このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年12月16日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
2015年01月26日:9. 経営者は資本家と違って“金”だけを追求しているわけではなく,それに対して資本家は株主なら配当だけを追求するように利潤(貨幣)だけを追求するのではないか?を追加。
まずは,この会社との関連で考えます。第一に,あなたの父親は,雇われではないということは自ら出資しているのでしょう。その限りでは資本家です。ただし,代表取締役として,実際に経営労働を行っている限りでは,労働者でもあります。どちらの性格が強いかは,収入の分割によります。つまり,収入に占める賃金部分が低い場合には,資本家としての性格が強くなりますし,高い場合には労働者としての性格が強くなります。
第二に,あなたの祖父母は,出資している限りでは,この会社との関連では資本家になります。そして,取締役として登記されていても,実際には執行をも監査をも行っていないのであれば,この会社との関連では労働者とは言えないでしょう。
次に,個人の階級的な位置について考えます。個人としてどういう立ち位置
にあるかは,直接的には生産手段に対する関連で決まりますが,最終的には収入の源泉で判断するべきでしょう。要するに,あなたの祖父母は,全体として,もし主として会社の配当で暮らしているのであれば,資本家としての性格を強く持っていることになりますし,主として他の本業からの収入で暮らしているのであれば,その本業に基づく立ち位置
になります。年金生活者である場合には,現役時にどういう源泉の収入から年金を積み立てたのかで決まります。
低下したとは言えます。しかし,無くなったわけではありません。大規模公開会社に関する限り,“会社は株主のもの”なんてのが現実離れしたタテマエだということは誰でも知っています。しかし,この現実離れしたタテマエ以外に,現代社会は新しいタテマエを打ち建てることができていないのです。
理論的に言うと,資本家は資本運動を人格として実現するということです(生産関係のレベル)。人格として実現するということからまた,資本という物件に対して“私のものだ,私の所有物だ”という仕方で振る舞うということが出てきます(所有関係のレベル)。そこからまた,資本家が手に入れる収入は利潤だということが出てきます(分配関係のレベル)。『1. 所有の基礎理論』の第5頁上段の図の通りの順序であるということを確認してください。
「システム内の株式会社の意義」とは,当該スライドの中の直前の文,すなわち,「そもそも株式会社が成立したのは,個別的資本を社会から集中するため,資本(=物件)を資本家(=人格)から独立させるため」という部分を指しています。要するに:“別にたまたま資本の所有者が高い経営能力の持ち主であり,したがってたまたま資本家が経営者であってもいいんだけど,そうじゃなきゃならない理由ってのはない。むしろ,せっかく無責任に世界中から金を集める大規模公開株式会社というシステムが成立しているんだから,一方では資本家の立場に立ってみると資本家は経営なんてめんどいことはせずに有限責任だけ負って楽して配当を稼ぎ,他方では会社の持続という観点から見ると会社が大きくなるためには無能な資本家は経営から追放して有能な経営者を世界から探し出して雇うって方が理に適ってるだろう”──ということです。
雇われ者は賃金労働者であって,資本家じゃありません。資本家は雇う人,賃金労働者は雇われる人です。こういうわけで,基本的には,専門的経営者はその他の従業員と同様に,資本家ではなく,賃金労働者であるということになります。
通常は,矛盾しません。本講は株主の株式保有動機がインカムゲインであるということを想定して話しを組み立てていますが,もちろん,株主の株式保有動機には(キャピタルゲイン動機もそうですが),支配動機の場合も含まれます(以上,第13頁の「株式の保有動機」のスライドをご覧下さい)。支配動機で株式を取得し,委任状を含めて過半数支配して,総会を牛耳った場合にも,通常はこの支配株主自身が経営を行うわけではありません。あくまでも所有者として株主総会に参加し,雇われ取締役の首をすげ替えるなり,会社の方針を転換させるなりするわけです。それは所有者の意志決定であり,日々の経営とは別物です。
資本家となり得る状況
