものです(もしそうでなければ自由が社会的原理として通用することができません)し,そのためには自分の自由な行動について責任が生じます。“ヒャッハー,俺は何やっても自由だぜ”なんてのは他者の自由の否定であって,つまりは社会的原理をなすような自由の否定であって,自由主義の反対物です。そして,『4. 市場社会のイメージ』で見たように,そのような考え方は商品交換から直接に出てきます。
古典的には,そして現在でも通常は,経済的自由は個人,すなわち自営業者の自由としてイメージされていますし,また資本主義的生産を前提する場合にもあくまでも資本家個人の自由としてイメージされています。個人の自由の否定の上に立つ(要するに企業の歯車の一つとして業務命令で従業員が働いている)資本主義的営利企業の自由なんてものは古典的な自由主義にとっては想定外です。それは《自由を否定する自由》は自由主義の範疇外であると言うことです。
最後にもう一つ付け加えると,古典的な経済的自由主義の立場から見ると,資本主義的企業一般だろうと,株式会社だろうと,中世的ギルドだろうと,労働組合だろうと,カルテルだろうと,どれもこれも,個人と個人との自由な契約と自由な競争とを侵害する独占であって,自由主義の敵です。要するに,独占の自由は,自由を抑圧する自由であって,自由主義が定義する自由ではありません。
まず,完全にそうなってしまうのか
ということについて言うと,そもそも企業内で行なわれている労働こそが現代社会における自由・平等の発生起点なのですから,完全に
不自由・不平等になってしまうなんてことがあるわけがありません。しかも,資本主義的生産は,奴隷制的生産とは違うのですから,金儲けに役に立つ限りで,例えば,個人の自由な創意工夫を利用しますし,インセンティブを高めるために平等な基準で勤務評価します。企業内の不自由・不平等というのは,あくまでも原理の話です。
次に,企業の工夫で市場の原理を企業内で実現することはできるのか
ということについて言うと,市場の原理と資本主義の原理とは,単純に水と油として対立し合っているだけではなく,発展のダイナミックスの中で混じり合いながら,やはり対立し,しかもその度合いを強めていきます。
一方では,労働力市場でも,実質的には従業員と企業とが不平等であるということが現れてきます。しかし,
他方では,ガバナンスの変更で,不自由や不平等を緩和することは可能です。
大企業というか,自由主義の本来の考え方──他の個人の自由を侵害しない限りでの個人の自由の達成──からすると,大企業に限らず,そもそも企業が個人の自由の抑圧であり,同様にまたギルドも,カルテルも,労働組合も,すべて個人の経済的自由の抑圧です。要するに,本来の自由主義から見ると,企業も労働組合も中世的ギルドの復活にすぎず,個人の自由を抑圧するだけの反動的な組織にすぎません。本来の自由主義が想定する経済的主体においては,消費者だけではなく,生産者もまた自由な個人,つまり自営業者です。「そうすると,個人主義と変わらないんじゃない?」と考える人もいるでしょうが,まさにその通り,本来の自由主義は個人主義と一体のものです。要するに,自由主義の本来の考え方は,個人が前近代的共同体から自立して自由を謳歌するようになったという市場社会の歴史的事実の反映です。従って,この間がえっ方からすると,市場社会のタテマエと原理的に対立する資本主義社会の現実は批判されるべきものです。
まぁ,これは本来の,古典的な,厳格な自由主義の考え方であって,現在では,「自由主義」を名乗る人たちの大部分は資本主義を否定していないと思います(現在でもアナーキーな自由主義者は資本主義を否定しますが)。
労働基準法があるのにもかかわらず不平等になってしまうのは何故なのか
──労働基準法があるのにもかかわらず不平等になってしまう
というよりも,むしろ不平等だからこそ,労働基準法が必要になったのです。もともと不平等なのですから,法律を作ったところでどうにもなりません。それでも作った方が作らないより遙かにましなので作っているのです。ちなみに,このマシというのは,労働者側に取ってだけの話じゃありません。企業側にとっても,ブラック企業とかを別にすれば,競争の基準を作ってくれた方がいいのです。労働法がない労働力市場なんて,土俵をつくらずに相撲するようなものです。そして,企業ではこのような基準を作ることはできません。“作ったもの勝ち”ではなく,“作ったもの負け”ですから。従って,資本のの外部にある資本の公共性,つまり国家がこれを制定するしかありません。
