質問と回答

資本主義でなくても市場社会が存在する場合があると思う(全面的では無いけれども)。その点はどうか?

まず,市場が全面的でないと,市場社会とは言えないわけです。もし“部分的”でいいのであれば,講義で強調したように,前近代的共同体の内部でも,特に現代的社会に移行する移行期においては,相当程度に発達した市場が(資本主義的生産が支配的な生産様式になることなしに)現れました。

そうすると,問題としては,資本主義社会でなくても全面的な市場すなわち市場社会が現れるかどうか,ということに限定されます(注1)。これはちょっとややこしい問題です。と言うのも,社会は絶えず変化しているダイナミック(動態的)なシステムである以上,スタティック(静態的)な形式論理では説明しにくいからです。要するに:

  • 単なる論理的・抽象的な可能性の問題ではなく,前近代から現代へという,歴史的・具体的な現実性の問題として,つまり歴史的・具体的ななプロセスの中でこの問題を論じるしかない。
  • もっと重要なことに,この講義で述べているように,資本主義社会と市場社会とは(互いに切っても切れない関係にあるのと同時に)矛盾している。

例えば,10人からなる市場社会なんてものを思考実験でこねくりだしても,すぐに,たった10人じゃわざわざ市場を造る必要はないだろうということになります。では,順を追って説明します。

1. 純粋な市場社会の確認

純粋な市場社会,すなわち必然的・範疇的な市場社会というのは何かというのは政治経済学1でまとめておきました:

要するに,内包的観点から言うと,純粋な市場社会とは,社会の構成員のすべてが生産したもののすべてを市場で販売し,それで得た貨幣で,消費するもののすべてを市場で購買するような社会のことです(注2)。このモデルが成立するためには,何よりも先ず,生産者が,最初から自分のために生産するのではなく,他人のために,つまり市場むけに生産しており,そして,そのために必要なすべての生産要素を市場で購買しなければなりません。例えば,トマト栽培農家で言うと,種子は生産物から控除しておくのではなく,専業の種子メーカーから買います。自分で食べるトマトは生産物から控除しておくのではなく,市場で買ってきます。

この内包的観点には,事実上,外延的観点も含まれています。すなわち,外延的観点からから言うと,純粋な市場社会とは,世界中の人間がただ商品交換によってのみ結合しているような,理念においては国境も民族も無いような,世界で一つのグローバルな社会になります(注3)

2. 資本主義社会は純粋な市場社会である(資本主義社会 ⇒ 市場社会)

次に,──講義の中で述べたことですが──,市場社会の成立が資本主義社会の成立の必要条件であるということをもう一度,確認しておきましょう。

2.1 内包的深化

まず,前近代的共同体からの移行において,市場の内包的深化について。言うまでもなく,市場は前近代的共同体にもありました。しかし,前近代的共同体では,市場は,共同体の物質代謝の補完部分でしかありませんでした。すなわち,そこでは,市場に参加しているのは,構成員の一部分だけでしたし,また生産物の一部分(サープラスの部分)だけでした。このことは,“市場が社会を支配していない ⇔ 市場社会が成立していない”ということを意味しています。

したがって,“市場社会が成立する ⇔ 市場が社会を支配する”ということは,前近代的共同体の構成員の圧倒的大部分が市場に毎日参加し,必要なす生産手段・消費手段の圧倒的大部分を市場で入手するということを条件にしています。そして,この条件はこれでまた,前近代的共同体の構成員の圧倒的大部分が賃金労働者として,労働力市場に労働力を販売し,それによって獲得した賃金で消費手段市場で消費手段を購買するようになるということを条件にしています。

一方で,賃金労働者を雇用する資本主義的営利企業──より正確に言うと物件のシステムとしての資本──は,前近代的共同体の単純商品生産者(注4)とは違って,余った部分だけ市場で販売するなんてことはできません。最初からすべてを販売するために生産しています。自動車メーカーは従業員や株主に売りつけるために車を造っているわけではありません。市場でアカの他人に売りつけるために造っています。そして,資本主義的営利企業はすべての生産要素を──生産手段はもちろんのこと,それだけではなく,労働力までをも──市場で商品として購買します。

他方で,資本主義的営利企業によって雇用される賃金労働者自身は,前近代的共同体の単純商品生産者(前述)とは違って,足りないものだけを購買するなんてことはできません。労働力以外に売り物がないのですから,消費手段は市場で入手するしかありません。

