1. 経済活動のグローバル性について

グローバル化の形式性において社会形成そのものの原理が無自覚であることは理解できなかった。〔国際的交換において〕言語〔の違い〕〔国内〕通貨〔の違い〕など,さまざまな障壁がある中での個別的交換が自覚がないとはどのような意味か?

少し説明不足だったのかもしれません。市場社会を形成しているのは個別的交換です。個別的交換は国際的交換だろうと国内的交換だろうと,自由・平等な私的所有者が行う自覚的な行為です。自販機で缶ジュースを買う場合でさえ互いに自覚的です。──買い手が自販機を蹴り飛ばして缶ジュースをとろうとせず,また自販機の設計が代金と引き替えに缶ジュースを譲渡するというものになっており,かつそれが設置者の意志である限りでは。

しかし,全体としての市場社会はそうではありません。独裁者が命令して作ったのでもなく,すべての参加者が民主的決定に基づいて作ったのでもなく,上記の個別的交換をみんな勝手バラバラにやったらできちゃったというものです。「できちゃった」=無自覚的と言うことです。要するに,個別的交換は自覚的ですが,全体としての市場社会の形成は無自覚的なのです。

近年,“世界がフラット化している”という考えがあり,フラット化はグローバル化の次の発展段階になるのか?

世界市場として形成されたこの資本主義的な世界システムはもともとフラット化しています。何故ならば,国ごとにどれほど大きな違いがあっても,資本主義という原理は共通しており,しかもこの原理は経済の根本を,すなわち生産を捉えます;そして,国ごとの違いはこの共通性を乗り越えることができない──からです。つまり,グローバル化とはそもそもフラット化なのです。

いやアングロサクソン型とかライン型とか日本型とか,資本主義にもいろんなタイプがあるのではないか? いえいえ,地域的・民族的な違いはあるのですが,資本主義にとってはその違いもまた利潤の獲得部面であり,かつ,利潤獲得を続ければ続けるほど競争が激しくなってフラット化していきます。

例えば,中国では日本よりも人件費が安いというのは,資本主義の地域的な違いです。日本の資本主義的営利企業はこの違いを利用して(為替リスク回避を別にしても,つまり日本国内向け商品の場合でさえも)中国で生産します。しかし,こうして多くの企業が中国に進出していくと,中国特有の政治的リスクを別にしても,競争の激化によって,人件費が上昇せざるを得ません。

以上をまとめると,現代社会において初めて実現されたグローバル化はもともとフラット化であり,そして,もちろん,グローバル化が進めば進むほど,ますますフラット化が進まざるをえないわけです。本当にフラットでないのは,現代社会ではなく,前近代的共同体です。

市場社会のグローバル性のところで「単なる二者の関係が結果的にグローバルな社会を実現している」という,グローバル化の条件充足のところで「互いに疎遠でバラバラな私的個人」とあるが,これは国内で疎遠であり,交換関係を持ってもグローバルなのか? 「グローバル」の意味とずれているのではないか?

えっと,もしかしたら質問の趣旨を外しているかもしれませんが,国際的交換の場合ならまだしも,国内的交換の場合にも「グローバル」と形容するのはおかしいのではないか,という疑問でしょうか?

グローバル(地球的)というのはローカル(地域的)に対立する言葉ですが,ここでは,原理に即して「グローバル」という言葉を使っています。すなわち,国際だろうと国内だろうと市内であろうと,地縁・血縁に制約されずに利害の一致さえあれば誰とでも関係を結ぶありさまを「グローバル」と形容しています。このような原理は当然に国境にも制約されませんから,国境を越える社会的関係(交換関係)に帰結します。

この用語法からいうと,グローバルだからこそ必然的に国境を越えるのであって,しかるに,国境を越えたからこそグローバルなのではありません。

2. 市場社会の歴史的性格について

たとえ市場に出すために作ったモノがあるからといって,実体のない市場が一度消滅してしまうと,すぐに復活は難しいのではないのか? 再び交換先を見つけるのは難しいのでは?

