質問と回答

今回の質問は,いずれも,市場社会における“物件的依存に基づく人格的独立”についてなされたものでした。そこで,あらかじめ,総論的に解説をしておきます。人格という主体が対象にするものはすべてなんでも物件という性格を獲得するのです(政治経済学1では前近代的共同体も法も物件として位置付けました)が,現代的社会の物件的運動主体としては,商品・貨幣・資本という物件がこの講義での対象になります。そして,ここでは市場社会としての現代社会に即して話をしているのですから,商品・貨幣という物件を主として取り挙げることにします。

関連する問題を取り扱った質問への回答として,以下のものをも参照してください。

歴史的には,人格が前近代的共同体に埋没していた状態(=人格的依存(注1))から独立して,本来の──つまり労働の概念が明らかにしたような──個人の自立を実現するのに,前近代的共同体での“埋没”から市場社会での“バラバラ”へと,振り子が両極端に振れるというやり方しかありませんでした。そして,バラバラになったのをバラバラなままで結合するのは商品・貨幣という物件を通じてです(物件的依存)。この物件の交換を通じて,バラバラの個人が人格として実現されます(人格的独立)。これが,市場社会における“バラバラ”と“物件的依存”のすべてです。以下,敷衍していきます:

市場社会では,生産については事前的な調整なく個人が好き勝手バラバラに行います。生産の段階では発揮した私的労働が社会的労働になる──つまり社会的分業の一環をなす──かどうかは分かりません。交換が成功して初めて,すなわち商品という物件が売れて初めて,私的生産でおこなわれる私的労働が社会的労働として,したがって社会的分業の一環として実現される;市場社会に参加することができる;市場社会のメンバーになることができるわけです。もし商品という物件が売れなかったら,この個人は無駄で無意味な労働をした;市場社会の形成に参加できなかった;市場社会の社会形成主体になることがでなかった;市場社会から排除されたわけです。

市場社会では,商品生産者はたまたま余ったものをたまたま商品として販売するわけではなく,最初からすべての生産物を商品として生産しています。そして,もちろん,商品はこの商品生産者とは別の他人が消費するべきものであり,この商品生産者自身は他人が生産した商品(生産手段・消費手段)を消費します。ですから,自給自足のヒッキーとは違って,最初から潜在的には,商品生産者は社会の中に入り込んでいます(注2)。つまり商品を商品として生産するということによって,最初から潜在的には,商品生産者は自覚的な人格として商品を生産する生産関係を他の商品生産者との間に,しかし自覚的に,知らず知らずのうちに,結んでいるわけです。換言すると,最初から潜在的には,商品を生産する私的労働は社会的分業の一環に組み込まれています。潜在的だから社会的関係じゃないじゃん,というわけにはいかないんです。何故ならば,商品を生産しないという選択肢は原則的にないのであって,このシステムから逃げたら生きてはいけないのですから;別に選択の自由として,商品生産をしているわけではなく,もう他に選択肢がない故に,もはや前近代的共同体が破壊されてしまっており逃げ場がない故に,商品生産しているのですから。それじゃ,この商品生産しなけりゃならないシステムを誰が作っているかというと,他ならない商品生産者です。常に商品を生産しているから(すなわち常にこのようなシステムを作っているから),常に商品を生産せざるをえない(すなわち常にこのようなシステムに従わざるをえない)わけです。自縄自縛です。

このような諸人格の間での潜在的な社会的関係──商品を生産する関係=商品生産者たちの生産関係──が諸人格の間での交換関係として実現されるためには,ワンクッションが必要です。と言うのも,別に当事者同士が社会をつくりたくてこの交換関係を結んだわけではなく,物件を手に入れるために物件と物件とを交換したら,その結果としてこの交換関係が出来上がってしまった;そして,みんなが交換したら,この個別的交換関係の総和としていつの間にか市場社会ができてしまったからです。人格が社会をつくりたくて社会をつくったのではなく,人格が商品が欲しくて交換したら社会がつくられちゃったのです。逆に言うと,商品という物件が売れるかどうかで,市場社会に参加できるかどうか決まります。従って,現実的には,物件こそがこの結合のマジックアイテムです。