ところで,利潤最大化のために多数の賃金労働者を雇用するような生産形態が資本主義的生産です。そして,資本主義的生産が社会の生産を支配しているような社会が資本主義社会です。その意味で,市場は資本主義的生産によって初めて社会を支配したということができるわけです。理論的把握としては,これが基本です。

2.2 外延的拡大

補足的に,市場の外延的拡大について,述べておきましょう。

もともと前近代的共同体にも──資本主義的生産に先行して,つまり産業資本の成立に先行して──,商人資本という形で,遠隔地間での売買価格差を利用して利潤を追求する資本形態がありました。商人資本が対外商業に従事している限りでは,地球上に市場の芽をばらまいていきます。儲かるのであれば,独立自営農民も奴隷主も商品生産に従事します(注5)しかしまた,上記の通り,歴史的な単純商品生産者が市場むけに生産しているだけでは,市場が社会を支配することができませんでした。

資本主義的な商品生産を最初から単純な商品生産から区別するのはその規模です。何よりもまず,商品生産者は,歴史的な単純商品生産者として,賃金労働者を雇用せずに自分自身で個人的に生産している限りでは,生産する商品の分量も,消費する生産手段の分量も,比較的に小量です。これに対して,資本主義的営利企業は,利潤最大化のために,賃金労働者を多数雇用して,大規模な生産を行います。ここから必然的に,資本主義的生産は,カネモウケのために,世界中から大量に生産手段を輸入し,世界中に大量に商品を輸出するようになります(注6)。このように,資本主義的生産は何よりも先ずビジネスの規模を大きくすることで,国際交易額を拡大します。

しかも,前近代的共同体における冒険的商人が単純な商品生産を対外的に促進したのとは違って,産業資本は,自ら海外直接投資を行って,資本主義的な商品生産そのものを対外的に促進します。そうすると,労働力市場そのものが外延的に拡大し,国外でも労働力が商品として販売されるようになります。これによって,──もちろん法律的な制限(入管・移民政策)がありますし,文化的な制限(例えば言語が通じない)もがありますが──,資本の国際的移動に続いて,労働力の国際的移動の基礎も出来上がります。

以上から,世界で一つの市場社会が形成されています。すなわち,一つの“世界”が経済的に,すなわち世界市場という形で,実現しています。

2.3 閑話休題:市場社会の原理と資本主義社会の原理との矛盾

こうして,形式的には,市場社会の成立が資本主義社会の成立の必要条件であると言うことができます。しかし,実質的にはどうでしょうか? と言うのも,市場社会は個人の自立を想定しているのにもかかわらず,資本主義は労働組織──わかりやすく言うと企業組織──をもたらすからです。

市場社会と資本主義社会との矛盾については,政治経済学1でも政治経済学2でも中心テーマです。そして,すべてがすべて矛盾しているのでいちいち列挙しません。一例だけを挙げておきます。純粋な市場社会について,そのために必要なすべての生産要素を市場で購買しなければなりませんと私は言いました。市場での交換関係だけを見ている限りでは,トヨタ自工は社会的分業の中で自動車を生産しています。すなわち,形式的には必要条件が満たされています。しかし,実際には,政治経済学1で見たように,企業内で分業が行なわれています。工場間では,仕掛かり品,半完成品が,市場での交換を経ないで,異なる従業員たちの間を流れています。

このように,条件の形式的な充足は,条件の実質的な破棄を無視することで成り立っています。要するに,資本主義的な営利企業の,資本主義的な営利企業に対する,賃金労働者に対する,および消費者に対する市場取引=外的関係だけを考えると,形式的には,市場社会の成立が資本主義社会の成立の必要条件であると言うことができます。しかし,資本主義社会を資本主義社会たらしめている資本主義的な営利企業の内部の内的関係を考えると,実質的にはこの条件は破綻しています。すなわち,資本主義的な営利企業の内部の内的関係という実質的な観点から見ると,資本主義的な営利企業がますます巨大化し,ますます社会的生産におけるプレゼンスを高める限り,資本主義社会は,市場社会であるどころか,──資本主義的な営利企業は市場を利用して金儲けする以上,形式的・静態的な意味で市場社会ではあるとは言えませんが──,実質的・動態的な意味では市場社会である;市場を利用しながら,しかも絶えず否定し続ける社会であると言えます。

3. 純粋な市場社会は資本主義社会である(市場社会 ⇒ 資本主義社会)

