1. 資本主義社会のメインプレイヤー

〔自営業者と個人資本家との区別について:〕 〔自営業者と個人企業〕との2つの区切り方として,従業員を雇っているかどうかを基準としても良いのだろうか? 自営業と個人企業とはなかなか区別が付かない,あるいは同じくくりという印象を受けたのだが,区別をつけなくても良いから,はっきりとした基準をもうけていないのか? また,区別が難しいことで何か不都合はないのか? 僕の父は起業して社長をしているのだが,正規の社員は父と母のみで,他は5名程度のパートや派遣社員で補っている。決して多数雇用しているわけではないのだが資本主義的営利企業になるのか?また農業は基本自営業者で良いのか? 自営業者と個人企業の違いがよくわからなかった。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

理論的なカテゴリーとしては両者の区別が付くのです:(1) 自営業者は,個人的な私的生産者であって,個人のプライベートな空間でこの私的生産者個人が全ての労働を行い,全く従業員を雇用していない。これに対して,(2) 個人企業は,非営利組織ではなく営利企業である限りでは,ただカネモウケのためにのみ設立された組織であって,カネモウケのために多数の従業員を雇用する。この場合に私的生産者は個人的な資本家であって,主観的には資本の私的所有者として,自分が購買した労働力をして自分の所有物件である生産手段を動かせて生産させる;客観的には資本というカネモウケの物件的運動,going concernの担い手に過ぎないのであって,逆に資本の方が資本家が誰になろうと存続するべき主体である。しかしまた,個人企業の場合には,資本と資本家個人とは一対一で対応しているから,まだ資本が主体として資本家個人から自立化してはいない。これが会社企業になると,完全に自立化していくようになる。──そして,このような理論的なカテゴリーこそが,多種多彩多様で,無限の偶然性・中間性を含む現実に対しては,必然性を表すのです。黒と白だけ必然的な形態として規定することができれば,あとはあらゆる灰色は両者の混合形態・中間的形態として規定することができます(問題になっているのは社会の事柄なので,色のような自然的な性状の譬え話はしない方がいいのですが)。

現実的な問題としては,自営業者と個人資本家との区別を突き詰めていくと,カテゴリーをなす必然的な形態ではないような,さまざまな偶然的・中間的な形態が現れます。この講義では,自営業者の範疇としては全く従業員がないような私的生産者を挙げましたが,統計的には家族従業者ならば被雇用者がいても自営業者になるということが多いのです。また,純粋な個人企業は全く例外的であって,統計的には,事実上,企業統計と言えば法人企業統計を指しています。

この講義では,産業において資本主義的営利企業が生まれたということを現代資本主義社会の特徴と考えていますが,前近代においても,また現代においても,職人の親方は2~3人の弟子をとっているのが普通です。弟子が2人いる寿司屋が自営業者か資本主義的営利企業かと言われると困ります。この講義では,資本主義的営利企業と言ったら,資本家が直接的労働(従業員と同じ労働)から解放されて資本家的労働(資本家として行う労働,すなわち管理労働と流通過程での売買オペレーション)に専念しているということを想定しています。と言うのも,それによって,資本家が獲得する利潤が賃金から収入として区別されるからです。すなわち,資本家が賃金分の収入ではなく,利潤によって生活することができ,そこから留保して資本蓄積にまわすことができるようになるためには,それなりの数の従業員が必要です。このように,理論的には上の例での寿司屋の親方は自営業者になりますが,しかし,現実的には従業員を雇っていますね。

こういうわけで,家族従業者と少数のパートタイマーだけの場合には,自営業者と個人企業との中間形態ですが,どちらかと言うと自営業者よりでしょう。日本では,農業者は,──副業として営んでいる場合は問題外とすると──,多くの場合,家族従業者しかいないような事実上の自営業者でしょう。しかしまた,多数の従業員を雇用する農業法人はもはや自営業者とは言えなくなってくるでしょう。

〔株式会社について:〕現代において〔……〕生産手段を持つ人とは誰になるのか。企業という法人が生産手段を持っているといわれればそれまでだが,今,特定の個人が生産手段を持つことは少なくなっているのか?(社長は権利や資本を持っていると言えるが,株主が持っているという事もあるし,社長一人が全てを動かせるわけではないのか?)

この問題は『6. 株式会社』のテーマになります。

あらかじめ,結論を言っておくと,生産手段の大部分は,法人としての(私的所有者としての)会社によって所有されています。雇われ社長(専門的経営者)も株主も生産手段の所有者ではありません。

そもそも,会社法人の雇われ社長は,株式を所有していない限りでは,自分の労働力の私的所有者でしかなく,生産手段の私的所有者でもなければ,資本の私的所有者でもありません。株主は,タテマエ上,資本の私的所有者です。ただし,個々の株主は,実際には株主(資本の持分)の私的所有者でしかなく,持っている経済的権利も残余処分権と利益処分権くらいしかありませんが。

〔中小企業について:〕少ない資本で大きな事業を実現しようとするベンチャー企業があるが,それらも資本主義社会のメインプレイヤーと言えるのか? また中小企業なども存在するが資本主義社会のメインプレイヤーなのか?

少ない資本とは,少ない自己資金のことでしょうか? 大きな事業を実現しようとするならば,他人からの借入なり出資なりが必要です。借入については『4. 貸付資本の成立』および『5. 銀行制度と私的所有』で,また出資については『6. 株式会社』で見ていくことになります。で,そういうベンチャー企業は,もちろん,資本主義社会のメインプレイヤーです。

次に中小企業についてです。上のベンチャー企業は成功すれば大企業になるという想定の下で話をしていました。中小企業として固定されている限りでの中小企業は,まぁ,メインプレイヤーなのですが,メインプレイヤー中のメインプレイヤーではありません。企業数で見れば当然のこと被雇用者総数で見ても,中小企業の方が大企業よりも圧倒的に多いですが,それでも資本主義社会を牽引しているのは,『6. 株式会社』で見るような,社会から巨額の資本を調達する大規模公開株式会社です。

〔非営利組織について:〕非営利団体等の営利を目的としない人格・企業は資本主義社会においてどのような位置付けなのか?

