1. 信用と信頼,掛売と貸付

信用できる情報量が少ない初回の掛け買い〔売り?〕はどのように相手を信用しているか? 掛け売りは信用で成立しているけれど,最初から信用があったわけではないと思う。最初の信用がないところから商売を始めるには,信用のいらない消費者金融に行くしかないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

信用は過去の実績で成立します。しかしまた,それを前提にすると,もし将来の業績予測について合理的な期待が成立するならば,それはやはり,個人の人柄への信頼ではなく,客観的な関係,つまり信用が成立しています。

現代社会ならば,法人企業については,財務諸表が公開されています。新設の会社の場合には,実績がないので,純粋に自己の信用だけで掛け買いするのは難しいかもしれませんね。こういう場合には,十分な信用は成立していないのですから,担保物件等が必要かもしれません。

そもそも商売を始めるとなると,イニシャルコストが必要でしょう。この場合にも,十分な信用は成立していません。この場合には,自己資金を蓄積するというのが常識でしょう。

とは言っても,純粋に人柄への信頼だけではどうにもならないので,事業案を納得してもらって(要するに過去の実績ではなく,未来の業績予測を信用してもらって)銀行から長期資金を借りるか,アイデアが優れているならばベンチャーキャピタルに投資してもらうか,等が選択肢でしょう。なお,消費者金融が貸し出すのは少額貨幣であって,巨額のイニシャルコストではありません。

授業内では,信用を客観的,信頼を主観的なものと定義づけていたが,信頼とは片方(ex. お金を貸す側)のみの判断で成立するということでいいのか? 相手側のことは関係無しに判断して良いのか? 「信用」と「信頼」についてだが,〔……〕私は意味的には同じで,そのあとに続く「する」か「される」かの違いのように感じた。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

客観的な信用が相手の物件(営業)あってのことであるのと同様に,主観的な信頼も相手の人格(人柄)あってのことです。また,主観的な信頼が信頼する側の判断であるのと同様に,客観的な信用も信用を与える側(与信側)の判断です。従って,相互性/一方性という観点からは,この講義は信頼と信用とを区別していません。

なぜ高利貸しも信用の欠如に含まれるのか? 高利貸しは信用していないといっていたが,お金を貸す時点で信用は発生しているのではないか? 貸付に信用を無くすという概念がどういったものか理解できなかった。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

前近代な的高利貸しの場合には,一般的に,消費者・非商品生産者向けの貸付であって,返済を信用するというビジネスモデルに立っていないからです。つまり,返せなくなるまで高利を搾り取り,返せなくなったら担保を巻き上げるというビジネスモデルに立っているからです。そもそも返済できないと考えている,つまり返済を信用していないからこそ,このようなビジネスモデルになるのです。

現代においても,消費者むけの金融はしばしばこれに近くなります。例えば,アメリカでは,サブプライム危機の時に,かなりの部分のサブプライムローンが略奪的貸付(pledatory lending)だと呼ばれました。要するに,変動利子率でできるとこまで利子をぶんどりながら,いざ返せなくなると,全般的な土地バブルによって価格上昇した担保資産(要するに土地建物)を巻き上げるというビジネスモデルだったからです(実際には無担保のサブプライムローンも相当にありましたが)。

掛け売りをした企業は掛け買いをした企業に対して貸倒引当金を充てていたと思う。これは相手企業がかけを支払えずに倒産してしまった場合を想定している。貸倒引当金を充てること自体,相手の支払能力を信用していないことになるのではないか?

税務のことは無視しても,売掛金や受取手形の全額を貸倒引当金に計上しているようなギャンブラーな会社はないでしょう。貸倒はあくまでも貸倒損失であって,掛けで売った企業にとってはあってはならないことです。貸倒を期待(この場合の期待とは期待値の期待のこと)して掛けで売る企業はありません。あくまでも支払うことを信用して掛けで売っているのです。そこで,それでも生じてしまうかもしれない分(売り掛け金のほんの数パーセント)について貸倒引当金を計上しているわけです(この場合には貸倒引当金を超える貸倒金が貸倒損失になります)。その場合にも貸倒がない方がいいに決まっています。

貸倒引当金の計上は,講義に即して言うと,ストックの資産状況を調べて担保を取る,代物弁済に備えるというのと同じ意義を持っています。講義に即して言うと,買い手の資産状況を調べたり,担保を取ったりするのは当然のことですが,しかし,代物弁済を期待して掛けで売るのはもはや信用売りではないわけです。信用売りである限りでは,相手が支払うということを信用していなければならないわけです。

これは前近代の高利貸しなんかとは全く状況を異にします。高利貸しなんかは,“元本貸倒になっても仕方がない”,いやそれどころか“元本貸倒になるにちがいない”という前提の上で,だからこそ高利をとって,担保を設定して,貸し付けるわけです。