次に,質問者の質問である,“市場社会の成立が資本主義社会の成立の十分条件であるのかどうか”ということを論じなければなりません。しかし,歴史的・現実的には上記の議論で終わっているのです。現実問題としては,資本主義社会以外に純粋市場社会はなかった(単純商品生産者のみから構成される純粋市場社会は不可能だった)のです。そう考えると,歴史的・現実的には,十分条件は必要条件に含まれていたと言うことができます。

その上で,理論的には,資本主義的ではないような──単純商品生産者からなる──市場社会の可能性があったのかどうか,考えてみましょう。要するに,“市場社会の成立が資本主義社会の成立の十分条件である”ということを理論的に明らかにしてみましょう。とは言っても,直接にそれを明らかにするのは無理なので,帰謬法(背理法)的に考えてみます。すなわち,上記のような純粋な市場社会が非資本主義的な経営,つまり,労働組織を内包していない単純商品生産者(つまり自営業者)によって可能かどうかということです。換言すると,自営業者だけで──資本主義的営利企業と賃金労働者とを排除して──市場社会が(相対的に見て)安定的・持続的に成立しうるのか,ということです。

では,前近代的共同体の中で拡大しつつある市場は全体として,儲かるのでしょうか,儲からないのでしょうか?それは初期条件(社会的なサープラスの大きさ,突き詰めて言うと生産力の大きさ)に依存するでしょう。

一方では,全体として儲かると仮定してみましょう。たとえ仮にすべての単純商品生産者が同じくらいに儲かっていると仮定しても,市場が拡大すればするほど,そこで競争が激化します(注7)。たとえ仮に客観的な生産要素(特に土地の豊度のような労働の自然的生産力)が全く同じだと仮定しても,個々の生産者の能力と努力とが全く同じだと仮定することは非現実的です。そして,やがて,市場が拡大するのに連れて──市場社会が成立していくのにつれて──,自営業者の一方は資本家に上方分解していくでしょう(もしまだ賃金労働者が形成されていないのであれば,高利貸しになって単純商品資産から生産手段を巻き上げて,賃金労働者の形成に寄与するでしょう)。他方は賃金労働者に下方分解していくでしょう。そして,ひとたび資本主義的生産が成立すると,この流れは──政治経済学1で見たように,資本主義的営利企業のイノベーションを通じて──加速されていくでしょう。このように,──実際の歴史においては,このプロセスは市場の外からの国家の政策によって,加速されたのですが,たとえそれがなかったとしても──,もし前近代的共同体の中で市場が拡大して社会を支配するならば,それは必然的に資本主義社会をもたらすでしょう。

他方では,全体として儲からないと仮定してみましょう。与えられた前提からは(注8)追加投資は儲けの中から内部留保してこねくり出すしかありません。したがって,もし儲からないのであれば,この場合には,“市場が拡大しないから商品生産が拡大せず,商品生産が拡大しないから市場が拡大しない”という悪循環に陥るように思われます。つまりは,市場社会が成立しない(前近代的共同体を脱却することができない)でしょう。


  1. (注1)論点としては,もう一つ,全面的に市場を利用しながら,非資本主義的なシステムを構築するのは可能かという議論があります。例えば,協同組合のように,従業員自体が所有者になっているような企業が,利潤最大化──および労働者とは異なる所有者への利潤分配──を動機にせずに,市場で競争するというものです。確かに,一時的にはそのようなシステムを設計するということは可能でしょう。しかし,企業が市場で競争しながら利潤最大化を目指さないというのは一見して矛盾しています。従って,このようなシステムはやがては崩壊するでしょう。

  2. (注2)もちろん,この場合の市場社会の構成員からは乳幼児や老人は除かれています。また,生産からは家庭内での生産(調理・掃除・洗濯など),単なる消費としての生産(要するに趣味の生産;盆栽づくりとかプラモづくりとか)は除かれています。

  3. (注3)もちろん,現実的には,内包的観点から言うと,現代社会は,ここまで純粋な市場社会ではありませんし,ありえません。それどころか,むしろ,後述するように,資本主義的生産は,実質的にはこの原理を否定しています。また,外延的観点から言うと,現代市場社会はまだそこまでグローバルになってはいません。資本主義的生産は,ローカル化・ブロック化したりグローバル化したりを繰り返しながら,全体としてはグローバル化を進展させる方向に進んでいますが,まだグローバル化は完成していません。

    要するに,純粋な市場社会はあくまでも極限でしかありません。しかしながら,偶然性を削ぎ落とした上で残る──逆にいかなる偶然性をも包含しうる──必然的な形態,さまざまな変種を貫く範疇的な形態とはこのような極限です。