というのは,資本に対して,“これは私のものだ”と人格的に振る舞っている場合だけです。ここからとりあえず出てくるのは資本家は資本の所有者だということになります。これだけ満たせばいいというのがこの講義の立場です。
で,三つの観点から検討したのは,この講義の立場とは違う定義で資本家を考える見解があるからです。それに対して,この講義はそりゃ違うんじゃないのと反論を加えることで,株式会社における資本家像とその意義とを明確にしようとしているわけです。
うーん,優位に進められる,また利潤を効率よく蓄えられる
のは,有能な経営者でしょう。ただし,株主(=資本家)も専門的経営者も時に会社から盗もうとするので,それはない方向で。で,当然に,資本家が有能な経営者である場合も専門的経営者が有能な経営者である場合もどちらもあります。ただし,システムに即しては,“資本家(資本の所有者)だから経営者として有能だ”と想定することはできないのに対して,一応,専門的経営者の方は,“経営者として有能だからこそ経営者として選任されたのだ”と想定することができるわけです。それは社外から招聘される場合はもちろんのこと,内部昇進の場合にも,一応,そういうチェックは働いていると想定することができます。これが必然性の問題です。
あと,資本蓄積という観点から考えると,配当を一切受け取らずに,資本金だけせっせと出してくれる資本家が会社にとって最もいい資本家です。見返りを何も期待せずにカネだけせっせと寄付してくれるような,解脱しちゃった資本家が会社にとって最もいい資本家です。専門的経営者の立場から言うと,これに加えて,総会で株主提案なんかせずに一切異議を挟まないというのがいい資本家の条件に入ります。しかし,これは会社の立場から言うと,最適というわけではありません。会社の立場(会社を成長させるという立場)から言うと,やはり取締役やその他の従業員が会社を私物化しないように,最終的に私的所有者としてモニターしてくれるのが最適な資本家でしょう。
講義でも強調しましたが,自営業者(自営業の経営者)については,その通りです。個人的企業の経営者(この場合,同時に資本家でもあるような経営者を想定しています)は理論的には“金”だけを追求していると考えることができます。
結局,専門的経営者は資本家じゃないということです。
もちろん,当てはまるとは限りません。
その通りです。
問題になっているのは,量的に見て,そういう企業の方が多いか少ないかということではなく,質的に見て,そうなる必然性があるのかどうかということです。つまり,資本の私的所有者(=資本家)と企業の経営者とが一致する必然性はないということです。もし必然性がないのであれば,数の多寡がどうなっているのかということに関わりなく,資本の私的所有者であるということとと企業の経営者であるということととが一致するのは偶然的です。この意味で,たとえ現実的に両者が一致するケースが相当に多いとしても,理論的には例外だということになります。
もちろん,資本の私的所有者であるということと企業の経営者であるということとが必ずしも全く無関係だとは限りませんよね。もちろん,複数の企業が共同出資で新しい企業をつくる場合なんかは,両者は全く無関係であって,最初から所有と機能とが完全に分離しています。これに対して,いわゆる企業家が会社形態で創業して,やがて株式を公開していくなんて場合には,少なくとも創業期には両者が一致しているのが普通です。しかしながら,このような場合にも,創業株を売却したりどんどん新株を発行したり相続等を通じて親族に株式が分散したりしていく内に,経営者が所有する株式がどんどん希釈されていきます。それに連れて,一方では自発的に創業者(あるいは創業家出身の経営者)がリタイアし,他方では経営危機時などに株主総会での決定やメインバンクの介入によって創業者が解任されていきます。
うーん,全額借入資本というのは理論的に極限的なモデルであって,現実的にはベンチャーの場合にも多少の自己資本があるのが普通だと思います。講義では,こういう理論的に極限的なモデルに近いような,現実的なケースとしてベンチャーの例を挙げたわけです。それを前提にした上で,以下では,全額借入資本(つまり自己資本ゼロ)を想定してお答えします。そして,貸し手として銀行を想定します。
その場合,ベンチャー企業の社長は機能資本家であり,人格的な役割を果たすという解釈で良いのか。
──その通りです。
銀行からの介入などがあった場合,それは本当に人格的な振る舞いと言えるのか?