信用には必ず信用リスクがあります。そして,現代社会の信用制度の場合にも,この信用リスクが社会の隅々に拡散して,一度爆発したらなかなか収拾することができないということを,われわれは昔から,そして近年でもサブプライム危機・リーマンショックで見てきました。その意味では,なるほど,現代社会の信用制度も実は不信の制度だと呼ぶことはできます。しかし,そのことは,高利貸しと,信用に基づく企業間での掛け売り,および企業間での(金融機関を媒介にした)設備投資資金の長期貸付とを同一視することにはなりません。高利貸しの場合には,そもそも最初から信用が不在なのです。これに対して,現代的な信用システムの場合には,システムはあくまでも信用に基づいて形成されているわけです。ただし信用システムの拡大とともに信用のシステミックなリスクも拡大するわけです。高利貸しの場合には,最初から担保を巻き上げるつもりであって,貸倒は期待の範囲内なのです。これに対して,現代の信用システムの場合には,貸倒も担保の巻き上げも失敗なのです。

今でこそ財務表,損益計算書を見て客観的に判断した上で掛けが成立するが,不適切であったり,判断の材料に至らない場合は,主観的人柄等に切り替わるのか? そうなると,信頼信用があるのであって,対立するものではないのか?

この講義の定義では,信頼信用ではなく,信頼信用=です。つまり,不適切であったり,判断の材料に至らないから主観的人柄等に切り替わる場合には,信用がなくなった,もはや信用売りとは言えないと解釈します。

現実的には,たとえ信用という実質がなくても,形式上,信用売りと呼ばれると思います。しかし,理論的には,こういう《信用がないような信用売り》から信用のシステムを構築することはできません。

掛け売買による取引が小売貸しによるお金の貸し借りよりも利益が出るため発達したということか? 信用システムあっての掛け売り,掛け買いが存在すると言うことだが,その信用が100%である保証っていうのはあるのか? またその掛け売りによる信用があるならば,そのリスクがある分金額設定なり利子や付加価値というものは付いてくるのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

小売貸しというのはリテールの貸付のことだと解釈します。で,回答としては,ちょっと違います。掛け売買というのは通常の売上から区別されるような特別の利益なんか出なくても必要なものなのです。すなわち,業として商品生産を営む業者にとって,購買の時点と販売の時点とが異なっているということから必要なのです。ですから,資本主義的生産が生まれる遙か昔から,市場が生まれて,業として商品生産を営むような自営業者が増えるのと同時に,掛け売買のシステム(掛け売買をして,債権債務関係を社会的に相殺するシステム)はかなり高度に発達したのです。

信用が100%である保証っていうのはあるのか?──もちろんありません。ないからこそ,物件的な担保を取ったり,人格的な連帯保証人を要求したり,共済制度に入ったり,引当金を積み立てたり,また手形で受け取った場合には廻さずにすぐに銀行に割り引かせたりするわけです。ただ,掛け売りの場合には,支払不可能だという前提で売るわけでは決してありません。100%ではないにせよ,支払う信用が高いからこそ,掛けで売るわけです。支払不可能だということを期待(注1)して掛けで売るわけではないのです。支払うことを期待して掛けで売るわけです。

なお,掛売が利子を前提しないという点については,以下を参考にしてください。

これに対して,消費者むけの貸付は利益が出なければなりません。むしろ,前近代においては,遠隔地商業と並んで高利貸が資本の運動場面(カネモウケの場面)でした。

信用と信頼の違いの概念はこの授業での考え方なのか? それとも普通の世界でも通用する考え方なのか? “信用”という言葉は経済的用語としてよく使われるが,経済的ではない主観が含まれる信頼という言葉は我々の勉強する経済で使われることはないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

信用と信頼とを区別するのは,割とありきたりです。ただし,何を以て区別するのかについては,この講義の基準は,決してこの講義だけの基準ではなく他の人も行っている基準なのですが,一般的ではないと思います(注2)

両者の区別を別にして,信用そのものについていうならば,それを明確に意識しているのかどうかは別にして,経済的に述べられている信用というのは客観的な関係を意味しています。信用システム,信用売り,信用取引,信用リスク──これらの用語で用いられている「信用」がこの講義で言う「信頼」の意味ではないということは自明のことだと思います。

資本主義社会の元での企業向け貸付とあったが,資本主義社会の下では貨幣返済に対する信用が大事であるということを強調しているのか?

前近代的共同体の下での消費者・非商品生産者向けの貸付が信用に基づいていなかったのに対して,現代資本主義社会での企業向け設備投資資金貸付は信用に基づいているということを強調しています。両者がやっていることは形式上は全く同じことです──すなわち,貨幣を利子付きで貸し付けています。しかし,その内容(つまり経済的な基盤,もっと言うと生産関係)は全く違うと言うことです。

今日の講義では銀行と企業間での信用について話していたが,〔……ノンバンクの消費者向け〕金貸し業の会社との違いはなんなのか?

