1. 法的人格一般について

1.1 概論

以下では,「法的人格」,「法人格」,「法人」はすべて同じものを意味しています。

これは政治経済学1で詳論したのですが,人格とは,何よりもまず労働する人格であって,そのようなものとして,(1)単なる生物学的な人間とは異なるような自由で媒介的で自己意識的な主体であり,さらには結局のところ,単純化して言うと,その資格において,(2)社会形成主体に帰着します。その限りでは,人格は,どの人類社会にも存在するものと言えますし,しかしまた,前近代的共同体では十分には実現されなかったものとも言えます。

法的人格というのは,この社会を形成する主体としての人格一般を,形成された社会の側が社会的意識を通じて承認した人格だということになります。もちろん,このような社会的意識による承認は,実定法によって制度化・固定化・形式化されます。その意味では,法的人格も,どの人類社会にも存在するものと言えないことはないので。けれども,通常は,法的人格は,人格一般から分離された抽象的な人格──権利能力だけあるが,具体的な行為内容が捨象された人格,単なる形式としての人格──として定義されます。

経済的には,この講義の『1. 所有の基礎理論』の「商品交換の原理」で出てきた「自由・平等な私的所有者」というのがこの抽象的人格としての法的人格の根本的な規定です(注1)。そこでの議論を思い出して下さい;すなわち,(1)自由と言ってもそれは全く実質的内容を問わない形式的な自由でした;(2)平等と言ってもそれは実質的内容を問わない形式的な平等でした;そして(3)私的所有者と言っても,それはその私的所有物の実質的内容(労働力だろうと資本だろうと自然だろうと)には関わりなく同じ人格として通用しました;その私的所有と言っても,本当に自己労働に基づいているのかなんてわかりっこないのだから,タテマエとして自己労働に基づいていると想定するしかないような私的所有でした。

これを法的に一般化すると,法的人格というのは権利能力を持つ主体ということになります(つまり,まぁ,ほとんど何でもあり)。しかし,そのように一般化された主体の発生点は何かというと,私的所有者としての個人だということになり,私的所有者が実現される出発点はどこかというと商品交換だということになります。

今日では,身分制が廃止されて──これは市場の原理が資本主義的生産を通じて普遍化されたということです──どの自然人でも等しく(例外を除けば)権利能力を持っちゃっています;つまり法人になっちゃっています。ですから,ぶっちゃけ今日では,法人ならざる自然人と,自然人としての法人とを区別する必要があまりありません。だから,わざわざ自然人としての法人のことを「法人」と言ったりはしません。もし奴隷制が合法的であり,権利能力のほとんどが奴隷から剥奪されていれば,奴隷に対して,「君ってさぁ,動物にも神様にも見えないから多分,人間,つまり自然人だと思うんだけど,でも法人格は与えられていないよね,法人じゃないよね。だって自分で買い物に行くこともできないし,何かを所有することもできないじゃん」と言うことができるのですが。

これに対して,今日では,資本主義的生産の発展は,この講義で見たように,自然人ならざる法人を生み出しました。そして,資本主義的営利企業を見ると,法人成りした会社企業と,法人成りしていない個人企業とがあります。すなわち,資本主義的営利企業については,自然人ならざる法人すなわち法人としての企業と,法人ならざる企業とを区別するということには意味があります。したがって,一方では自然人としての法人を強調する必要がなくなり,他方では自然人ならざる法人を強調する必要があります。こうして,今日では,法人と言ったら,それはもっぱら,自然人ならざる法人を意味しているのです。

1.2 回答

自然人としての法人と自然人ならざる法人の関係がわからない。集団が一つに擬態した物が後者で自営業者のようなものが前者という考えであっているか?

自然人としての法人は,ぶっちゃけて言うと,法律上は,今日では誰でも法人だということになります。もちろん,私法上の権利・義務の主体である限りでは,あなたも自然人としての法人です。自営業者も自然人としての法人です。

法律的に言うと,社団法人に関する限り,集団が一つに擬態した物として法人格が付与されているというので大体あっているとは思います(「擬態」の意味次第ですが)。

経済的にもっと正確に言うと,むしろ法的人格を獲得するのは資本という物件(資本家はこの物件の一契機)です。人格の集団から自立化した物件に自然人ならざる法人が付与されます。法的人格を獲得するのは集団=社団そのものではありません。法律的テクニックにおいては,法人成りによって社団が社員から自立化しますが,自立化しっちゃったら,それはもう人格集団じゃなくて物件です。そして,株式会社以前からそもそも資本は自立化した物件だったのであり,それが株式会社形態によって制度的・全面的・必然的に実現されたのです。

法人が「自然人ならざる法人である」という一節はどういう意味か?