このように交換関係の総体として市場社会が形成されたら,そこから逆算的に,──もちろん,全く売れなかった商品を生産した労働は控除し,売れはしたけどすっごく値下げをしなければ売れなかった商品を生産した労働はその分だけ低く評価した上で──,商品を生産する私的労働が社会的分業の一環をなすような,人格間での社会的関係──バラバラな商品生産者たちの生産関係──が市場社会の実体として現れています。

このように,やはりバラバラな個人をバラバラなままで(二者の関係の総体として)市場社会の形成に至らせたのは,商品という物件です。要するに,商品生産者たちが行った私的労働が社会的労働の一環であるということは,そのまま(人格的に,人格と人格との関係として)実現されるのではなく,商品という物件が売れたということによって実現されます。商品が交換される際に,商品所持者たちが人格として相互的に承認し合い,二者の人格間での交換関係を成立させているわけです。要するに,商品が交換されたから,人格が交換し合ったわけです。商品を交換するために,その手段として,人格が交換関係を結んだわけです。

こうして,二人の人格の交換関係は二つの種類の商品の交換関係の実現形態です。ところが,この“二つの種類の商品の交換関係”が意味しているのは,それぞれの商品が社会的分業と社会的欲求との体系の中で,交換可能な形で生産されたということです。すなわち,交換の前にすでにすべての商品の社会的関係も潜在的には成立しているわけです。

その社会性を表現しているのが価値──貨幣で表現すると価格──です。価格とは明らかに重さとか長さとかのような自然的な属性ではなく,人格たちの社会的関係を表しています。しかしまた,商品所持者という人格そのものが価格を持っているのではありません;商品という物件が価格を持っているのです。つまり,市場社会では,人格が費やしたコストを物件の価格として表現しているわけです(注3)。そして,価格を持っているという点で,商品は他のすべての商品と関係を持っています。交換においては,二人の人格の間での交換関係が成立しているのと同様に,二つの物件(商品と貨幣)との間での交換関係しか成立していません。しかし,商品は交換される前から,価格(=貨幣の分量)という形ですべての商品と関係を結んでいるのです。この段階では,まだ人格同士の関係は実現されておらず,人格同士はバラバラなままですが,すでに商品生産者という人格が生産した商品すなわち物件は,価格という形で他の商品との関係──物件間での関係──を形成しています。もちろん,物件間での関係と言っても,自然物が社会関係を結ぶわけがありません。そうではなく,ここで言っている物件の関係とは,物件の間での関係という形で現れている人格の間での関係のことです。つまり,物件というのは人格の社会的な関係の非人格的な形態です。

さて,このように商品という物件は,ただ人格の社会関係,商品を生産する商品生産者たちの関係の中でのみ商品でした。商品そのものが,価格という形で他の商品に対する物件的関係を,したがってまたそれを通じて商品生産者たちの人格的関係を内包しています。人格が誰もいない冥王星にでも持って行っちゃったら,それはもう商品でもなんでもなくただのゴミです(正確にはそれはゴミですらありません。と言うのも,ゴミはゴミという被規定性で人間と関係を持っているものですから)。

このように商品という物件は人格間での関係が外的に(つまり人格の外に,すなわち物件として)現れた物件間での関係の結節点であり,この関係の中でのみ意味を持つただの客体です。しかし,人格は自分たちが共同で生み出したこの物件に対して,一方では自由な人格として客体に対する仕方で振る舞いながらも,他方では主体に対する仕方で振る舞いもします。要するに,われわれは,一方では,自由な人格として,社会的に承認された私的所有者として,この物件を自分の目的のための都合のいい手段として好き勝手に使いながらも,他方では,物件という形で自分たち自身が生み出したシステム,社会的関係によって支配されます。こうして,物件は関係から自立化しています。いまや,単なる客体が主体として現れ,単なる手段が自己目的として現れます。

もっとも,物件が自立化しているというのは,商品の場合には納得できないかもしれません。けれども,この自立化は,商品→貨幣→資本と進展していくのに連れて,だんだんと目に見えてきます。

