このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2015年05月26日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
うーん,この講義では,初回から繰り返して説明しているのですが,市場社会と,それから区別された資本主義者かとが空間的に独立して併存しているわけではありません。また,市場社会の次に資本主義社会が来るというように,時間的に独立して継続しているわけでもありません。現代社会が,一面では市場社会であり,他面では資本主義社会なのです。そして,両者はその原理において対立しています。両者は切り離すことができません。切り離すことができないから,対立して一つのものになっているのです。このような対立し合う原理のせめぎ合いによって発展するということが現代社会の特徴です。
例えば,ある人は現代社会は自由な社会だと考えます。またある人は現代社会は不自由な社会だと考えます。現代社会は,自由な社会だと言うのも,不自由な社会だと言うのも,どちらも一面的には正しいのです。ただし,一面的でしかありません。もっと正しいのは,現代社会は,自由な社会であり,しかも不自由な社会でもあるということです(注1)。
法人企業は,市場においては,交換の場面においては,自営業者と同様に私的生産者として現れます。しかし,だからと言って,法人企業が自然人としての個人であるわけがありません。だからこそ,両者は対立しているわけです。
現存している,あるいは現存していた社会主義と名乗る国家については,以下のドキュメント,およびそこに含まれるリンク先を参照してください:
そこでの議論に基づいて言うと,現存している,あるいは現存していた社会主義と名乗る国家においては,市場社会の原理と資本主義社会の原理との対立は,市場が未発展であるという条件のもとでの剥き出しの資本主義的生産関係という,遅れた資本主義国に特有な形態をとっています。
そうではなく,もし資本主義の後に来る未来社会のことを社会主義社会と呼ぶのであれば,それは市場社会の原理と資本主義社会の原理との対立・分離を克服したということにしか根拠を持たない(もし克服していないのであれば現代社会ではない未来社会だとは言えない)のですから,社会主義社会と資本主義社会との関係は,市場社会と資本主義社会との対立関係とは全く異なります。
どちらが良いのかは,学生の皆さんの価値判断なので,なんとも言えません。私の考えを言うと,両者のいいとこ取りをし,それとともに両者のいいとこに含まれている欠陥(例えば,市場社会の自由は形式的な建前にすぎない,資本主義社会の技術革新は人間と自然との浪費を伴うから最適ではない,など)を除去するのが未来の社会だと思います。
企業の社員というのは従業員のことを意味することもあれば,株主(=社団の社員)のことを意味することもあるのですが,どちらで考えても,含みません。
個々の偶然的な事例としては,そういう場合もあれば,最初から資本主義的営利企業として設立される場合もあるでしょう。
その通りだと思います。
とりあえず,先ず指摘しておかなければならないのは,正規雇用,バイト(パートタイマー),派遣労働というのは,雇用形態の区別であって,具体的労働の区別ではありません。これに対して,高い強度の労働,熟練労働,複雑労働というのは同じ時間内により高い価値を生む具体的労働の区別であって,雇用形態の区別ではありません。もちろん,両方の区別は無関係ではありません。たとえばパートタイマーが時給で支払われることが多いのはまさにパートタイマーだからでしょう。しかし,両方の区別は別物です。
で,その上で言うと,もし法的なペナルティ,あるいはペナルティに近い法的に定められた特別なコスト,そして社会的労働から来る特別の事情(大規模工場は一人だけ残業しても稼働できない)がないのであれば,企業は常に高い強度で長時間労働して欲しいに決まっています。しかし,それをやると,(1) 純技術的には講義で述べたように長時間労働が強度と矛盾するということ,その他には,(2) 上記1の結果として事故(労災を含む)等が,あるいは過労死・過労自殺のような問題が発生し,社会的な非難,あるいは特別のコストが生じるということ,(3) 上記2の結果として労働者に忌諱されるということなどが生じます。こういうわけで,(a) 企業としては高い強度の労働と長時間労働とを両立させたいし,また無理矢理に両立させようとするし,ある程度まではそれが成功するが,(b) 社会的にはこのやり方で安定的に経済発展するということは不可能であって,結局失敗するということです。
レジうちは単純作業だが,ずっと続けると間違えやすくなる
,また単純作業をずっとしているとやる気がなくな
る──。これはまさに,講義で強調した,労働時間の延長(長時間労働)と労働強度の上昇との対立の話しです。熟練の形成について言うと,一日中やっているということではなく,毎日繰り返しやっているということが重要なのです。
高い強度の労働を反復すると,いつかは熟練労働をするようになるのか?
