このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2013年04月30日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
大体合っています。最も発達したというのは,程度の違いではなく,決定的な違いがあるわけです。人間だけが,周りの全自然を自分のものとして位置付けることができたわけです。なんでそんなことが出来たのかと言うと,人間が労働を行っているからです。これを起点にして,人間だけが効率的にそして社会的に
生活を自分自身で運営するようになり,自分という生き方をしているから自分という意識(自我)を確立し,絶えず効率化しているから絶えず富を拡大してきたわけです。
政治経済学1では,こんな感じです。──誰でも,現代世界で絶えずイノベーションが生じ,絶えず生産力が増大し,絶えず富が増大しているということは認めるところでしょう。その誰でも知っている事実を,メカニズム論(一体どうやってるの?)だけではなく,それとともにその根本(なんでそんなことになっているの?)に遡って考えていこうというわけです。現在やっているのは,根本の方なので,“人間とはそもそもどういうものなのか”なんて議論も入ってくるわけです。後に,ちゃんと今やっている根本に基づいて,メカニズム論を展開します。
なんの具体例でしょうか?人類社会の同じ点
や動物集団と人間社会の違い
については,次回以降に具体例を出しながら話をします。
未来への展望を開く
というのは,基本的に,私の方で詳しく具体的に述べはしません。私の方でも述べますが,抽象的なことしか述べません。何故ならば,もともと未来の話を具体的に模写するなんてことは不可能だからです。もちろん,教員側で好き勝手なイメージを描いて,それを紹介することは出来ますが,それは科学の範囲を超えており,従って広義の範囲を超えています。
従って,未来の具体的なイメージについては,受講生の皆さんに考えていただくということになります。そして,それは,今やっているどの人類社会にも共通な経済活動を考察するだけでは無理です。そのような広義の経済活動を現代的な社会がどうやって実現しているのか,どうやって現代社会がその実現にとってすでに問題になっているのか(どうやって現代社会が現代社会自体のこれ以上の発展にとって障害物になっているのか),ということを考察しないと無理です。要するに,この講義の後半部分を占める現代社会の経済活動を考察しないと無理です。
こういうわけで,未来のイメージについては,この講義では,私の主観的・恣意的なイメージを押し付けるのではなく,受講生がそれを抱くために必要な,理論的な基礎だけを論じます。すなわち,──
そうではありません。一定期間(例えば一年間)に使われた生産手段はその期間に現物で補填されなければならないと言うことです。例えば,稲作農業では,米を収穫するために原料として種もみをまかなければなりません。もし収穫した米を全部食べてしまったら,来年に蒔く種もみがなくなってしまい,来年は米を収穫することができなくなってしまいます。従って,もし生産力が不変であるならば,今年蒔いた種もみの部分は,今年収穫した新米の一部から控除しておかないと,今年と同じ収穫規模で来年も米を収穫することが出来ません。この控除した部分が生産手段の補填部分
です。
なお,種もみではなく,トラクターなんかについては,一年ですっかりなくなってしまうわけではありません。従って,こういうものについては,更新するまでの間,計画的に補填しなければなりません(市場社会では減価償却基金積立という形で行われます)。
とりたくない休憩時間
というのがどういう事態を想定しているのか,今一つ想定できません。労基法や労使協定で休憩を取らなければならないが,自分自身は取りたくないという感じでしょうか?