『株式会社の法的構成』をご覧頂きたいのですが,法人が「自然人ならざる法人である」というわけではなく,「今日では法人と言えば,自然人ならざる法人を意味する方が多い」ということです。

法人についての説明が冗長で~ならざるとか長い言い方をする必要があるのか?

自然人としての法人と,自然人ならざる法人とを区別するためにです。

もともとの意味で表す法人は人間の一個人のことだったのか? また,現在,法人は自然人ではない物件(モノ)を指すとあったが,何故そもそもの意味と現在の意味はこれほど異なっているのか?

もともとの意味で表す法人は人間の一個人のことだったのか?──その通りです。ただし,人間(自然人)なら誰でもいいというわけではなく,人格として社会的に承認された自然人です。

何故そもそもの意味と現在の意味はこれほど異なっているのか?──上記の「1.1 概論」をご覧ください。

2. 法的人格としての株式会社について

2.1 概論

法律的には,法的人格を獲得しているのは社団です。株式会社の場合の社団というのは,株主の集団であって,要するに資本家たちのアソシエーション(=自覚的結合)です。したがって,社団の社員からは専門的経営者は排除されていますし,また──代表取締役および取締役会は会社の機関ですが──取締役ではない従業員はそもそも株式会社そのものから排除されています。これに対して,専門的経営者の下で会社の貨幣で多数の従業員を雇用して会社の事業を営んでいる企業からは,要するに会社の内部からは,資本家は排除されています。

しかし,人格の集団は人格ではありません。そして,法的人格の獲得によって,もともと人格ではなかった人格集団(=社団=株主集団)が自らの人格を獲得し,それによってそれを構成する個々の人格(=社員=株主)から完全に自立してしまうわけです。換言していうと,社員から自立化してしまった社団はもはや単なる人格のアソシエーションではなく,一つの物件です。ところが,もともと資本というものはそのような自立化した物件なのです。

経済的には,そもそも資本は自立的に運動する主体でした。主観的には自分の私的所有物として,自分の自由意志で,自分の行為で,客観的には資本というこの物件の自立的運動を実現するのが資本家でした。資本の大きさは個人的な私的所有の範囲によって,また個人的な私的所有の範囲はこの資本家という個人的な私的所有者によって制約されていました。ところが,資本主義的生産の発展に応じて,個別資本資本の量的拡大が必要になってきます。個別資本の量的拡大は多数の資本の結合に帰着します。ところが,この資本結合は私的所有の個人的な枠組みの乗り越えに帰着し,この乗り越えは私的所有者のアソシエーション,資本家のアソシエーションに帰着します。

このような経済的現実から上記のような法律的テクニックを考察すると,法的人格を得ているのは資本家のアソシエーション(=人格のアソシエーション)として現れている結合資本(=物件の結合)そのものだということになります。そして,このような法律的なテクニックによって経済的に成立しているのは,事実上,人格(=資本家)からの物件(=資本)の自立化の制度的・全面的・必然的な実現です。

2.2 回答

本来,物件であるはずの会社企業が自然人ではないのに“法人”として振る舞うということにおいて何かしらの弊害はないのか?

何を弊害と考えるかは,各人の立場に応じて異なるかもしれません。この講義では,『5. 株式会社』のスライドの「私的所有の原則の喪失」に簡潔に株式会社形態での私的所有の否定が社会に対して自ら呈示する問題をまとめておきました。それらはすべて関連し合っているのですが,あなたの質問に直接的に関連するのは「自然人としての人格が私的所有者であるという人格的原則がなくなる」ということです。それに加えて「私的所有の規律(私的所有者の自己責任原則)がなくなる」ということも当てはまるでしょうね。

ここから派生する問題はいくらでも挙げられます。例えば,講義で挙げたものだと,政治参加の問題(物件が人格のように政治献金するとか),など。要するに,人格として責任を取ることができないのにもかかわらず,人格ができることを物件がやっちゃうわけです。

〔株式会社が〕法的人格をもつ必要がある理由は何か? 個人が集まって,そこで生まれた物を人格化して,他の個人がその人格化されたものに手出しできないようにするためなのか?