    これは資本主義社会についても同様であって,講義の中で述べたように,自営業者が完全に消滅するなんてことはありえませんし,今日では,もはや資本主義的営利企業・自営業者・国営企業とともに,NPOも経済主体として無視することができません。それにもかかわらず,いまのところは依然として,資本主義的営利企業が生産・流通の担い手としては支配的です。そして,現状を分析するだけではなく,今後の方向性を見極めるためにも,このような,資本主義的営利企業が支配的な社会の完成形態を想定しなければならないわけです。

  4. (注4)歴史的な“単純商品生産者”(あるいは“小商品生産者”)とは,要するに,歴史的なコンテキストにおいて,自営業者としての商品生産者のことに言及したものです。現代的社会における社会構成要素としての自営業者は単純商品生産者とは呼ばれません。前近代における農村の自営農民や都市の職人がこれに当たります。実際には,農村の自営農民には家族従業者が,また都市の職人(親方)には徒弟がいたでしょう。しかし,それらは近代的な雇用関係ではありませんでしたし,(特に中世ヨーロッパの場合には一人の親方につく徒弟の数が限定されていたように)大規模化しませんでしたし,その意味でこの“単純商品生産者”は個人とみなすことができます。

  5. (注5)ただし,奴隷制生産では,奴隷が市場に参加しません。したがって,市場社会の成立というここでの議論からは奴隷制生産を除きます。

  6. (注6)グローバル化の進展については,政治経済学2で,今後,貨幣資本と現実資本とに分けて説明します。

  7. (注7)実際には,単純商品生産者の場合には,そもそも儲け(サープラス)の最大化が唯一の経済的動機として想定することができません。例えば,靴の単純商品生産者は,パンの単純商品生産の方が稼げてるからと言って,客観的に見て(能力的・財産的に見て)そちらに移るということはなかなかできませんし,主観的に見て(自分の欲求から見て)多少稼ぎが少なくても,靴の単純商品生産を止めないでしょう。

    要するに,実際には,そもそも利潤最大化(したがってまた最大の利潤をめざしての部門間での移動)は何よりもまず,生きた個人としての人格(私的所有者)から独立した物件である資本(貨幣・商品・生産組織という物件的な運動形態を次々にとっては捨てる運動主体)の発生によって達成されます。資本家が資本を投資するのは,儲かりそうだから(期待利潤率が最も高そうだから)投資するわけです。そして,生きた個人としての人格からの物件のこの独立は最終的には株式会社によって完成されます。株式会社では発行済み株式の大部分を所有している小株主は,通常,キャピタルゲインにせよ,インカムゲインにせよ,利潤にしか興味を持ちません。

    もっと言うと,実際には,今後政治経済学2で見ていくように,スムーズな資本の部門間移動は,現実資本運動からの貨幣資本運動の分離と信用制度の形成とを条件にします。資本と言っても,例えばゼネコン業界の期待利潤率よりもパン業界の期待利潤率の方が高いからと言って,明日からゼネコンが生コン車でパン生地をこねることはできません。資本の部門間移動は,信用制度を通じての,貨幣資本の移動によって達成されます。要するに,期待利潤率が高い部門では,銀行が積極的に融資したり,株価が値上がりして新株公開や社債・CP公募がしやすくなったりし,逆に,期待利潤率が低い部門では,銀行が貸しはがししたり,株価が低迷して公開市場からの資金調達が難しくなったりします。このように,貨幣資本の部門間異動を通じて,社会の経済的資源(労働力および生産手段)が部門間を移動することになります。

  8. (注8)われわれの前提は,あくまでも“資本主義”なき市場社会ですから,高利貸しは最初から想定の外に置かれています。そして,この仮定を除外すると,──これは政治経済学2の『貸付資本』でやることですが──,歴史的な単純商品生産者への高利貸しの本質は信用の存在ではなく,信用の不在です。要するに,典型的・必然的形態としてはそのビジネスは(高利貸しの個人的良心とか個人的性向とかに関わりなく,客観的な条件から見て),利子を取れるだけ取って,後は元本については債務不履行で資産を巻き上げるということにならざるをえません。そうである以上,結局のところ,高利貸しは歴史的な単純商品生産者の破滅に──したがって(潜在的には)その賃金労働者化を促進することに──帰結するしかありません。一言で言うと,高利貸しの存在を前提すると,全体として儲かっていようといまいとも,資本主義化が促進されます。,