質問と回答

欲望が多々あるにも拘わらず,分業,協業が上手く巡っているように見えるが,何かメカニズムがあったのものなのか? 社会的分業ができて,物々交換ができて,流通ができて……という流れでいいのか? 〔類似の質問だったので,一つにまとめました。〕

流れでいいのか?──まぁ,途中を取っ払って結論だけ言えばそんな流れです。ただ,社会的分業と物々交換とのあいだには結構多くの段階がありえます。詳しくは,試験範囲外のスライド:

をご覧ください。

「効率化」こそ経済の発展ということでいいのか?

経済発展をどう定義するかということ自体が,経済学上のテーマです。発展と成長とは違うのかとか,発展と循環とは違うのかとか(注1)

ここでは,そういう面倒くさい議論を飛ばして,経済発展を,社会的総生産物の総量の増大として定義すると,その達成には,生産力の増大とサープラスの利用との二つの基本的なラインがあります(通常はこの両者が同時に生じます)。「効率化」は生産力の増大を意味します。従って,その限りでは,効率化は,他の条件が等しい限りで,経済の発展に帰結します。

なお,生産力が一定である限りで(従って効率化がなくても),サープラスの利用によって経済の発展をもたらす道については,試験範囲外のスライド:

を参考にしてください(後日,ナレーション入りのスライドを提供する予定です)。

人間は自覚的な社会集団ではあるが,労働のためにはなんらかの欲求が必要であるため本能的な社会集団の側面をもっているのではないか?

ちょっと質問の主旨を捉え損ねているかもしれませんが……

まず,もともと人間も,現生人類の祖先が猿の祖先から枝分かれした時から既に,本能的な集団を持っているのです。しかし,人間は個人として経済活動において本能的存在(生物)としての自分自身を自分自身で媒介しました。そして,経済活動を続けていくと(物質代謝の効率的運営を続けていくと),利害の一致に基づく自覚的な社会形成に至らざるをえないのです。要するに,物質代謝を効率的に運営するようになっても,人間から本能がなくなるわけでは決してなく,その本能を自分自身で自覚的に実現していくわけです。これと同様に,自覚的社会を形成しても,人間から本能がなくなるわけでは決してなく,その本能を社会を通じて実現していくわけです。

この講義は人間の本能や行動などと言った生物学?のようなことが多いように感じるが,〔そのようなトピックスを扱っているのは〕人間の経済的な行動というものの根本はそういった本能から生まれているからなのか?

まぁ,人間も生物なのですから,経済的な行動に限らず,すべての行動は本能から生まれていると言っていいでしょう。極論を言えば,高尚な文学書を高尚に読んで高尚に感動するなんていう,私にはあんまり真似できない高尚な行動も,それを通じて,その人は生物として生きているのですから,本能に基づいていると言っていいでしょう。その意味で,この講義では,物質代謝の意味を,古典的な生物学の範囲から(用語違反と知りつつ)拡げてしまっているわけです。

社会的運営などで用いられる社会とはどういう意味か? 普段私達が使う社会と同じ意味か?

社会とは,本能的な動物集団とは違って自覚的に形成されるべきものです。

  • 啓蒙学派は,社会状態social state)と言う言葉で,社会契約によって──つまり自覚的に──形成されるところの,動物状態(注2)から脱した,人間固有の集団形成を想定しました。学派・思想を問わず,大体,ここらへんが,近代の社会に関するイメージの出発点なんじゃないかと思います(注3)

  • マルクスも,啓蒙思想を批判的に継承し,社会状態(Gesellschaftzustandという言葉で,現代社会が理念としてを明らかにしているところの,自立した自由・平等な労働する諸個人の自覚的なアソシエーションを想定しました。ただ,マルクスによると,現代社会は,確かに形式上は,自由・平等な人格が自分の労働に基づいて所有者になっている(身分や家柄によらずに努力が報われる)ような,そのような社会です;しかし,その実態では,この形式上のタテマエと正反対のことがじゃんじゃん行われているような,いや,それどころか行なわれることによって成立しているような,そのような社会でもあります;しかしまた,まさに正反対であることによって,生産力がどんどん上昇し,社会的富がどしどし増えているような,そのような社会でもまたあります。その意味で,現代社会は,確かにもはや前近代的共同体ではないような“社会”ですが,まだ成立しきった社会ではなく,成立途上にある社会だと考えました。そして,成立しきった社会(社会を通じて個人が豊かになりつつ,しかも個人が実際に自由・平等・所有を実現するような,現代社会のおいしいとこ取りのような社会)の実現を,彼は現代社会がわれわれに要請している未来の課題として考えました。もちろん,そんなおいしいとこ取りが一介の学者の夢想でご都合主義的に成立してくれるわけがありません。そうではなく,「現代社会自身が,現代社会自身がおいしいとこ取りできない自分自身の現状にもう窮屈になってしまっている;従っておいしいとこ取りの方向を模索してる」というのがその主張の眼目になってくるわけです。この講義でも,大まかなところでは,これと同じイメージで「社会」を論じています。

