質問と回答

私的労働と社会的労働とが分離しているとはどういうことか?

この分離は色々な形で現れてくる問題です。とは言っても,今回の講義内容の範囲で言うと,それほど難しくはありません。要するに,ナタデココを生産しても売れるとは限らない。そして,売れて初めて,ナタデココを生産する労働(これが私的労働です)は社会的労働になった──ここでの意味は社会的分業の一環をなした──わけです。実際に,ナタデココの生産者はその売り上げで,(自分が生産してはいないが)自分に必要な生産手段・消費手段を買うわけです。もしそれが売れなかったら,その私的労働は社会的労働にはならなかった──社会的分業の一環をなさない無駄な労働だった──ということになるわけです(注1)。実際に,この人は例えば全く売れなかったら市場社会の内部で生活していけないでしょう。市場社会の形成主体ではなかったということになるでしょう。市場社会から排除されているでしょう。

ナタデココを生産する個人的労働は,社会的労働から切り離されているからこそ,つまり社会的労働ではないからこそ,私的労働です(注2)。しかも,この分離は,統一されなければならないような分離なのです。すなわち,私的労働は社会的労働から分離されており,しかも,社会的労働にならなければならない,つまり社会的労働であるようにならなければならないわけです。

無自覚の中から生まれてきた実体のないグローバルな市場社会の構造はいいものなのか,わるいものなのか?それは危なっかしいものではないか?
善悪について

この講義は,社会的意識が必然的に善いもの,正当なものと規定するもの(注3)については,政治経済学2で考察します。ここで,それを「必然的に規定する」ような「社会的意識」とは,客観的な社会的システムがもたらす意識のことです。たとえば『4. 市場社会のイメージ』では,交換過程で生み出される客観的原則として形式的自由・形式的平等・私的所有を導き出しますが,もしそれが正しいのであれば,市場社会の客観的メカニズムが機能するためにはこのような原則を正当化する意識を生み出さざるをえません(注4)。──これは社会科学の範囲内です。

それ以外の,個人が考える善悪については,およそ問題にしません。ある人が善と考えるものを他の人は悪と考えるかもしれませんし,個人的な倫理感について議論しても余り意味がないと思います。

危なっかしさについて

危なっかしいということが指しているのが,“システムの運動が安定的でなく,不安定である」という意味であれば,正にその通りです。

人格の関係というのはどういうものか?そして“ヒトくさい”システムというのはどういうものか?
人格の関係

ちょっとわかりにくいと思って「ヒト(=人格)」とか「モノ(=物件)」とかのような表現をしていますが,厳密に言うと,人間と人格とは違いますし,物と物件とも違います。人間はいつの時代でもどんな状態でも(ホモサピエンスなら)人間ですが,人格というのは,一定の資格における人間です。どういう資格かというと,一言で言って,社会形成主体としての資格です。

そして,人格の関係というのは,本来は自立した自由・平等な個人が形成する社会関係のことです。現代社会でわかりやすい関係としては,『4. 市場社会のイメージ』で見るような商品の交換関係です。それは商品と商品(貨幣を含む)との物件の関係であるけれども,自由・平等な私的所有者の自覚的な社会関係の形成によって実現されます。

“ヒトくさい”システム

特に前近代的共同体において,法律というクッション(媒介)を置かずに,人間が人間を直接的に支配し,人間が人間に直接的に服従するシステムは:

  • 本来の人格のシステムではありません。

    • 労働のポテンシャルが指向していたように,そして,後述するように物件のシステムからの分離という形でなんとか現代社会が達成したように,集団から自立した自由・平等な人格が自覚的に形成するのが本来的な(本当の意味での)人格的なシステムです。人間が支配・従属しているけど本来の人格が形成したシステムではないという意味では,このシステムは人格的ではないシステムだと言えます。人格的ではないシステムとは,モノ(正確には物件;つまり自然物ではなく,社会的関係を形成するためのアイテム)のシステムと言い換えることができます。そして,既に講義の中で強調しているように,この場合に主体として機能し,自己目的として存続しているのは,個人ではなく,実は,共同体の方です。そして,主体として生きた個々人を自分の器官にしているこの前近代的共同体は,それ自身としては生きた個々人ではなく,物件です。