結論を一言で言うと,直接的には資本を資本家(=株主)から自立化させるためにです。

資本主義社会の内的編成においては,そもそも物件=資本が自立的に運動しています。この自立的に運動する《物件=資本》が,《人格=資本家》のアソシエーションの形成を通じて,《人格=資本家》からの自立化を制度的・全面的・必然的に達成したわけです。そして,もともと資本は主体的に運動していたのであり(だからこそ,個人企業でも協業を通じて所有と機能との分離が生じ得るわけです),その限りでは最初から,資本は物件とは言っても主体的・人格的な物件だったわけです。しかし,市場社会の正当化原理では,このような物件の主体性・人格性は社会的に承認されることができません。と言うのも,市場社会は生きた自然人が主体的に形成する社会だからです。だからこそ,資本もまた,資本を所有する機能資本家を必要としていたわけです。

株式会社の成立によって,この原理が破綻して,人格になれるはずもない物件が人格として公然と現れるようになったわけです。公然と現れると言っても,上に述べたように,それは市場社会の正当化原理(タテマエ)では承認されることができませんから,このタテマエにしがみつく立場に立てば“ありゃあんた,全部ウソさ,ただのフィクションさ,ウソも方便なんだよ”ということ,つまり法人擬制説になります。“公然と現れちゃったよ”という紛れもない現実にしがみつく立場に立てば,法人実在説になります。

機能資本である会社が法的人格を獲得して私的所有者として会社の資産を所有している。つまり,物件が人格を得ているとのことだと思うが,あくまでも法的人格なだけであって,会社の経営者や労働者による集合意志による人格を得ているわけではないと解釈しているが,この解釈でいいのか?

ちょっと質問にわかりにくい部分もありますが,お答えいたします。

専門的経営者もその他の従業員も社団の構成員(=社員=株主)ではありません(原理的に見てそうある必要がありません)。専門的経営者もその他の従業員も会社の雇われものにすぎません。専門的経営者たちが意志決定しても,それはあくまでも会社の意志(注2)──それに基づく会社の業務命令──として通用します。従業員たちは,自分の労働において自分の意志を発揮するのとともに,全体のコーディネーションに応じて,会社の意志に自分の意志をマッチさせます。そして,

3. 株式会社の正当性・合法性について

株式会社は資本主義の発展に必要不可欠な存在だと思うが,市場の原理に反するというのはどういうことなのか?

資本主義の発展に必要不可欠な存在だと思う。──その通りです。この講義でも,資本主義の発展から(この発展を制限している私的所有の克服という形で)株式会社の機能的必要性を導き出しました。

市場の原理に反するというのはどういうことなのか?──資本主義が発展するためには,市場が不可欠です。市場なくして資本主義はありません。しかしまた,資本主義が発展すればするほど,分散した自立的な私的経済主体が自由・平等な私的所有者として市場を通じて関係するという市場の原理そのものが,それ以上の資本主義発展にとって窮屈な物になってきます。

市場が窮屈になったから乗り越えちゃうということを,政治経済学1では,私的労働に着目して論じました。市場を通じてはじめて組織を形成するというのではそれ以上の生産力の発展が不可能なので,企業の内部に非市場的な組織を資本は形成しました。

市場が窮屈になったから乗り越えちゃうということを,この政治経済学2では,私的労働所有に着目して論じています。で,株式会社は,私的所有の狭苦しい原理を拡げちゃうことで成立しています。

で,市場の原理に反するというのは,もう今回の講義の全テーマを含んでいるので,逐条的にはやりませんが,例示しておきましょう(正当化に関する限りでの市場の原理そのものについては,詳しくは『1. 所有の基礎理論』をご覧ください)。例えば,自由な個人が自由な意志で経済活動を行い,その利益をすべて享受するのとともに,その責任をすべて負うというのが市場の原理です。しかし,株式会社は生きた個人ではありませんし,個人の集団ですらありません(社団からも自立化してしまっている物件です)。逆に,株主も会社も経営者も有限責任しか負っていません。

あるいは,例えば,自己労働に基づく個人的な私的所有というのは市場の原理です。しかし,そもそも私的所有者としての株式会社は人間じゃないんですから,株式会社の私的所有が自己労働に基づいていないというのは自明のことです。また,株主(注3)が受け取る配当も,その株主が当該株式を手に入れるためにどこでどう頑張ったのだろうと,そんなこととは関わりなく,その会社の内部で行われた労働とは全く無関係だという意味では,自己労働に基づかない私的所有,換言すると不労所得です。

所有と機能との分離について,また株式会社と法人格について,市場社会において本来私的所有者は自然人であったこと,不労所得が労働に基づく私的所有の否定になること,はわかるが,それらが変化することが市場社会という名前を維持する上でどのように不都合なのか?