そうですね,例えば,福祉・教育なんかの市場では,利潤追求原理がなじまないことが多いでしょう。この問題は政治経済学1で簡単に扱います。興味がある方は政治経済学1を受講してください。

積極的否定

一面では,非営利組織は,資本主義社会の原理を積極的に否定する存在です。積極的に否定するということは,現代的な資本主義的市場社会から前近代的共同体に逆戻りするということではありません。そうではなく,(1) 前近代的共同体の原理(すなわち共同体自身は地縁・血縁に制約されているという原理,そしてその構成員が共同体に埋没しているという原理)ではなく,市場社会の人格的原理,すなわち市場社会の積極的な意義(自由・平等な個人が承認を通じてグローバルに社会を形成するということ)を活かすというのが現代社会における非営利組織の組織原理です。(2) その上で,資本主義社会の積極的な意義(コストの最小化やイノベーションなど)をもまた活かしながら,しかもなお,人間・自然の破壊をともなう利潤最大化原理を否定して,公共性原理に転換しうるというのが現代社会における非営利組織の社会的・歴史的意義です。

消極的肯定

他面では,社会システム全体が資本主義社会である限りでは:

  1. 通常,そのように考えられている通り,非営利組織は,所詮は,一分野,すなわち非営利事業にふさわしい分野に押し込められます。資本主義的営利企業の立場から言うと:“この分野は営利事業向け,この分野は非営利事業向け”というわけです。“そっちの分野では思う存分,公共性原理でやってください,われわれが得意にする分野では思う存分利潤を最大化し,その副産物として人間と自然とを浪費しますよ”,というわけです。“こっちで自然と人間とを荒廃させるから,あとはもう税金とか使ってそっちでフォローしてください,少しくらいなら寄付してあげてもいいですよ”,というわけです。こうして,福祉・医療・教育など利潤最大化になじみにくい分野を非営利事業に担当してもらうことで,かえって資本主義的制ステム全体は安定的に機能するわけです(注1)。要するに,非営利組織は資本主義的なシステムの補完物にすぎません。

  2. また,利潤追求ではなく公共性を原理にすると言ったのにも修正が必要です。所詮,この世は資本主義社会です。社会システムの原理は公共性ではなく,営利なのです。この社会システムの真っ只中で,この社会システムに関わりながら活動している限りでは,非営利組織も営利原理に染まります。大学や病院が非営利組織だって?そんなのペテンです。利潤という形ではないにせよ,正味資産とか,あるいは帳簿には現れない様々な内部的な形態とかで利益をプールするのが大規模な,社会的に通用しているような非営利組織です。

と言うわけで,他のあらゆる社会的な事柄と同様に,非営利組織の場合にも,表面と裏面とがあるのです。表面(積極的否定)があるからといって裏面(消極的肯定)を無視してはなりませんし,裏面があるからといって表面を無視してはなりません。両者はまさに表裏一体のものなのです。

賃金労働者の条件として,自由・平等な私的所有者とあるが,それが何故条件に入ってくるのか? 奴隷も労働力を持っているとは言えないのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

奴隷も労働力を持っているとは言えますが,労働力の所有者ではありません(労働力を所有しているわけではありません)。所有は,ただ持っているだけでは駄目であって,自己と他者との意志によって媒介されていなければらないということを思い出してください。奴隷には自分の能力を商品として自由に処分する権利はありません。むしろ,自分自身が商品として売買されてしまいます。要するに,奴隷は,社会的には,物件として通用するのであって(奴隷主の所有物として通用するのであって),人格として通用するのではありません(人格として,所有者として承認されはしません)。換言すると,奴隷は物件として売られるのであって,人格として物件を売ることができません。

これに対して,賃金労働者は,奴隷とは違って,自分の労働力の私的所有者として自分の労働力を労働力市場で販売することが出来ます。賃金労働者は,人格(=自分)を売ったりはしませんし,人格(=自分)が誰かの所有物だったりしません。そうではなく,賃金労働者は,自分(=人格)を,労働する能力=労働力として,自分の対象(=物件)として,自分自身から区別して販売するのです。労働力は自分の人格性の中にしかありませんが,賃金労働者は,それを人格から区別・分離して,労働力として,自分の対象として,自分の私的な所有物件として,自分の商品として販売しているわけです。奴隷の場合には,自分が(自分という人格が)商品として他人の意志で他人によって売られるのです。これに対して,賃金労働者は自分の能力(自分物件)を自分の意志で自分で売るのです。

奴隷は,自分の意志で,自分の雇い主を選んだり,いやだったら自分の雇い主との契約を破棄したり,勤務時間以外は,雇い主の目の届かないところで自分の時間を自由に過ごしたりする事ができません。逆に,現代社会でも,会社がブラックで,このような条件が満たされない場合には,賃金労働者は奴隷の状態に近くなります。しかし,そのような奴隷状態は市場社会の原理に反しますから,現代社会では違法ですし,不当なものとして社会的に非難されます。

労働力を時間決めで販売するとあるが,実際企業では時間というよりは月ごとに給料が決まっており,サービス残業もあったりするので,時間決めというのは難しいと思うのだがどうなのか? また,能力や勤続年数により決まっているとも思うのだが?