──なります。茶碗作りの職人さんなんか,集中力が(したがって労働の強度が)高い作業を毎日繰り返すことで,どんどん熟練していくでしょう。ただし,熟練の獲得のしやすさという点からは,より単純な労働,より強度が低い労働の方が熟練しやすいと言えます。
資本主義的営利企業は,労働者に楽をさせる(労働強度を減らす)ために機械設備を導入するわけではなく,金儲けするために機械設備を導入します。それゆえに,機械設備の導入と労働強度の低下との間には必然的な関連はありません。むしろ,一面では,労働者の熟練を解体し,賃金を低下させ,労働者間での競争を激化させる限りでは,また労働者を機械設備の付属物にして,疲れを知らない機械設備に合わせて働かせる限りでは,明らかに,労働強度を上昇させるとさえ言えます。
講義では単純化して言いましたが,実際にはより複雑な労働とより単純な労働とがあるだけです。例えば,今日では,小学生レベルの読み書きレベルさえ達していない労働力はほとんどの単純作業でさえ使い物にならないと思います。それは極論を考えなくても,『7. イノベーションの構成要素』の「科学的知識の意識的・計画的適用」で見るように,現代的大規模産業では,基準となるような単純労働力でさえ,基本的な学力を必要とします。このように,現実的には,最も単純な労働力でさえ,特別の育成費(学校教育は,工場・オフィスでの労働過程でのOJTとは別の,特別の労働力育成過程です)を必要としています。
紛れもなく,熟練労働です。熟練労働力は,経験によって形成されます。だからと言って,経験時間と熟練度とが比例するわけではありません。労働者間には,(1) 先天的な能力(労働力)の違いもあります。また,(2) 経験期間の内外を問わず,どういう風に工夫したらいいのか,どういう風に工夫するのが自分の能力を最大に活かすのか考えて,後天的に他の労働者よりも早く熟練労働力が育成されることもあるでしょう。いずれにせよ,それらは,通常は,出来高賃金によってペイされます。
広い意味では労働力の再生産費に入ります。
労働力がどのように育成されて,労働力市場に安定的に供給されていくのか,考えてみます。そうすると,何よりも,労働力と言う能力の生産には,人間の自然的成長に伴って,つまり普通に人間が成長期を生活してく過程で,自然と身についてくる部分,そしてひとたび生産されるとただ生活するだけで再生産される部分が大きいということが分かります。このような育成と再生産とは家庭の中で行われているので,安定的に労働力が労働力市場に供給されるには,成長する世代の育成費,労働力人口の再生産費とともに,リタイヤした世代他の扶養家族の生活費なども,狭い意味での労働力の再生産費に入ります(これは生活水準の変化だけではなく,家族形態の変化や政府の政策の変化によっても影響を受けます)。こういうのをすべて含んでいるのが生涯生活費であって,生涯生活費を平均年齢で割れば,大体の年間の労働力価値が出てきます。これを狭い意味での労働力の再生産費と呼んでおきましょう。
さて,今日では,人間的成長は,自然的に生きる(たとえば家の中で食べる,寝る,友達と遊ぶ)だけではなく,学校教育を通じて人為的に育成されていることが分かるでしょう。このような学校教育の費用がすでに,生産過程の前に費やされなければならない特別の育成費になっています。また,この意味では,今日の労働力には,より単純な労働力はあるが,厳密な意味でまっさらの単純労働力はないと言えます。
それとともに,──学校教育でも義務教育,高等教育などの等級があり,また学校や学科に応じて区別があるのですが──,他の労働力とは違う特別な労働力を育成するために,費やされる育成費があります。これは広い意味で,労働力の再生産費に入ると言えるでしょう。もしひとたびこのような複雑労働力を身につけたら,あとは他の労働力と同様に普通に生活するだけでそれを再生産できるのであれば,再生産ではないではないか,と思われるかもしれませんが,再生産するためには生産されていなければならないわけです。
主観的なものではありません。水道の水をコップに入れて鍋に移すという作業でさえ,頑張って集中してやるのと漫然とやるのとでは,断然,その回数が違うでしょう。
で,個人の適性の問題ですが,労働の強度には平均的な強度が前提されます。平均的な強度よりも強いのが高い強度の労働です。と言うわけで,適性がない人は,どれほど頑張ったところで,高い強度の労働としては通用しません。そしてまた,当然に,高い出来高賃金を獲得することはできません。と言うか,これは明らかに(個人の適性を無視した)配置ミスです。