名前と言うか,すでに現代社会,すなわち資本主義的な市場社会を,機能的に擁護するのではなく,本来の意味で,つまりいいものとして,正当化する原理は市場にしかないのです(詳しくは『1. 所有の基礎理論』,『正当性の2つの種類』を参照して下さい)。したがって,不都合なのは,現代社会を正当化する上での不都合です。

これも今回だけではなく,政治経済学2の全テーマを含んでいますので,逐条的にはやりません。あなたが挙げた例に即して説明します。

  • 自然人ではない物件,つまり人間ではないのに人間のふりをするニンゲンモドキが私的所有者として社会を形成しているというのは,市場の原理から見て,不都合です。何故ならば,現代社会は自由・平等な人格が形成している社会だからです。共同体でもなければ王様でもない,みんなが自由・平等な人格として市場社会を形成しています。奴隷なんていません。だれでも能力・努力・運で成功者になれます。このような市場社会の政治的表現が民主主義社会です。みんなが政治的意志決定から排除されず,みんなが王様,みんなが主人公として国家を形成していきます。なんて素晴らしい社会じゃあーりませんか?

    こんな美辞麗句を株式会社は木っ端微塵に壊します。株式会社は個人のささやか枠組みを乗り越えた巨大なパワーであり,犯罪やらかしたり悪さをやらかしたりするだけならまだしも,最低なことに善い行いまでしてしまいます。ニンゲンモドキのくせに!善き企業市民として企業の社会貢献とかフィランソロピーとかそんなことまでしちゃいます(注4)。一体誰の金だよ!──株主様の金じゃないですよ,会社の金です。

    日本なんかじゃ,このニンゲンモドキは健全な自由主義社会を形成するために政治献金までやってます。選挙権も被選挙権もないくせに,ニンゲンモドキのくせに!もちろん,営利目的じゃありません。会社の資金支出の目的は営利なんですが,でも政治献金は営利目的じゃありません。営利目的だったら,ワイロになっちゃいますからね。一体誰の金だよ!──株主様の金じゃないですよ,会社の金です。

  • 不労所得が目に見えちゃうと言うのは,市場の原理から見て,不都合です。何故ならば,現代社会は,所有は自己労働に基づいて正当化されているからです。要するに,現代社会では,個人が身分に関わりなく,頑張ったらそれに見合った結果が手に入るからです(もちろん,努力だけではなく,運も才能も結果に影響を及ぼしますが,それは身分の壁とか移動の不自由とか営業の不自由とかのような人為的な作為ではありません)。なんて素晴らしい社会じゃあーりませんか?

    こんな美辞麗句を株式会社は木っ端微塵に壊します。そもそも株式会社の利潤は株式会社自身が人間じゃないんですから,労働なんかするわけもなく,したがって自己労働に基づく個人的な私的所有ではありません。それは別にして,配当は不労所得でしかありません。

利潤が原理的に会社=物件のものであり,会社は株主のものであり,経営は経営者が行うのであれば,株主は利潤の分け方を決める経営者が配当を増やさなかったらその経営者のクビを切り高額配当をする経営者を選び,その高額配当を受け取って,値(株価)がいいところにあると思い売り抜けるなどの,その会社の長期性を考えない経営がおこなわれうるのではないかと思ったが,何かそれに対する対策は現にあるか?

よくアメリカのCEOの短期志向というか,近視眼的志向というか,そんな感じで問題になっていたことですね。個別企業の対策とかそういうことは,経営学や法学の話になると思います。そこで,ここでは,個別企業の立場を離れて,その意義と株式会社の本質に即してお答えいたします。

アメリカでは,このような短期志向は機関株主(機関投資家)の増大を背景にしたものでした。ですから,株式が小株主に分散されている限りでは,この傾向は顕在化しなかったわけです。あと,以前は,“日本企業はアメリカ企業とは違って長期的に投資プランを組み立てるから,巨額の設備投資が必要な分野なんかに強いんだ”とかいうことがまことしやかに言われていました。その際の背景には,日本の場合に,株式の相互持ち合いと安定保有によって,物言う機関投資家を排除してきた(注5)ということがありました。これらの点をめぐる議論については,『6. 経済学と株式会社』で言及します。