あなたが言っているのは賃金の話ですね。賃金決定は,企業ごとに違いますが,基本給,能力・資格給,時給,業績給のミックスです。そして,今日では,日給の場合は例外であって,多くの場合には月給方式でしょう。これは賃金支払期間の話です。

これに対して,この講義で言っている労働力の時間決め販売というのは,勤務時間中は会社の業務命令に従うが,勤務時間外の時間は自由に使えるということです。これとは反対に,──奴隷制にもいろいろとありますが,最も厳しい奴隷制を考えてみると──,奴隷の場合には,自由な時間はありません(また自分の意志で奴隷主の空間からでることはできず,自由な空間もありません)。このような労働力の時間決め販売は,賃金支払期間の長短には依存しません。賃金が月給だろうと日給だろうと,24時間勤務時間なんていう労働契約はありませんし,従って労働力は時間決めで販売されています。

もちろん,賃金労働者にも業種によっては勤務時間外呼出がありますが,これはあらかじめ契約で明記しなければならない例外事項です。あなたが指摘しているサービス残業や風呂敷残業はそもそも違法行為です。こういう会社は,支払わなければならない割増賃金を支払っていないのですから,ドロボーしているのです。こういう会社がやっていることは,もし故意ならば,スーパーで万引きするのと一緒です。こういうドロボー行為が横行したり,あるいはタコ部屋に閉じ込められたりしていると,賃金労働制(すなわち資本主義的システム)も奴隷制に近づいていきます。しかし,それは市場社会の正当性観念からして明らかに不公正なものであり,もちろん違法なものです。

ひょっとすると,時間決め売買(hire)というのは時間決めの売買のことだと考えていますか? そうではありません。時間決めと言う場合の「時間(time)」とは,一時間(hour)の意味ではなく──つまり一時間決めの売買に限るという意味ではなく──,一時間決めをも週決めをも月決めをも年決めをも含むような,一般的な意味での時間です;要するに,hourではなく,timeです。

みんながみんな自営業を営もうと思ったら,賃金労働者というプレーヤーが存在しなくなるけど,もし仮にそうなったら〔……〕資本主義的営利企業もなくなってしまうはずなので,その時は資本主義社会が成立しなくなるということか?

その通りです。ただし,自営業を営もうと思うだけじゃ駄目です。実際に,営まないと。

なお,歴史的には,自営業者だけから構成される(あるいは少なくとも自営業者によって社会的富の圧倒的大部分が生産される)ような社会──単純商品生産者の社会と呼ばれます──は不可能でした。

同様にまた,それは理論的にも不可能だと思います。初期条件で富の大きさが均等であるような自営業者だけから構成される社会を観念的に想定しても,その運と能力とに応じてひとたび富の不均等が生じると,やがては貸付資本という形で資本が生じ,債務不履行による担保巻き揚げ等を通じて,生産手段の私的所有から切り離された──従って他の自営業者に雇用してもらうしかないような──賃金労働者が生まれ,こうして,時間はかかっても(注2),資本主義社会に移行せざるをえないと思います。『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』で述べたように,ひとたび生じた不均等は拡大するメカニズムがあるのです。

そして,もし上記の初期条件に加えて,このような不均等プロセスを人為的に防ぐようなメカニズムをビルトインした社会をつくるとしたら,それは万人に凡庸を命じる(ペクール)ような社会,(自分の能力を自由に発揮することができないのですから)実質的には決して自由ではないような社会です。

人材派遣会社はどのような位置付けとなるのか? 企業と賃金労働者との間に入り資本主義社会システムに参加しているので,どちらのプレーヤーとしての役割も果たしていると解釈できるのではないか?

明らかに資本主義的営利企業です。人材派遣会社は雇用している労働者を派遣しているだけであって,派遣先の企業で労働しているのは人材派遣会社ではなく,派遣労働者です。労働力という得意な商品を対象にし,従って雇用という特異な契約を媒介にしていると言うことを除けば──もちろん,内容的には(つまりこの商品がリース先で実際に果たす経済的な機能,そしてこの商品の所有者にとってのこの商品の経済的な意義に即しては),この特異性はそれはそれで決定的に重要なのですが──,形式的には(つまりどういうやり方で売買しているのかということに即しては),それはコピー機のリースと同じです。この場合には,人材派遣会社と派遣先会社とが資本主義的営利企業というプレイヤーであり,言うまでもなく派遣労働者は賃金労働者というプレイヤーです。

資本の回転運動の図で貨幣によって購買する商品とは労働商品のことか?

労働力と生産手段です。

自営業者は資本主義社会のメインプレイヤーとあるが,どちらかといえば市場社会的だろうと思った。

えっと,「メインプレーヤーは」〔自営業者ではなく〕「資本主義的営利企業」(『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』の「メインプレーヤー(1):企業」)と書かれているとおりです。

企業における資本とは,株式の発行などによって調達されたお金である資本金や剰余金のことをあらわしているのか?それとも生産の3要素(労働・土地・資本)などを示しているのか?