できます。
えっと,高い価値を生むということが生産力が高いということです。
もともと複雑労働はしばしば,生産物の質的な違いとなって現れます。高い強度の労働および熟練労働は,一定時間内での生産物の量に量的に反映されることが多いのですが,生産物の品質に質的に反映されることもあります。どのケースにおいても,これらの労働は一定時間内により高い価値を生み出します。あなたが言う生産力
とは恐らく上記の量的な側面を指しているのではないかと思われます。その場合においても,市場価値100円のおにぎりを,例えば熟練労働者は1時間に20個,不熟練労働者は10個作るのであれば,熟練労働者は2000円分の商品を,不熟練労働者は1000円分の商品を生産したことになります。
高い強度の労働,熟練労働,複雑労働というのは労働そのものの被規定性なので,直接的には,どの人類社会にも当てはまります。ただし,それは,市場社会一般では同じ時間内により大きな価値を生む労働という形で現れます。そして,資本主義的な市場社会,すなわち資本主義社会では,特有の様々な形態(たとえば管理労働としての複雑労働など)を展開するのとともに,それぞれについて異なる賃金形態でインセンティブが与えられます。
プリントに書いてある通りです。労働力の育成に特別のコストがかかる限りでは,複雑労働力には,高い労働力価値(高い基本給)が支払われます。また,労働力の育成に特別のコストがかかる限りでは,出来高(業績給)制の場合にも,出来高の基本となる出来高一単位あたりの賃金が,より複雑な労働とより単純な労働とは違います。
生まれつきの特殊な才能によって初めて可能になるような複雑労働もあるでしょうし,そういう複雑労働力は形式的には高い基本給(あるいは高い出来高ベース賃金)で支払われるでしょう。しかし,実際には,そのような複雑労働力は,特に豊度が高い土地がそうであるのと同様に,独占的な地位にあるのであって,このような複雑労働力の賃金は固有の賃金論のベースの枠外にあると言えます(注2)。
この問題については『7. イノベーションの構成要素』の「現代的大規模産業」のところで考察します。あと,この講義の考えでは,熟練労働者は
OJTで育成されることが多く,したがって必ずしも高い育成コストがかかる
とは限りません。
うーん,社会的なメカニズムの問題ではなく,技術的な問題については,マニュファクチュア的な分業と大規模産業での分業との違いということで,『7. イノベーションの構成要素』で考察することになります。
資格の有無は単なる幻想ではなく,それなりに能力の違いを(つまり労働力の複雑さを)示しています。しかしまた,複雑労働力の資格が事実上の人数制限をもたらしている場合には,つまり市場ではなく国家によってこの複雑労働力の供給が規定されている場合には,要するに,複雑労働力の人為的独占が生じている場合には,資格の制度的枠組みの変更によって,振り子が供給過少から供給過剰に振れて,一時的に供給過剰になるということが大いにありえます。弁護士の現状が,もしいわゆる司法制度改革に基づいているのであれば,その実例だと思います。
それが『7. イノベーションの構成要素』の課題です。
その通りです。
(注1)例えば,地球を見て,地球には昼があるというのは一面的には正しいでしょう。しかしまた,地球には昼しかないというのは誤りでしょう。そして,もっと正しいのは地球には昼もあれば夜もあるということです。これが地球の自転運動と太陽との関係を表しています。もっとも,似ているのはここまでです。地球の場合には,昼と夜とは単純な時間的交替運動をなしているだけであって,別に原理的な対立はありません。現代社会は同じ時間に同じ空間で自由の原理と不自由の原理とが併存して,対立し合っているわけです。
(注2)マーシャルは,技術革新には新しい機械設備が必要であるということに着目して,技術革新に伴う超過利潤の性格を,固定資本の短期的独占から生じるところの,土地の長期的独占から生じる地代に準ずるような,準地代だと考えました。しかし,この講義では,協業・分業のところで,必ずしも固定資本投資の違いがなくても,技術革新が起こり,超過利潤が生じ得るということを示します。ともあれ,差額地代と同様な性格を持っているのはこのような特殊な複雑労働力の方です。