質問と回答

市場と企業の編成原理の疎結合と密結合との違いは,〔前者が〕が人格的な繋がりが薄いということと〔後者が〕人格的な繋がりが濃いということという違いなのか?〔わかりやすくなるように,若干,質問文に手を加えました〕

政治経済学1の企業内分業のところでやりましたが,その違いは商品交換によって媒介されているのかどうかの違いです:市場での編成様式は,二者が自由に相手を選んで,両者の合意にのみ基づき,物件を手に入れるために交換するという個別的関係の集合です。そして,この集合には全体的な計画も権威もありません。むしろ,各参加者が生産において分散しているからこそ,交換によって結合しなければならないわけです。これに対して,たとえ仮に,ある企業に雇用されているすべての労働者が日雇いであり,次の日には総取っ替えになるとしても,業務計画に基づき業務命令に従って労働者同士が選択の自由なく協力させられている以上,企業の編成様式は,市場でのそれよりも密になります。否応なく協力し合って生産物を生産するわけです。そして,たとえ次の日には労働者が総取っ替えになるとしても,このような組織はgoing concernとしての企業の内部に残ります。

その上で,両方の編成(市場と資本主義的営利企業)と人格的な繋がりとの関連について補足しておきます。

  1. 第一に,原理的な関係(市場と企業内組織とは水と油)に忠実に従って言うと,こうなります:

    市場

    一方では,人格的な繋がりがあるのはむしろ市場の方です。と言うのも,少なくとも交換し合っている両者は自由・平等な人格として承認し合っているからです。

    資本主義的営利企業

    他方では,賃金労働者が自由・平等な人格でいられるのは労働力市場においてであって,資本主義的営利企業の中では資本という物件の一部分,物件の存在形態になっています。と言うのも,資本主義的営利企業の内部では従業員は同じ企業に雇用された他の従業員と,──自由な人格として自由自在に関係するのではなく──,業務命令に従って強制的に関係させられるからです。

  2. しかし第二に,展開された関係(つまり絶えず自己否定して革新する資本主義のダイナミクス)を考慮に入れると,上記の原理的な関係もまた相対化されます:

    市場

    一方では,──そもそも市場で交換する人格は,物件的に形成された社会関係を実現している(人格たちが交換する前にすでに諸商品の関係として逃げることができない社会関係が形成されている)わけですが,それを別にしても──,消費手段市場での買い手である消費者および労働力市場での売り手である労働者は確かに自然人としての人格ですが,消費手段市場での売り手,労働力市場での買い手,そして生産手段市場での買い手かつ売り手は資本主義的営利企業であり,しかも支配的形態(売り上げの大部分をなしている形態)としては株式会社です;要するに自然人としての人格ではなく,物件です。

    資本主義的営利企業

    他方では,資本主義的営利企業の内部で形成された従業員間での社会関係は,──確かに個々の従業員は替えのきくパーツであり,すべての従業員を入れ替えてもこの企業(ここでは物件的に自立した会社企業を想定しています)は存続していますが,それでも──,共同で協力し合って労働していく中で自分の人格性を実現することになります:

    労働(すなわち主体)の共同性に即して

    協業は,代表取締役(非株主の専門的経営者を想定しています)から派遣労働者にいたるまで,すべての労働者にとって,確かに形式上,他人の(つまり会社の,つまり他人と言っても物件の)業務命令に従ったものです(注1)。しかし,それでもやはり事実上,労働者たちはこのような他人の意志を自分たちの意志として,自分たちの共同意志で,実現しています;要するに会社の意志に自分たちの意志をすりあわせています。

    生産手段(すなわち客体)の共同性に即して

    すべての会社財産は,ボールペン一本さえも,代表取締役から派遣労働者にいたるまで,すべての労働者にとって,確かに形式上,他人の(つまり会社の)所有物です。しかし,それでもやはり事実上,共同的にしか使用できない共同的生産手段(注2)を,この労働者たちは自分たちの協業を通じて共同に占有しています(注3)。共同的生産手段はいまや,──会社という(法的人格を獲得した)物件の私的所有物であって,しかるに──,資本家という(自然人としての)人格の私的所有物ではなく,そして労働者はそれを個人で使うことはできません。みんなで,みんなの労働を実現する条件として共同的労働手段を使用しているわけです(注4)

資本主義社会のもとでの貸付は,例えば土地を担保にした場合,その土地の価値を貸方が信用して,貸付が行われると思う。この際,この土地を所有している人物は,労働によって所有〔した〕(得た)という信用によって所有者になっていると思う。この時の土地の価値を信用することと,所有者であることを信用するとの信用は別物なのか?

