質問と回答

労働がブラックボックスとして市場の外にあるというのはどういうことか?

この点──交換と労働との関連──については,『4. 市場社会のイメージ』で見ていくことになります。ここでは予告的に,やや手短に。

  • 市場の外にあるということについて:みなさんがコンビニでおにぎりを買います。これが市場を構成する交換過程です。おにぎりの労働・生産過程はその外にあります(注1)

  • ブラックボックスとしてということについて:

    • 交換から生産的労働が切り離されているからブラックボックス

    • 市場での交換がオープンな空間で行なわれる(誰でも立ち入りOK,誰でもコンビニに入れる)のに対して,生産的労働はクローズドな空間で行なわれる(私的所有のバリアによって,工場には関係者以外立ち入り禁止)からブラックボックス(注2)

わたくしたち人間は誰もが社会と共同体とのどちらにも属しており,またどちらにも属さないと生きてはいけないのか?
まず社会について

社会は,何よりもまず自立した自由・平等な個人がグローバルに自覚的に形成するものです。すなわち,社会は社会形成の単なる結果です。この意味では,社会は動物集団とは全く異なったものです。

したがって,何よりも先ずは,個人が“帰属しているもの”という(個人から見て)消極的・客体的なイメージよりは,個人が“形成するもの”という(個人から見て)積極的・主体的なイメージで捉えて下さい。どの人類社会にも共通な経済活動を考察しているここでは,このイメージで十分です。

(このイメージを現代社会がどの程度,またどのような仕方で実現しているのかについては,今後,見ていくことになります。先取りしてすっごく曖昧に言うと,実現したけど完全には実現してない,肝心なところでひっくり返ってしまう,ということになります。要するに,現代社会においては,社会とは個人が自由に使うべき便利な手段であるけれども,しかしなお,逆に個人がこの便利な道具に支配されているという現実を,今後この講義で見ていきます。)

次に共同体について

この講義では共同体(コミュニティ)として,前近代的共同体を想定しています。そうすると,共同体(コミュニティ)は人間社会と動物集団との中間形態として位置付けられます。そうすると,共同体(コミュニティ)は,ローカル本能的な動物集団に対してはグローバル自覚的な人間社会を代表しますが,人間社会に対しては本能的な集団を代表します。これが基本ラインであり,そしてここ,どの人類社会にも共通な経済活動を考察している際には,これだけで十分です。

この講義においては,無自覚的・非人格的に(つまり人格・主体としての資格ではなく対象・客体としての資格で,要するに他人の財産と一体化してしまった形で)労働する個人が結合している企業内組織について話をする時を除くと,基本的に共同体と言ったらそれは前近代的共同体のことを指します(注3)

結論

以上から,この講義での主題に即して言うと,現代人は現代社会を形成していますが,前近代的共同体に属しているわけではありません(もちろん,現代においても,家族なり地域コミュニティなりには属しているでしょうが)。

共同体が本能的というのは具体的にどういうことか?

この場合の共同体は前近代的共同体を想定しています。前近代的共同体の位置付けについては,前記の質問「2. 人間は誰もが社会と共同体とのどちらにも属しているのか?」に対する回答をも参照して下さい。

構成員の生物的出生によって直ちに当該の前近代的共同体に帰属する限りでは,その構成員が出生した時点では,蟻が生まれた瞬間から蟻の巣に属し,猿が猿山に属するのと同様に,この構成員は,自覚的にこの集団を形成したのではなく,本能的に帰属しています。そして,この原理こそが,前近代的共同体のローカル性(ここでは地域性)を最終的に制約しています(もちろん,多くの場合に人員の共同体間での交流も常にあり,戦時などには極めて活発になるのですが,そちらが共同体の形成原理なのではありません)。生まれた時から村人で,他の村の村民はよそ者です。

