質問と回答

交換過程において発生する形式的平等は,価値においても使用価値においても等価交換しているということでいいのか?

まず等価交換というのは,商品という物件が,等しい価値で交換され合うといううことを指します。つまり,それはあなたが言う価値においてのことを指します。

これに対して,「使用価値において」というのは,実際には,商品という物件の問題ではなく,商品を互いに交換し合う人格,つまり商品所持者の問題です。物としての商品そのものについて言うと,それは常に不等です。つまり,貝と茸とを交換した場合に,貝と茸とが不等だからこそ──そしてこの不等な物を交換によってしか取得することができないからこそ──,双方の商品所持者たちは交換し合ったわけです。

次に,ここでの形式的平等はあくまでも商品所持者たちの,つまり人格どうしの平等を意味しています。自覚的に社会を形成しうるのは,神でも動物でもないし,ましてや物でもないところのもの,つまり人格でしかありえません。しかし,市場社会の構成要素をなす──したがって,そこで生まれた当事者たちの行動原理が市場社会という社会の編成原理,正当性,タテマエをなす──商品交換においては,このような人格どうしの平等は,商品という物件どうしの同等性,つまり商品の等価交換に基づいています。

その構成部分においては自覚的な交換がおこなわれながら,社会全体としては無自覚的に形成された市場社会は,まさに無自覚的に形成されたからこそ,それを自覚的な形成に変換するために,複雑極まりない法律・規則等が生まれたのか?

質問文を少し変えましたが,質問者の意図はこのようなものだと思います。

政治・法は,──国際公法・国際司法・政策協調などの枠組みにもかかわらず──,経済活動とは異なって,依然としてローカルに制約されています。そして,政治・法のシステムは──その内実がどうであれ──,民主主義を標榜する国家においては,全体として,自覚的に形成されたというタテマエを満たしています。

その上で言うと,特に経済活動においては,法・規則があるから正当化意識が生まれるというのは,部分部分では正しいのですが,全体としては間違っていると思います。例えば,なんで他人の私有財産をドロボーしないのかと考えてみると,もちろんそれは人によっては単にとっ捕まって罰せられるのが怖いからかもしれません。では,警察や裁判所がなければ,市場社会が無法状態になるかというと,この講義で述べているような商品生産関係が成立している限りでは,そうはならないと思います。

市場の内部でも外部でも完全な自由がある社会はありえるか?もしそんなのがあるとしたら,競争がなくなるのではないか?
完全な自由・平等について

そもそも完全な自由とか完全な平等とかがナンセンスだと思います。政治経済学2で詳しくやりますが,そもそも自由は他人の自由を侵害しない限りで通用するものです。また,平等と言っても,何が平等なのかということはその社会の初期条件によって違います。例えば,資本主義という条件の下で,同じ強度・同じ能力で,10時間働いた人と5時間働いた人とが同じ賃金である場合に,しばしば悪平等とか不可解なことが言われますが,悪平等などというものはありません。それは単なる不平等です。条件が違うのに平等にするのは不平等以外のなにものでもありません。そして,ゲームのルールを決定するのは社会のあり方そのものであり,社会のあり方を決めるのは,結局のところ,社会を形成する労働のあり方です。

競争について

競争については,──恐らく平等との関連で競争に言及しているのでしょうが──,ちょっと話が違っています。ちょっと先取りになりますが,平等だから競争がなくなるのでもないし,不平等だから競争が生まれるのでもありません。この政治経済学1でも競争競い合いとの違いを説明していきますので,それまでお待ち下さい。

現代の市場社会において,雇用者と被雇用者との間での不平等について言及していたが,その他の不平等にはどのようなものが挙げられるか。

不平等の定義を拡げれば,いくらでも出てきます。要するに,偶然的に生まれる不平等はいくらでもあります。しかし,その中には,上で述べたように,実際には不平等でもなんでもないものも含まれています。その中で,生産そのものの性格──つまり生産関係──によって必然的に生じるのは,雇用者と被雇用者との不平等です。その他には,生産の性格そのものによって必然的に生じるような不平等である──どちらが上でどちらがしたかというのではなく,不等である(等しくない)ということ──のは,所有者と非所有者との関係(債権者と債務者との関係を含む)です。たとえば,自然(土地)の貸し手と借り手,貨幣の貸し手と借り手など。雇用者と被雇用者との関係も所有者と非所有者との関係に含まれます。

北朝鮮では闇市場ではない公開市場(オープンマーケット)が成立していないが,その原因は社会的自由が剥奪されているということにあるのか?

