質問と回答

掛け売りと貸付との違いは何か?

形式が違います。確かに,掛け売りも貸付も信用を与えています(与信)。その限りでは,信用に基づいているという点では同じ内容を持っています。しかし,掛け売りでは,貨幣は貸付→返済という運動形式を取っていません。掛け売りでは商品譲渡の後で貨幣支払が行われますが,その場合の(つまり後払の)貨幣支払は──貨幣貸付の場合とは異なって──返済ではありません(注1)

この問題を考える際には,形式の違いと内容の違いとの両者が重要です。貸付返済という運動形式で言うと,資本主義的生産における貸付は前近代的共同体における高利貸しとも同じですし,それどころか,土地のレンタルとも,動産(一般に商品)のレンタルとさえ,同じです。しかし,内容は──すなわち社会的システムにおけるその位置付けおよび役割(または機能)は──それぞれの範疇の間で全く違っています。例えば,企業向け貸付の利子率の上限は期待利潤率によって制約されるのに対して,高利貸しの場合には収奪的な利子率になります。土地の賃貸料が利子ではなく地代と呼ばれるのは,呼び方の問題ではなく,その決定要因が異なっているからです。また,商品のレンタルの場合には,その儲けは──利子と同様にレンタル期間に応じてレンタル料が異なっていようとも──商業利潤です。

貸付は何故に私的所有の性質が薄れるのか?

薄れるというか,市場社会において形成された私的所有の純粋モデル──自己労働に基づく個人的な私的所有──が否定されています。個人資本家が別の個人資本家であるあなたに貨幣を貸付け,あなたは借り入れた貨幣によって全額他人資本で資本家として資本主義的企業を経営すると考えてみてください。

“自己労働に基づく”という正当化論拠の否定
  • 一方で,あなたは借り入れた貨幣で購買した生産手段を私的所有していますが,この私的所有は全く自己労働に基づいていません。

  • 他方では,──そしてこちらの方がはるかに重要ですが──,借り手側の資本家(貨幣資本家)は利子を取得しますが,この私的所有は全く自己労働には基づいていません。借り手側の資本家は,労働していようといまいと,そんなこととは無関係に,あらかじめ約定された利子率で利子を取得するはずです。

私的所有者のモデル,すなわち個人主義的原則の否定

生産手段の私的所有者として資本家であり,現実資本に対して自分のものに対する仕方で(私的所有者として)振る舞うことによって機能資本家として資本機能を実現しています。しかし,そもそもあなたが投資した貨幣は他人の貨幣です;自分の貨幣ではありません。

3. 貸付資本の成立の〕A. に並べられている掛売は無利子を前提としているのか? 貸付という形を取らなくても割り引いて期間分の利子を付けているのであればBのような区別には馴染まないように思う。それともA,Bが前提している「貸付」全体は別のものなのか?
貸付は同じか?

貸付はAでもBでも同じものです。

掛売と利子:理論的把握

理論的には,掛売は無利子という前提から出発しなければなりません。言い換えると,現金価格と掛売価格とは同じであるということから出発しなければなりません。その理由は,講義で述べたように,貸付とは全く別に,単純商品流通での事情で掛売が始まるからです。要するに,掛けの売り手の方は,現金売りと掛売りとを比較して利子付きで売るために──儲けるために──掛売りを選択するのではありません;そうではなく,みんなが掛売りをしている(相互に信用を与え合っている)場合に契約を成立させて売上を確定するために──商品を使用価値として実現し,また支払約束という形でその価格を実現するために,要するに商品を販売して未来の貨幣に転化させておくために──掛け売りするからです。換言すると,たとえ利子が付かなくても,つまりたとえ現金売買の場合と同じく正価で販売するとしても,この掛け売りは,売り手にとっては,利子獲得とは別のメリット──売上の確保(および商品在庫関連費用の削減)──を持つのであって,したがって無意味にならないわけです