最初に一つ注記しておきたいのは,短期志向は,株主が外から口を出しすぎる株式会社特有の欠点でもなければ,株式会社特有の欠点でもなく,そうではなく,資本主義的生産一般の欠点です。『5. 株式会社』のスライドの「限界の露出」で書かれているように,資本主義的生産が乗り越えることができない限界は利潤が必要不可欠だということにここでは現れます。利潤が必要だということは,つまりは一定の期間(例えば年間)毎に利潤が出ていなければならないということです。その意味では,資本主義的生産は,もともと黒字化までには時間がかかるような長期的な投資計画には欠点を持っています。個人企業の場合には,個人資本家はむしろ株式会社の株主以上に短期的な利潤最大化を志向することが多いでしょう。そして,個人資本家の胸先一つで内部留保を食い尽くしてしまうでしょう。この人の私的所有物なんですからどう使おうとも誰も文句を言いません。

むしろ逆に,株式会社は,以下のようなシステムです:

  • そもそも巨額の投資に必要な資金を社会から十分に集めることができる。
  • 資本家から資本が完全に自立化するということによって,資本家による自分の財産の喰い潰しから資本の成長を守る。
  • 株主が有限責任であるということによって,資本家(=株主)をして,比較的に(つまり個人企業とくらべて)ローリスクである代わりにローリターンであるような利潤(=配当)で満足させる。

したがって,個人企業と比較すると,明らかに株式会社の方が長期的な経営計画に適合しているのです。これもまた,株式会社による私的所有という制限の克服が資本主義的生産の発展にもたらすメリットです。──このことを大前提にした上で,短期的な利潤志向による長期的な資本成長の阻害の問題が株式会社においてどうなるのか,一般論として考えてみましょう。

そもそも株式会社は資本主義的生産が発展するために,私的所有という制限を克服したものでした。そして,株式への配当も株主総会における取締役選任も,外部化・形骸化され,緩和されているとは言っても,やはり私的所有という制限──ただし株式会社において,以前の制限が克服された結果として,新たに生まれた制限──に属しています。そこで,この制限が資本主義の発展に対してどのような関係にあるのでしょうか?

理想的な場合を想定すると,つまり株式会社の資本主義的生産の発展に適合的な場合を想定すると,一方では,株主は比較的に低い配当で満足し,しかもより多くの配当と高い株価を実現するために,適切な取締役(専門的経営者)を選任します。他方では,専門的経営者は,もちろん役員報酬を高めるために短期の業績をも達成しなければなりません(もし長期的な計画が赤字を続けても株価が上昇するような期待が高いものであるならば,話は違ってきます。この場合には,キャピタルゲイン志向をもつ株主からも,取締役の選任継続が支持されるでしょう)。しかし,自分を雇っているのは株主総会からも自立化しているgoing concernとしての株式会社です。専門的経営者の労働は(もちろんヒラの労働者の労働も)資本機能と一体化しています。客観的には,専門的経営者もヒラの労働者も資本の存在様式であり,資本運動の一部です。主観的には,専門的経営者もヒラの労働者も会社の意志と自分の意志とを一致させ,会社のために働いています。“俺たちこそが会社を動かしている”わけです。こうして,専門的経営者は,going concernとしての株式会社のために,長期的な投資を計画します。これは別に単なる理論的空想ではありません。実際に株式会社形態を通じて,19世紀末の鉄道産業のように,巨額の投資額と,長期の鉄道建設期間を必要とする──その間は売り上げがないのだから,配当が少なくならざるをえない──ような産業も民間の資本主義的営利企業によって可能になったわけです。

しかし,そんなに上手くいくでしょうか;つまり,バランスよく行くものでしょうか? と言うのも,株式会社は有機的な全体ではなく,諸契機をバラバラに分離した上で,無理矢理にくっつけたものだからです;つまりその点ではもともと不安定なものだからです。

株主支配

一方では:株主がより多くの配当を求めると,明らかに会社の長期的な計画が阻害されます;従ってまた,長期的に見ると,資本成長=会社の成長が阻害されます。そして,社会的に見ると,それは社会的生産力の発展にとってマイナス要因です。