わかりやすいところでは,貸出先と貸出量と貸出利子率です。この講義の理論的観点でやや乱暴に言うと,信用に基づいているかどうかです。もちろん,ノンバンクも信用調査をして貸し出す場合には,それなりに信用に基づいているとは言えますが,それにしては利子率が高すぎます。典型的には,貸出先は,銀行の場合には企業向け設備投資資金の長期貸付であるのに対して,ノンバンクの場合には主として消費者向け生活資金の貸付でしょうし,企業向けならばイニシャルコストではなくランニングコストを捻出するためのつなぎ資金の貸し付けでしょう。

このような,典型的な違いについては,後日,統計数値を出して,説明します。

信用の意義とは将来の利益の先取りという認識でよいのか?

将来の支払に対する信用です。

掛け売買について言うと,掛けの売り手が手形を受け取る場合には,この手形は将来の支払手段の先取りになります(手形が廻される場合には,それぞれの被裏書人はやはり将来の支払手段を先取りしていることになります)。

第一には掛け売買についての必然的に生じる支払の時間的なズレを,補うための存在としての「信用」であり,そのあとに,クレジットのような,(企業の)返済時に生じる時間的なズレに対する保証としての「信用」について考えればいいということか?

信用(クレジット)としてはどちらも全く同じなのです。両者の違いは信用の違いではありません。ですから,信用としては両者を一体に考えてください。売買の形態としては,商品を後払で売る(企業間での)掛売と,貨幣の一定期間の使用権を利子付きで売る(企業向け設備投資資金の長期)貸付とでは異なります。前者は通常の商品販売であり,後者は貨幣貸付です。しかし,信用の内容としては両者は全く同じなのであって,これが前近代的な高利貸しなんかとの違いになってくるわけです。

信用と信頼については少し難しかったのだが,あまり詳しくは扱わないのか?

扱いません。現代の資本主義的な市場社会においては,経済的には,信用だけしか問題にならないので。

信用は感情抜きで貨幣の支払や返済の数値が一致しているかの積み重ねでつくられるもので,信頼は「この人であれば恐らく貨幣の支払をしてくれるであろう」という予測の下,不確実なままできあがるものという区別で合っているか?

結果的にはそういうことになると思います。不確実性は(つまり貸倒リスクは),どちらもあるのです。ただ,当然に貸倒の蓋然性は信用に基づいている場合の方が少なくなります。

近代での貸付に信用は必ずあるものという概念になるようになったのか疑問に感じた。

現代社会の企業間での貸付ですね(実際には金融機関が媒介する)。後でもっと詳しく見ます。

支払と返済の違いがイマイチわからない。貸付は金銭の支払いと表すのは誤りになるのか?

誤りにはなりません。返済は,借りた貨幣(元本)の支払であって,これに利子の支払いが加わります。掛売の場合の貨幣の支払でも貸付の場合の貨幣の返済でも,貨幣は支払手段として機能しています。つまり,《支払返済》です。返済は支払の特殊的な形態だということができます。

それじゃどういう点で特殊的なのかというと,掛売の場合には貨幣を貸していないし,従って貨幣を返してもらうわけではありません。掛売の場合に,売り手が「はいお金」と言って買い手に貨幣を渡すわけではありません。掛売の場合にも貸付の場合と同様に,代金支払が行われなければ貸倒と言うじゃないかと思われるかもしれませんが,実際には掛売の場合には売り手は一銭も貨幣を貸してはいないわけです。それはあくまでも現在行われるべき支払の猶予です。

貸付の場合と掛売とは,原則的に,全く異なる動機で行われます。貸付は利子を稼ぐために貨幣を貸すのです。掛売は商品を販売する(売上を確定する)ために代金支払を猶予するのです。

掛け売りできるにたる信用を持つ取引相手がいない場合,生産ラインをストップするしかないと思うが,そうならないようにするために多少信用にかけていても取引をおこなった方がいいのか?

それは具体的なビジネスジャッジメントになるのでなんとも言えません。

で,補足としては,支払手段がなくて生産ラインをストップするというのは,通常は掛けの売り手ではなく買い手の事情ですが,手形を受け取る場合には売り手がその手形を銀行に割り引かせたり,廻したりする場合には,掛けの売り手の事情になりますね。

信用の形態の一つとして銀行による企業向けの貸付があったが,銀行がおこなうそこまで高利ではない個人的な貸付は信用の形態であると言えるのか?

銀行の企業向け設備投資資金の長期貸し付けと略奪的貸付との間には様々な中間形態があります。つまり,どっちとも言える形態です。

これを前提にして言うと,利子率から判断すると,どちらかと言うと,住宅ローンは信用に基づいていると言えるし,消費者向け短期貸付は信用が足りないと言えるでしょう。

後払は信用の存在,前払いは信用の欠如というスライドがあったが,前払をすることによって割引されるシステムが導入されていることもあるので,必ずしも信用だけによって決められるものではないのではないか?