信用が成立しているからこそ(そして生産者間で相互に信用を与え合っているからこそ),正価以上のプレミアムを付けなくても掛け売りが無意味にならないのです。換言すると,確実に将来,支払われる限りで,掛け売りは売り手にとってメリットがあるのです。逆に,もし信用が欠如しているならば,──利子ではないのですが──,リスクプレミアムを付けて売らないと,掛け売りは見合わないでしょう。そしてまた,市場が発達すると,そのような信用を必然的にもたらすような客観的な基盤──商品生産者たちの生産関係──が形成されるということは,講義で見た通りです。

そして,どの生産者間でも相互的に掛けで売るようになると想定することができます。この場合の支払期日が何日後になるのか,社会全体で均等化する法則はありません。敢えて言うならば,生産期間・販売期間で異なってくるから,産業部面ごとに基準が異なると言えます。そしてまた,商業手形を振り出すようになると,講義で述べたような,“原料の掛けの買い手が支払期日に自分の商品の売上代金を入手する”などという異常にリスキーな例ではなく,支払期日までに売上代金を入手すればいいというのが原則になります。

さて,理論的な出発点は単純商品流通でいいとして,資本主義的生産が発展していくと,講義で述べたように,利子のコスト化(専門的には,利子と企業利得とへの利潤の質的分割と言います)が生じ,どの貨幣も貨幣資本として利子を生むべきものになります。そうすると,あなたが言うように,支払期日までの期間の違いに応じて,プレミアムに違いが出る(現金価格においてプレミアムがゼロになる)べきだということになります。

しかし,そのような“利子”が貨幣貸付による利子──特殊的資本としての貸付資本の価格──かと言うと,それは違うと思います。一般に,期間が違う商品の販売では利子が価格の基準になりますが,それは現実的に貨幣を貸し付けているわけではありません。例えば,このような掛売から割賦販売(分割販売)→時間決め販売(リース販売)と販売方法が形式的に発展していくと思われます。ここでは月賦販売を考えてみましょう。6ヶ月払いと24ヶ月払いとでは当然に24ヶ月払いの販売価格の方が高くなり,その価格差の基準になるのが利子率(+純粋な流通費用(注2))です。しかし,売り手の方は24ヶ月払いで売ったからと言って,貨幣を貸し付けて利子を獲得したわけではありません。それで儲かった場合に,儲けの部分は,たとえ利子と量的に同じであっても,──他社商品を月賦販売した場合にはもちろん,自社商品を月賦販売した場合にさえ──,商業利潤であって,要するに,販売から生じる利潤であると考えるべきでしょう。それは,24ヶ月払いにするということによって,もし6ヶ月払いならば売れなかったであろう商品を売ることができ,それを通じて,単位商品量あたりの流通費用を削減した(注3)のであり,削減されたこの流通費用が利子と量的には等しい(かもしれない)商業利潤の社会的実体です。要するに,この割賦販売業者は,24回払いに必要な余分な流通費用(貨幣取扱費用等)を負担して,24回払いにすることで可能になった流通費用(商品在庫関連費用等)の減少を達成し,その分を商業利潤として儲けているわけです。

これと全く同じことが掛売の場合にもあてはまります。すなわち,支払期間の相違に応じてのプレミアムの違い,したがって価格差は,──もしあるならば──,貸付における貨幣資本の価格である利子ではなく,流通費用(注4)の違いに基づくプレミアムだと思います。

掛売と利子:現実的状況

現実的にも,売り手が買い手に比較的に長期の信用を与える場合には,利子付きの掛売価格で売る(現金価格と掛売価格とが異なる)ということはありえます(注5)もっとも,単なる掛売では支払期日までの期間がかなり短期間(月末支払等)ですから,利子を取る必然性がありません。しかし,実際には,企業間での掛売では,多くの場合に,手形の振出によって掛け買いが行われます。そして,その場合には,支払期日までの期間が,より長期間,すなわち2~3ヶ月が基本になるでしょう。

ただし,現実問題としては,同じ業界に属する多くの企業が掛けで買う限り(つまり現金で買う企業と掛けで買う企業とが並立していない限り),なかなか利子付きの掛売価格が原則(正価)にはならないのではないでしょうか? と言うのも,第一に掛売が慣習化している(互いに掛けで売っている)からであり,第二に,──こちらの方がはるかに重要ですが──,掛けで売ることによって,もしこの商品が掛けで売れなかったら売れ残りが商品在庫になって余分にかかっていたであろう流通費用が節約されているからです(注6)

むしろ,銀行制度下では,もし掛けで売って手形を受け取った場合にすぐに現金化する必要があるならば,銀行あるいは割引業者で手形割引を受けるでしょう。その場合には,売り手の方が正価以下の代金を入手することになります。

社会的労働は私的所有の集まりか?