この講義で言う資本は,その全部です。と言うか,全部が入るように,資本を定義しています。カネモウケの主体,価値の自己増殖運動として資本を捉えると全部入るのです。すなわち:投資する際に資本は原資としての貨幣資本形態をとりますが,資本金はここに入ります。回収する際に資本は利潤をともなう貨幣資本形態をとりますが,剰余金はここに入ります。産業資本は投資した貨幣で生産要素を買い生産過程を始めます。その際に,資本は生産資本形態をとりますが,労働力,土地を含むすべての生産手段は(資本の生産過程の内部にある限りでは)ここに入ります。

なお,運動において資本が取っては捨てる姿が,資本金,剰余金,労働力,土地を含むすべての生産手段であって,それぞれ,運動から切り離してバラバラに考察する限りでは資本ではありません。資本金も剰余金も,それ自体としてはただの貨幣です。資本の生産過程の外では,労働力も生産手段も資本ではありません。例えば,賃金労働者が自宅でテレビを観ている限りでは,労働者の労働力は資本の存在形態ではありません。ミシンはシャツメーカーの裁縫工場の中では資本の存在形態ですが,個人の家の内部でぞうきんを縫うのに使われている限りではの存在形態ではありません。

この点については,政治経済学2では詳しく述べません。興味がある方は政治経済学1を受講してください。

2. 市場社会と資本主義社会

市場社会と資本主義社会は互いに関連しているということだったが,それぞれの長所・短所を補い合っているのか? 市場社会と資本主義社会の違いについて,〔……〕市場社会の方がメリットが平等で自由であり多いような気がした。どちらの方が良いという概念はあるのか。どのような場合は,どちらの方が適しているのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

市場社会の長所と資本主義社会長所とは補い合っていません。バラバラなのです。資本主義社会の長所と市場社会の長所が補い合うというよりは,両方,バラバラの場面でバラバラに出てくるわけです。と言うのも,資本主義社会の長所は市場社会の長所の否定を条件にしており,市場社会の長所は資本主義社会の長所の否定を条件にしているからです。

それじゃ,両方とも打ち消しあってゼロになるかと言うとそういうこともなく,バラバラの場面でバラバラに出てきます。ややこしいかもしれませんが,バラバラだからといって,どちらかがなくなったりはしないのです。市場社会と資本主義社会とは切っても切り離せないものであって,どちらも現代社会の二つの側面に過ぎません。一方で,カネモウケは市場を利用した活動である以上,もし仮に市場が社会を支配して,圧倒的大部分の生産物が商品として生産され商品として流通していないならば,資本主義社会の原理であるカネモウケが社会を覆い尽くすこともできません。他方で,市場が社会を支配するためには人口の圧倒的大部分が市場に常に参加していなければならない以上,もし仮に資本が社会を支配して,人口の大部分が賃金労働者になっていないならば,市場社会の原理である自由・平等な私的所有者が社会を覆い尽くすこともできません。ですから,両方の原理も,どちらも,バラバラなまま同じ社会の中で不可欠なものなのです。

例えば,資本主義の長所は,無制限な価値増殖の追求に基づく,社会の生産力の無秩序な増大,従ってまた社会的富の無秩序な増大です。しかし,それは,資本の生産過程の内部で,従業員の自由・平等および自己労働に基づく私的所有が否定されるということを条件にしています。それじゃ,自由・平等および自己労働に基づく私的所有が消えてなくなっちゃったかと言うと,そういうことはなく,市場の表面を見ている限り,タテマエとしては,それらが通用しているのです。タテマエとして通用している(=タテマエとしてしか通用していない)というのは夢幻とかではなく,現実に,政治システムや法制度を整える際には,この原理に基づくわけです。

しかしまた,資本主義社会の現実(生産力の上昇,富の増大,それとともに,実質的な不自由・不平等,労働と所有との分離)の方がどんどん発展しているのに,市場社会のタテマエ(形式的な自由・平等,労働と所有との一致)は変わりません。そこで,講義で述べたように,もう市場社会のタテマエでは資本主義社会の現実を正当化できないところにまで来ている,もう市場社会のタテマエを資本主義社会の現実が破ってしまっている,もう誰の目にもタテマエと現実が食い違っていることが見えてきてしまっているわけです。

さて,一方の長所は他方の長所の否定を条件としており,両者は有機的に結合していないわけです。そうである限り,両者の短所もなくならないわけです。あっちで市場社会の長所,こっちで資本主義社会の長所が現れるのと同様に,あっちで市場社会の短所,こっちで資本主義社会の短所が現れ続けるわけです。従って,もし現代社会の発展の先に未来社会があるのならば,それは両者のいいとこ取り(両者の長所の有機的結合)の社会になるしかありません。そして,現代社会の発展の先があるのかどうかということは,現代社会が,安定的に循環しているのではなく,現代社会の内部でせっせと自己解体に従事しているのかどうかを考えなければなりません。そして,それがこの政治経済学の課題なのです。

今日の社会において市場社会と資本主義社会とが混同されているように思われるがこれはマスコミ等のミスか?

現代社会は資本主義的な市場社会であり,その限りでは,市場社会と資本主義社会とは一体のものです。ですから,現代社会をパッと見て,ここからここまでは市場社会,ここからは資本主義社会なんて境目はないわけです。従ってまた,両者を混同するのは,マスコミ等のミスではなく,当然のことです。

ところがまた,例えば,“現代社会は自由な社会か,それとも不自由な社会か”と問うと,一方の人は自由な社会だと答え,他方の人は不自由な社会だと答え,しかもどちらも正しい側面を突いています。あるいはまた,“現代社会では個人が主役か,それとも組織が主役か”と問うと,一方の人は個人と答え,他方の人は組織と答え,しかもどちらも正しい側面を突いています。“平等か”とか“所有が労働に基づいているか”とかについても全く同じです。

このように,現代社会は全く相反する二つの原理を内包しているわけです。そして,この二つの原理のせめぎ合いの中で社会が発展し,未来が示されるわけです。この講義では,この二つの相反する原理に着目して,一方の原理でまとめてみると現代社会は市場社会であり,他方の原理でまとめてみると現代社会は資本主義社会であると考えているわけです。で,それはどういう場面が対応するのかというと,市場社会の側面は市場での交換に,また資本主義社会の側面は営利企業内部での営利活動に対応しているわけです。