映画の前売りなんかの場合のように,財貨・サービスの販売の直前ではなく,比較的に前から売られているとすると, 割引されるシステムが導入されている場合には,売り手ではなく,買い手が信用を与えていると言っていいと思います。ただし,この場合の信用は,この講義で想定しているような,貨幣支払・返済に対する信用──売買に即して言うと,売り手が買い手に与える信用──ではありません。商品譲渡に対する信用です。このような信用からは現代社会の信用システムは生まれません。

信用を買うということは副次的と言うことか?でも一般的にも信用の売買はあると思うのだが。

えっと,今回の講義で述べた信用売買とは,信用売買するということではなく,商品を信用売買するといことです。で,講義で述べたとおり,信用売買は,およそ業として商品生産・流通を営んでいる限りでは,資本主義的営利企業はもちろんのこと自営業者でも一般的に行われるということ,従ってまた現代社会に限らず前近代でも,商品生産と市場とが発達した限りでは,かなりの程度まで発達した(一般的に行われた)ということです。

飲食店では前払いと後払とあるが,これはどちらかというと会計のしやすさや注文の数に影響しているのではと思った。

飲食店での後払は,飲食が完了した後で帰りに会計を済ませる場合には,信用買ではありません。と言うのも,買い手の方では,飲食の前後で支払手段が増えるわけではなく,またそもそも飲食店では商品の購買(価値・使用価値としての商品の実現)自体,飲食が完了した時に(つまり消費が完了した時に,換言すると商品の使用価値を実現した時に)完了するからです。

飲食店で信用と言うと,例えばツケで飲食して月末に払う場合です。この場合には,B2C(企業・消費者間)の取引であっても,信用売買が成立していると言えます。あと,消費者側から見ると,クレジットカードで買った場合にも,もし一括払ならば,翌月の支払になるので,信用買いが成立している場合もありえます。ただし,もし一括払いならば,多くの場合に消費者がクレジットカード支払で買うのは,小切手で買うのと同様に,信用で買う(支払を後払にする)ためにではなく,現金を持ち歩くリスク・コスト,その他の不便を避ける為にです(ただし,分割払やリボ払いの場合には信用で買うためという場合がほとんどでしょう)。また,店舗側から見ると,間にカード会社──カードを発行する会社(イシュアー)および加盟店に対する決済業者(アクワイアラー)──が入っており,消費者の口座から代金が引き落とされるよりもずっと前に,販売からごく短期間で支払が行われます。

有効需要の増大の効果をもちうる貸付についてもう少し具体的な説明を受けたいと思った。 有効需要の置換というのがイマイチよくわからなかった。 掛売と貸付で貸付は他の取引のためにおこなうという意味でいいのか? 掛売での信用創造の置換〔ということは私は言っていないように思うのですが……〕というのがイマイチイメージできない。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

程度の差と言えば程度の差です。

確認するまでもないと思いますが,有効需要とは,支払意志と支払能力とに裏打ちされているような,商品に対する需要のことです。例えば,私が夢の中で“スペイン当たりに城が欲しいな,ちょっとイスラム風味の入っているやつ”などと思っても,そんな需要はヨーロッパにおける城の不動産市場になんの影響をも与えません。“××の条件の城を,○○ユーロなら買う,△△ユーロなら買わない”という有効需要こそが城の不動産市場に影響を与えます。

で,掛け買いの場合には,最初に有効需要があって,すでに取引が成立しているのです。もちろん,この購買に対応する支払は,後払です。最初は,掛け買いでないと成立しないような取引もあるでしょう。しかし,やがては,企業間では,掛けで売買することが当然になります。

これに対して,貸付の場合には,最初に貸付があって,初めて取引が生じます。

と,まぁ,このように考えている限りでは,両者の違いはいまいちよく分かりません。しかし,銀行が出てくると,両者の区別は明瞭になります。銀行は商業手形(掛け買いにおいて振り出された手形)を割り引きますが,これは既存の商業信用を,自らの信用(銀行信用)で置き換えているわけです。これに対して,銀行が貸し付ける場合には,預金設定という形で新たに支払手段(この場合は預金通貨)が創り出されます。借り手はこの新たな信用と,それに対応する支払手段とを以て,商品を購買するわけです。こうして,既存の現金の量的制限を超えて,有効需要が増大することになるわけです。

掛売りと貸付の違いがよくわからなかった

えっと,掛け売りは一般商品を後払で売ることです。別に,貨幣を貸し付けたわけではありません。これに対して,貸付は貨幣を貸し付けることです。別に,一般商品を売ったりはしません。物権から債権が分かれるという法的形式では同じですが,その経済的内容は全く違っています。

2. 不労所得と格差拡大

市場社会において頑張った労働者が資本家になり,労働者と資本家が離れていくという,本来市場社会が想定していなかったとあるが,親子間の相続等で余剰を蓄積し,差が開いていくことは市場社会では想定されていたのか?