ところが,株式総会における株主の影響力が強すぎると,株主の私的利益の追求──私的所有者なのですから私的利益を追求するのは当然のことです──が単年度の配当の最大化と,そのための取締役の選任とを毎期の株主総会で求めることに帰着するかもしれません。もしそうならば,株主は会社の成長にとって──従ってまた資本主義社会の成長にとっても──不要なもの,余計なもの,ただのコストとして現れます。株式会社は資本家を資本の内部から追い出したのですが,追い出し方が足りなかったのでしょう。資本家こそは会社の発展=資本の発展を阻む“悪”です。労働者も賃上げ要求とか行って,会社の発展=資本の発展を阻む“悪”っぽく見えますが,しかし労働者は曲がりなりにも,企業内部で利潤を生産し,また市場でそれを実現しているわけです。会社にとって労働者の賃金なんて安いに越したことはありませんが,労働者が一人もいなくなったら金儲けもできません。賃金は確かにコストですが,利潤を生むために絶対に必要なコストです。これに対して,株主は,私的所有者づらして,企業内部では,利潤を生むための労働をなんもしていないのです。企業内部では会社の利潤生産に何一つ貢献していないのに,株主は資本家だというだけでえらそうに配当を要求してくるのです。

経営者支配

他方では:それでは,勧善懲悪ということで資本家を成敗しましょう。成敗するといっても,会社が市場で活動する限りでは,私的所有者をなくすわけにはいきません。それにもともと株式会社では,資本家は企業の外部に追放されているわけです。したがって,やることといったら,経営者支配,経営者独裁を確立して,株主総会を完全に形骸化し,株主を完全に無力化してしまうことくらいのものです(これについては『6. 経済学と株式会社』で詳しく論じます)。

さて,先ほどは,専門的経営者が会社の忠実な管理者として,資本運動の単なる媒介者として現れましたが,それだけでしょうか? 株主と同様に,あらゆる手段を用いて,専門的経営者も私的利益を追求するのではないでしょうか? その通りであって,専門的経営者もまた当然に私利私欲で行動しています。

この私利私欲は,株主が強い状況であれば,例えば株主に自分の役員報酬を上げてもらうために,長期的な投資よりもむしろ,労働者のクビを切り,短期的な利潤の最大化を目指すことにもなります。これに対して,経営者支配が確立している場合には,例えば自分の役員報酬を自分で上げるためにも,会社の最大限での成長を追求するでしょうし,そこには長期的な投資も含まれてくるでしょう。こうして,完全な経営者支配こそが長期的な資本成長に都合がいいかのようにも見えます。

しかしまた,経営者支配の下で,私的利益の追求によって現れてくるのは,その面だけではありません。会社の自己資本も他人資本も,どのみち専門的経営者にとっては他人の金です。あらゆる会社資産は他人の資産です。我がものぶっても所詮は他人のものです。捨てちゃったところで,自分の懐は痛みません。それにもかかわらず,その他人は自然人ではなく,会社などという訳のわからないニンゲンモドキです。そして,経営者支配の下では,私的所有者によるコントロール(訴訟は別にしても,直接的には株主の手先としての監査役によるチェック,最終的には株主総会における解任)が機能していません。そこで,会社資産の浪費や,損失隠蔽,甚だしい場合には横領などが容易に行われる可能性を株式会社は持っています。もちろん,それらは会社の発展=資本の発展にとってにとってはマイナス要因です。こうして,経営者支配が最も会社の発展=資本の発展にとって都合がいいものであるとも言えるわけでもないということになります。その限りでは,株主のチェックは,すなわち外部化・形骸化されているとは言っても私的所有によるコントロールは資本の発展にとって不可欠だということになります。

4. 債権者に対する関係について

会社が倒産したら,その会社が保有している借金や社債などの負債をその会社は1円も返さなくていいのか? またその会社が保有している資産は売却しなくていいのか? その会社の経営者は経営を委託しているだけだから金を払わなくてはいけないような負債に対する金銭的責任はないのか?

ちょっと法学っぽい議論なので,細かいところは会社法の先生に聞いてください。ここでは,経済学者の私にもわかる感じで原則論をお答えします。

会社が倒産したらという場合の倒産とは,後のところからわかるように,再建型の倒産ではなく,清算型の倒産ですね。

その会社が保有している借金や社債などの負債をその会社は1円も返さなくていいのか?──当然に返さなければなりません。ただし,その場合の責任も有限であって,会社資産から返せる分だけです。

その会社が保有している資産は売却しなくていいのか?──当然に売却します。

その会社の経営者は経営を委託しているだけだから,金を払わなくてはいけないような負債に対する金銭的責任はないのか?──違法行為を行っていない限りでは,ないでしょう(注6)。もし経営者が善良なる管理者として適切な注意義務をもって経営していたのであれば,たとえ経営者のビジネスジャッジメントの失敗で会社が倒産したのであっても,それは仕方がないことでしょう。なにしろ,タテマエ上,その経営者(取締役)を選任したのは株主総会ですし,この企業が株式会社だということがわかった上で債権者も取引していたのですから。