資本主義社会が不平等というのは,〔……〕労働者は労働力の再生産費分しか賃金がもらえないが,資本家は労働による剰余価値で生活が出来る,と言うようなことか? なぜ個別的主体の原理においては会社と個人などの関係が不平等になるのか? 資本主義経済の原理を徹底すると,不自由・不平等になるところがよく分からなかった。 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

資本主義社会の原理はカネモウケの原理です。この原理が社会を支配しているということは,生産を含む経済活動を,資本主義的営利企業がカネモウケのために行っているということです。資本主義的営利企業はカネモウケのために多数の従業員を雇って企業内組織を作っています。

実質的不平等

資本主義社会の根本は,労働が資本という物件を生産し,このように自分で生産した物件のシステムに支配されているということです。従って,労働する個人と資本という物件との間の不平等が根本的な不平等です。そして,この不平等をつくりだしてしているのは労働する個人自らです。要するに,会社の方が労働する個人の上にそびえ立ち,巨大な富を所有しているということ,しかも,労働する個人が頑張って働けば働くほど この格差は大きくなっていくということ──これが資本主義社会の不平等の根本です。

要するに,労働する人格と資本という物件との不平等が根本です。労働者と資本家との不平等はそこから派生するものです。要するに,労働する個人と,この個人が社会的に形成したシステムとの不平等,労働する個人とシステムとの間での不平等が根源的であって,しかるに,個人と個人との間での不平等は派生的です(従業員と資本家との間での不平等でさえ派生的であり,ましてや従業員間での不平等などは全く派生的です)。

実質的不自由

株式が分散しているような大規模公開株式会社を想定しましょう。企業内組織において,従業員は自分の自由意志に基づいて行動するのではなく,会社の業務命令(=資本の業務命令)に従っています。ですから,原理は自由ではなく,不自由です。要するに,労働する人格が,資本という物件,すなわち本来は人格が自由自在に支配するはずの物件──しかも労働する人格自身がみんなで作り上げたシステムとしての物件──によって逆に支配され,不自由であるということが根本です。もちろん,システムを自分たちの労働で形成した賃金労働者が最も不自由だと言えます。

しかしまた,専門的経営者(資本を所有していないような経営者)も,好きなように従業員組織を支配しているように見えて,実のところ会社の業務命令に従っているのにすぎません。その限りでは,専門的経営者もまた資本に対しては,不自由です。業務命令を書いているのが専門経営者自身であるということはこの不自由性を妨げません。自分で書いた命令に自縄自縛で従わざるを得ないのです。というのも,専門的経営者自身を雇っている(契約形式は雇用契約ではなく,委任契約ですが,実質的には会社に雇われていると言うことに変わりはありません)のが会社,つまり資本,従ってまた物件だからです。業務命令の発生源は専門的経営者にあるのではなく,会社にあるのです。

資本という物件を私的所有している人格が資本家です。そして,労働する人格ではなく,所有する人格こそが,われわれの社会で承認されている人格です。それは株式会社では株主以外にはありえません。換言すると,会社は株主という人格の所有物件なのです。しかし,それじゃあ資本家=株主がこの株式会社を,つまり現実資本という物件を,要するに企業そのものを自由自在に支配しているかと言うと,そんなことは全くありません。もちろん,株主は株式を自由に処分することができますし,株主総会で意思表明することもできます。しかし,少なくとも会社の内部の日常の業務については,従ってまた企業組織については,株主には自由自在に支配するなんの権利もありません。零細株主が会社のビルに許可を取らずにずけずけと入っていって,会社の備品を横領しながら,“俺が株主様だから俺の命令を聞け”なんて従業員に向かって言ったら,すぐに通報されます。株主が支配しているのは株式という物件だけであって,現実資本という物件については,要するに企業そのものについては自由にする権利を持っていません。

市場社会における平等があまりイメージできなかった。そして全体編成の原理の比較も足早に進行と説明が行われてしまってよく分からなかった。

そうですね。平等については,政治経済学1では詳しく説明しました。政治経済学2では試験範囲外ということで早足で飛ばしてしまったのですが,『[Ex.1.2] 形式的平等』をご覧下さい。そこで書かれている交換過程における平等が市場社会における平等です。

全体編成についても,政治経済学1のテーマだったので,足早に飛ばしてしまいました。補足説明は行いますが,わからない点があったら,もう少し絞ってメール等で質問してみてください。あるいは,政治経済学1を受講していください。

市場社会の担い手のスライドの部分で交換主体が自立した私的個人,抽象的には私的所有者などと私的個人を中心にする定義でなされているが,企業体などの集団で見ると私的な要素が消えるために,定義としてなくなっているのか?

とりあえず,個人企業からなる資本主義社会を想定してみます。つまり,個人的な資本家が私的個人として資本を所有しているという状態です。

資本主義社会としての現代社会は,市場での交換から成り立っているという面から見ると,市場社会なのです。市場では,個人的な資本家が私的所有者として商品を売買しています。じゃ,生産の方はどうなっているのかと言うと,それは市場の外部の話です。市場では誰しも,資本家も賃金労働者も,自由かつ平等な私的所有者として相互的に承認し合っています。市場で取引するのに,自由かつ平等な私的所有者であるという以外の資格は要らないのであって,この資格においては資本家も賃金労働者も一緒なのであり,資本家だとか賃金労働者だとかそういう性格は消えてしまうのです。労働力市場であっても,そこで出てくる違いは,資本家は買い手,賃金労働者は売り手だというくらいのものです。

資本家と自営業者との違いもありません。資本家が売っているパンも,自営業者が売っているパンも,同じパンであって,そこにはなんの違いもありません。消費者は価格と品質に応じてパンを選択するのであって,資本家のパンか自営業者のパンかなんてことでは選びませんし,そもそも市場ではそんなことはわかりません。