市場社会が想定していないのはそもそも資本家と賃金労働者との存在です。市場社会は私的生産者からなります。しかしまた,市場社会は商品交換の総体に過ぎません。そこで,私的生産者と言ってもその実体は問わないわけです。問わないと言うことがなにを意味するのかというと,そもそも市場社会が想定しているのは私的個人の自立ですから,そうすると資本家とか賃金労働者とかは出てこないわけです。で,これは形式上の話,つまり市場社会を表面から,交換の場から,従ってありのまま見た場合の話です。(ありのままってのは,市場社会はそもそも交換の集まりにすぎないのだから)。以上,市場社会のタテマエは,『2. 私的所有と市場社会』で述べたとおりです。

で,『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』で述べたのは,今度は,そもそも市場社会が想定していなかった資本家と労働者とを市場にぶち込んでみて,市場社会の観点からは資本主義社会がどのように現れるのか,を考えてみたわけです。個人が私的生産者として自立しているという市場社会のタテマエにもかかわらず,現実には,われわれの目の前には資本主義社会があります。そこで,市場社会そのものを純粋に考えているのではなく,市場社会のタテマエの観点からこの現実を解釈してみようというわけでした。そうすると,どの道,両者は偶然的なのだから,能力の違いはあっても,みんな頑張ると想定すれば──そして市場社会のタテマエでは頑張らない人は所有者になれず,生活していけないので,みんなそれぞれ自分の能力に応じて頑張るはずです──,たとえ一時的に資本家が現れても怠ければ没落するし,一時的に労働者が現れても頑張れば資本家になるし,ともかく,こういうのはたまたまできちゃった関係と解釈することができます。

しかし,実質的に考えると,やがては格差が拡大し,資本家と労働者とに分かれてしまうと思います。実際にまた,歴史的にはそうでした。それは,能力があるやつはますます能力が高くなるとか,頑張るやつはますます頑張るとか,運がいいやつはますます運が良くなるとか,そういうことではなく(そういうこともあるかもしれませんが,システムにとっては偶然時です),資本蓄積につれて,すでに他人労働を取得しているということがこれから他人労働を取得するということの条件になり,すでに賃金労働をしているということがこれから賃金労働をするということの条件になるからです。

それを,この講義では,『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』で,システムの必然性として,初期条件が違う(一方での資本家と他方での賃金労働者が最初からある)と格差が広がっていくだけだよ,ということを説明したわけです。

ちょっと説明が足りなくてわかりにくかったかもしれません。(1) 純粋に市場社会だけを考えた場合の話(そもそも自立した私的個人から構成されているのだという話),(2) 市場のタテマエを資本主義というわれわれの目の前にある疑いようがない現実にぶち込んだ場合の話(資本家と労働者との対立なんて消えては生まれ,生まれては消えるような偶然事だという話),そして実はこの市場のタテマエ自体が資本主義のメカニズムの中では総体としては成り立たないのだという話(資本主義のメカニズムによって,個々の偶然的な事例においては労働者が資本家に成り上がり,資本家が労働者に没落しながらも,社会全体の必然性においては,資本賃労働の生産関係はますます拡大していくのだという話),そして,(4) 講義では取り上げませんでしたが,現実の歴史ではどうなっているのかという歴史的な話──これらを区別してください。(a) タテマエ,(b) われわれの目の前にある現在の現実,(c) 過去の現実(歴史的な現実)──これらが混じり合っているので,ちょっとわかりにくいのです。そこで,この部分は試験範囲外にしてあるのです。

総従業員の賃金>資本家の利益だった場合,利益配分は公平だと思うか? またこれが成り立つ婆合い,“資本主義”とは言えないのか?

人数は関係がありません。あなたの式が示しているのは,《従業員一人あたりの賃金》>《従業員一人が生み出す利潤》と同じものです。この場合に,《剰余価値率<100%》,《労働分配率>50%》になるだけの話です。それは公平性の問題とも資本主義の問題ともあまり関係がありません。

自らの労働の成果が資本家に搾取される状況から労働者たちが抜け出すことは資本主義社会である限り不可能なのか?