まず,貸付の場合の信用は,利子付きで元本を返済するという約束の信用です。しかるに,担保物件は,返済できない場合の最後の保険です。それ故に,借り手が返済するということを貸し手が信用している以上,担保物件を巻き上げるのはこの貸付においては予想外の事態です(高利貸しモデルと企業間貸付モデルとの違いは今後もう少し詳しく説明します)。要するに,その土地の価値を貸方が信用して,貸付が行われる以前に,まずは“この借り手が必ず返済すると貸し手が信用して,貸付が行われる”のだと思います。

土地の価値を貸方が信用するという表現においてあなたが信用呼んでいるもの,および,労働によって所有〔した〕(得た)という信用によって所有者になっているという表現においてあなたが信用呼んでいるものは,経済活動において“信用システム”とか“信用制度”とか“信用売り”とか“銀行信用”とかと呼ばれる場合の信用とは異なります。後者は債権債務関係と結合しており,貨幣を代替する──あるいは貨幣と一体化する──ものです。

その上で,土地価格が安定していると信じたり,自己労働に基づいて所有者になっていると承認したりしたということは基本的に信じる側の主観的判断です:

  • 第一に,土地価格の場合には,土地という物件に対する人格の意識の関係です。

  • 第二に,自己労働に基づいて所有者になっていると承認する場合には,他の人格に対する人格の意識の関係です。すでに述べたように,労働と交換とは分離されているから,この場合の承認は形式的なものになります。実際には,調べたところで,本当に自己労働に基づいているのかどうかは分かりません。従って,現実的には,登記簿なんかを調べて,法的に認められた私的所有者であったら,それで私的所有者だと承認するしかありません。すでに述べたように,交換過程で私的所有者として承認するということは,結局のところ,自己労働に基づいて所有していると想定するしかないわけです(注5)

信用と所有とは別に捉えていいのか?

信用という客観的関係そのものは所有関係とは別の関係です。

所有は人格が物件に対して自分のものに対する仕方で関係しているということ,意志を以て“これは俺のものだ”と振る舞っているということです。これが成功するためには,みんなの承認が必要なわけです。“これは俺のものだ!”と宣言しても,別の人から“いやいや俺のものだ”と言われたら,所有は実現されません。要するに,所有は,人格と人格との関係によって媒介された,物件に対する人格の関係──所有物件に対する所有者の関係──です。

これに対して,経済的な意味での信用は,人格が物件の将来的な引き渡しを人格に対して信用すると言うことです。要するに,信用は,物件によって媒介された,人格に対する人格の関係──受信者に対する与信者の関係──です

しかし,信用から直接的に生じる債権的権利は所有権の一契機です。また,どちらも実現された人格的関係です;すなわち自己意識を持つ人格が交換過程において自覚的に結ぶ関係です。

信用創造によって得たものは所有に含まれるのか?

誰が何を得たのでしょうか? 今日では創造された“信用”は,要するに設定された預金という形態を取っています。

以下では,今日のように銀行券発券が中央銀行に独占されているという事態が想定されています。そうでなければ,各行宛の銀行券を無準備で発券する場合にも信用創造が可能ですが,その場合も話は無準備の預金を設定する場合と同じになります。

銀行

銀行は,設定された預金については債務(自己宛の要求払の債務)を負っており,同額の貸付金については債権を持っています。銀行が貸付債権という形で所有しているのは,貨幣資本です。

借り手である預金者

借り手である預金者は,設定された預金については債権を持っており,同額の借入金(借り入れた貨幣資本)については債務を負っています。形式上・法律上,預金者は貨幣を消費寄託しているのであって,預金というこの消費寄託された貨幣を預金債権という形で所有しています(注6)。もちろん,もし借り手である預金者がこの借入金で生産手段(現実資本)を購入すれば,この借り手はこの生産手段を所有しています。

生産と市場〔流通のこと〕は別のものと言っているが,両者が混同することはないのか?