いいえ,私的所有をいくら集めても社会的労働にはなりません。そもそも所有は労働の一契機──すべてのものを自分の対象として位置付ける契機,そして自覚的な社会を形成する契機──が労働から独立化したものです。しかし,現代市場社会では,労働と所有とは,絶対的に分離しており,そして分離しているからこそ,直接的に統一されています。分離しているから統一されているというのはなぞなぞのような言い方に思えるかもしれませんが,要するに,労働と所有とは全然別の場面で別物として実現されているからこそ,労働が所有の正当化事由として位置付けられるわけです;原因(労働)と結果(所有)とがあっちとこっちに分かれているからこそ,“ほんとに労働が原因なのか? 原因と結果とは食い違ってるんじゃないか?”なんてことを考えずに労働を所有の原因とみなすことができるわけです。

講義で言ったのは,あなたの疑問に即して言うと,こういうことです:私的所有は(市場にマッチした)個人主義的な枠組みなのに,労働は資本主義的営利企業のもとで組織的に(非市場的組織において)行われているわけです。そこで,両者(私的所有と社会的労働と)はもうミスマッチになってしまっているのです。ところが,“ミスマッチになったから捨てちゃえ”という訳にはいかないのです。と言うのも,金儲けは市場を利用するしかない;いくら生産において巨大な富が生まれても,それを市場で売らなければ金儲けは実現されないのですから。そこで,私的所有を──完全に捨て去るんじゃなくて──骨抜きにする形態が銀行制度や株式会社です。こうして,集められないはずの私的所有が集まってています。それじゃめでたしめでたしかと言うと,そんなことはなく,骨抜きにした(内容を取っ替えて形式だけ残そうとした)ということから新たな問題が生じます。内容と形式とは本来,一体のものですから,そんな上手い方法はないのです。でも,他の社会形態とは違って,資本主義は頑張っちゃいます。そして,頑張れば頑張るほどドツボにはまっていきます。それがこの政治経済学2のテーマです。

社会的労働は量的無制限とあるが,個人の労働にも限界があると思うので,社会的労働が個人の労働の集積だとすると,社会的労働にも量的な制限があると思うが?
社会的労働

あなたが言うとおり,一定の時点,一定の空間を前提すれば,全体として必ず社会的労働には限界があります。単純に言って,労働力人口と標準労働時間とが量的上限になります(注7)。ただ,この量的上限以下であれば,いくらでも増えることができるのです。

もともと個人の場合に,より大きな目的に対して,労働を柔軟に増やすことができます。プロジェクトに対してこれだけの投入労働が必要だという時に,人数さえ増やせばいくらでも労働量を増やすことができます。そもそも労働はいくらでもくっつくのですから。

私的所有

これに対して,私的所有は個人の枠組みを前提している限りでは──そしてまさに,そもそも私的所有というものは個人の枠組みを前提するのですが──,私的個人の限界があるわけです。例えば,100億円が必要なプロジェクトがあるとして,100億円があれば,労働の方は柔軟にくっつくでしょう。何故ならば,もともと労働は社会的な枠組みを持っている(注8)からです。しかし,もし私が10億円しか持っていなければ,このプロジェクトを私は達成することができません。何故に達成できないのか?──労働が増えることができなかったからではありません。そうではなく,私という私的所有者が10億円しか私的に所有していなかったからです。

こういうわけで,社会的労働の方は,否定されることなく,量的に増えることができます。これに対して,私的所有の方は,その核心である個人主義的原理が否定されることなくしては,私的個人の枠を越えて量的に増えることができないわけです。

銀行業者と形式的に似ている高利貸しは信用の欠如を基礎としており,銀行制度と反対の部分で,信用の欠如とはどういうことなのか? 金の貸借だけ見れば似ていると思うが,具体的にどう違うのか?