で,物質代謝の社会的運営においては,コストの大きさというのは,結局,社会的に決まってきます。もし勤務時間内に社会的に必要とされる休憩時間であるならば,個人が取りたかろうと取りたくなかろうと,コストとしてカウントされます。
この問題は基本的に──後でやりますが──,労働の強度の問題と同じです。一生懸命に働くのと,社会的基準から見て普通に働くのと,怠けながら働くのとを比較する場合に,三者の差(つまり労働強度の差)は一定時間内に支出された労働量の差だと考えることができます(その限りで勤務時間内の休憩時間の問題と同じです)。一定のアウトプットを生産するのに,怠けながら働く場合は,社会的基準から見て普通に働く場合よりも,より多くの労働時間をかけてしまうでしょう。この「より多くの」分は社会基準から外れているのでコストにはカウントされません。同様にまた,社会的基準よりもはるかに多い休憩時間もコストにはカウントされません。
現代社会の限界はこの講義の基本的テーマであり,後に現代社会に特有な経済活動を考察する際に詳しく論じます。政治経済学2の基本テーマもそれなので,宜しければそちらも受講してください。
この問題はいろんな側面から論じることができますし,実際,講義でも論じていくことになります。04月30日の講義では,その原因ではなく,その結果に即して,この問題を論じました。すなわち,現代資本主義の社会システムだけが(世界市場という形態で)世界システムを形成することができたということを,04月30日の講義では強調しました。
前近代のシステムは,せいぜい地域と地域,民族と民族との交流のシステムであって,単一の世界システムを形成することができなかったわけです。世界システムではないのですから,日本の封建制とイギリスの封建制とでは全然違いますし,どちらが必然的でどちらが“たまたま”かと論じるのも無意味です。
これに対して,資本主義は世界システムですから,世界の内部にまだ資本主義化していない地域があっても,資本主義のシステムにやがては巻き込まれていく,いやすでに巻き込まれつつあると想定することができます。また,この世界システムの内部にどれほど異なるシステムが並存していても,それが市場と金儲けのシステムだという点では全く同じですし,そのようなシステムであるからこそ経済発展したという点では全く同じですし,しかもそのようなシステムであるということから社会問題が生じるという点でも全く同じです。
結果から判断すると,地域ごとに違うシステムは“たまたま”生まれたシステムであって,すべて単一の世界システムとしての資本主義的なシステムに解消するべきものでした。人類の歴史は資本主義へと向かう歴史,資本主義の歴史だったわけです。
過去からは学べない
ということでは決してありません。そうではなく,学ぶべき過去を直接的に,それ自体として(現代とは無関係に)見てもよくわからないということなのです。現代との関連で,現代をモノサシにして,過去を見た時に,過去は,はじめてその経験から学ぶことができるものとしてわれわれの前に現れるのです。
しています(もちろん,自覚的にではなく,本能的に)。
講義では何度も説明したつもりなのですが,わかりにくかったのかもしれませんね。講義での用語で言うと,対象とはホウレンソウです。
対象を認識せざるをえなくなる理由は,労働において人間は,対象が従う自然法則に自覚的に介入し,自分の思い通りになるように対象を自分の一部にするからです。要するに,ホウレンソウを栽培するとホウレンソウが光合成をしているということをを認識せざるをえなくなる理由は,労働は自覚的にホウレンソウの生命活動に介入する活動であり,しかもわざわざ(コストとしてやる)活動だから,楽をする(コストを減らす)ために人間が自分自身でホウレンソウを光の当たる場所に植えたり光の当たらない場所に植えたりし,楽をした(コストが少なかった)経験を絶えずホウレンソウの栽培に応用する(もう日陰に種は蒔かない)からです。
経済活動の中心が,市場という経済活動しかやらない場で行われ,資本主義的営利企業という経済活動しかやらない主体によって担われているからです。
資本主義的営利企業を想定する限り,おっしゃる通りです。しかし,このどの人類社会にも共通な経済活動を考察している場合には,ポイントは,資本主義的営利企業を想定しなくても,絶えず人類は,物質代謝の効率的運営を実現するために,個人の能力の限界を社会によって(物質代謝の社会的運営によって)解決してきたということです。
複雑労働の話をする時に問題にしますが,一般に,労働を行う前に,知識を得るために必要な行動は労働です(例えば,商社マンが海外取引をおこなうために,前以て英会話を学ぶ,など)。それは一つのコストであり,労働力の価値を高めます。というわけで,その限りでは,私達が今行っている座学
も労働だと言っていいでしょう。まぁ,この講義で得た知識が他の労働で役に立つと仮定した場合の話ですが。ただ,まぁ,高卒の初任給と大卒の初任給との違いは,タテマエ上,大学で皆さんが学んできたおかげでより複雑な労働力になったという点にあるわけですから,そういう風に一括して捉えれば,間違ってないかなと思います。
で,話を今やっている講義に戻しますと,今やっているのはあくまでも知識の生産の話です。生産された知識の普及の話ではありません。つまり,既に存在している知識を獲得したから労働だという話じゃなく,労働していく中で否が応でも新しい知識を生み出さざるを得ないという話です。
人間が発揮している自然的(物理的)な力のことです。精神も大脳の自然的(物理的)な運動の結果ですから,この場合の力には,肉体的な力も精神的な力も含まれます。
一般に,ある目的あるいはアウトプットを達成するためには,それに応じた手段あるいはインプットが必要です。でも,インプットといってしまうと,われわれがわざわざやっているのではないものも入ってきてしまいます。例えば,野菜栽培には水が必要なインプットですが,自然界で勝手に生まれる水(要するに雨)に頼っている限りでは,それはコストにはなりません。コストとは,その目的を達成するのにわざわざやらなければならないものです。例えば,上記の水も,わざわざ人間が蒔けばコストになります。
このようなコストはすべてわざわざやっている活動,つまり労働に還元することができます。現代社会でも,たとえばあなたが自宅の中で自分のためにわざわざラーメンを作っている労働は,「金にな」りゃしませんが,それでもやはりコストです。できるだけ少ない手間でできるだけ美味しいラーメンが食べたいでしょう?