混同と言うか,資本主義的生産の原理と市場での単純商品流通の原理とが,──別々のものでいられずに(無関係のものではいられずに)──,矛盾すればするほど(矛盾するという仕方で関係し合えばし合うほど),両者の相互浸透が生じます。ただし,両者は浸透するのですが,現在の社会システムにおいては一致することはできません。

  • 一方では,資本主義的生産に単純商品流通の原理が浸透します。例えば:資本主義的営利企業の内部での非市場的な組織において,擬似的市場の導入によって,コスト管理を徹底させます。雇用関係が長期化すると,擬似的労働力市場が企業組織の内部に生じます。

  • 他方では,単純商品流通に資本主義的生産の組織的原理が浸透します。例えば:企業に対する労働者の交渉は,自立した個人同士の自由な契約の原則に明らかに反する団体交渉になります。企業間での継続的取引やサプライチェーンマネージメントは,非市場的な組織原理を市場の内部に持ち込みます。

企業の資本家とは現在では株主なのか?

株式会社については資本家は株主です。今後の講義で詳しく見てきます。

なぜ市場社会の原理における交換主体は個人でなければならないのか? 共同で生産を行い共同で所有しているのは私的ではなくなるからか? 仲間内で集まって生産を行い,売れたら貨幣を分け合う,生産手段を構成員が所有したままおこなう労働(物理的に個人ではできない故に協力しているなど)でも市場社会の原理にそぐわないのか?
生産手段を構成員が所有したままおこなう労働……でも市場社会の原理にそぐわないのか?
生産協同組合

生産手段を構成員が所有したままおこなう労働(物理的に個人ではできない故に協力しているなど)とあなたが言う生産モデルに最も近いのは生産協同組合だと思います。生産協同組合では,すべての労働者が私的所有者であり,すべての所有者が労働者です。ただし,生産共同体は仲間内で集まっているという形態を想定しているのではなく,比較的に大きな労働組織を想定しており,かつメンバーの私的所有権も限定的であり(単なる持分に過ぎない),かつメンバーが脱退しても労働組織は存続します。

この講義ではきちんと取り扱いませんが,生産協同組合の意義は株式会社の意義とほとんど同じです;すなわち,市場社会の原理である私的所有を否定するということです。異なっているのは,株式会社が利潤最大化を追求する(注7)のに対して,生産協同組合は利潤追求を原理にしていません。しかしまた,市場で株式会社と並存して,市場で株式会社と競争する限りでは,生産協同組合は不利でしょう。何故ならば,株式会社が社会の貨幣を集めているのに対して,生産協同組合は労働者の貨幣しか集めていないからです。この不利益を克服するためには銀行―信用制度を通じて,社会から貨幣を借りるしかありません。

一時的・中間的形態

もし仲間内で集まっているという形態をあなたが強調しているのであれば,共同出資者がまだ会社規模が小さいので自分たち自身で働き,出資していない単なる労働者を雇用する余裕がまだない場合がこれにあてはまるかもしれません。しかし,このモデルは明らかに自己崩壊的であり,過渡的です。何故ならば,もし事業が成功して軌道に乗ったならば,更なる利潤追求を求めて,出資者ではない(所有者ではない)ような単なる賃金労働者を雇用するようになるだろうからです。

どちらの場合でも,市場で交換をする場合には,個人が代表することになります。

なぜ市場社会の原理における交換主体は個人でなければならないのか?

理念的に言うと,組織が交換主体になることができない(想定していない)からです。自由意志で契約を結び,自分の利益を追求し,自分の責任で交換することができるのは自然人としての個人だからです。

市場社会の原理にそぐわないのか?

そもそも非市場的組織は市場社会の原理にはマッチしません(資本主義社会の原理にはマッチします)。


  1. (注1)もちろん,人間ではない会社に意志なんてものがあるわけではなく,実際には業務命令は,もともと人間(従業員)が作成したものに決まってます。問題はそこではなく,それが会社の命令という資格においては,経営陣から派遣労働者まですべての賃金労働者にとって従うべき他人の(会社の,つまり物件の)命令になるということです。

  2. (注2)ボールペン一本ならば,私物化することができるかもしれません。しかし,例えば,機械設備はそもそも協業を労働手段の編成として科学的に体系化したものであるだけではなく,その使用もまた協業を前提しています。

  3. (注3)この場合の「占有」(英:possession / occupation;独:Besitz)とは,社会的承認(従ってまた法的承認)抜きにして,事実の問題として,対象に対して自分のものに対する仕方で関係しているということです。これは通常の用語法でもここでも同じです。