私は会社にとって株式は社債とくらべてリスクが少ないと考える。社債は万が一,会社が倒産した時にも返済の義務があるからである。本講義では「社債も株式も会社にとってはあまり関係がない」とのことだが,実際にその通りなのか?
会社にとって株式は社債とくらべてリスクが少ないと考える
  • ファイナンス上,おっしゃる通りです。

  • そして,私的所有論においても:

    • 社会の貨幣を返済不要(注7)な自己資本に転換しているという点は重要であって,『5. 株式会社』の「従来の制限の克服」の中でこの問題について述べておきました。

    • また,そもそも,返済不要なのは株式会社が株主のものだからです(出資しているからです)。したがって,その意味では,返済不要性は株式会社の概念そのものに含まれています。

    • さらに,質問者が言及していると思われる「会社にとっての株式と社債との違い」のスライドの中でも「唯一の質的な(=根本的な)違いは貸付かどうか,つまり返済する必要があるかどうか」と述べています。このスライドでは,“質的・根本的な違いと言っても,大した違いじゃないんじゃね?”的なニュアンスで書かれていますが,それは株式会社のタテマエが,株式の意義が破綻しているからです。だからと言って,社債と株式とが同列であるわけがありません。そもそも株式がなければ株式会社は成立しません。これに対して,別に社債は株式会社の成立そのものとは全く無関係です。このスライドにおいては株式と社債との比較が主題なのではなく,もっぱら株式が主題です。しかるに,そのような,社債とは質的・根本的に異なる株式が,株式会社そのものの正当性の形骸化によって,ヤバいことになっているというのがこのスライドの主旨です。

社債は万が一,会社が倒産した時にも返済の義務があるからである

まぁ,倒産しなくても償還時には返済する必要があります。倒産して整理する時の問題については,アダム・スミスとJ.S.ミルとのところで見ることになります。

本講義では「社債も株式も会社にとってはあまり関係がない」とのことだが,実際にその通りなのか?
  • もちろん,ファイナンス上,リスクおよびコストは違います。そして,返済する必要があるという点では,借入金も社債も有利子の他人資本として全く同じです。この観点からは,会社にとっては,適切な自己資本比率の維持が重要です。

  • そして,私的所有論においても,株主=私的所有者がいないような株式会社(株式ゼロであるような株式会社)は社会に対して正当化されません。なにしろ責任を取るべき私的所有者が全くいないのですから。この点で,株式発行は株式会社の絶対的な限界をなしています。そして,この株式会社の絶対的な限界は,まさしく資本主義そのものの乗り越えられない限界をなしています。この点については,『5. 株式会社』の「限界の露出」を参照してください。

  • 「会社にとっての株式と社債との違い」で述べているのは,こういうことです:

    会社(あるいは経営者)にとっての株式のタテマエの形骸化
    “確かに返済不要か返済必要かはファイナンス上,質的・根本的な違いだね。でも,どちらも資本運動そのものにとっては,社会の貨幣を集める手段だって点では全く同じだよね。また,せっかく稼いだ会社自身の利潤の一部を他人(タテマエではなく現実においては,社債保有者はアカの他人,株主は会社の所有者づらした,その実,やっぱり他人)に分配しなければならない以上,どちらもその私的所有者が資本運動そのものにとってコストだって点では同じだよね。”
    株主にとっての株式のタテマエの形骸化
    “いや別に俺も何も会社を私的所有したくて株式を買ったわけじゃないんだ。つーか,所有と言っても,会社の資産はボールペン一つさえ俺が自由にできるものじゃないし。つーか,俺が株主だから俺の会社だとか言って勝手に本社ビルの中に入っていったら警備員にとっ捕まるし。つーか,私的所有者と言っても,どのみち配当請求権とか残余財産請求権とかくらいしか持ってないんだけどね。そのかわり,私的所有者が負わなければならない責任も負わなくてもいいし。俺としては,別に議決権行使して経営に口を出したいんじゃなくて,キャピタルゲイン・インカムゲインとリスクとを勘案して,そして他の金融商品とくらべて,この株式を買うことにしたんだ。俺にとっては,株式も社債もその他の金融商品も,余剰資金の運用先という点では同じだよ。”

  1. (注1)市場が資本主義的生産によって全面化するのに連れて,(もちろん,この経済的プロセスから生まれるのとともにそれを促進する市民革命等の政治変革を経て)本来市民の特権であった市民権の大部分が人権として普遍化されます。それとともに,法的人格の規定も,この出発点,この根本規定である“交換する人格”から,普遍化されます(もともと内容を問わない単なる形式としての権利は普遍化するものですが,この普遍化が市場の全面化と政治変革とによって徹底されるわけです)。