とは言っても,もちろん,前近代的共同体であっても,人間集団である限り,動物集団とは違って,純粋に本能的な集団であるはずがありません。共同体への帰属を通じて,そして共同体構成員の意識を媒介として,なによりも所有制を成立させ(所有については政治経済学2で詳論します),おきて(法)・まつりごと(政治)などを制度的に展開していきます(制度は意識による組織の安定的媒介です)。その意味では,そしてその限りでは,前近代的共同体もなんとか自覚的な人間的社会の赤ちゃんです。けれども,それでもやはり,前近代的共同体においては,集団からの個人の自立が不十分であって,その結果として,共同体こそが主体になり,個人は共同体に埋没してしまいます(注4)。お家のために死んでくれいというわけです。こうして,前近代的共同体の形成原理は,自由・平等な人格として自覚的に社会を形成するという人間社会の形成原理からはほど遠いのです。以上の点については,「6. なぜに現代社会がまだ人間社会ではないのか?」をも参照して下さい。

と言うわけで,前近代的共同体はこうなります:

  • なるほど,動物集団と全く同じような意味では本能的なのでは決してない。
  • けれども,人間社会の自覚的な原理に対しては,本能的な原理を代表する。
協業・分業は効率的だが,その場合には人間が生産の付属品になってしまうのではないか?〔自身のアルバイトの体験談を例示〕

人間が生産の付属品になってしまうという表現については,この講義では,以下のような形でこれを理論的に翻訳します:

  1. その一。大規模な組織はそれ自体の客観的な存在をもつ。個人がどうしようとも全体としての組織には余り影響がない。構成する個人が入れ替わっても,客観的に存在する組織は存続する。

  2. その二。しかもまた,このような組織は,客観的な存在として,個人(=人間)から自立してしまう。自立したというのは,もはや単なる個人(=人間)の集合ではなく,人格(=社会的な行為を行う人間)ではないのに,人格のように主体的にふるまい(主体として独自の,それ自身の経済活動を行う),個人を支配する。こうして,組織の方が主体であり,個人の方はその付属品(その客体)になる。

さて,アルバイトから離れて考えてみて下さい。友人と一緒に恋人と一緒に料理をつくる(これも生産です)時,サークルのみんなで勧誘ビラをつくる(これも生産です)時,必ずしもあなたは生産の付属品になっているとは限らないのではないでしょうか?

それではなぜに,またいかにして人間が生産の付属品になってしまうのでしょうか?規模が大きいから?確かに,規模──したがって生産力──と“人間の付属品化”とは密接な関係があります。実際に,どのような場合にも,組織の規模が大きくなると,上記の「その一」のような事態は避けられないでしょう。

しかし,規模の問題が決定的なのではありません。規模が小さい時でも,アルバイトの場合には,好きだろうといやだろうと,進んでであろうと渋々であろうと,そんなことはお構いなしに,個人は会社の命令に従うのですから,個人が組織の付属物になってしまうと言えるでしょう。この場合には,「そのニ」のような事態が生じているわけです。そうすると,問題は単なる組織規模の問題ではなく,社会システムの問題──もちろん,規模が大きくなるのに応じて生まれた社会システムの問題──だということになります。で,その社会システムの問題を今後考察していくということになるわけです。それまで待っていただきたいのですが,あらかじめ結論だけを説明抜きで言うと,やはりここでも個人がおこなう労働が,ただし労働の独特の現代的形態──私的労働と賃労働──がそのような,個人を支配する社会システムを作り上げるということになったわけです。

前近代的共同体においては,個人は共同体に埋没し,共同体こそが主体,個人は共同体の付属物であるというのが基本でした。しかし,この場合には,まだ組織はあくまでもヒトの集団であって,しかるに,後述する現代社会の場合とは違って,モノ(=)として自立化しているわけではありません。

これに対して,現代社会(=資本主義的な市場社会)においては,それとは違って,個人は市場で自由・平等な人格として集団から自立し,自分で社会システムを形成するようになります。しかしまた,個人は当の自分たち自身が形成した社会的なシステムに支配されてしまいます。要するに,現代社会は自縄自縛のシステムです。この社会システムは,モノのシステムであって,商品・貨幣・資本というシステムなのですが,実際には──これは政治経済学2でやりますが──,株式会社をイメージしてみるとわかりやすいでしょう。株式会社はヒト(=人格)ではないモノ(=物件)ですが,それにもかかわらず,法的人格(法人)を獲得して,独自の経済活動を行い,労働者を雇っています。株式会社は,対外的・法的には私的所有者(つまり株主)の組織であり,内部的・経済的には労働者の組織を内包しますが,そのどちらからも自立化し,そのどちらに対しても対立しています。要するに,現代社会においては,単なる人格の組織ではなく,モノとして自立化した人格的組織について,個人がその付属品になっているわけです。なお,以上の点については「6. なぜに現代社会がまだ人間社会ではないのか?」をもご覧下さい。