たとえ難しくっても交換先を見付けるしかありません。そして,生産における社会的関係(生産関係)が以前と同じままであるならば,全体で見ると,一方での供給に対して他方の需要が対応しています(消滅する前に既に需給が不一致だったというのは無し。その場合には,そもそも条件が悪化したりしない);すなわち,以前の需給条件は同じままです。それならば,──消滅前に,もし需給が一致していたのであれば,換言すると,もし交換先見つ買っていたのであれば──,たとえ一方では条件が改善し,他方では条件が改悪しようとも,そして,一時的には以前よりも大きな流通費用がかかるとしても,全体で見ると,交換先を見つけることになるでしょう。それを繰り返していくうちに,条件も以前の条件に近似するようになり,それにともなって流通費用も以前の水準に近似していくでしょう。

なぜ稲作は市場社会ではないのか?
江戸時代の稲作生産が市場向けの生産ではなかったということです。基本的には農民の自給自足のための生産であり,余った部分(=サープラスの部分(「余った」と言っても,五公五民のばあいには半数が「余った」部分なのですが。)の大部分は年貢として治めるというのが基本です。市場で流通するのはこのサープラスの部分の中のさらに一部です。
私がバイトしている店でも赤字覚悟で目玉商品を販売すると,その商品プラス他の商品も買っていくお客が多いので,その点で市場は利益と損失をうまく使い分けているのだと思った。

もし目玉商品の販売は赤字覚悟であって,その商品プラス他の商品も買っていくということから利潤が生じるのであれば,目玉商品の販売による赤字は損失=結果ではなく,費用=原因とみなすべきでしょう。

これは市場ではなく,資本主義的営利企業の原理ですね。政治経済学2でやることですが,個人が私的所有者である──市場における私的所有者のイメージはまさにこれです──限りでは,この私的所有者が所有している資本が資本主義的営利企業の単位になります。この単位の中で投下総資本に対して利潤を最大化すればいいのです。当然に,個々の売買で利益を追求するわけではありません。

なお,株式会社が成立すると,個人という単位によって制限されているというこの私的所有の制限が拡張されます。つまり,子会社に赤字を押し付けて本社の利潤を最大化するということも可能になります。

〔市場社会全体の形成が〕無自覚というところがポイントだと感じたが,自覚することはないのか?

つくりあげた後で自覚します。これは何も過去に一度きりあった歴史的な世界市場形成だけではなく,毎日まいにち(商品交換を通じて)繰り返している世界市場形成についてもそうです。二者間での商品交換は常に自覚的な行為ですが,社会を作ろうと思って商品交換なんかしているやつはまずいないわけで(いたらアホです),そうである以上,市場社会全体は無自覚的に形成されているわけです。形成した結果は,もちろん,われわれの眼前にあるので,それを意識は受け入れます。あー,俺たち私利私欲を追求していったらいつの間にかこんなの作っちゃったなぁ,と。

全体についての自覚性を当事者が意識せざるをえないのは,むしろ政治的社会の方です。市場のタテマエに基づいて政治的社会の形成も行なわれます。必ずしも一対一で対応するわけではないのですが,市場の原理に最もマッチした政治制度は民主制という形式です。何故ならば,市場社会の形成主体はバラバラな──共同体からも各人からヨソヨソしく自立した──自由・平等な私的人格しかないからです。

商品交換は生産の一部で生産の結果であるというところがイマイチぴんとこない。「交換するために生産している」という説明では特に落ちない。何かもっと深く切り込んだ説明があるのか?

交換が生産の結果だというのはそれほど問題が無いのではないでしょうか。問題は,交換が生産の一部でありながら,生産と全然違うということなのだと思います。それはどの人類社会にも共通な経済活動で生産において判明した自由・平等な人格の自覚的な社会形成の契機が市場社会では交換において発揮されているからです。生産における労働の契機が交換で実現されているのだから──それがないと生産における労働による社会形成が実現されないのだから──,交換は生産の一部です。

補足〔スライド〕「形式的平等」の「平等」で互いに不要なものを手放し,必要なものを入手したため使用価値的に見るとどちらも満足しているということだが,授業内の「コンビニでおにぎりを買う」例を見るとおにぎりを買う側にとってお金は「不要なもの」ではないのではないか? おなかが減ったという特殊な状況で普段は必要のないおにぎりを仕方なくお金を手放して買う。〔中略〕しかし一方でコンビニは常におにぎりを交換で手放したいはずだ。なぜなら消費期限等の制約があるし,たいがいの場合おにぎりと物は交換できないため,一刻も早く金と交換したいからだ。〔中略〕買う方はなくなく金を手放し,一時の空腹のためにおにぎりを買う。しかし後で他のものにすれば良かったとか味がまずいなどと後悔するかもしれない。一方で売る側は常におにぎりを早く手放し金を手に入れたいと思っている。つまり買う側は交換によって不満足な思いをする可能性があるが売る側は常に満足である。〔中略。もしそうだとすると,〕使用価値的にはこの場合,平等なのだろうか?