みなさんが日常語で社会と言っている時には,以下の用法があるように思われます。

  1. 現代社会以降しか含まない(狭義の社会)
  2. 動物集団を含まないが,前近代的共同体をも含む人間集団一般(広義の社会)
  3. 複雑な動物集団をも含む大規模集団一般(比喩・類推を含む社会)

第一の用法が,共同体と対比されるべき社会であり,ここで用いられている社会です。

第三の用法は,普通生物学者とかが使う用法でしょう。この講義では,第三の用法は使いません。

日常では,第二の用法が一番多いような気がします。江戸の社会,平安時代の社会,縄文時代の社会,なんて場合には,この用法です。実はこの講義でも,このような広義の意味で社会と呼ぶことがしょっちゅうあります。物質代謝の社会的運営なんて言う場合には,,現代社会をモデルにし,そこから抽出されたものですから,その場合の社会とは狭義の社会です。しかし,「それじゃ前近代的共同体は社会じゃないのか,動物集団なのか,と言われたら,「まぁ,前近代の共同体は,狭義の社会を原理・原則としているわけじゃないから,狭義の社会とは言えない。でも,前近代の地縁・血縁に制約された共同体だって,人間が形成している以上,多かれ少なかれ,狭義の社会の原理は排除できないから,広義では社会と言えるよね。てか,市場なんてのは古代からあるのだし,市場が生まれる限りでは,『4. 市場社会のイメージ』で考察されるような狭義の社会の原理が生まれざるをえないのだから,市場の成立=広義の社会の成立と言ってもいいじゃん。もっとも,やはり前近代では,市場が社会を支配することができなかった──市場社会が成立することができなかった──のであり,その意味では,市場の原理も共同体全体の原理ではなく,共同体の補完的原理でしかなかったわけで,その意味でもやはり前近代は狭義の社会とはとても言えないね」という感じになります。

「引きこもりのような人も経済活動をおこなっており,それは家庭内での生産活動である」という説明だったが,それはつまり物質代謝=経済活動と言うことなのか?

違います。物質代謝と言う場合に,どのような定義で考えても,呼吸は物質代謝の契機です。しかし,寝ているあいだの呼吸は経済活動にはなりません。

講義で述べたのは,現代社会ではほとんど見られない,マジ引きこもりのような,仙人のような人は,社会との関連を絶っている限りでは,物質代謝の社会的運営からは排除されている;しかし,自分の生活を自分で自覚的に営んでいる限りでは,物質代謝の効率的運営を行っている;従って,経済活動を行っている──ということです。

で,おまけとして,呼吸に話を戻すと,寝ているあいだの呼吸はもちろんのこと,他の行為との関連から切り離して考察された限りでの呼吸という行為そのものもまた,経済活動にはなりません。しかしまた,呼吸せずに家庭内で調理している人はいないから,調理という行為の契機としては,呼吸もまた,経済活動の一契機だと言うことができます。

協業と分業との違いがはっきりと分からなかった。個人の能力の限界から他の人間と協力し合うことで,効率性を協業でおこない,市場という全体の中で部門別に労働を分けたという理解で合っているか? 協業と分業はある種つながっているのか?協力する上で各自分担するのでは分業も協業も似ているのではないか? 〔類似の質問だったので,一つにまとめました。〕