北朝鮮の経済については,私は専門家ではないので,正確なことを述べることができません(素人としても,情報が不十分であって,この問題に言及するのは難しいところです)。国内の公開市場がどの程度の規模なのかもよく知りません。その上で,一般論を言うと,以下のようになります。

  • 市場はそもそも公開されているから機能するのであって,闇市場というのはそもそも矛盾を含んでいます。闇のままであるならばそれ以上は拡大できないでしょうし,拡大しようとすると体制の基盤を侵食するでしょう。

  • したがって,公開市場の反対物は,恐らく北朝鮮のシステムにおいては配給制でしょう。

  • その上で,質問にお答えすると,市場が発展しないから自由が生まれず,自由がないから市場が発展しないという悪循環だと思います(注1)

世界経済で生まれている新植民地主義の原因は商品の〔国際的な〕不等価交換にある。この場合に,商品交換において形式的平等は成立していないのではないか?

はい。この場合には,形式的平等は不完全にしか成立していません。

この講義で述べたように,商品の等価交換というタテマエは交換過程の原則をなす形式的平等の客観的な根拠です。もちろん,この場合の本当に等価か(社会的コストが等しいか)どうかなんてことは交換の内部ではわからないわけで,繰り返しの交換の中で,社会的な基準であるような市場価値が形成され,それに基づいて等価交換がおこなわれることになります。簡単に言うと,たまたま他の生産者よりも多くのコストを費やしてしまった生産者がいたとしても,後者のコストは社会的には通用しません。換言すると,ジャガイモ1kgの市場価値が5000円だと仮定して,たまたまジャガイモ1kgが1万円でなければペイしない生産者がいても,等価交換の原則の下では,5000円にしかなりません。

しかしまた,たまたま(=偶然的に)ではなく,必ずや(=必然的に)コストが異なってしまうケースもあります。その一つが先進国と発展途上国との間での国際的な交換です。この場合には,不等価交換が──一時的・偶然的にではなく,生産費用──特に賃金(生活水準の違いに基づく)──が異なる先進国と発展途上国との国際的交換の場合のように持続的・必然的に──生じてきます。そして,それは国際市場での市場価値と国内市場での市場価値との乖離という形で,当事者の意識に対して現れます。

このような国際的交換の場合にも,交換のタテマエからすると,“形式的には平等だ”というタテマエになるしかありません。他の原則は商品交換からは生じることができないのです。しかしまた,コストを見ると,等価の交換ではなく,その限りでは実質的には平等ではありません。しかしまた,このようなコスト構造が当事者の意識に対して現れてきてしまう限りでは, “このような交換は,等価交換ではないからこそ,つまりその限りで平等ではないからこそ,フェアではない”と,当事者たちは意識するでしょう。

『市場社会のグローバル性──労働によるグローバルな社会形成の,市場社会としての実現──』の「グローバル化の形式性(4)」の「交換という結果においては,そもそも労働において利益の共同性があったということさえ消えうせている」とはどういうことか?

交換という結果が,労働という原因から分離・分断されているということについては『2012年05月15日の講義内容についての質問への回答』の「1. 労働がブラックボックスとして市場の外にあるというのはどういうことか?」をも参照して下さい。要するに,交換という結果において,労働という原因は現れていません。

個々の交換が私利私欲の実現だということには異論はないと思います。問題はこの私利私欲の連鎖が何を達成しているかということです。交換の連鎖によって実現されているのは社会的分業(social division of labor),すなわち労働の社会的分割です。完成した市場社会(交換の必然性が商品の生産関係によって根拠付けられている)を想定する限りでは,もしすべての交換が成立しなければ,社会的分業も実現されません。