もちろん,現実的には,全額借入資本の場合には全額自己資本の場合とは資本家の人格的自由の発揮の範囲が異なります。それにもかかわらず,原理的に考えると,全額借入資本であっても,借り入れた貨幣はこの資本家が自由に処分することができます(貸し手である銀行がこの貨幣に対して有する権利は債権であって,この貨幣に対する物権は借り手であるベンチャー企業の資本家が有しています)。そして,その貨幣で買った生産手段は貸し手とは無関係です。現実的にも,助言を越える積極的な介入を銀行がおこなうのは経営危機に陥った場合です。
なお,ベンチャーキャピタルの場合には,現実的には,単なる貸付を越えて,共同出資に近いケースがありえます。ここでは,純粋な貸付(貸し手の動機においては,元本とともに,約定された利子率での利子が定期に支払われればいい)を想定しました。
所有者だから資本家なのであって,経営者だから資本家なのではないということです。個人企業の場合には,多くの場合に,資本家が経営者ですが,それは資本家だから経営者なのであって,経営者だから資本家なのではないということです。実際に,個人企業の場合にも,資本家は,専門的経営者に経営を任せて左うちわで暮らすこともできます。だからと言って,この場合に,資本家が資本家でなくなるわけではありません。そうではなく,資本家は経営者ではなくなるわけです。
資本家が会社を所有しているのであって,〔専門的〕経営者〔が会社を所有しているのではない〕ではないということも言えるわけか?
──その通りです。
株式の過半数の賛成を集めることができれば,当然に可能です。ただし,現実問題としては,大企業の場合には,通常,個人筆頭株主は(創業者一族でさえ)ほんの数%を所有しているだけです。
ここで資本家
とは自ら経営する資本家,要するに同時に大株主(資本家)でもあるような経営者のことだと理解しておきます。中小企業では,くさるほどあるでしょう。違法ですが,タコ足配当する会社さえありますし。
これは講義内で説明したつもりなのですが……。会社との関連では自社株を所有している従業員は資本家です。だからと言って,社会階級的に資本家になるわけでは決してありません。社会階級として資本家であるためには,少なくとも,収入の大部分を利潤が占める──少なくとも利潤で生活できる──のでなければなりません。
その通りです。
機能資本家とは資本機能を果たしているような資本家のことです。もう少しわかりやすくいうと,資本の私的所有者が経営者でもあるような場合に,その資本の私的所有者(=資本家)は機能資本家です。
最も素朴な形態では,全額自己資本で出資し,自ら経営を行ってているような資本家を考えることができます。この場合には,まだ所有と労働との分離は,所有と機能との分離という形態にまで至っていません。そもそもこの段階では,まだ《資本家≡機能資本家》ですから,わざわざ資本家のことを機能資本家なんて呼ぶ必要はありません。(注1)
これが全額自己資本ではなく,借入資本を出資し(つまり他の資本家から貨幣を借り入れて,この貨幣を自ら出資し),自ら経営をおこなっているような資本家を考えることができます。この場合には,最も素朴な形態では統一されていた,もともとの貨幣資本の私的所有者という側面と,それを現実資本(ここではとりあえず生産手段と考えてください)に変えて,資本を機能させるという側面とが分かれてきます。
前者の側面を担っているのが貸し手です。貸し手はもともとの貨幣資本の所有権を持っているだけであって,この資本を現実的に産業・商業で機能させるという機能を担っていないから,これを貨幣資本家(正確には単なる貨幣資本家)と呼ぶことができます。この場合に,貨幣資本家は資本を機能させることなく,単なる資本所有から利子を稼ぎ出すことができます。
後者の側面を担っているのが借り手です。借り手は,もともとの貨幣資本を所有していなかったから,貨幣資本を借り入れたわけです。しかし,株式会社における専門的経営者とは違って,他人の資本の単なる管理人ではありません。もともとの貨幣資本を所有してはいませんでしたが,借り入れた貨幣資本を自由に処分することができます(物権を有している)し,その自由処分によって入手した生産手段は貸し手とは無関係な,純然たる借り手の私的所有物です。要するに,他人資本(この場合には借入資本)を用いてはいても,機能している資本はこの貸し手自身の所有物なのです。貸し手は,生産・流通で機能している資本に対して,これは私のものだというし方で振る舞っています。こういうわけで,この借り手は,自ら資本機能を担っているような,資本の私的所有者,つまり機能資本家です。
この場合には,すでに所有の機能との分離が進み,その結果として,最も素朴な形態では同じ人格の下に統一されていた貨幣資本家の契機と機能資本家の契機とが異なる人格に分裂したと言うことができます。以上の点については,『2012年11月20日の講義内容についての質問への回答』の「7. 物権と債権との分離と経済的所有と法律的所有との分離との関連は何か?」をも参照してください。
それよりも所有と機能との分離がすすんだのが株式会社です。株式会社においては,あなたが言うように,専門的経営者はあくまで他人の私的所有物に対して資本機能を果たしている
だけであって,つまり単なる機能者であって,もはや資本の私的所有者ではなく,したがって資本家でもありません。
個人企業でも会社企業でも通用するような一貫した資本家概念を考え,その社会的意義を考えてみると,資本家とは資本の私的所有者なのです。そして,この観点から見ると,専門的経営者は資本家ではないわけです。つまり,資本機能の担い手が資本家だとは限らないわけです。
資本機能の担い手について言うと,もちろん,それには,固有の意味での経営者だけではなく,一般労働者も含まれ
ます。
以上については,『6. 株式会社』の「資本機能を果たしているから資本家なのでは?[総論](1)」(第8頁)および「資本機能を果たしているから資本家なのでは?[総論](1〔2の誤記です〕)」(第9頁)をご覧下さい。
「経営者」とは,あくまでも「企業の労働者の一人」であり,資本家ではないという解釈だろうか?