あとで資本主義的営利企業の内部での協業・分業のところで詳しく述べますが,ここでは,生産力を増進させる要因としての協業と分業について述べているのではなく,生産様式としての協業と分業(分業に基づく協業)について述べています(この意味がわからなくても,後に詳しく述べます)。結論だけ述べると,社会的協業は単に労働において社会的に協力しあっていること(分担していようといまいとも,協力しあっていること),社会的分業は分担しながら協力しあっていることです。従って,その限りでは,社会的協業社会的分業です。

〔(1)〕自分自身による自分自身の物質代謝の媒介から〔(2)〕物質代謝の効率的運営,〔(3)〕物質代謝の社会的運営へと順番に達成されていくとあったが,順番が変わったり,逆になったりすることはないのか? 社会を媒介にして効率的にするというのは自然を媒介にして効率的にするという段階よりも身近なような気がするが,何故社会利用の方がワンランク上なのか?具体例。 〔類似の質問だったので,一つにまとめました。〕

順番が変わったり,逆になったりすることはないのか?──個人個人の個人的な経験に即しては,いろんな偶然性がありえます。しかし,人類の歴史的な経験としては順番が変わることはありえません。

社会を媒介にして効率的にするというのは自然を媒介にして効率的にするという段階よりも身近なような気がする。──すでに現代社会を前提している限りでは,,効率化する際に,先に自然の変革を利用するか,社会の変革を利用するかということは,偶然的です(どちらもありえます)。しかし,どちらが根源的かという問題を立てる場合には,社会を前提するわけにはいきません。社会がなくても効率化は可能ですから。そう考えると,根源的なのは自然(=自分自身の自然と自分の周りの自然)の利用の方です。具体例と言うか,まぁ,皆さんが,家の中で孤独に料理している時なんかでも,──常にというわけではないかもしれませんが──効率化しようとすることがあると思うんです。

社会的運営について,ヒッキーは効率的運営をおこなってはいるが社会的運営という面ではおこなっていないという理解で大丈夫か?

全く社会と関連を絶っているマジもんのヒッキーについてですね。狼によって育てられた(真偽不明)とかのような場合はともかく,もし社会の中で(あるいは家族の中で)それまでの人類の経験を共有しつつ育ち,その後で社会を捨てたであれば,そういうヒッキーは,社会的運営は行っていませんが,効率的運営は行っています。

個人では成し得ない労働を社会的に協業と分業とを通し運営をすることにより,ヨリ効率的な成果を上げることが可能になったのは良いことだと思うが,これにより自分自身の二重化(自身で自身の行為として自分自身の生命活動を媒介)の考え方が現代では喪失しているのではないか?

自分の手段として(自分のものとして)自由自在に利用したはずの社会が,実際には,自分とは縁遠くなっており,自分のものじゃなくなっており,逆に自分がその中で不自由を感じたり不平等を感じたりするものになっており,あまつさえ,自分を縛り支配するようになっている──という現実のことでしょうか? 確かに,自身で自分の行為として自分自身で自分の生命活動を媒介するどころか,よそよそしいシステムが自分には制御できない縁遠い力として自分の生命活動を媒介しちゃってますね。それはその通りであり,それこそがこの政治経済学が問題にしてる現代社会の特徴です。

それはその通りなんですが,まさに自分を縛る社会をつくっちゃったのは自分自身です。いや,もちろん自分一人でシステムを作ったわけじゃなく,毎日まいにちみんなで,こんなよそよそしい,縁遠いシステムを作っちゃっているのです。ともかく,この個人を支配し,個人の自由を圧迫するシステムは,神様がつくったものでも自然現象としてできたものでもなく,ほかならないわれわれ個人こじんが毎日まいにち形成しているものです。

自分という存在を意識したとしても,社会では自分を殺して生きていった方が上手く回っていくのではないか? むしろ,自分という存在は社会という仕組みに生かされているのではないか?

自分という存在は社会という仕組みに生かされているのではないか──その通りでしょうね。でもその社会という仕組みをつくっているのも,ほかならないあなたなのです。あなた一人ではもちろんありませんし,あなたが生まれる以前から現代社会は存在していますが,その一因として毎日まいにちあなたが社会を作っているわけです。

で,もし現代社会が自分を殺して生きていった方が上手く回っていくとしたら,現代社会がまだ共同体から脱却し切れいていない(共同体原理を現代的にアレンジして上手いこと利用している)ということを意味しています。これは確かにそういう現実があるでしょう。しかしまた,現代社会はそれとは逆の現実をも提供しています。つまり,各人の才能と欲望を最大限に利用しないと上手く回らないという現実です。

〔社会的分業について〕1種の具体的労働を通じ5種の具体的労働を行ったとみなせるとのことだった。これに対して,生命活動の変換という言い方をしていたが,変換という部分に違和感を感じる。何を以て変換と言うのか?