貨幣

売れる商品を生産した人がこの市場社会の社会形成主体としてこの市場社会に参加できるわけですが,商品が持っているこの力は貨幣が生まれてくると貨幣の方に移ります。貨幣は(その金額以下の)商品を必ず買えるからです。誰でも紙幣なんてただの紙っ切れにすぎないことは知っています。でも,もしこの紙っ切れが私の手から離れて風に飛ばされたら,私は目を血走らせながらあり得ないようなスピードで追いかけます。無価値な紙券だというのはわかっていても,それに弄ばれ,振り回されます。そうせざるをえません。何故ならば,“価値を持ってますよ”,“なんでも買えますよ”というわれわれの間での約束事が,つまりわれわれの社会的関係がこの無価値な紙券の中に入っているからです。われわれ自身が市場社会の形成を通じてつくりあげている約束事なのですが,この約束事はいまや(われわれが変えることができないものとして)われわれに強制され,われわれの行動範囲と行動方向とを限定しています。実定法ならばわれわれが変えることができますし,法治国家においてはそれを変えるための手続きも整っています。しかし,貨幣の場合には,日銀が円紙幣を廃止したところで,市場社会が存続している限りでは,民間で他のものが貨幣として使われるだけのことです。

資本

資本家が変わっても労働者が変わっても存続するgoing concernとしての資本(わかりやすくイメージすると資本主義的営利企業)になると,物件の自立化が納得できるでしょう。資本家がこの企業を売却するとこの物件は別の資本家の所有物になりますが,だからと言ってこの企業=物件が消えてなくなるわけでもないし,別の企業=物件になるわけでもありません。ただ,この同一の物件(資本主義的営利企業)を所有している人格(私的所有者=資本家)が代わるだけの話しです。そして,このプロセスは,ただの物件が法的人格を獲得して,それ自身私的所有者として,資本家(=株主)からも自立化してしまう株式会社においては誰の目にも明らかになります。

市場における生産・流通の担い手が何故に原理上,個人を想定しているのか?

範疇的・必然的な商品交換が,従ってまた市場が,前近代的共同体(前近代的家族を含む)からの個人の分離を,共同体からバラバラになるという形での私的個人の自立を想定しているからです(注4)。そして,このような私的個人の自立は,これはこれで,共同体からの干渉を排除する私的生産(注5)を想定しています。これが原理です。

さて,市場社会は商品交換の総体として現れます。そして,講義で述べたように,商品としての机は,個人が売るものも資本主義的営利企業が売るものも,同じものです。重要なのは物件であって,その物件を売る主体は個人であろうと資本主義的営利企業であろうとも,あるいはまた,その商品の生産者であろうと単に転売している者であろうとも,どうでもいいのです。そして,どうでもいいということは,原理に応じて想定しなければならないということ,つまり自立した個人を想定しなければならないということを意味します;逆に言うと,どうでもいいからと言って,本来は市場にとって異物である非市場的な組織を内包する資本主義的営利企業を想定するわけにはいかないということを意味します。

資本主義的営利企業の場合にも,内部組織は交換関係には現れません(市場は誰でも立ち入り自由,資本主義的営利企業の内部は関係者以外立ち入り禁止)。交換関係はあくまでも自立した人格同士が結びます。法人化していない個人企業の場合には,私的個人としての資本家あるいはその代理人,法人企業の場合には,法的人格としての会社そのもの(もちろん,実際の交換は自然人によって媒介──代理あるいは代表──されます)。どちらの場合にも,法的人格を持っていない企業組織なるものは交換関係に現れません。

え? 団体交渉(collective bargaining)の場合にはどうなるのかって? はい,労働組合が行う団交は市場の個人主義的原理の侵害ですね(実際に,労働組合が発生した時には,それが市場の原理にマッチしないから,“中世的ギルドの復活だ”と非難されたものです)。そしてそれは,まさに,資本主義的な社会的生産の組織的原理によって,私的な市場での私的交換の個人主義的原理が維持することができなくなっているということを意味しています。簡単に言うと,労働力しか販売するものがない賃金労働者も,多数の賃金労働者を雇用する資本主義的営利企業も,どちらも市場社会がの原理にマッチするものではありません。市場社会の原理にマッチするのはあくまでも個人的な私的所有者,すなわち,生産者としては自営業者です。自分で生産手段を私的に所有していないような賃金労働者も,内部に労働組織を抱える資本主義的営利企業も,形式的には市場のタテマエを満たしていますが,実質的にはそれと矛盾しています。