このように,資本主義的営利企業が出てこようと賃金労働者が出てこようと,市場においては自由・平等な私的所有者同士の関係でしかありません。そうすると,商品がどこで生産されているのかというと,それは市場の外部の,市場では見えない,オープンな市場とは違って関係者以外立ち入り禁止の,私的生産においてだということになります。

市場社会が想定する私的生産というのは,個人のプライベートな空間です。ところが,資本主義的営利企業は,この私的生産の内部に,個人のプライベートな空間の内部に,多数の従業員を雇い入れるわけです。

こういうわけで,市場社会が資本主義社会に移行しても,自立した私的個人,抽象的には私的所有者定義としてなくなっているのではありません。そうではなく,資本主義社会とは,生産に目をつぶって流通部面だけを見ている限りでは市場社会に他ならないのであって,そこでは資本家も賃金労働者も自立した私的個人,抽象的には私的所有者として取引しているのです。

「資本主義社会は市場社会の成立によって初めて発生する」,「市場社会は資本主義社会の成立によって初めて一般化する」とスライドにあったが,日本やアメリカの社会はこの2つ〔市場社会と資本主義社会〕とも完全に成熟した社会と考えていいのか? それとも,まだ途上と考えた方がいいのか?

難しいですね。成熟しているけれども,完全ではないという感じでしょうか。

全体から見ると,日本もアメリカも,資本主義社会が成立するくらいに市場社会が成熟しており,また逆に資本主義社会の成立によって市場社会が成熟した(社会の全面を支配するようになった)と言えます。でも,完全に成熟したと言っちゃうと,もう後がないというか,もう発展の余地がないというか,そういうニュアンスになってくると思います。

一応,講義の基本ラインは,成熟した市場社会を想定しています。そうであるからこそ,市場社会と資本主義社会とが矛盾して,ますます資本主義の枠内で私的所有が掘り崩される(否定される)ということになるわけです。

この点から見ると,日本やアメリカの市場社会では,私的所有の掘り崩し,ゆらぎが十分に生じているので,成熟している市場社会かつ資本主義社会だと考えていいと思います。

市場主義社会がなければそもそも資本主義社会が生まれないというのはどんな社会状況においても言えることなのか?

正確には「資本主義社会は市場社会の成立によって初めて発生する」(『3. 資本主義と私的所有のゆらぎ』)ですね。

実際には,単なる市場社会の成立ではなく,市場の外からの政治的権力の行使が資本主義社会の成立には付きものでした。しかし,それじゃぁ,政治的権力の行使がなければ資本主義社会は生まれなかったのかと言うと,そんなことはなく,市場の発達によって,市場の内部から,資本主義社会が成立せざるを得なかったのだと思います。政治的権力の行使は,このプロセスを短縮したのに過ぎないと考えます。

これはどんな状況においても言えます。現代市場社会ではなく,前近代的共同体であっても,市場がある限りでは商人財産や高利貸の貨幣という形で資本が生まれます。しかし,商人や高利貸しでは社会を支配することはできません。つまり資本主義社会は生まれません。資本主義社会が生まれるためには,産業そのものが資本主義的営利企業によって経営される必要があります。すなわち,そのような産業資本は,当然に,自己金融で貨幣を蓄積することができ,自ら商品を売ることができるのですから,いわばフルセット型の資本です。その上で,資金を社会的にファイナンスしたり,最終消費者への販売をディーラーに任せたりするわけです。

このような産業資本は,社会の構成員の大部分を賃金労働者として雇用することができ,自営業者を駆逐するだけの競争優位を持っています(注3)。こうしてまた,社会的富の圧倒的大部分を生産し流通させるのは資本主義的営利企業だということになります。

資本主義的生産は,ひとたび成立してしまえば,自分の条件──つまり賃金労働者の存在──を自分自身でつくることができます。しかし,その最初の条件自体は前近代的共同体の中で準備されなければなりません。

近代的社会になるにつれて成立したのは資本主義社会のみであるような気がするが,それではなぜ市場社会という考えが生まれたのか?(市場社会が“一般化”というが,“個別的主体の原理”においては市場社会と資本主義は対立しており,この二つは相入れるものではない。かつ歴史の変動を見ていると存在し得たたのは資本主義のみに思える。市場社会が“一般化”というのはおかしいのでは?)

存在し得たのは資本主義的な市場社会だけです。歴史的には,自営業者から構成されるような,純粋な市場社会は決して存在することができませんでした。この点については,「7. みんながみんな自営業を営もうと思ったら,賃金労働者というプレーヤーが存在しなくなるけど,もし仮にそうなったら資本主義的営利企業もなくなってしまうはずなので,その時は資本主義社会が成立しなくなるということか?」をご覧下さい。

建前としては対等な関係だと思うのだろうが,お金を誰が持っているかによって関係が変わってくると思う。例えば現代はプレイヤー2である賃金労働者は労働力の価値の低下によりお金があまりない。

資本主義的営利企業と賃金労働者とは,形式的には(タテマエとしては)平等な関係ですが,実質的に不平等な関係です。それはとりあえず端的には,労働力市場での交換過程と企業内部での生産過程との間で生じます。つまり,交換過程では互いに対等な関係として契約を結び,生産過程の内部ではこの契約に基づいて企業が労働者に一方的に業務命令を押し付け,また企業が個々の労働者の力を吸い取ってますます増大していく社会的な力として現れます。

この生産過程の内部での実質的不平等が交換過程にも染み出しちゃって,交換過程での(平等だという)タテマエが崩れているのが現時点での労働力市場です。本来は契約は個別的であるのに,労働者側に団結権を認め,また団交権を認めているのは労働者と資本主義的営利企業とが対等(平等)ではないからです。

市場社会とは「金」の交換があって初めて成り立つものなのだろうか?(物々交換は市場社会ではない?)