──株式会社において理論的に必然的な専門的経営者(そして,ここで問題にしているのはそのような専門的経営者です)は,その通りです。
機能の問題ではなく,「資格(肩書き)」の問題ということか?
──資本家であるかどうかは,機能の問題ではなく,所有の問題ということです。
上下関係に従うことで,対立が顕在化しないことがありうるのはその通りです。いずれにせよ,職制における上下の関係
も対立の形です。水平的にも垂直的(上下の関係
)にも,対立し合っているわけです。同期は同期と敵対的に競争し,上司は会社のために(ひいては自分のために)会社による部下の搾取に全力で協力するわけです。
講義で強調したのは利害対立の側面と利害共同の側面との双方です。それを前提にして答えます。
で,利害対立の側面について言うと,従業員から搾取して会社の利潤に貢献すれば役員報酬が増えるということです。後は補足。当然ではないのか
──その通り,利害対立を当然とするシステムです。経営者が従業員を雇い
──形式上は従業員を雇っているのは経営者ではなく,会社です。
経営者と資本家を区別する意味は?
──意味と言うか,所有と労働との分離という資本主義社会の根本原理を,所有と機能との分離という形態において,一貫したロジックで資本主義社会の発展に結び付けています。株式会社もこの所有と機能との分離の徹底として,資本主義社会の発展に位置付けられます。で,所有者(=資本家)と機能者(=ここでは経営者)との分離はその帰結です。
うーん,そんな意味深なことをいっているわけではなく,“そもそも資本主義というのは利害対立を前提としているのだから,株式会社もそうであり,単に利害対立しているからと言って,それだけでは資本家と労働者とを区別する根拠になるわけじゃないんだよ”,ってことです。
株主が経営者だと言うことですが,日々の経営には株主は全くタッチしていません(タッチできません)。そもそも,現状の大規模公開株式会社を考えてみると,株主の大部分が関心を持っているのは,要するに配当性向が上がるか上がらないか,株価が上がるか上がらないかであって,会社の経営をどうやるのかということではありません。
えっと,そもそも資本機能を果たしていないような専門的経営者はいません。
まず,取締役会に参加するのは株主総会で選任された取締役であって,株主ではありません(もちろん,株主の一部──株主の数が多い大企業の場合にはほんのごく一部──が取締役に選任されても構わないのですが,講義で述べたように,そうなる必然性はありません)。したがって,株主総会だけを問題にします。
株主の収入は配当および転売益です。ここでは,純粋な不労所得として何よりも先ず配当を考えているので,それだけ説明しますが,転売益の場合にも同じことです。
株主が獲得する配当の大きさは株主総会に出席したのか,それとも欠席した(委任状を提出した場合を含みます)のかということとは全く無関係です。出席しても,欠席しても,そのことによって株主間で配当率が異なるということはありません。こういうわけで,あなたが指摘する“労働”と配当とは全く無関係ですから,配当は不労所得だということになります。
“雇われものという点では取締役もその他の従業員も同じだから,雇われものに対する報酬としては役員報酬も賃金も同じだ”,と考えてください。
正確には利潤からの控除的な性格を持つ
ということもある,ということです。ここらへんは,質的な問題ではなく,量的な問題になります。つまり,あまりに多すぎる役員報酬,あまりにも多すぎる賃金は,経済学的には,利潤からの控除と考えるしかないわけです。
従業員の方が
ということはありません。そして,成果主義的な報酬は,現実的にどの労働者についても同じ基準での成果に基づいている限りでは,量的には出来高賃金の枠内に収まります。つまり,それは利潤からの控除ではありません。
本来,ボーナスは特別の賞与であって,通常は会社の業績が特別に良かった時にのみ支払われるものです(他の労働者よりも高い業績を残した労働者に与えられるのは,量的に妥当な範囲内であるならば,ただの出来高賃金です)。しかし,日本の場合には,ボーナスが事実上,基本給の一部をなしていた(ただし,形式上,基本給には含まれないので不況期にはカットすることができた)という事情があります。