何を以て──5種類の具体的労働を行ったのと同じことになっているからです。1対1変換ではなく,1対n変換です。

違和感を覚えているのは,“5種類の具体的労働を行ったのと同じことになると言っても,一人ひとりを見てみると,1種類の具体的労働しかおこなっていないのであって,実際に行われているのは財貨・サービスの分配であって,それを労働の変換というのはたとえ話にすぎず,不正確ないんじゃないの”──というこでしょうか? 個人個人を見たら,変換なんて起きていません。やってるのは一つのことだけです。目の前に5種類の生産物があることを以て労働が変換されたとか世迷い言を叫んだら,それはたとえ話にすぎないでしょう。「変換」というのがたとえ話ではないのは,社会の中で社会的労働というのが現実に成立しているからです。そして,社会というフィルターの役割を考えてみると,それは,生産物の分配を通じての労働の変換ということになるわけです。いろんな人がやっているいろんな労働が,社会というフィルターの中では確かに全部集まっているのです。まぁ,それを見せろと言っても見せることはできませんが。

「自分自身で自分自身の生命活動を媒介する」というのは何か? いつものように,動物と人間との比較で具体例を出して欲しい。

ライオンは目の前にいるシマウマを本能のおもむくままむさぼり食うだけです。これに対して,人間は野生の牛をむさぼり食うのではなく,自分で飼育して食べます。人間は別に無から肉牛を創り出すわけではありません。肉牛の出産も成長も自然の法則に従ったものです。人間が育てなくても,牛は勝手に生まれ勝手に育ち勝手に死ぬでしょう。しかし,人間はその自然の法則を手玉にとって,ちょうど食べると旨い牛を,自分の思い通りに育てます。人間は必然性あるいは法則に逆らって無茶するのではありません。例えば,ビックリするほど旨い肉牛をつくろうと思って,牛の通り道に落とし穴を作って牛をビックリさせるわけではありません。そうではなく,必然性または法則を知り,それを自分の都合のいいように使いまくるのです。これが自由ということです。

ライオンがやっているのはシマウマを食い尽くすだけです。食い尽くしてシマウマ他の食用動物が絶滅したら,ライオンの運命もそれに従うでしょう。ライオンは大自然の一部として,大自然に埋没し,大自然と運命をともにするでしょう。大自然とともに繁栄し,大自然とともに滅亡するでしょう。これに対して,量的に見て,人間は肉牛の生死という自然の法則を思い通りに操り,肉牛を食い尽くすのではなく,食い尽くした分とそっくり同じまま肉牛を飼育し,あまつさえ頭数を増やしていきます。しかも,質的にも,よりいっそう人間の嗜好に合うように交配を重ね,遺伝子を固定します。自然に埋没するのでもなく,自然の法則に反逆するのでもなく,思う存分自由自在に自然の法則を利用しています。

これが「自分自身で自分自身の生命活動(この場合,栄養の摂取)を媒介する(自分で食べる肉牛を自分で好きなように育てて,食べて栄養を摂取するだけではなく,楽しんで食べて快楽の道具にする)」ということです。

具体的労働とはどのようなものか? 抽象的労働っていうのもあるのか?

具体的労働とは,それ自体としては,労働の具体的な側面です。抽象的労働というのもあります。

私が,今日,3時間かけてシャツを造り,5時間かけてパンを作ったと仮定します。シャツをつくる労働とパンを作る労働とは全く異なる労働です。針と糸で縫ってパンを発酵させることはできませんし,イースト菌を入れてこねてシャツを縫うこともできません。このような労働の具体的側面に着目したのが具体的労働です。

これに対して,このように全く異なる具体的労働であっても,「今日は合わせて8時間の労働をした」と言うことができます。これは全く異なる具体的労働であっても,同じく労働であることに変わりはないからです。従って,その発揮は,具体的なやり方に関わりなく,一定の量をもち,時間で測定されます。このような,労働の抽象的側面,あるいはどんな違った労働だって,その違いに関わりなく(その違いを捨象すれば)同じじゃん,ということに着目したのが抽象的労働です(注4)

この点に,興味のある人は,この講義用に作成したのではないレジュメ:

の「2.4.2 具体的労働と抽象的労働」を参照して下さい。

効率的運営と社会的運営に関して,この発展段階は人間の欲求段階(マズローの理論?)とは別の考えなのか? またこうした発展は人間の本能に基づいたものなのか?