  • 物件のシステムとして自立化しているわけでもありません。

    • 本来の人格のシステムではないとは言っても,現代的な社会とは異なって,物件のシステムが自立化しているわけでもありません。現代的社会では,──前近代的共同体が破壊されて──,一方では,物件のシステムが自立化するということによって,逆に他方では,人格のシステムも成立しているわけです(これについては,政治経済学2で詳しくやります)。現代的な社会では,最初は商品・貨幣という物件が,やがては資本という物件が──最終的には株式会社という形態で──自立化したシステムになります。これに対して,前近代的共同体は,個人ではないし,主体として個人を支配していますが,しかしそれでもやはり生きた個人の集団でしかありません。つまり,生きた個人の集団とは別の/から自立した存在様式をもってはいません。しかるに,現代的な社会では,例えば,株式会社は人格の組織からは(株主の組織からは,そして,──厳密にはその存在資格においては人格の組織ではありませんが──,従業員の組織からも)自立化した物件であって,それ自身の経済的・法律的行為を行います。

  • 人間と人間との間に法というクッション(=媒介)さえ置いていません。

    • さらにまた,現代的な社会ほどに物件のシステムと人格のシステムとが分離していなくても,もし法の支配がそれなりに成立すれば,個人(酋長や王や宗教指導者)の恣意的な意志ではなく,個々人の意志から自立化した法に従うという形で,そしてそれによって前近代的共同体が安定的に存続するという形で,非人格的な(つまり人格的でない)システムが前近代的共同体の器官である個々人から自立化していきます。

ここで述べているのは,まだ法のシステム(という非人格的なシステム)にさえなっていないような,すなわちナマの個々人(生きている人間)の意志に従い,意志を従わせているような,しかしやはり人格的ではないような,そのようなシステムの形成・存続の有り様を形容して,“ヒトくさい”と呼んでいます。

社会的分業が進み,市場社会が発展し,グローバル化すれば,“ヒト”による支配では,大規模な社会的分業を規制するのは難しいのではないのか?“モノ”による支配を続けるしかないのではないか?
“ヒト”による支配の復活について

全くその通り。前近代的共同体におけるような人による人の直接的な支配で今日のようなグローバルな社会的分業を運営するのはとても無理でしょう。“モノ”による支配の先にあるものとしてイメージするということができるのは,“モノ”による支配の経験をふまえた──そして“モノ”による支配の合理性・効率性によって鍛えられた──合理的な人格的・自覚的連合です。要するに,“モノ”によるグローバルで間接的な支配を前提した人格的・自覚的連合です。

“モノ”による支配からの脱却について

この問題にはいくつかもの論点があり,一言では答えることができません。特に,“モノ”による支配の限界については,政治経済学2の全体のテーマになってきます。今回の講義内容との関連では,市場を通じての社会的分業の実現の将来についての話を念頭に置いているのだと思います。まず,分業の効率性について,現状として,はっきりしていることは,こんな感じだと思います:

  • “ヒト”による直接的な支配(現代社会内部で対比においてはからは,政府による支配は“ヒト”も含まる)よりもは市場を導入する方が合理的である。

  • しかしまた,市場を通じての“モノ”による支配もまた限界に来ている。

    • 最も自由で完全な(したがって“モノ”の支配がグローバルに完成している)市場は外為市場を始めとする投機的市場である。しかし,──投機が不安定ではなく安定をもたらすという経済学的幻想とは違って──,これらの市場は極めて不安定であり,その結果として,効率的な資源配分を媒介していない(これについては政治経済学2で少しやります)。したがって,現状では,投機的市場をどのようにグローバルな人格的=自覚的システム──間接的・媒介的なシステム──が制御していくのか,ということが世界の共通認識である。

次に,分業の柔軟性について,現状として,はっきりしていることは,こんな感じだと思います:

  • 供給側については,一方では,超国籍企業(政治経済学2で少し触れます)とその企業間関係とが市場的な補完物として市場に浸透している。他方では,逆に,市場のメカニズムが市場的な非市場的な企業組織の補完物として後者に浸透している(要するに,組織内部の調達機構を市場を模したやり方で行うということ)。

  • 需要側については,需要予測は(結局は市場での売れ行きによって検証されるしかないのだが)ある程度は機能している。(もっとも,非市場的な調整がもっとも市場的な調整,というかいわゆる価格メカニズムにかなわないのは,需要変化に応じての調整である。また現在の需要予測自体,市場を前提しており,したがって市場の補完物でしかない)。

当然ですが,以上の議論だけから十分な説得力がある結論を得ることができるわけではありません。しかし,この講義では,政治経済学の全範囲をカバーすることはできないので,無理矢理に以上の議論から私の理論的結論を導き出すと,こんな感じになります:

  • 大前提として,社会的分業の将来像を明確に正しく描けるはずもない。人間は社会形成においても,やはり個人的労働と同様に,試行錯誤して,よりよい解を選び出すだけである。わかるのは,ただ方向性だけである。

  • 現状では,市場にはまだ外延的・内包的な増大の余地がある。そして,市場を通じての社会的分業の調整を直接的な“ヒト”による支配によって置き換えるというのは論外である。したがって,かなり長い期間は,市場(したがって“モノ”による支配)はなくならないだろう。