もし賃金労働者たち=すべての賃金労働者ならば,当然に絶対に不可能です。賃金労働者が一人もいなくなったら,資本主義は成り立ちません。

講義でやったのは,資本主義的なシステムの内部に,そういう事態を避け,むしろ資本賃労働間での生産関係を継続させ,あまつさえ拡大していくメカニズムがあるということでした。

システムの内部にメカニズムがあるということは,もちろん,個々の賃金労働者が資本家に成り上がる可能性も,個々の資本家が労働者に没落する可能性も排除されていません。むしろ逆に,上下変動のダイナミックな運動があってはじめて全体としてのシステムが機能するわけです。システムの発展という観点からは,資本家は没落の恐怖に駆られて必死で労働者を搾取し,賃金労働者は成り上がりの希望に釣られて必死で努力する場合に,最もシステムに活気が出るはずです(注3)。没落も成り上がりもなくなると,システムは停滞し,現代的な階級社会は前近代的な身分制に転落してしまうはずです。このような,いわば古典的な資本主義的階給対立が現代株式会社体制ではどのようになっているのか(どのように実現されており,どのように変容しているのか),──それは今後に見ていくことになります。

頑張った方が資本家,怠けた方が労働者と書かれていたが,労働をしている労働者の方が怠けているというのはよくわからなかった。

えっと,これは資本主義の現実そのものではなく,市場社会の正当化事由で資本主義社会の現実を解釈したものだと考えてください。その上で言うと,市場社会における私的所有の正当化からはこうなります:現在,賃金労働者となっている者は,もちろん不運だったのもあるだろうし,能力がなかったのもあるだろうし,リスクを背負って起業する意志がなかったのもあるだろうが,そういうのをひっくるめても,過去に怠けていたから,現在,生産手段を失って(生産手段の私的所有者ではなくなって),資本家に雇われている;同様に,現在資本家となっている者は,中略,そういうのをひっくるめても,過去に頑張ってちょっとずつ貨幣を貯めてきたから,現在,自分の労働だけではなく賃金労働者を雇って充当するほどの生産手段の私的所有者になっている。

で,これはあくまでも,歴史的な背景なんかを度外視して無理矢理に市場社会の理念を資本主義社会の現実に当てはめています。現実の歴史においては,前近代的共同体から現代資本主義社会に移行する際には,多かれ少なかれ,市場のルールの下で怠けたか頑張ったかなんていうのとは全く無関係な,市場の外からの政治権力の行使が,決定的な役割を果たしています。

株式投資においては〔……〕不労所得が必要とされるフローとは,一般労働者よりも多い資本家の所得分が市場に求められているのか?

もともとは個人企業の場合には,資本家は,もし一般労働者と同じ所得しか手に入れられないのであれば,リスクを負って投資なんかしないでしょう。

あなたが問題にしている株式会社においては,この問題が一変しています。資本家=株主が負っているリスクは株券がパーになることだけです。これに対して,──株式から生じる所得には配当(インカムゲイン)と転売益(キャピタルゲイン)とがありますが,この中で本来の不労所得(持ってるだけでなんもしなくても所得が生じるという意味で)は配当なので,配当だけを問題にしますが,──現実には,個人株主の場合には,当該株式会社の配当だけで暮らせる人はそう多くはいません。その上,アメリカでは機関投資家,日本では法人投資家が大株主であり(日本でも年金基金が株式市場でのプレゼンスを高めつつあります),この場合には,株主=資本家はそもそも自然人ではありません。以上の点については,『6. 株式会社』で詳しく述べます。

今回,不労所得によって資本主義社会を強固にしているということを学んだ。これはつまり不労所得という力によって無意識的に労働者に“資本主義社会”と“資本家”という考えをムリヤリ認めさせているということでいいのか? またそういった観点で見てみると,“不労所得”の源泉は前近代的な権力(武力や主人,奴隷の関係)にあると考えてよいのか?

市場社会のタテマエは当事者たちに,(ムリヤリにではなく)ごく自然に資本主義社会を認めさせます。ただし,それは資本主義社会としてではなく,市場社会としてです。

資本主義社会の現実,したがってまた不労所得現象は,むしろ,このような市場社会のタテマエがどうも現実に合ってないぞ,と当事者たちに思い知らせます。

不労所得の増大に関しては今回の授業で触れられていた。では一度発生した不労所得は減少あるいは消失することはあるのか?

要するに,不労所得と言ってもいろいろとありますが,システムにとって必然的なのは,利潤(企業利得・地代・利子に分割される)です。景気循環において,生産要素の価格,特に賃金が急速に上昇するのにも関わらず,売上がさほど伸びなくなり,利潤の絶対額は減少していきます。

労働者が力を持ち得る(大多数が力を持ち得る)民主主義がなぜこのように資本主義を強め,維持するような働きをするのか? 自分の考えとしては民主主義社会は資本主義を押さえると同時に労働者としても資本主義がないと困るという前提の下,資本主義を護る働きをしているのではないか?