えっと,マズローについては,教科書的な知識しかなく(つまり原典を当たったことがなく),質問を見て急いでWikipediaを見に行ったくらいなんで,火傷しないように詳細な批判は差し控えます。で,ざっくりと行きますが,全く違います。効率的運営から社会的運営へという流れは,欲求を充足するためのやり方の発展です。欲求そのものの発展じゃありません。社会全体の生産力(個人の場合には“能力”で代表させました)が上昇していけば(これは物質的富の増大と必ずしも一致しません),欲求も自ずと多様化し,欲求の多様化がまた生産力上昇の動因になります。

こうした発展が人間の本能に基づいているかどうかと言うと,当然に基づいています。と言うか,そもそも生物の本能に基づいています。講義で強調したように,生物はそもそも生きるという自己目的そのものであり,この目的のためになんでも手段になっているような,そのような本能的な存在です。ただ,人間以外の生物のためには,このような目的を自分自身の行為で媒介して実現するということ,なんでも(手段になっているではなく)自分自身で手段にするということ──これができなかったのです。人間はこれができたのであって,その延長線上に,効率的運営と社会的運営とがあるのです。

自らの効率的運営を極めていくことでやがて限界にぶち当たり,社会を利用しなければならなくなるのだとすれば,逆に社会を利用することで自らの効率的運営を妨害してしまうようなケースは存在するのか?

個別的・偶然的なケースとしては,当然にありえます。例えば,あなたが友人とサークルのパンフづくりで協業しても,相手がボンクラすぎて,こんなことなら自分一人がやった方が速いや,と考えることがあるかもしれません。

しかし,これは社会システム全体にとっては偶然的なケースです。何故に偶然的であって,必然的でないかと言うと,現代社会における企業組織の発展(そしてそれによる効率化)という現実がそれに反しているからです。


  1. (注1)通常は,成長(growth)が単に量的な増大(GDPの増大とか)を意味するのに対して,発展(development)は質的なランクアップ(産業構造の変化とか,前近代的共同体から現代社会への移行とかのような,システムの内的構造の変化)を意味することが多いと思います。循環(Kreislauf)と発展(Entwickelung)との区別を重視したのがシュンペータであって,彼によると,均衡の中で同じプロセスを繰り返すのが循環,これに対して,新結合と呼ぶイノベーションによって均衡を破壊するのが発展になります。彼によると,発展こそが資本主義の本質であって,ここから,利潤も銀行も恐慌も生まれてきます。

  2. (注2)ここで言う動物状態とは,万人の万人に対する闘争(ホッブス)という言葉によって象徴される,北斗の拳のヒャッハーな感じの状態のことです。別に啓蒙思想の人たちがそういう動物状態を実際見たというわけではなく,それは,思考実験において,もし社会契約がなかったらそうならざるをえないだろうと,やはりこの講義と同様に現代社会をモデルにして,そこから彼らが理論的に導出したものです。

  3. (注3)もし社会という言葉や現代の社会のイメージなんかに拘らなければ,自由人による自覚的な集団形成というイメージは太古からあるものです。たとえば,アリストテレスは共同体のテロス(究極目的)としてのポリスを考察する際に,自由人(家内奴隷でも家人ですらもなくただ家長のみ)による自覚的な集団形成を想定しています。

  4. (注4)じゃなんで,労働の具体的側面/抽象的側面と言わないで,なんでわざわざ具体的労働/抽象的労働なんて言い方をするんだよと言うと,現代社会においては,この両側面が分離して現れるからです。

    この点に,興味のある人は,この講義用に作成したのではないレジュメ:

    の「4.1.3.2 具体的労働と抽象的労働」を参照して下さい。