労働が自覚的な行為であるとして,動物も労働をしているのではないか?たとえば,猿が石を使って木の実を割る,等。

人間による物質代謝の効率的・社会的運営の蓄積の結果として,今日では人間と猿とは隔絶しています。その点を労働しているか,していないかの違いとして考える限り,『2. 人間と労働』の「力の自覚的な制御・統一」での議論をご覧下さい。そこでの議論は猿には真似できないことです。したがって,この観点から見ると,動物は労働しません。

しかしまた,生物としては(少なくともDNAレベルでは),現生人類もチンパンジーも大して変わりはありません。実際,──ちょっと暴言かもしれませんが──,人間の赤ん坊なんて,チンパンジーみたいなものです。現代という,人間自身の生命活動の到達点から言うと,生物の進化の方向も,媒介性の発展として再把握することができます。講義で述べたように生命が生きるという──それを通じて種を保存するという──自己目的を実現する合理的存在であり,この目的のためにありとあらゆるものを手段としようとするのであれば,生命が進化すればするほど生命の媒介性も発展し,したがって媒介性の範囲も広がるでしょう。簡単に言うと,自分の外の自然を自分生命活動のためのの手段(=媒介)として使用する──つまり道具を使用する(たとえば木の実を割るのに石を使う)──ようになるでしょう。要するに,進化の過程が人間に近い動物であればあるほど(難しく言い直すと生命の媒介性が発展していればいるほど),動物も労働のようなこと,労働っぽいことをするわけです。ただ,ほんのちょっとだけ現生人類の先祖の方が他の動物よりも媒介性が発展していた。そして,その“ほんのちょっと”が今日の決定的な違いに帰結したわけです。

ベンジャミン・フランクリンによると,人間はtool-making animal,つまり道具を造る動物でした。しかし,原始的な道具の生産・使用は人間と他の動物とを区別する決定的特徴にはなりません。チンパンジーも周りの自然から棒を拾ってきますし,その棒を加工します。拾ってくるだけでも生産と言えますし,蟻を捕るのに相応しいように加工するのはますますもって生産でしょう。しかし,そこらへんが限界でしょう。チンパンジーは,自分が生産し制御しているのではない“できあい”の自然から,たまたま(偶然的に)用途に近い棒を拾ってくるだけの話です。チンパンジーはやはりミミズと同じく目の前の自然を一面的に生産しているだけ──言葉を換えて言うと,使い尽くしているだけ──です。このことが,チンパンジーが本能の赴くままに生きていると言うことの証拠です。

これに対して,人間は同じ用途に合った全く同じシャベルを,あるいは異なる用途に合わせて異なる形状のシャベルを,自分の観念の中に設定した目的に応じて自由自在に,再生産することができるわけです(このことは,難しく言うと,『2. 人間と労働』で言ったとおり,人間は全自然を再生産するということ,換言すると自然を全面的に再生産するということです。そして,このことは全自然を自分のものとして,自分の一部として位置付けているということと同義です。このことが,人間が自覚的に行為しているということの証拠です。

もちろん,現生人類の祖先が類人猿の祖先から枝分かれした段階では,このような決定的な特徴は現れなかったでしょう。ですから,すでに講義で見たように,現生人類の祖先の生態から人間と猿との決定的な違いを導き出すということはできないのであって,現代社会の人間の生活からそれを導き出すしかないのです。

なぜに現代社会がまだ人間社会ではないのか?どういう面が社会ではないのか?

うーん,“もはや人間社会だが,まだ人間社会ではない”,“確かに現代において人間社会は成立したが,まだ完成していない”ということです。

“完成とはなんだ?”→どの人類社会にも共通な経済活動で考察している人間社会の特徴をすべて実現することです。“完成したらもう人間社会は発展しないのか?”→そんなことはなく,人間社会の本来の発展が進みます。ただし,今日現代社会が抱えており,解決しなければならない社会問題が低レベルな問題だとしたら,完成した社会は──もはや低レベルな問題に煩わされずに──もっとハイレベルな問題を解決していきます。もっとも,具体的にどういう風に発展するのかということまでは現代人である私には想像することができません。