まさにそれこそが正当性のテーマです。この講義の立場で言うと,何よりも先ず,資本主義社会は,それとは正反対の市場社会として,自由・平等な私的所有者からなる社会として正当化されています(本来の正当化)。そもそも現代の民主主義社会という政治的社会そのものが,市場社会の政治的反映に過ぎません。現代の民主主義社会のルーツは,たとえば過去のアテナイの民主制にあるのではなく,現代の市場社会にあります。市場社会の,当事者同士の一対一の自覚的な社会形成原理(自由・平等な私的所有者同士の自己利得・自己責任での社会形成)を,政治的な制度化(要するに選挙)によって,全体レベルに拡張したのが現代民主主義社会です。この観点から見ると,労働者,いや自由・平等な私的所有者が,が資本主義社会を維持しようとするのは正常なことです。なにしろ,誰でも,運(生まれつきの能力を含む)とに恵まれれば,努力次第で豊かになれるのです。現在の瞬間に豊かでないのは努力しなかったか,付いていなかったか,どちらかでしょう。そして,努力しなかった人が現状を恨むのは構いませんが,それは市場社会というシステムの問題ではないでしょう。システムが悪いのではなく,その人が悪いのでしょう。もちろん,努力したくても努力できない人もいるでしょう。そういう人のための所得再配分のメカニズムを市場の外に(つまり国家に)ビルトインすれば,現在の市場社会で特に問題はないでしょう。(それ以外の運/不運については,市場社会のシステムではこれはもうどうにもなりません)。

さて,このような考え方が,少なくとも一面では真理で,しかしまた他面ではペテンだというのが必然的な社会意識ではないでしょうか(真理とペテンとのどちらに偏っているかは,もちろん,人それぞれ違いますが)。確かに,一面では,上で述べたような,民主主義による市場社会としての現代社会(つまり現代資本主義社会)の正当化は,いまだに通用し続けています。しかしまた,それと同時に,この講義で扱っているように,この正当性の枠組みに収まりきらないところまで資本主義が発展してしまっています。

この講義で扱い切れない問題としては,資本主義に代わると自称してきたシステム(現存社会主義国家)が経済的にも政治的にも破綻し,生産力の停滞と一党独裁の専制体制に帰着したというのは,もちろん,資本主義体制の安全弁として大きな役割を果たしています。要するに,他に選択肢がないから資本主義を護るというのは大きな力になります。

個人企業は労働と所有は完全に一致していると言えるのか?

言えません。『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』で見たのは,最も単純な資本主義においても,したがってまた個人企業においても:

  1. そもそも資本主義的生産においては利潤それ自体の所有は自己労働に基づかない所有である。ただし,ひとまず,利潤の請求根拠となっている資本部分は自己労働に基づいて所有されたとイメージすることができる。

  2. しかも,絶えず拡大していく繰り返しの生産の中で,資本それ自体の所有も自己労働に基づく所有ではなくなってくる。そうなると,資本家の側では“自己労働していないのに所有している”ということが“自己労働していないのに所有している”ということの原因になり,逆に賃金労働者の側では“自己労働しているのに所有していない”ということが“自己労働しているのに所有していない”ということの原因になる。要するに,労働と所有との分離は(たまたま起こることではなく)システムの必然性になり,またこの分離は絶えず拡大していく(資本が増大していくから)。

利潤が資本〔家〕の真の私的財産とするなら,逆に損害が生じた場合には,資本家はその分の額を失うことになるのか?

その通りです。

資本主義社会の実態は,「必ずしも,頑張った分だけ報われるとは限らない」ではないだろうか。

その通りです。

自己労働に基づく私的所有と,自己労働と所有との分離,他人労働に基づく私的所有について,再度説明したが,対比があまり理解できなかった。

具体的にどこら辺が理解できなかったか,再度質問してください。

不労所得が不労所得を生むというシステムのところの話がいまいち理解できなかった。

具体的にどこら辺が理解できなかったか,再度質問してください。

3. その他

この講義は内容が少し難しく,復習が大変なので,並行して使うと良い参考書などはないか?

所有および私的所有についてはいい教科書はありません。株式会社については,別途参考文献リストを配ります。

「所有権が絶対的=物権的権利と総体的=債権的権利とに分離」の意味が理解できなかった。 所有権の絶対的相対的という考えがよくわからない。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

後日補足として説明します。

オーナー経営者のいる会社は社長=資本家になるか?

もし経営者=社長ならば,社長=資本家になります。これは『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』で述べた個人企業ですね。

サブプライムローンが見えるサブプライム層に対する貸付を証券化し,その他のリスクが低い証券と混ぜて販売するこういは信用理論から見て善なのか悪なのか?

サブプライム危機については,後日,やります。ただし,善悪という観点からではありませんが……。この講義が問題にする正当性というのは,あくまでも,システムにおいて必然的に当事者が意識するものです。

現代社会は資本主義を徹底していると思うが,それは企業にとって生産力上昇が目的だからか?

目的と手段とは,相対的なものであって,ある目的にとっての手段が,もっと小さいオペレーションにとっては目的として現れます。例えば,魚を食べるという目的にとっては魚を捕るということが手段になりますが,今度は魚を捕るということが目的になり,この魚を捕るという目的にとっては網を使うということが手段になります。

以上を前提して言うと,企業という単位を考える限りでは,生産力上昇は企業の目的にはなりません。企業の目的は利潤の最大化です。生産力上昇は,この目的にとっての手段であり,しかも限定的な環境下で成立するような手段です。この点について,興味がある場合には,政治経済学1を受講してください。

資本主義の原理を徹底すると〔……〕不自由になる理由がよくわからなかった。 Updated!