そして,どの人類社会にも共通な経済活動で見たように,社会的分業は労働における利益(つまり物質代謝の効率的運営)の共同性の実現です。市場社会では,個々の交換しか(つまり結果しか)目に入りません。しかし,それによって実現されているのは社会全体にとっての物質代謝の効率的運営です。

2012年07月22日:以下補足。

講義で見たように,市場での商品交換は社会的分業を成立させるメカニズムです。社会的な分業(=division of labor;労働の分割)が存在するということは労働において利益の共同性があったということです。だれかが一方的に損をしたとかではなく(注2),社会的分業によって,だれもが利益(一つのことしかしてないのに,たくさんのことをしたのと同じことになり,たくさんの欲望を満たす)を達成しています。

私的労働の結果として生じるのが交換です。私的労働は商品が売れて初めて社会的分業として実現されます。交換においてもたった二名の交換当事者の利益の共同性が達成されています。しかし,交換に現れている共同性は,相互的に,不要なものを手放して,必要なものを手に入れるということの共同性であって,上記の労働の共同性からは独立なものです。

わかりやすくするために極論を言うと,交換は労働という実質的過程から自立した形式的な過程ですから,落ちていた大根を拾って,それを売っても,それがばれなければ,交換は成立してしまうのです(注3)。どうやって手に入れたの?生産によって手に入れたの?それとも横領によって手に入れたの?ということは市場の外のことだからです。このような“交換”(この講義で問題にしているような本来の交換ではありませんが)においても,この二人の間に交換における利益の共同性は成立しています。しかし,占有離脱物横領は,いかなる意味でも,社会的分業に貢献しておらず,したがって労働における利益の共同性とは無関係です。

自由がないからこそ不平等になるのではないか?要するに平等は自由に含まれているのではないか?

社会的労働の原理──社会的自由・社会的平等はこれに含まれます──はすべて,そもそも労働に含まれている原理の展開形態です。要するに,自然に対する労働の原理が社会に対する社会的労働の原理として発展したものです。そして,社会的自由はそもそも労働に含まれている個別性の原理,また社会的平等はそもそも労働に含まれている一般性の原理が社会的な原理として,社会に対して現れているものだと思います。

その意味では,講義で強調したように,社会的自由と社会的平等とは一体の原理です。そして,どちらがどちらを含むのかというと,あなたが言うとおり,社会的自由が社会的平等を含んでいます。その限りでは,人類社会の向かう方向を一言で言い表せと命令されたら,それは“自由な個人性の実現”と言うことができます。

その上で言うと,現代社会では,このような逆方向ではあるが一体の原理がバラバラに分離されて,対立して現れます。

情報の非対称性がある限り,商品交換は必ずしも平等たり得ないのではないか?

一言で情報の非対称性と言っても,市場社会の原理のレベルで私的所有者どうしの一般的な利益対立を前提する(たとえば保険商品とか中古車とか)ものもあれば,資本主義社会の原理のレベルでの利害対立を前提するものもあります。と言うか,多くの場合に,前者の条件によって生み出されるような情報の非対称性が後者の条件によって拡大されていると言っていいでしょう。

要するに,情報の非対称性の中で重要なのは資本主義的な市場社会のシステムによって必然的に生み出されているような情報の非対称性です。その上で,この講義では,情報の非対称性を必然的に生み出すようなシステムの根拠──私的労働と私的所有──に力を注いでいます。独占と同様に情報の不完全性も資本主義的な市場社会としての現代社会が必然的に生み出す現象ですが,それにもかかわらず,どちらも,市場社会の原理そのものを取り扱う時にはこの講義はあまり重視しません。何故ならば,多くの場合に,独占も情報の非対称性も現実的に問題になるのは市場での交換においてですが,しかし,それにも拘わらず,講義で強調したとおり,市場には独占を解体しまた情報を公開していく機能があるからです。要するに,前近代的な共同体と比較しての市場社会の特徴は競争と情報公開だからです。

以上が講義で述べたことの繰り返しで,ここからが質問へのお答えになります:この講義の説明に即して言うと,例えば,会社と従業員との競争力の格差は,市場の外での事情であって,市場での取引のタテマエにおいては,形式的な平等を阻害しませんでした。もちろん,実際には競争力が違うのですが,実質的には不平等なのですが,あくまでも形式的には平等だというタテマエが維持され続けるのです。そして,このようなタテマエによって経済活動においても,その他の社会的な活動においても,われわれの行動は制約されるのです。それと同様に,たとえ情報が非対称的であっても,それは市場の外での事情であって,実質的な不平等をなしていますが,しかし形式的平等を阻害しません。

意志と権威とはどういう関係にあるのか?