「貸付資本の歴史的意義」のスライドで説明します。ここでは,少しだけコメントしておきます

金の貸借だけ見れば似ている──全くその通りです。似ているどころか,貸借という形式は,どちらでも全く同じです。形式的に見て,高利貸しも銀行も金を利子付きで貸しているのであって,その限りでは,全く同じことをしています。従って,違っているのは“信用”という内容(システムにおける位置付けの違い,同じ貸借という形式が果たす実際の経済的機能の違い)だけです。

さて,前近代的共同体の高利貸しは何故に“高利”貸しなのでしょうか?

貨幣供給

貨幣供給という点から見ると,社会全体が市場化されていないということ(つまり商品経済の未発達)のせいで,追加的貨幣供給(貸付可能な貨幣)が足りないからです。

貨幣需要

こっちの方が重要で本質的です。貨幣需要という点から見ると,借り手に信用が足りないからです。これが「信用の欠如」です。

貸し手側の行動

例えば,そもそも商品生産を業として営んでいない百姓,あるいは殿様(藩),あるいは消費者としての町民,──この人たちは資本主義的営利企業のように,大量の労働者を雇用して,定期的に利潤を伴って収益を上げるような経済主体ではありません。貸す側は,はなから貸倒リスクを当たり前のものとして考慮に入れます(元本の返済を信用していません)。それならば,担保の巻き上げを最終的な結果として見据えて,できるだけフローの利子収益を高めるしかありません。むしろ,利子を取れるだけ取って返済不能に追いやり担保(年貢米,物産,土地,人身など)を巻き上げればいいのです。

こういう収奪的な行動を取るのは,別に高利貸しが悪人だからではありません。悪人だから高利貸しになるのはなく,高利貸しだから悪人になるのです。要するに,市場の未発達という,前近代的共同体の客観的な環境(突き詰めて言うと生産関係)がこれ以外の貸付ビジネスを許さないわけです。高利貸しはいわゆる機会主義的な行動をとっただけであって,こういうビジネスチャンスが高利貸しの目の前にあり,また貸付についてはこういうビジネスチャンスしかなかったのです。

借り手側の行動

借り手には資本主義的営利企業の期待利潤率のような利子率の上限もありません。したがって,合理的な借入需要(これ以上の利子率なら借りない,これ以下の利子率なら借りる)を形成することができません。

物権と債権の確立が経済的・法律的分離を引き起こすという部分が分からない。法律的とは?

法律的所有と経済的所有との所有の分離ですね。スライドでは,引き起こすのではなく,基礎になると書かれていますね。しかし,この書き方でもちょっと曖昧であったかもしれません。詳しくは「法律的所有と経済的所有との対立」のスライドでこれから見ていくことになります。ここでは少しだけコメントしておきます。

ぶっちゃけ,「法律的」とか「経済的」とかという言葉そのものに重大な意味があるわけではありません(注9)。問題はそれが指している内容です。

すでに市場における単純商品流通の枠内で,商品交換の諸契機の分離(注10)に応じて所有権の諸契機の分離が生じています。資本主義的生産もその発展に応じて自分の諸契機を分離していきます。その際に,ここでは,上記の単純商品流通における諸契機の分離を形態的基礎にして,資本主義的生産の実体的発展を実現しているわけです。要するに,貸付資本の形成においては,単純商品流通において発生した所有権の分離を展開することによって,資本主義的生産は私的所有の制限──自然人としての私的所有者による制約──を克服しているわけです。

全体の流れとしては,こんな感じだと思います:

  1. 資本の二契機の分離(資本所有と資本機能との分離)[物件の諸契機]
  2. 資本運動そのものの二重化(貨幣資本の貸付―返済運動と現実資本の投下―回収運動)[物件運動または物件そのもの]
  3. 資本家の分離(貨幣資本家と機能資本家との分離)[人格的主体または人格そのもの]
  4. 資本所有の分離(法律的所有と経済的所有との分離)[物件に対する人格の関係]