    たとえば,もともと幼児には市場で自ら商品交換を行う行為能力はなく,その意味では“交換する人格”ではありません。しかし,この自らの根拠を越えて普遍化した法的人格の規定に従うと,この幼児も権利能力を持つものとしては法的人格だということになります。しかしまた,だからと言って,幼児から法的人格の規定を導出することはできません。

  2. (注2)このような会社の意志(will)とは資本の意志のことであり,資本の意志は社会的労働──この場合には協業──から生じます。そして,社会的労働にいてみんなが従う意志のことを,政治経済学1では権威(authority)と呼びました。従って,ここでも,「会社の意志」は,正確には「会社の権威」と呼び替えられるべきです。

  3. (注3)範疇的・必然的には,株式会社の経営者は非株主であるような専門的経営者でした。と言うことは,範疇的・必然的には,株式会社の株主は非経営者であり,非従業員です。

  4. (注4)アダムスミスのところで見るように,厳格な自由主義の立場から見ると,そもそも株式会社自体が違法です。もっとも,現代では,株式会社の機能的な有用性・必要性は誰の目にも明らかですから,そんなに浮き世離れした,しかし厳格な自由主義の主張は少ないと思います。それでもなお,自由主義の仮面をかぶりたいのであれば,なんとかして──やはり現実には目を瞑るのですが,それでも株式会社そのものは承認した上で──株式会社を法人擬制説的に解釈しようとします。すなわち,法的に想定されている実体としての自由な個人すなわち個人的な株主に株式会社を無理矢理に還元しようとします。

    講義の中で強調したように,自由主義とはなんでも勝手とかそういう観念ではありません。だれもが勝手にやって,専制君主なり,個人から自立した国家法人としての近代国家なりが個人の自由を抑圧しているのは決して自由主義が観念する自由ではありません。自由主義が観念する自由は実体としての,自然人としての個人の自由であり,しかも他の個人の自由を抑圧しない限りでの自由です。ということは,つまり,原理的には,自然人ならざる法人そのものの自由なんてものは想定していないのであり,もしそのような法人の自由を認めるとすれば,自然人ならざる法人を自然人としての個人に無理矢理に還元するということによってでしかありません。

    そして,そのような立場から見ると,株式会社が所有者である個人的な株主(つまり株式会社の実体)に利益を還元するのではなく,(フィクションのくせに,あたかも実体(entity)であるかのように振る舞って)フィランソロピーや,ましてや政治献金に支出するのは不当なことでしょう;プリンシパルとしての株主はエージェントとしての経営者に自分の出資金の運用を管理させているだけであって──そしてそれは株主総会を通じての自由意志による契約で自由主義のタテマエを担保しています──,自分の出資金を儲かる投資に使うのではなく,勝手に儲かりもしない(フィランソロピーも政治献金も儲からないというタテマエになっています)ことに使うのは株主からの横領に等しいでしょう;フィランソロピーも政治活動も,単なる法的フィクションとしての法人ではなく,実体としての自由な個人が自分自身の自由な意志決定によって行うべきものである──というのが自由主義の理念でしょう。

  5. (注5)もちろん,以前の日本においては相互会社であった生保なんかは,形式上は株式の相互持ち合いに組み込まれず,しかもプールした巨額の保険料の一部を株式に投資していたから,もともと機関株主的な傾向を持っていました。しかし,高度経済成長期はもちろんのこと,それが終了しても,まだ人口構成および経済成長率の関係から,保険支払に余力があった限りでは,日本の生保は,アメリカの機関株主のような“物言う”行動はあまり取らずに,基本的に安定志向だったと思います。

  6. (注6)もちろん,取締役個人で会社の連帯保証人になっちゃっているとか,個人として債権者と取引しちゃっているとかの場合には別です。しかし,そういうケースは,ここで考察しているような,有限責任によって成立する大規模公開株式会社の一般理論とは無関係でしょう。

  7. (注7)会社整理の際の残余財産請求は,──そもそも債務超過で倒産した場合には無意味なのですが──,貸したものを返却してもらうわけではありません。この点は,個人企業を整理する際に,残余財産が自分(個人資本家)の私的所有物であり,そしてその分をこの個人資本家は自分に貸付けて自分に返却したのではないのと全く同じです。