ただし,現代社会では,われわれが生活するための消費手段,そして消費手段の生産のために必要な生産手段の圧倒的大部分が市場に向けて生産され,市場で流通しています。そして,市場では,上記に挙げたようなコストが価格という形で,社会的・統一的に表示されているわけです。例えば,上記のラーメンを生産する労働は,自分の夜食として食おうと,お客さんに売るのだろうと,同じコストがかかっています(注1)が,お客さんに売る場合には,そのコストは価格という形で表現されます。
大体合ってます。
構想という能力があるから人間はヨリ高度な労働を行うことができ
。──その通りなのですが,もともと労働が先にあって,労働がもともと持っている媒介性が構想の実現と(05月07日にやる)意志への従属という形で現実化していったのです。
えっと,「物質代謝=生命活動そのものと考えると,他の動物が全くやっていないような活動も人間の生命活動(生活)にとっては必要なのだから,人間社会のことを考える際には,「音楽を聞く」というのも物質代謝に入れちゃっていいんじゃない」というのがこの講義の考え方です。ただ,これは,現代生物学の分析的な物質代謝概念と違うのはもちろんのこと,古典生物学の総合的な物質代謝概念とも全然違っています。その意味では,この講義の物質代謝概念はやや用語法違反だということを念頭に置いておいてください(ただし,この講義でも,このように定義された物質代謝の根本にあるのは生物としての人間の生命維持です)。
そういうのは,もう,任意に例を挙げることができます。本を読むとかネトゲにはまるとか。
それとは別に,他の動物がしているような生命活動でも,人間の場合には,直接的にではなく,媒介的に行います。例えば,食糧の摂取は人間も他の動物も共通しておこなうものですが,人間の場合には,栄養を取るためだけではなく,美味しいから食べたり,たの人とのコミュニケーションを盛り上げるために食べたりします。これは同じく食糧の摂取といっても,人間と動物とでは全然違います。
えっと,あなたが質問文で書いてある通りです。要するに,抽象的に言うと,自然,生物,人間の違いは“自分”の確立具合です。たの自然との関係の中で“自分”を維持できないのが単なる自然,本能的(対象的)に“自分”を形成・維持しているのが単なる生物,自覚的に自分自身で“自分”を形成・維持しているのが人間です。
自己の力を外に発揮する
ということ自体では,人間もチンパンジーも同じなのです。たとえば,自分の手の傷を自分で治すという場合でも,人間は,自分の有機的全体(ユニット)の部分である自分の手を,自分の外とみなして,自分の外に対するのと同じように,冷静に治療していくわけです。
人間の労働とチンパンジーの生命活動とで違うのは,出発点においては高度かどうかという程度問題でしたが,やがては直接的か媒介的か,本能的か自覚的かという質的区別に帰着します。そして,この質的区別を,二点からまとめたのが構想の実現と意志への従属だったわけです。
(注1)実際には,客にラーメンを売る場合には,夜食で食べる場合に較べて,屋台車購入費や店舗賃貸料のようなコストが別に必要です。ここでは,そういうのは無視して考えてください。