われわれの最初の想定(資本主義社会の成立の想定)では,市場社会の原理と資本主義社会の原理とがバラバラなまま統一されているということでした。しかし,政治経済学1で既に見たように,そして政治経済学2でこれから見ていくように,資本主義的生産はおとなしくバラバラなままではいられないのです。資本主義的営利企業の利潤追求行動に連れて,生産力の上昇に連れて,社会的富の増大に連れて,──一言で言うと,社会的労働の発展に連れて──,ますます市場社会の原理が窮屈になってきます。しかし,窮屈になったからといって,市場社会の原理を捨てるわけには生きません。何故ならば,利潤追求は市場を通じてのみ可能だからです。

このような資本の社会的な力を労働力市場で反映しているのは,労働力しか売るものがない個々の賃金労働者と資本とは対等(=平等)ではないという単純自明な事実です。そして,労働力という物件は労働者の人格と一体のものであり,使用者の自由に任せるわけにはいきません。CDのレンタルならばそれをどう使おうと借り手の自由です。ぶっ壊したら同じCDを買い直して弁償すればいいのです。これに対して,もし労働災害で脚を切断する事故があれば,金を弁償すればいいというわけにはいきません。労働災害は論外としても,金を払えばいくらでも長時間労働させていいというわけにはいきません。また,賃金が極端に安くなって生活費をまかなえないくらいになったからと言って,供給調整することはできません。ギャラが安すぎるからと言って,待ちのポジションに立って,“こんなに安いなら俺は労働力市場に参加せずに霞を喰って生きるぜ”というわけにはいきません。その結果は失業の継続という形で現れます。

労働法の整備は,社会的意識によるこのような現実の追認(すでに出来上がっている事実の承認)であり,かつ,その円滑な運用のための制度化です。個々の当事者たちに対して外部的に強制することによって,資本にとっても労働者にとっても,競争条件が均等化されます。また,労働力市場というのは,なんらかの形での制度的調整がないと機能できないような市場です。

個人が市場社会によって独立を果たし,その結果として個人がバラバラになってしまったが,その事によるデメリットは何か?

デメリットというのは,何を基準にするか(なんと比べてデメリットか)で話が違ってきます。前近代的共同体に較べると,少なくとも経済的には(要するに生産力の増大と社会的富の増大という点では)メリットばっかりだと思います(注6)

しかし,どの人類社会にも共通な経済活動──と言うか経済活動の概念──から見ると,また話は違ってきます。バラバラになるという仕方でしか,集団からの個人の自立が達成できなかったわけですが,その結果として,市場社会は人格たちによる制御を越えてしまいました。;つまり,自由自在に使える単なる便利な手段ではなくなりました。市場において歴史上初めて実現された自由な人格の形成と,市場という形で歴史上初めて実現されたグローバルなシステムとを,そのままにしながら,便利な手段として個人たちの制御下に置くということが未来社会の課題だと思います。

個人と個人だけではなく,個人と社会もバラバラな対立関係へとなったが,その事で何が起こるのか?

社会は,個人が自由に利用し,自由に制御する便利な手段であるだけではなく,それと同時に,個人たちには制御できないような,個人を支配するような,巨大な物件的なシステムとして現れます。

物件に依存というのはどういう意味なのか?

バラバラな個人がバラバラなままで社会を形成していく際に,物件の関係を媒介にするということです。要するに,現代の資本主義的な市場社会において,人格が私的人格として個人の自立を実現する際に,その基礎として,その社会性をになっているのが物件的依存です。

個人の関係によって社会が形成されている以上,それ〔個人と社会と〕が結果的であってもバラバラではないのでは? ましてや個人と社会が対立するというのはおかしいのでは?