    ただし,異なる点もあります。通常,占有は,特に個人による支配の排他的(exclusive)な側面が強調されることが多いと思います。しかし,ここでは,共同的労働手段については,そもそも個人による,他の個人──ただし同じ労働組織を形成している協業者──を排除するのは不可能でもあり,無意味でもあります。たとえば,会社の金槌ならば“俺の金槌”として個人が事実上,占有してしまうこともあるでしょうが,会社の工場全体の場合には,どうやっても一人じゃ稼働させられません。つまりは,ただ協業するということによってのみ,この機械設備が自分のものだという仕方で振る舞えるのですから,他の協業者を排除したら無意味になるわけです。すなわち,個人個人が共同的生産手段に対して自分のものに対する仕方で関係しているのではなく,あくまでも,協業(協働労働)を行う限りで,協業する個人の集合として共同的生産手段に対して,事実上,自分たちのものに対する仕方で関係しているのです。これがここでの共同占有の意味です。

  4. (注4)生産手段の共同性とその共同占有は,協業と機械設備とを前提しますが,必ずしも株式会社形態を前提しません。ただし,株式会社(専門的経営者が経営する大規模公開株式会社を想定しています)になって資本家という(自然人としての)人格の所有物が企業の内部から消滅するということによって,企業内の労働者の組織の共同利益が明確になっています。

    とは言っても,このような共同利益は,株式会社が私的所有を前提している(私的所有という,今となってはやっかいものになってしまったタテマエを,しかし捨てきれない)からこそ,共同利益として社会的に承認されるものではありません。もし協業と機械設備とだけを前提するだけならば,この共同利益は,例えば労働者たちが生産手段を自分たちのものとして大切に扱うということに帰着します。しかし,株式会社をも前提するならば,この共同利益は,例えば労働者の利益共同体による株主(=資本家)からの(事実上の)横領・収奪になりえます。例えば,もし株主の配当をなくして,事実上,内部留保を労働者(専門的経営者を含む)に配分したら,それは会社が株主のものだという私的所有のタテマエに矛盾するでしょう。

    また,市場を通じて労働者が競争している以上,そして生産過程では労働力は資本という,価値の自己増殖運動に一体化されている以上,労働者たちのこの利益共同体によって,労働者たちの利益対立がなくなるわけでは決してありません。逆です。むしろ,資本家という私的所有者の人格的裁量がなくなり官僚的組織による物件的支配(システム化された支配)が貫徹するということによって,一方では経営者とヒラの労働者との垂直的な利益対立が,そして他方では同じ職制に属する労働者間での水平的な利益対立が,かえって先鋭になります。要するに,トップマネジメントを頂点とする従業員が会社という物件の利潤最大化と成長に尽力する限り,個人企業のウェットで家族的で公私混同で個性豊かなタコ社長に替わって,会社に役に立たない人材は遠慮無く切り捨てるドライな労務管理のシステムが現れます。

  5. (注5)今日では,無主物としての未開地を所有意志を持って開墾して(労働して)取得したなんて想定することができない以上,二次的所有が想定されるしかありません。要するに,労働に基づいて獲得した貨幣で土地を購買した,あるいは更にそれを正当に譲渡された,等々と想定されるしかありません。

  6. (注6)それは預金設定で創造された預金の場合も変わりありません(預金設定を受けた場合には,貨幣を寄託した覚えなんて借り手には明確にはないでしょうが)。このことは預金を自由発券制度の下での銀行券で置き換えて考えれば良くわかるでしょう。この場合に,預金設定と同様に,銀行券発行によって,銀行は無準備の債務を負うという形で貸付を行うことができます(この場合に,銀行券というのは銀行が振り出す一覧払で額面一定な自己宛手形です)。

  7. (注7)19世紀後半の鉄道株式会社の現実を見ていたマルクスは,量的に見て株式の配当が(利潤よりも低い)利子に近似しうる──株主がインカムゲイン動機で株式を保有している限り,貸倒リスクと倒産リスクとが同じであるような,金利商品と株式とが競合する──ということから,株式会社は利潤率の均等化に加わらない(この命題が含意しているのは株式会社は利潤最大化行動を取らないということです)と考えました。これは全くナンセンスです。確かに,株式会社は,かなり低い利潤率に耐えうるような,ファイナンス上は堅牢なシステムです。しかし,そのことと,株式会社が低い利潤率しか追求しないということとは全く異なります。たとえ株式会社の配当性向が低いとしても,株式会社は最大の利潤を追求していると考えるべきでしょう。