形式的・抽象的には,市場社会とは社会的な物質代謝が市場を通じ行われているような社会のことであり,物々交換とは貨幣を媒介にしない直接的な交換のことですから,両者は次元を異にしています。一見すると,物々交換だけで市場社会(単なる社会の一部としての市場ではなく)が成立するということも可能であるかのように見えます。しかし,内容的・具体的には,社会的な規模での交換は貨幣がないと不可能です。従って,その意味では,市場社会では貨幣による媒介が必須であると考えられます。

市場社会が無計画とはどういうことか?

市場での商品生産は,中央での計画に基づくものではなく,各生産者が勝手バラバラに行うものであるということです。そのために,過剰生産や過少生産が生じます。この点は,各生産者が自営業者ではなく,資本主義的営利企業の場合でも全く同じです。どれほど精緻なマーケティングに基づいて生産するとしても,実際に商品が売れるかどうかはやってみなければわかりません。

なお,市場の内部での企業間での関係ではなく,各企業の内部のことを考えると,それは高度な計画に基づいています。現代社会(資本主義的な市場社会)は市場の無計画性と企業の計画性という二つの相対立する原理から成り立っているわけです。

資本主義社会のカネモウケの為に発生する問題はあるのか?

資本主義社会はカネモウケを原理とする社会です。それゆえに,資本主義社会が引き起こすありとあらゆる問題は,カネモウケと関係があります。

資本主義社会が不自由,不平等であるというのは意外だった。〔……〕現在の資本主義を批判する最近話題のシリアの〔……〕組織〔ISIS?〕の主張もこういったところに拠り所があるのか?

彼らの主張はきちんと検討してはいないので,当てずっぽうの面もあるかもしれませんが……。もし彼らの主張が,先進国と発展途上国との間での現実的な不平等(経済格差),先進国による抑圧の下での発展途上国の現実的な不自由を拠り所にしているのであれば,このような不自由・不平等は先進国内部での現実的な不自由・不平等が先進国と発展途上国との間で再生産されたものですから,その限りでは,資本主義社会の現実的・実質的な不自由・不平等に根拠があると言えるでしょう。

ただ,少なくとも,市場社会がもたらした人格的自由・平等には,彼らは反感を持っているのでは? 女性の教育とかにも反対しているようですし。ですから,たとえ彼らが資本主義の実質的な不自由・不平等に反感を持っているとしても,だからと言って市場社会の形式的な人格的自由・平等を原理とはしないのではないかと思います。これに対して,この講義では,現代資本主義的な市場社会における経済発展の帰結として,市場社会の形式的な人格的自由・平等は,嘘八百のタテマエであっても,資本主義社会の現実との食い違いを当事者が意識せざるを得ないような契機として位置付けています。タテマエであるということは無力・無影響だということでは決してなく,現実の問題を意識するための必然的な契機です。それがこの講義で言う,「私的所有のゆらぎ」の問題です。

市場社会で利益の追求を念頭にした社会が資本主義社会という感じの理解でよいのか? それにともなう弊害として自由・平等をなくしたり,計画という観念を追加したということか?

この講義の図式だと,“市場社会で生産・流通を資本主義的営利企業が担っているのが資本主義社会”なのですが,資本主義的営利企業は利潤最大化だけを動機としている(すくなくともその必然性がある)から,結果的には利益の追求だけを原理にした社会ということになりますね。単に利益の追求というと,自営業者の場合にも利益の追求は目的の一つででしょうから,やはり利益の追求だけというのが重要だと思います。

誰にも縛られず,自給自足で全てを賄い生活している人は多くいるが,資本主義の社会が崩壊した場合,次に生まれる社会はそのような社会になるのではないだろうか?

完全に自給自足で生活している人が多いかどうかは別にして,自給自足だと,今日われわれが享受している生産力と富とは放棄しなければなりませんね。それは時計の針を逆に回すことになるので,現実問題として難しいのではないかと思います。

資本主義的な運動は,市場社会を前提しており,またこういった運動を繰り返し,拡大していくことで市場社会が確固たるものとなっていくということでいいのか?

大体,合ってます。決定的に重要なのは,資本主義的営利企業と従業員との関係が絶えず繰り返し,拡大していくということです。

市場社会下において平等,資本主義社会において不平等というのは,前者においては,企業による所有も私的所有であり,個人による所有のシステムと同様である為,平等であるが,後者においては会社と個人間の(法人と自然人の)根本的な違いを取り出して別種のプレイヤーとして認識するという違いにあるのか?

大体,合ってます。

最初は労働組題とか団交とかを無視してください。そうすると,労働力市場においては,タテマエ上,労働者は単なる商品の売り手,会社は単なる商品の買い手であり,どちらも平等な私的所有者同士です。それは,この会社が商品を市場で売る際に,その買い手と平等なのと全く同じです。

3. その他

前近代と現代で振り子が真逆の位置にあると言っていたが,つまり,前近代のシステムを全て否定したから振り子が逆にいってしまって,もしかしらた必要なシステムまでも拒否してしまったと言うことか? また,システムで言うならば社会主義というのはどちらに近いのか?