その社会の形成の仕方が問題なのです。市場社会は,交換関係の総体によって形成されていますが,個人が自覚的に形成したのは個々の交換関係だけです。そして,この交換関係は,原理的には一回こっきりの孤立化された関係です。バラバラな主体が市場では,自分の需要にマッチした商品を購買し,そのような買い手に販売するわけです(注7)

別に合意してつくったのでもなければ独裁者がつくったのでもない。いつの間にかにできちゃった,しかもその構成員はアカの他人同士であって,その社会形成は二者間での個別的交換の中にしかないのだから,この社会は個人とはバラバラなのです。客観的に見てバラバラだというのは,個人の主体的な振る舞いに即して言うと,ヨソヨソしいということに現れます(注8)。間違いなく自分たちがつくったのですが,それにもかかわらず,自分たちの上に立ち,自分たちを支配し,自分たちはそこに参加しなければ生きていけない(市場への参加については選択の自由などない)。そういう意味でヨソヨソしいのです。労働の原理に基づくと,社会は自由な人格が自分たちの都合のいいように,自由自在に形成する,便利な手段・媒介なのでした。ところが,市場社会は,間違いなく神とかその類じゃなくて自分たちが商品交換によって形成したのですが,自分たちによって自由自在に制御できるものではない物件的なシステムです。このような形で,一般論として,個人と市場社会とは対立しています。

この対立の資本主義社会における展開を,この政治経済学2では,個人と資本との対立(あるいは人格と資本という物件との対立)という形で見ていくことになります。資本という物件が社会だと言っても,ピンと来ないかもしれません。しかし,そもそもこの講義で言及している資本というのは自然物ではなく,社会的なシステムの構成要素です(諸人格の社会関係の外に置かれたらただのゴミです)。資本は,物件という形で人格に対して外的に自立化した社会関係そのものです。それだけではなく,資本は,資本家との関係だけではなく,従業員との関係をも内包しているような物件です。

株式会社における人格と物件との関係がよくわからない。

今後詳しく見ていきます。ポイントだけ言うと,資本という物件は株式会社という形で人格(この場合には資本の私的所有者,すなわち資本家,株式会社の場合には株主)から完全に自立化します。これによって,一方では,物件(=資本)と人格(=資本家)とが絶対的に分離されます。それとともに,この物件が擬制的に人格を獲得します。これによって,逆に,他方では,物件(現実資本としての株式会社)と人格(=法的人格としての株式会社擬制)とが直接的に統一されます。


  1. (注1) 「人格的依存」という用語は本当はおかしいのです。その理由は以下の通り:

    第一に,関係を結ぶ主体について

    政治経済学1で見たように,前近代的共同体でも,個人が労働する限りでは,自分の手段として社会を形成することができるような自由な社会的主体,すなわち(本来の意味での)人格が発生してはいる。しかし,個人は,共同体に埋没している(共同体の付属物,共同体の器官になっている)限りでは,このような人格として実現されはしなかった。しかるに,このような主体は,現代市場社会において,共同体から切り離されて初めて,人格として実現された。

    第二に,主体が結んだ関係について

    そもそも前近代的共同体は,個人を支配するような,そして生きた人間ではないような,システムであった。その限りでは,前近代的共同体は人格ではなく,物件である。共同体に属している各個人は,横の関係で言うと社会的分業,縦の関係で言うと身分に応じて,共同体を維持する器官として振る舞っている限りでは,前近代的共同体というこの物件の付属物でしかない。それゆえに,共同体に属する個人の間での関係は,──百姓と百姓とであろうと,百姓と殿様とであろうと──,純粋に人格的な関係ではなく,実際には,人格的な関係と分離していないような,人格的関係と一体になっているような,そのような物件的な関係である。しかるに,人格的関係は,現代市場社会において,私的所有者間での関係として,物件的な関係そのものから分離して初めて──ただし,物件的な関係を人格的に実現するものとして──,実現された。

    このように,本当はおかしいのですが,便宜的に,人格的依存というこの用語を用いていきます。

  2. (注2)すでに述べているように,動物集団とは異なる人間社会は自由・平等な人格が自覚的に形成するべきものです。しかし,もちろん,この場合の社会は事実上の社会であって,しかるにまだ自覚的に形成されたものではありません。また,この社会は後に交換過程で自覚的に実現されますが,しかし,そこでは,自覚的な関係という形式をなしているのは二者間での関係だけです。