    • もちろん,企業による市場の置換──したがって企業内分業による社会的分業の置換──は進展するが,しかし,それは(人格的システムが市場メカニズムを置き換えるための重要な前提条件ではあるが)それ自体としては“モノ”の支配の強化にほかならない。

  • とは言っても,市場の限界から,市場と人格的・間接的な制御システムとが相互的に補完し合うようになるだろう(それとともに,両者の原理の相互の浸透が進むだろう)。要するに,市場を利用して市場を人格的・間接的に制御するようになるだろう。短期的に見ると,人格的・自覚的システムが失敗すれば市場の領域が拡大し,市場が失敗すれば人格的・自覚的システムの領域が拡大するというのが交互に現れるだろう。

  • それでは,この相互的補完・相互的浸透のシステムはどこに進むのか(=方向性)というと,永遠に安定的に続くわけではなかろう。人格的・自覚的システムにはありとあらゆる問題・不合理性が噴出するだろうが,それにもかかわらず,市場(あるいは“モノ”のシステム)特有の限界──『4. 市場社会のイメージ』でやっているような,乗り越えられない限界──はないからである。とすれば,市場の効率性・柔軟性を非市場的な人格的システムに置き換えていく経験を通じて,試行錯誤を通じて,だんだんと“モノ”の支配からの脱却に転じていくという方向しか残らないだろう。


  1. (注1)私的労働が別に社会的分業の一環をなさなくても無駄とは言えないんじゃない? →いやいや市場社会の生産モデルにおいては全く無駄無意味です。それを確かめるために,不完全な私的生産──これから商品生産になるべき,でもまだなっていないような私的生産──を考えてみましょう。

    完全に自給自足な私的生産

    社会から切り離された私的生産と言っても,完全に自給自足な私的生産者(これは現代においてはほとんど空想でしかありませんが,個人単位ではなく家族単位で考えると,中世や古代においてはそこそこのリアリティを持っていました)の場合には,自分で欲しいものを自分で生産するだけの話です。社会とは無関係です。(もちろん,自分でシャツをつくってみた結果,それが気に入らなくて自己嫌悪に陥ったら,破り捨てるということはあるでしょうが,それはこの私的個人の内部で完結した話であって,やはり社会とは無関係です)。

    半分,自給自足な私的生産

    また,もしたまたま余ったものだけを市場に売りに出すような(前近代的共同体によくあった)私的生産者ならば,売れなくても我慢すればいいかもしれません。この場合には,私的労働が社会的分業の一環になるのは,偶然的です(いわば選択の問題です)。

    市場社会における私的生産

    しかし,市場社会の私的生産者の純粋モデルは,すべての生産手段を市場から買い,すべての生産物を市場で売るというものです。もっと言うと,市場で売るしかないというものです。もともと自家消費を選択肢に入れていないわけです。例えば,市場社会におけるホウレン草の私的生産の純粋モデルを想定してみましょう:原料として土に蒔くための,ホウレン草の種については,専門業者が外皮をとった種を,市場から買ってきます(自分で生産しているホウレン草から種を取り置くわけではありません。と言うより,花が咲く前に収穫してしまいます)。そして,もし自分でホウレン草が食べたくなったら,この人は自分で消費するホウレン草を(つまり自分以外の誰かが生産したホウレン草を)市場から買ってくるのです(しかも自分が生産したホウレン草を売った金で)。

    ということは,生産物が市場で売れなければ,消費もできないし,次期の生産もできないということです。こう言うわけで,市場社会においては,私的労働は社会的労働にならなければ(社会的分業の一環にならなければ)“無”です。同じく私的労働が発揮されていると言っても,商品生産の場合には,社会的分業の一環をなすというのが大前提です。

    え?実際の現代日本の自営業者(自営農家など)を考えると,上記「市場社会における私的生産」が完全に当てはまる例がなかなかわかりにくい? →そうですね。実のところ,上記の純粋な私的生産のモデルが当てはまるのは,この講義ではまだ明示的に想定されていない資本主義的生産においてです。資本主義的な自動車メーカーをイメージすると,自動車メーカーが自動車をそもそも市場向けに商品として生産しているというのがよく実感できるでしょう(自動車の注文生産の場合でも,そもそも商品として生産するという点は全く同じ)。自社の従業員や株主が使うためにではありません。従業員に賃金ではなく,自動車を支払ったら“現物支給かよぉ”と不満たらたらでしょう(というか,そもそも原則として違法です(労働基準法第24条))。ところがしかしまた,資本主義的な商品生産は,このように純粋な私的生産でありながら,しかもなお,発展するのにつれて,純粋な私的生産を否定していきます。この点を,政治経済学1では私的労働の否定という形で,政治経済学2では私的所有の否定という形で,考察していきます。