以下,ところどころ省きながら,必要な箇所だけ説明します。

ここでは全額借入資本で企業を経営する資本家──機能資本家と呼びます──を想定しています。資本は,自己資本だろうと借入資本だろうと,この機能資本家の手の中で“貨幣(投資金)―生産(生産手段と労働力)―商品(生産物)―貨幣(収益金)”という一連の姿態を取り替える運動をとります。他方で,貸し手の資本家──貨幣資本家と呼びます──の手の中で同じ資本が“貨幣(貸付金)―貨幣(返済金)”という運動を取ります。こうして,同じ資本が二重化しています。

“貨幣(投資金)”の所有権は貨幣資本家である貸し手が持っています。機能資本家は他人の貨幣,他人の私的所有物を投資するわけです。そして,実際には,借り手は“貨幣(リターン)”の中から,利子付きで返済します。したがって,貨幣資本家は,貸し付けた貨幣資本を通じてこの一連の運動に対して所有権を失ってはいません。貨幣資本の貸付―返済という運動はこの貨幣資本家の資本の(この貨幣資本家が私的所有する資本の)運動です。機能資本家の場合にも貨幣資本家の場合にもその他の資本家の場合にも,資本運動(物件の運動)こそが資本家を資本家(という一定の人格)たらしめるわけです。この所有権を貨幣資本家は債権という形で持っているわけです。こうして,貸し手(貨幣資本家)こそが資本の所有者として現れます。貨幣資本家が私的所有する貨幣が資本として機能したわけです。このことを以て,貨幣資本に対する貨幣資本家の所有のことを法律的所有と呼んでいます。法律的所有というのは,ここでは,“資本として機能しているのは,そもそも貸付という経済的行為があろうとあるまいと(それどころか,そもそも資本として機能しようとしまいと)貨幣資本家にとって自分のもの(Eigen–tum(独)),つまり所有物である貨幣だ”というくらいの意味だと考えてください。

しかし,だからと言って,借り手(機能資本家)が無所有者になっているわけではありません。他人の貨幣,他人の所有物を使おうとも,機能資本家は自分のものに対する仕方で一連の資本の姿態に対して関係しており,そのようなものとして社会的にも承認されます。貨幣はあらゆる商品に変換されうる価値の塊であって,貨幣としては具体的な使用価値を持たず,もともと貨幣として役立つという使用価値,いまや資本として役立つ(平均的な利潤を生むと期待することができる)という使用価値をもっています。そこで,機能資本家はこの貨幣を投資するのですが,当然ながら,借りた貨幣は投資した時に使ってしまったわけであり,貨幣資本家に返す貨幣は投資した時に持っていた貨幣とはまるで別物です(いわゆる消費貸借とはそういうものです)。貨幣に具体的な使用価値はないのですから,貨幣資本家にとってもどの貨幣片でも同じであって,重要なのは量(つまり金額)だけです。要するに,機能資本家は他人の貨幣,他人の所有物に対して,わがものとして,自分の所有物に対する仕方で関係した(振る舞った)わけです(注11)。ましてや,機能資本家が自分の意志でこの貨幣で購買した生産手段については,貨幣資本家とはなんの関係もないような,機能資本家自身の所有物です。こうして,貨幣資本運動から分離した現実資本運動の媒介において,機能資本家は物権という形で私的所有権を持っています。このことを以て,現実資本に対する機能資本家の所有のことを経済的所有と呼んでいます。経済的所有というのは,ここでは,“機能資本家にとっては他人のもの,つまり非所有物である貨幣が,貸付と投資という経済的行為を通じて,事実上,機能資本家の所有物になっている”というくらいの意味だと考えてください


  1. (注1)ちなみに,私のこのような説は必ずしも多数説ではありません。掛売あるいは「商業信用」を,──この講義とは異なって──,商品の貸付と解釈する説や,事実上の貨幣貸付と解釈する説もあり,それらの方がむしろ多数だと思います。しかし,私は,これらの説は,そもそも貸付が販売の一形態であるということ,つまり貸付というのは経済的内容に関わりない純粋に形式的な問題だということを無視していると考えています。