企業側に富が集まると労働者の購買が落ち,結果的に企業も収益が悪化してしまうとわかっているのに,利益を労働者に分配していない。これを改善すれば不平等も改善され収益も上がると思う
──これもまた上で述べた問題と同じことです。個々の私企業はわかってい
てもできません。競争の圧力の中で,自分だけそういうことをしても負けるだけですから。理想を言うと,自分のところだけ労働分配率を減らして,他の企業は労働分配率を増やしてもらうのがベストです。でも,どの企業にとってもそうですから,特別の理由(つまり労働分配率を増やしてもそれ以上に超過利潤が生じる理由)がない限りでは,どこの企業もできません。
まず,私が言ったことと若干,表現が違っているので,修正しておきましょう。奴隷だろうと,賃金労働者だろうと,24時間,365日で労働する
なんてのは不可能です。そうではなく,奴隷は(注5),労働していない時にも自由ではないのです。たとえ寝ていても,奴隷主の命令一つで,奴隷自身の自由意志に関わりなく,たたき起こされて働かなければなりません。つまり,24時間,365日
,自由な時間が無いのが奴隷なのです。
これに対して,賃金労働者の場合には,サービス残業,見なし残業はもちろんのこと,たとえ自分の自由時間の中でまでフロシキ残業をしなければならばいとしても,やはり自分の自由時間がある限りでは,奴隷と区別されなければなりません。
とは言っても,あまりに長すぎる労働時間──特に労働法の合法性さえ踏みにじるようなそれ──をかせられている場合には,それは(そもそも生産において自由・平等が通用しないのは言うまでもなく(注6))資本と労働者との交換における自由・平等というタテマエさえ侵害されているということです。と言うのも,疲れすぎて体調を崩したり過労死したりするということを自由・平等な私的所有者として了承して労働契約を結ぶ労働者は原則的にいないでしょうから。こういうわけで,交換過程における自由・平等のタテマエが明示的に踏みにじられれば踏みにじられるほど,この賃金労働者の状態は奴隷状態に近付く,とは言えます。
(注1)そもそも,概念的には,複雑労働は単純労働よりもその内容が複雑であるような労働であるというのが本源的な規定です。通常は,そのような労働を支出する労働力には育成コストが必要です。すなわち,育成コストが必要だというのは派生的な規定です。ですから,個別的には,育成コストが同じでも,才能の違いなどによって,偶然的ケースにおいては,異なる複雑労働力になります。とは言っても,社会的には,そのような才能の違いの大部分は相殺されますので,必然的形態としては,育成コストが異なるような複雑労働力を想定していれば十分であるわけです。
(注2)ここでは,資本機能上の客観的根拠に基づいて委譲を論じています。何故ならば,それは資本主義的生産の発展が必然的に生み出すものだからです。それとは別に,資本家の主観的欲望に基づく全面的委譲もありえます。例えば,個人企業の二代目若旦那が,企業経営に全く関心を持たずに,番頭に任せる場合など。
(注3)形式的自由,形式的平等,自己の労働に基づく私的所有がなくなってしまうのではありません。資本主義的経営が,市場に基づかなければならない限りでは──金儲けするために市場で商品を買って,市場で商品を売らなければならない限りでは,市場の中では相変わらず,形式的自由,形式的平等,自己の労働に基づく私的所有が生まれ続けます。ただ,それが資本主義の現実の中ではそっくりそのまま正反対のものになってしまうわけです。
(注4)専業主婦モデルの場合には,男性配偶者が一人で全家族生活費用を稼がなければならないので,共稼ぎモデルよりも比較的に高額にならなければなりません。そして,それが不可能であるならば,逆に共稼ぎモデルが主流にならざるをえないでしょう。
(注5)何度も強調しているように,奴隷制にもきっついやつからゆるゆるのやつまでいろいろな種類のものがあります。しかし,きっついからこそ他の制度と違う奴隷制なのですから,ここでは,きっついやつを奴隷制の典型として設定しています。
(注6)ただし,生産過程の内部における労働者の自由・平等の否定は自由契約の内容に含まれています。