要するに,資本主義的営利企業の中では,商品交換(タテマエ上,労働力の売買も含む)におけるような自由意志(=思惟の自由)に基づく経済活動の自由(=行動の自由)が成立するのではなく,トップマネンジメントからバイトに至るまで会社の業務命令に従っているということです。もちろん,資本主義的営利企業の中では奴隷制とは違って全くなんの行動の自由もないというわけではないのですが,その自由は資本の利潤最大化運動という狭い枠内に制限されており,そして自由が制限されているということは不自由だということです。

このように,現代社会では,商品交換の場面では,タテマエ上,自由が原理であり,これに対して,営利企業の内部では,実質上,不自由が原理です。そして,商品交換の場面で発揮されているのは市場の原理であり,資本主義的営利企業の内部で発揮されるているのは資本主義の原理です。

今の経済は企業が内部留保をためこんでいるのでうまく機能がしないのか?

明らかに,企業が内部留保を貯め込んでいるというのは,システムに即しては,経済活動の結果です。うまく機能しないから,内部留保を貯め込むのです。うまく機能していたら,設備投資に回します。


  1. (注1)これは客観的・必然的な期待のことです。期待値(expected value=平均値)と言う場合の期待のことです。

  2. (注2)もともとは,信用と信頼とを最初に明確に区別したのはゲオルク=ジンメル(『貨幣の哲学(新訳)』,ジンメル著,居安正訳,白水社,1999年)であるようです。ジンメルの用語(原語はドイツ語)では,信用はKreditの訳語です。これはジンメルだけではなく一般的に,経済的な用語としては,信用と和訳されます。これに対して,信用はVertrauenまたはGlaubenの訳語です。

    両者の区別と関連とを中心に扱ったものとして,例えば,『信用と信頼の経済学―金融システムをどう変えるか 』,竹田茂夫著,NHKブックスNo.917,NHK出版,2001年,を参照してください。ただし,同書はジンメルの理論を発展させる形で信用と信頼との関係を整理しており,この講義の立場とは異なっています。すなわち,同書によると,信用は,支払約束を信じることによって生み出されるような,個人と個人とを結ぶ外面的・客観的な関係(遠心力;ジンメルの用語では「距離化(Distanzierung)」──これはジンメルの用語では「遠ざかること(Entfernung)」とほぼ同じ意味のようです──)と捉えられています。外面的・客観的な関係である以上,信用はどんどん広がることができます。すなわち,この講義の内容に即して述べると,信用の連鎖との関連で,信用が捉えられています。これに対して,信頼は,この信用という外面的関係を結んでいる個々人の内面的な主観的期待(求心力),要するに“支払ってくれるだろう”という主観的な期待です(ただし,この期待は,この講義で定義した信用と同様に,客観的な根拠に基づいています)。時間的な順序で言うと,支払約束の信用によって形成された客観的な社会関係を実際の支払(決済)の間まで維持するのが信頼の役割です。更に,同書は,ジンメルにはない独自の観点として,信頼を,手形・要求払預金のような内的貨幣(信用貨幣)が供給される場合に生まれるような下からの信頼と,中央銀行が外的貨幣(中央銀行券)を供給する場合に生まれるような上からの信頼とに分けています。なお,今日では,後者は《通貨当局への信認》と言う場合のように,“信認”と呼ばれることが多いでしょう。

    これに対して,この講義が重視するのはこういうことです:

    • 第一に,このような信用が単に客観的であるだけではなく,外面的であるのはそれが(人格ではなく)物件を信用しているからだ。ところが,物件は突如として無価値になるから,実際には手形の例で見たように,この信用の連鎖はそっくりそのまま不信の連鎖になる。信用と不信とが別々にあるのではなく,両者は一体のものである。

    • 第二に,今日の略奪的貸付を見れば分かるように,支払約束を信用しなくても,つまり信用がなくても,外面的な関係は形成されうる。ただし,この外面的な関係は,現実的には信用の連鎖と複雑に絡みあっているものの(サブプライム危機の場合のように),それ自体としては連鎖して広がる(距離化する)ことはできない;つまり信用が信用システムを形成することができるのとは異なって,略奪的貸付はシステムを形成することはできない。これは信用の存在(そっくりそのまま不信になりうる)とは区別して,《信用の不在》と考えるべきだ。

  3. (注3)労働者間での競争がむしろ労働の社会的生産力の発揮の阻害に帰結したり,資本家間での競争が過剰生産の拡大に帰結したりもするのですが,それはここでは問題にしません。資本主義社会は競争によって発展し(好況になり),それと同様に競争によって破綻する(恐慌になる)矛盾した社会です。