いいところをついています。ただし,少し整理した方がいいと思います。

他のものにすれば良かったとか味がまずいなどと後悔するのは買い手の内面の問題であって,売り手との対等な関係には影響しません。そもそも,そういう例を出すならば,売り手の方も,もう少し高く売れば良かったとか,後悔するかもしれません。

あなたが問題にしているのは,商品が持っているパワーと貨幣が持っているパワーとの不平等だと思います。つまり,ここで問題にしている人格の平等/不平等ではなく,この人格が所有する物件の不平等だと思います。それは確かにその通りです。貨幣を持っていれば,その金額以下のものであれば必ずなんでも買えます。これに対して,商品を持っていても,必ずしもそれが売れるとは限りません;売れ残ってしまうかもしれませんし,あるいは売れ残らなくても,値札以下の安値でしか売れないかもしれません。つまり,貨幣を持っていれば,市場社会の社会形成主体になれますが,商品を持っていても,もしかしたら市場社会からドロップアウトしてしまうかもしれません。

こういうわけで,貨幣という物件と商品という物件とは不平等であり,その限りで,貨幣所持者と商品所持者とも不平等です。しかし,一方的に販売し続けるだけとか,一方的に購買し続けるだけとかが不可能です;すなわち,商品所持者は商品が売れれば貨幣所持者になり,貨幣所持者は貨幣を持っているのは商品所持者として自分の商品を売ったからです。つまり,商品交換の部面だけを見てみると,同じ人格──私的所有者──が交互に商品所持者になったり貨幣所持者になったりしているわけです。その意味では,市場においては,商品と貨幣との不等性にもかかわらず,形式的には私的所有者同士は平等であるということができます。

もっとも,この平等性は,繰り返し説明しているように,生産における役割を無視して出てくるような,バラバラに行なわれている個々の交換をバラバラに並べた時に出てくるような,形式的な,表面的な,目に見えるところだけの,平等性です。私的所有者が商品所持者になったり,貨幣所持者になったりするというのは間違いありません;つまり,商品所持者/貨幣所持者というこの役割は流動的です。しかし,生産における役割と関連づけて個々の交換を仕訳してみると,つまり,実質的な,根本的な関係からもう一度,市場を見てみると,この役割はかなり固定的になります。例えば,労働力市場では,労働者は常に商品所持者(売り手),資本主義的営利企業は常に貨幣所持者(買い手)です;消費手段市場では,消費者は常に貨幣所持者(買い手),資本主義的営利企業は常に商品所持者(売り手)です。

3. 未来社会について

SF映画などでかなり進んだ未来都市が描かれ,その一方で世紀末的なものも描かれる(ex. ナウシカ,マトリックス)。人間は進んだ未来を求める一方で,世紀末的な未来もみすえているのか?

えっと文化現象を無理矢理に一般論に還元して言うのであれば,現代社会自体が二つの原理の間を行ったり来たりして発展するものなので,一方での過度の楽観と他方での過度の悲観とが交替することになります。それは景気循環の中でわれわれが見ている通りです。過度の楽観視ではバラ色の未来が現れますし,過度の悲観視では世紀末的な未来が現れます。(実際にはもう少し複雑で,バラ色の未来は現状に何も期待が持てないということの裏返しかもしれませんし,世紀末的な未来はそんな破滅的な状況でも人類に期待しているという楽観の表現かもしれません。)

やっぱり文明はいつか滅びるのか?資本主義的な市場社会をやめ,新しいカタチを作っていかなければ未来はないのか?