  2. (注2)私的ということは(個人的であるということから派生するのですが)個人的ということとは違います。例えば,私的企業なんて言い方がありますが,企業個人であるのではないということは自明でしょう(この講義でも“個人企業”という言い方をしますが,それは“個人が資本家になっている企業”という意味であって,別に企業が個人になっているわけではありません。これに対して,“私的企業”と言った場合には,企業私的だという意味です。例えば,公的企業に対して,私的企業ということです)。逆に,たとえばサークルの中でみんなで労働しても(つまり協業しても),だからと言って,各個人は(以下で見るような私的労働を行っているわけでは決してないが),個人的労働をおこなっているということに変わりはありません。そうすると,個人的というのはなんか生きた個人という実体と関連しているのに対して,私的というのはそこから派生するなんらかの社会的な形態被規定性(個人から離れても成立するような,とは言っても人間の社会的な振る舞いと関連しているような,それ)と関連しているというのがわかると思います。

    (補足:なお,「個人的」に相当する英単語はindividualですが,これは一般に「個別的な,個体的な,個々の」という意味でも(つまり人間の個別性以外の意味でも)使われます。けれども,ここでは私は人間の個別性について言及しています。なお,「私的」に相当する英単語はprivateです)。

    それじゃ“私的”だというのはどういう振る舞いかというと,他の個人に対しても,社会に対しても,バラバラで,よそよそしい振る舞いです。また,それは,空間に自分の意志のバリアをつくって,他人も社会も寄せ付けない(許可なく立ち入らせない)ような,排他的な振る舞いです。

    すでに繰り返し確認したように,前近代的共同体においては,典型的には,個人は共同体に埋没していました。この初期条件において,個人が労働のポテンシャル通りに自立するためには,個人が他の個人からも,集団からも,バラバラになるしかなかったのです。要するに,集団に埋没している状態から,集団から反発している状態へと,両極端にぶれるということによって,現代人は自己──意識で言うと近代的自我──を確立したわけです。この自己が現代社会における個人の形態,すなわち私人(private indivual)です。そして,この“私的だ”という形態を生み出している発生根拠が私的労働であり,そこから派生する私的所有です。これは政治経済学2で詳しく説明しますが,私的所有は必然的に市場に帰結し,逆に市場社会において市場での商品交換において私的所有が必然的に発生します。

  3. (注3)善いもの,正当なものをひっくり返すと,悪いもの,不正なものになります。不正なものは正当なもののネガとしてしか規定されません。正当なことを侵害するのが不正なことです。正当性あっての不正です。

  4. (注4)こういう言い方をすると,えらく難しく聞こえるかもしれません。でも,いってることはしごく単純。要するに,あれが欲しいなぁと思って商品を交換するということは上記の原則に則って行動するということであり,したがって上記の原則は善いものとして通用するしかないわけです。そして,もちろん,このような客観的なシステムが成立している以上,社会の構成員の大部分が自由・平等・所有がいいものだと思うでしょう。

    とは言っても,実は,個人の“本心”がどう思っているかはどうでもいいことなのです。スリルを楽しみたくて万引きする人も,こそこそ隠れて万引きする人も,“スリルを楽しむ”という仕方で,あるいは“こそこそする”という仕方で,私的所有がシステムの正当化意識(=私的所有が市場社会というこの社会的なシステムにとって善いものであり,したがって逆にまたこの善いものである私的所有を保障するからこそこのシステムは善いものである,という意識)だということを認めてしまっています。もしそれを認めていないのであれば,この人は,さも当然のごとく空気を吸うように,堂々と万引きするはずです。ところが,そういう人は正に市場社会のメカニズムを侵害するが故に──客観的なシステムが生み出す社会的意識に反するが故に──排除されます。つまりとっ捕まって罰されます。

    さて,そうだとすると,もし仮にシステムが発展あるいは変容してしまって,もはや上記の正当化意識に反するような現実を呈するようになるならば,逆に,それまでシステムは“善い”ものだと受け取ってきた社会的意識に対して,今やこのシステムは“善くない”ものとして現れるはずです。政治経済学2で中心的なテーマになるのはまさにこの問題であって,現代の社会的システム(つまり資本主義的な市場社会のシステム)が,新たな社会的意識を生み出すような新しいシステムに移っていないのにもかかわらず,つまり相変わらず市場社会のまま,しかし市場社会の正当化意識(端的に言って自由・平等・私的所有)に反してしまっているという現実を考察していきます。