  3. (注3)もちろん,価格は需給によっていくらでも変化することができます。しかし,ここでは自由競争といくらでも供給数量調整可能な商品とを想定しています。この想定の下では,価格はコストに等しくなります。

  4. (注4)この講義でも強調したように,商品交換の歴史的起源をイメージすると,自立した個人と個人と間での社会内での交換ではなく,共同体と共同体との間での交換がその出発点なのだと思います。要するに,共同体からの個人の自立なんて存在しない時代からすでに商品交換が行われていたはずなのです。しかし,やがては,個人の自立──とは言っても,最初は,それ自体,ミニ共同体にすぎないような家族の,村落共同体からの自立だったでのしょう──に連れて,このような共同体間での交換が共同体内にも浸透していきます。市場社会を形成するような交換はこのような交換です。ここでも,人間の解剖が猿の解剖の鍵になるのであって,起源における未熟な商品交換ではなく,発達した商品交換から,市場の原理を導出するしかないのです。

  5. (注5)ただし,講義も述べたように,私的生産と商品生産とは必ずしも同時に成立したわけではありません。歴史的過去の遺物としては,私的生産ではないような商品生産(共同体間での商品交換)をも,商品生産ではないような私的生産(荘園制など)をも,どちらをも想定することができます。

  6. (注6)もちろん,市場における人間破壊と自然市場破壊とは生産力にとってはマイナス要因です。しかし,それらは,──或る程度までは市場社会そのものにも不可避的ですが──,しかし自営業者を想定している限りでは,大したものにはなりません。自営業者が自分の土地を汚染したり,自分の肉体を疲弊させたりするのは,いかに競争の圧力があっても,限定的に留まるでしょう。

    “コモンズの悲劇”に対する対策としてしばしば挙げられるような,私的所有による自然破壊抑制は,基本的に自営業者を表象しています。これに対して,前近代の村落共同体では入会地は厳しい共同体規制におかれている──よそ者が使ったら袋だたき──のが通常です。従って,共有財のただ乗りというのは,他者を徹底的に搾取する(搾取というのは要するに労働力のただ乗りです)という資本主義的営利企業の営利的原理に基づいています。

    政治経済学2のテーマになりますが,資本というのは,その発展を通じて,他人の労働,他人の自然(誰でも使える自然を含む),他人の貨幣を徹底的に利用します。そして,条件さえ整えば(要するにそっちの方が儲かるならば),いくらでも人間も自然も使い捨てます。特に,他人の貨幣の使用に対する無責任体制──市場社会の自己責任原則に反する──については,信用制度と株式会社とを通じて,考察します。

  7. (注7)継続的取引は原理的には市場での個別化・孤立化された取引という原理の否定です。従って,それは,──もちろん自営業者間でも行なわれることがありますが──,資本主義的営利企業間での取引であって,要するにこの講義のテーマである,資本主義社会の原理(ここでは非市場的組織形成の原理)が市場社会に浸透し,市場社会の原理を否定しているということを意味します。資本主義的営利企業と従業員との継続的取引(雇用の長期化)も,この文脈にあります。

  8. (注8)バラバラというのは正確に言うと“孤立化している”状態を形容しています。ヨソヨソしいというのは正確に言うと“疎遠である”状態を形容しています。

    え? 前近代的共同体の場合でも,共同体の一部になれなければ生きていけないだろうって? そりゃそうです。政治経済学1でもやりましたが,前近代的共同体もその意味では個人にとってはヨソヨソしいものです。そこから追放されたら個人はかなりきついことになります(村八分)。でも,前近代的共同体の場合には,最初っからもう個人の独立なんてないのです。個人が共同体にくっついちゃっており,個人と個人がくっついちゃっている(人格的依存)のです。これに対して,市場社会の場合には,個人が独立した上で,バラバラになることでヨソヨソしくなっているわけです。バラバラになることでヨソヨソしさが極限まで行き着いているわけです。