文明の定義次第なんですが,文明(civilization)とは文明化(civilize)の結果であり,一般に生産力の上昇にともなって都市が形成され,それを中心に,農村とは異なる文化,中央集権的な政治体制ができ上がることを指すと思います。この意味で,これまでの文明は都市と農村との対立そのものということができます。

都市形成は,多くの場合に,商品交換にともなってでき上がりました。すなわち,《交易=交通》の結節点に市が立ち,そこに人が集まり,都市が形成されていき,《交易=交流》の中で新しい文化,新しい知識が生まれてきます。もちろん,逆に,今日の都市計画ほどではありませんが,政治権力の場所的集中を基盤にして,そこに市が立っていくというケースもあったでしょう。ともあれ,ひとたび出来上がった市場は,資本主義的生産がなくても,それ自体で,自己拡大していく傾向をもっています。例えば,冒険的商人が遠隔地商業で商品を買い付ければ,この買付けに向けての商品生産が拡大します(注1)。こうして,わずかな例外を除けば,これまでの文明は市場拡大と同じものでした。しかしまた,それと同時に,前近代の文明は

これまでの文明が生まれては滅び,滅んでは生まれました。生産力構造や交易ルートの変化で滅亡することもあるでしょう。遷都・疫病・戦争等で滅亡することもあるでしょう。これが資本主義以前の文明です。

しかし,今日われわれが享受している《現代文明=資本主義文明》はグローバルな世界システムです。それは世界市場という形で市場を世界化していったからです。そして,そのように,市場を世界化したのは他ならない資本という《金儲けの運動そのもの》です。資本は,国際的交換だけではなく,対外直接投資を通じて,世界中のあらゆる地域を市場化し,したがって文明化しようとします。

そして,それは余ったものを市場で交換するのではなく,そもそもすべて市場向けに生産しています。すなわち,それはファンダメンタルな(根本的な)市場システムです。従って,これまでの文明の興亡とは事情が異なるわけです。すなわち,新しい社会への過渡期になるまでは,崩壊することができません。それまでは,たとえ崩壊しても,すぐさま同じ資本主義的な世界システムが生まれるだけです。

4. その他

お金という紙切れがそれ自体に力を持ってしまったことが今の市場の発展を生んだのか? 結果,「労働」と「ホウシュウ」の分離がおきているのか?

お金という紙切れがそれ自体に力を持つためにはそもそも市場の発展が必要です。両者は互いに条件付け合いますが,どちらが根本的かというと,市場の発展です。

「労働」と「ホウシュウ」の分離については,政治経済学2で詳しくやります。ここで,一言,結論を言っておくと,お金という紙切れがそれ自体に力を持つ(資本が生まれる)だけじゃだめで,労働と所有との分離が必要です。

私利私欲を求めた結果,グローバル化が進んだのは,人間が本能的行動にはしったからか?本能的に行動することが,一番の発展につながったりするのか?

人間のすべての行動は本能(あるいは生命活動)と関連づけられているという観点からは,そもそも人間社会の発展は本能(あるいは生命活動)に基づいています。しかし,それではその他の生物と人間との区別が付きません。その他のすべての生物もまた本能的に行動しているからです。むしろ,人間はこの本能を(他の生物とは違って)本能的に(本能のおもむくまま)行うだけではなく,本能的にではなくて,自覚的に,自分自身で,媒介することもまたできます。この講義では,ここから経済活動の話を始めました。

これに対して,私利私欲を求めるというのは,生物一般の行動でもなければ,人間一般の行動でもなく,特定の条件の下での人間の行動です。換言すると,個人の(自分の)利益の追求と,社会の利益から遮断された,しばしば社会の利益とは対立する,排他的な利益の追求,つまり私利私欲の追求とは異なるものです。敷衍すると:

人間が,経済活動を出発点にして,自分自身で自分の本能を(またはそれを動因とし,それの物質的表現である物質代謝を)媒介する以上,個人の(自分の)利益を追求します。それは,他人の利益,社会の利益を排除するということではなく,他人の利益,社会の利益さえをも自分の利益として実現しているということです。その具体的な例をわれわれは社会的協業で見ました。

これに対して,私利私欲は資本主義的な市場社会という特定の歴史的な客観的条件の下で,すなわち,個人と個人とが,また個人と社会とがバラバラになるという仕方でしか前近代的共同体からの個人の自立が実現することができなかったという客観的条件の下で,個人が自分の利益を追求した結果です。と言うか,この特定の歴史的な客観的条件の下でさえ,個人は私利私欲だけで行動しているとは限らないでしょう。と言うか,現代社会において,本当に私利私欲しか追求できない個人がいるとしたら,そいつはアホです。


  1. (注1)ただし,資本主義的生産が無い限りでは,商品生産は,従ってまた市場は全面化しません。つまり社会を支配しません。