    重要なのは貨幣の貸付だということであって,講義で強調しているように,貨幣の貸付としては,全く異なる生産関係に属している,前近代的共同体における高利貸しも,現代社会における銀行による企業向け貸し付けも,現代社会におけるノンバンクによる消費者向け貸付も,すべて同じものです。どの販売形態においても,貨幣が貸付―返済という運動を取り,その価格として利子が生まれます。

    そして,そもそも販売という形式は,現代資本主義社会の市場でも,中世の市場でも,──内容の,つまり生産関係の根本的な違いにもかかわらず──,基本的に同じものです。現代の資本主義的な市場社会の内部でも,資本主義的営利企業による商品販売,自営業者による商品販売,労働者による労働力販売などは,それぞれ内容を異にするのにもかかわらず,形式的には全く同じです。

  2. (注2)純粋な流通費用について補足しておくと,直接支払だろうと銀行振込だろうとも,一般に支払回数が多い方が貨幣取扱手数料が増えます。これは利子率とは無関係です。

  3. (注3)削減された流通費用の中心は商品在庫の管理費用です。ただし,もし売れ残った商品が在庫されずに破棄されるならば,その分が流通費用になります。

  4. (注4)この流通費用の中には,リスクプレミアム,その期間現金を使えないと言うことから生じる逸失利益あるいは機会費用が含まれるでしょう。そして,利子のコスト化が生じている限り,量的には,その算定の基準になるのは利子率でしょう。しかし,それは月賦販売の場合と全く同じです。

  5. (注5)あるいは,掛売価格を正価とした場合に,即金払いについては利子分だけ割り引くといことも可能です。もっとも,即金払いと言っても,企業間での大口決済は通常,現金では行われませんから,短期間での銀行口座振込ということになるでしょう。

  6. (注6)ここではあくまでも企業間売買を想定しているから,またここでは銀行を含む手形割引業者以外の金融業者の仲介を想定していないから,適切な例ではありませんが,日本やアメリカで,企業(あるいは自営業者)と消費者との間での売買において,企業(あるいは自営業者)側がカード会社に手数料を支払ってもカードを利用した支払を受け付けているということを想起してください。この場合には,カード会社──会員取扱を行うイシュア(カード発行業者)と加盟店取扱を行うアクワイアラと両者にブランドをライセンスするだけの業者とに分かれることがありえます──によって媒介されますが,結局のところ,加盟店には後日一括払いの後払がなされることになります。要するに,加盟店は,後払なのに利子を受け取るどころか逆に手数料を割り引かれています。しかし,それでも加盟店にはカード会社に加盟するメリットがあるわけです。

  7. (注7)もちろん,標準労働時間以上に労働時間を延長することができますが,それもまた,物理的時間の壁(1日24時間)に阻まれます。

  8. (注8)労働が社会的な枠組みを持っているというのは,技術的な観点からです。もちろん,実際には,労働力人口の逼迫とか,技能のミスマッチとかによっても,どれだけ柔軟に労働が増加しうるかは制約されます。

  9. (注9)「法律的」という言葉は誤解を招きやすいかもしれません。ちょっとややこしいことに,この講義に限らず多くの社会科学においては,「所有」はproperty(英);Eigentum(独)の訳語,「私的所有」はprivate property(英);Privateigentum(独)の訳語,「所有権」はproperty right(英);Eigentumsrecht(独)の訳語です。これに対して,法律(民法)用語ではここで訳している「所有」は「財産」と訳されることが多いと思います(法律用語では「所有」には別の原語が対応しています)。法学の議論とその他の社会科学における所有の議論とを比較する際には,この点に注意してください。

  10. (注10)商品交換の諸契機の分離とは,一般的に言うと使用価値としての実現と価値としての実現との分離のことであり,特にこのコンテキストで言うとその特殊的形態としての商品譲渡と貨幣支払との時間的分離のことです。

  11. (注11)これが全額借入資本で企業を経営する機能資本家と株式会社の非株主の専門的経営者との決定的な違いになります。このような機能資本家が資本の私的所有者であるのに対して,このような専門的経営者は会社資産に対しては無所有者です。