これはちょっと厄介な問題です。現代社会を人類の歴史において評価する為には,二つの観点がどちらも必要です。と言うより,二つの観点は実際には同じメダルの表裏です。

そして,この問題を考える際には,人間という生物の特徴とそこにおける経済活動の意味を明確にするということが必要です。それによって,人間の発展の方向性が見えてくるからです。そして,そのためには,労働という人間的活動の考察が必要になります。しかし,これは政治経済学1のテーマでした。政治経済学2では,労働の意義とについて,詳しく考察していません。以下では,政治経済学1を受講していない方は置いてけぼりなところもありますが,政治経済学1で得られた結論を説明抜きで前提します。

前近代とは正反対の方向に行ったから駄目なんだという側面

必要なシステムまでも拒否してしまったというよりは,個人の自立にふさわしい,自立した個人と対立しないような社会システムの構築という問題を,現代社会は未来社会に残したということです。現代社会に欠陥があるからと言って,例えば前近代共同体の入会地を(あるいは前近代的共同体そのものを)現代に復活させても上手くいくとは思えません。

もっとも,講義で強調したように,このように振り子を逆の方向に回すしか,前近代的な人格的依存,共同体への個人の埋没を解決することはできなかったわけです。ですから,現代社会は,たまたま前近代の否定に失敗したというのではなく,前近代の否定は,最初はこういう方向でやるしかなかったということが言えます。

なお,自然および集団からの個人の自立というのは労働のふるまいによって要請されているものです。したがって,人間という生物の発展から見ると,個人が自立するということこそが正常なことであり,歴史的に必然的なことです。

前近代を否定しきっていないから駄目なんだという側面

さて,それでは,(物質代謝の効率的運営で考察された)個人の自立そのものが労働の最終的な結果なのかというと,そうではなく,このように自立した個人が自然を自分の一部(媒介)として上手いこと使うということとともに,(物質代謝の社会的運営で考察されたように)社会を自分の一部(媒介)として上手いこと使うということをも要請します。個人が自立するということは,自然や社会を単純に否定するということではなく,いまや自然や社会に埋没するのではなく,うまいこと自分の一部,“私のもの”にしていくということを意味します。要するに,共同体に埋没したという前近代的な状況から脱却するためには,単に社会(共同体)を否定するのではなく,今度は個人が主体になって,人格的・自覚的な原理で社会を形成していくということが必要です。

このように,単に社会から自立するというだけではなく,社会と和解するという観点から見ると,振り子を逆に振るというやり方は不十分なものとして現れます。すなわち,この観点から見ると,現代社会による前近代的共同体の否定は徹底していなかったのです。それが証拠に,現代人は,確かにもはや人格的な共同体には埋没していないかもしれませんが,その代わりに資本という物件的なシステムに埋没してしまっています。要するに,グローバルマネーや会社こそが主体であって,個人はこのような社会的なシステムに上手いこと使われる客体になってしまっています。

現代社会は,確かに,もはや前近代的共同体ではありません;しかし,前近代的共同体が残した宿題(自立した個人による自覚的な社会形成)を完全に解決していません。この観点から見ると,現代社会は,最も発展した(発展しすぎて逆に行っちゃった)前近代的共同体であり,前近代的共同体の総決算バーゲンセールだということが言えます。

なんか正反対のことをいっているように思われるかもしれませんが,そうではないのです。同じ振り子を反対の方に回るだけでは,新しい社会には行けません。前近代を否定しきるためには,前近代が抱えていた問題点をすべて解決するものでなければなりません。

なお,もしあなたが言う社会主義というのが現代社会の後に来るものであるとするならば,それは当然に現代社会に近くなります。また,そうでなくては,前近代的共同体への逆戻りにしかなりません。

そうではなく,もしそれが現在,社会主義を名乗っている国を指しているのであれば,それは発展途上の現代社会であって,前近代的共同体と現代社会との中間だとも言えますが,どちらに近いかといえば,明らかに現代社会に近いと言えます。それは発展した前近代的共同体ではなく,発展途上の現代社会です。

自然人の定義がわからなかった。

自然人とは自然的存在(=生物)として生きている人格のことです。

“生きていない人格なんてあるのか,死体のことなのか”と思われるかもしれません。しかし,会社は法的擬制によって人格を獲得していますが,もちろん生物ではありません。要するに,会社は生物として生きてはいないような人格です。

モノ(物件)システムの自立化だが,モノが物〔=動産?〕である場合は消費することでサイクルがとだえるので,物件,土地の問題だと思ったのだが,それらは変化を起こし自立化したというより所与的なモノであるから,元から自立していると考えたのだが,どうなのか?

動産も不動産も所有物件であるということには変わりはありません。で,システムのシステムたる所以は,消費されて消滅しても,別の物件で直ちに補完されてシステムとして持続するという点にあります。

日本では失業者にたいしての保険制度を十分に確立することができていないと知った。このままでは労働者の雇用条件が悪くなることも考えられる。海外のように日本でも失業保険制度を確立することは不可能なのか?

失業手当の受給率が他の先進諸国(特にEU加盟諸国)に比べて極端に低いということでしょうか? 法制度の問題なのですから,改善は当然に可能です。


  1. (注1)また,逆に言うと,資本主義社会は,資本主義的生産が社会的生産を支配しているような社会であり,利潤最大化が社会的原理になっているような社会であるのにもかかわらず,完全に利潤最大化原理だけでは全体としての社会システムは成り立ちません。例えば,利潤最大化行動が引き起こす自然破壊(外部不経済),失業などについては,資本はこれを社会に押し付け,社会の方は利潤最大化原理とは異なるような公共性原理でこれを解決するわけです。

  2. (注2)ここでは,理論的に,政治権力の介入無しに,市場社会の内部の経済的な運動だけで資本主義社会に以降できるかどうかということを考えています。現実的・歴史的には,この過程は政治権力の介入によって大幅に短縮されました。

  3. (注3)現実の資本主義社会では,もちろん,自営業者が残っているのですが,資本主義的生産の方が支配的なので,資本主義社会といわれています。