それでは,現代社会(資本主義的な市場社会)のどういう面が人間社会として完成していないのか?──それを,今後,政治経済学1だけではなく,政治経済学2を通じて,見ていくことになります。先取りになりますが,政治経済学1では,『4. 市場社会のイメージ』では,市場社会においては,社会形成の原理は──社会全体についても,社会を構成する主体についても──内容を欠いた形式的なものに留まり,さらに『5. 資本主義社会のイメージ』以降では正反対なものになってしまうということが論じられます。

労働の原理自体,前近代的共同体からではなく(もちろんわれわれが見たことがない未来社会からでもなく),現代社会から導き出したのにもかかわらず,その労働の原理が創り出した現代社会が完成されていないというのはおかしいのではないか? いやいや,潜在的には社会を形成しているのにもかかわらず,実際に(顕在的に)やり続けると,正反対のものになってしまうわけです。なお,以上の点については,「4. 協業・分業の場合には人間が生産の付属品になってしまうのではないか?」をもご覧下さい。

社会の要件の全部を満たしていなければ社会ではないということではないのです。人間の特徴を取り上げて,その特徴を一つでも持っていないヒトを指さして,お前は人間じゃないといっても意味がないのと同様です。頭がこんがらかるかもしれないので,おまけ。動物集団とは異なる人間社会といった場合に,いくつかレベルがあります(注5)

  1. もはや動物集団ではないという意味では,前近代的共同体も社会です。そこで行なわれているのは,物質代謝の──動物集団的な営みではなく──社会的な運営です。ただし,社会(現代社会から理論的に導き出された,動物集団とは異なる“人間社会とはこういうものだ”という概念)としては全く未成熟です。それは──ローカルだということとともに,それ以上に──何よりもまず,個人が共同体の付属物になってしまっているということ(=個人が共同体に埋没しているということ)に現れています。

  2. 現代社会は共同体からの個人の独立を達成しています。少なくとも交換過程においては,自由・平等な人格が自覚的に社会関係を形成しています。そして,このような社会関係の連鎖はグローバルな世界市場を形成します。この意味で,現代社会こそは社会です。しかしまた,この現実は,──この講義で今後見ていきますが──,消えないまま,いやそれどころか発展すれば発展するほど,そっくりそのまま,正反対の現実に入れ替わってしまいます。現代社会は,社会の完成の側面と同時に,それとは正反対の側面をも持っています。

  3. そうすると,未来社会としてわれわれ現代人が想定しうるのは,現代社会が明らかにしながら,しかもなお現代社会が完全に実現してはいない,労働の,したがって人格の社会形成のポテンシャルがフルに発揮された社会ということになります。そして,この観点から見ると,このような未来社会こそが完成した社会,あるいは本来の社会だということになるわけです。未来社会なんて言っても,それを空想で語ることはできないのであって,現代社会のネガとして語ることができるだけです。そして,──ネガと言っても,もちろん前近代的共同体も現代社会のネガなのですが,現代人は前近代的共同体にはもはや戻れないのであって,つまりどのようなネガでもいいわけでは決してなく──,どのようなネガなのかということを明らかにするのがこの政治経済学の課題です。


  1. (注1)説明不足でしたけど,ここでの労働はコンビニの店員の労働ではなく,工場の工員やトラックの運転手さんの労働を想定しています。ただし,コンビニの店員の労働も,倉庫で梱包したり,検品したり,商品を運んだりする限りでは,客との取引とは無関係な──その限りでは交換過程からは切り離された(したがって市場の外にある)──労働です。純粋に交換過程で行なわれている(したがって市場の内にある)労働は非常に限定されています。

  2. (注2)デパートの実演販売の食品を買う時とかの場合には,ブラックボックスという実感が希薄かもしれません。確かに,その場合には,視覚的な意味ではブラックボックス度は低いのですが,それでもやはり,レジと実演場とのあいだには私的所有の見えない壁があるのです。

  3. (注3)あとはちょっとおまけ。講義でも,おまけの話が混じったために本筋の話がわかりにくくなったのだと思います。それにもかかわらず,本筋とは違うおまけの話を繰り返しておきましょう。おまけなので,かえって頭がこんがらかるかもしれないので,読まなくてもかまいません:

    • 一方では,上記のように共同体(Community)は規模がローカルなので,このようなローカル性(すなわちローカルな共通性・共同性)をもつ集団は,現代においても,Communityと呼ばれています。この場合のローカル性とは別に地縁(地方自治体など)・血縁(家族・親族など)に限らず,特定の興味関心・趣味などを持つ集団も,特定の興味関心・趣味などの共通性を持つという観点からはローカルな資格を持ちます(実際にはネットとかでグローバルに繋がっていてもかまいません。その場合には規模で見ると非常に大きなCommunityが成立し得ますが,その場合にも,原理は,他のCommunityとは異なるということ,その限りではローカルであるということでしょう)。

    • 他方では,共同体から自立した人格が自由に,自覚的に形成するという社会(Society)の特徴から見ると,別にグローバルな世界で一つの市場社会なんかでなくても,特定の興味関心・趣味を持つ小規模な,その限りではローカルな集団も,Society(ただし,「社会」ではなく「協会」等と訳されます)と呼ばれています。要するに,地縁・血縁などはなんの関係もなく,自由・平等な人格としての資格で形成した集団はしばしばSocietyと呼ばれます。

    • このような,特定の興味関心・趣味などを持つような,グローバル社会の内部の集団は,ローカルだという観点から見るとCommunityでしょうし,自由・平等な人格が自覚的に形成したという観点から見るとSocietyでしょう。とは言っても,Societyと言ったら,正当化の契機(たとえば総会とか役員選挙とか自覚的に形成したということを担保する契機)を持つ持続的な自治組織を指すということが多いと思います。これに対して,Communityと言ったら,そのような正当化の契機を持たない緩やかな集団を指すということが多いと思います。

  4. (注4)疑問が生じるかもしれません。

    • 前近代的共同体の王・酋長などは真に自由なのではないか?──いえいえ,確かに自由に見えますが,前近代的共同体の王・酋長もまた共同体の器官(とは言っても共同体の頭)として共同体に埋没しているのです。王・酋長の力は要するに人々(やはり共同体の器官にすぎない)の力でしかありません。人々がひれ伏しているからこそ,王・酋長は王・酋長でありうるわけです。そして,その正統性が伝統(要するに血統)によって安定的に媒介されようになると,真に存続するのは共同体そのものだと言うことが現れてきます。だれが王になろうとも,安定的に相続しようと内部闘争を経ようとも,すげかわるのは頭だけであって,維持されるのは共同体です。

    • ギリシャの自由人とかはどうなの?つーか,同じような自由人は前近代でも世界中にいたでしょう?──その通り。前近代社会にも市場はあります。そして,市場が成立する限りでは,自分の力だけを発揮し,自分で行為の責任を負う主体と,自由・平等の形式的実現とがその必然的原理にならざるをえません(この点については『4. 市場社会のイメージ』でやります)。(また,もちろん,偶然的な原理としては,前近代的共同体においてこのような原理は,市場以外でも,もっと言うと経済活動以外でも,政治的活動においても宗教的活動においても,発生しえます)。しかし,前近代では,市場は決して社会(この場合には前近代的共同体)全体を支配することはできませんでした。ギリシャだって,その基礎は奴隷制にあったわけです。こう言うわけで,上記のような原理は,前近代においては,決して社会(この場合には前近代的共同体)を支配する原理にはなりえなかったわけです。

  5. (注5)ややこしいように思う人もいるかもしれませんが,こういうややこしさは有機的なシステム(生命・意識・社会)について規定を行う場合には止むを得ないことです。たとえば,戯れに,動物とは異なる人間の特徴は言葉をしゃべって自分の意志を表現するということにあると規定したと仮定しましょう(私はそんな規定をしていませんが,あくまでも思考実験における“たとえば”の話):

    • “言葉をしゃべれない赤ん坊は人間じゃないのか”と言われれば,“いやいやこの赤ん坊が成長すれば言葉をしゃべれるようになるはずだから,動物じゃなくて人間と呼ぶべきだろう”ということになります。すなわち,この赤ん坊は潜在的には人間でしょう。

    • “なんとかしゃべれるようになった幼年期の子供こそが人間なのか”と言われれば,“いやいやまだ十分に自分の意志を言葉で表現できていないのだから,人間としては完成していないだろう”ということになります。