配当のプレミアムについてはここでは問題にしていません。ここで問題にしているのは賃金を超える賞与だけです。で,線引きは,出来高賃金(業績給)なんかでは説明できないくらいに高い賃金ということです。例えば,以前のアメリカの金融系のCEOの役員報酬なんかは,とてもじゃないですが,賃金理論だけでは説明することができません。
社団というのは法律用語であり,法律はタテマエを表しているということを想起してください。
で,社団は,一定の目的を達成するために集まった自由な人格(これが社団の構成員=社員)の集団だからです。社団法人としての株式会社の場合には,社団の構成員(つまり株主)が私的所有者であり,私的所有者として人格であり,人格として物件に対して“これは私のものだ”という仕方で振る舞っているからです。要するに,タテマエ上,一方で,会社は株主(=社団の構成員)のものであり,他方で,従業員はこの会社によって雇われている(会社は就業時間内には従業員の労働力を自由に利用することができる)からです。
これは『7. 経済学と株式会社』のところで扱っている問題です。全般的には,『7. 経済学と株式会社』の「1.2 個人への株式分散の時代」および「1.3 組織への株式集中の時代」を,また,特に日本企業における内部昇進の問題については「1.3.1 法人資本主義論」を参照してください。
さて,今年度は『7』を十分に扱うことができませんでした。そこで簡単に述べておきます
なぜなのか?
──(1)一般的に言って,株式会社においては企業内部に私的所有者のコントロールが効かなくなり,労働者の,互いに利害対立し合いながらなおかつ私的所有者に対しては利害が共通するという,そういう労働者の共同体が実現されるからです。要するに,最初から株主総会というのは形骸化されているからです。(2)特殊日本的な現実について補足すると,法人の株式持ち合いの中で,株主総会の形骸化が完全に進んでいたからです。
問題点はあるか?
──内部昇進によって株主(資本家)の影響が低くなりすぎる
という因果関係よりは,株主(資本家)の影響が低くなりすぎる
ということによって内部昇進が常態化するという因果関係の方が本質的だと思います。で,問題点ですが,要するに,私的所有者によるチェックが十分に効いていない状態ですから,条件次第では,労働者共同体による会社財産の食いつぶしに帰結することがありえます。
専門的経営者が組織しているのは会社内の労働組織という機能だけだということか?
タテマエ上は,その通りです。経営者が組織するのは企業組織,会社を構成するのは株主というのがタテマエです。
会社の中に企業があるということか?
──正確ではありませんが,そういうイメージでいいと思います。会社が所有する生産手段と貨幣とを使って,実際に事業を運営しているのが企業です。したがって,事業体としての企業を所有しているのも会社です。
形式的には,日本の場合には,公開株式会社の代表取締役は取締役会で選任され,取締役は株主総会で選任されます。で,代表権(および代表取締役)については,各国で制度的な相違があります。いずれにせよ,どの国でも,株主総会が最終的な意志決定を行うというタテマエになります。
さて,代表取締役に限らず,取締役を解任する際には,株主総会での決議が必要です。こういうわけで,株主が代表を辞めさせたりしたこと
は普通にあるというか,取締役を解任するためには株主総会を開いたという形式が必要です。
(注1)ただし,このような最も素朴な形態を考えても,偶然的には,資本家が資本機能を専門的経営者(番頭さん)に委譲するということはありえます。その場合に,資本家はもはや機能資本家ではなくなり(と言うのも,自ら生産・流通における資本機能を担っていないわけですから),単なる貨幣資本家になります。この偶然的な委譲を必然化させるのが株式会社です。以上の点については,『7. 経済学と株式会社』の「個別資本内の協業における所有と機能との分離」(第6頁)と「個人企業における委譲」(第7頁)とを参照してください。