社会的労働は,個人的労働と同様に一つの有機的な全体をなすためには,個人的労働の原理が社会的に再現しなければなりません。個人的労働においては,自分から独立し,自分がそれに従うべき,自分の意志が生まれました。このことは,社会的労働においてはすべての協業し合う個人から自立した──そしてすべての協業し合う個人が従うべき──一つの意志が生まれなければなりません。このような,構成員から自立化し,構成員が従うべき社会的労働体の意志が権威です。個人的労働において,手足が自分の意識に従わずに勝手なことをしたら労働ができないのと同様に,社会的労働においても,個々の構成員が勝手ばらばらなことをしたら一つの有機的全体としての社会的労働は成立しません。

不平等〔かどうかの基準〕は,時代が変われば変わっていくと思うが,どのような方向で変わっていくのか。

講義では,現在の社会的なシステムが生み出す基準から判断すると,例えばもし仮に10時間労働した者と5時間労働した者とが同じ賃金を受け取っているとしたら,それは悪平等ではなく不平等だと言いました。このような労働と報酬との量的一致(原因と結果との量的一致)という原則は当分続くと思います。何故ならば,一般に,欲求に対応した十分な生産力をわれわれはまだ獲得していないからです。そして,特に,現代の資本主義的なシステムの基盤である賃金労働が基本的にいやいやでもやらざるをえない労働であって,報酬をポジティブなインセンティブにするしかないだけではなく,上記の平等原則に基づく制度設計をおこなわないと,“サボリ”や“ただのり”がネガティブなインセンティブになりかねない(注4)からです。

以上のことから,上記のような現代の社会的システムにマッチした平等原則は,以下の二つの傾向が生じれば緩んでくると思います:

生産力がますます発展すること

すでに現代資本主義社会における生産力上昇の結果として,欲望は質的には上限は見えませんが,量的には上限が見えています。必要なものが,質的にはともかく,量的には十分に手に入るようになると,──その反面は社会的分業の中での労働時間の短縮ですが──,上記の制限はかなり緩むと思います。

社会的分業における労働が苦痛ではなくなること

要するに,いやなことは機械設備にやらせればいいわけです。別にみんな労働を喜ぶような状況は不要です。嫌々でも嬉々としてでもなく,当然のこととして労働を行うようになればいいわけです。しかし,実際には,機械設備が導入されても,労働が楽になったとはあまり感じないでしょう。したがって,これは生産力の発展を必要としますが,それだけではなく,社会的なシステムそのものが変わる必要があるわけです。

とは言っても,これらはあくまでも方向を述べただけであって,実際にこの方向で進んでいくのには,かなりの試行錯誤と時間が必要になるでしょう。


  1. (注1)この悪循環はどの前近代的共同体でも経験したものだと思いますし,この悪循環を脱却するのがいわゆる近代化です。

    前近代的な旧体制の内部でも,市場化(商品経済の発展)が体制にとっての利益になります(富が増大し,国家も潤うから)が,あまりに市場化が進みすぎると,それは旧体制に矛盾し,旧体制の権力基盤を掘り崩すようになります。そこで,市場化を進めつつ,市場化を抑え込むというのがこのような前近代的旧体制の基本的な使命になります。

  2. (注2)もちろん,実際の社会的分業においては,今日の現代社会を含むこれまではどの歴史的形態においても,一方では得をするもの,他方では損をするものが生まれていました。しかし,これは社会的分業を実現する社会的メカニズムの問題です。社会的分業そのものについて言うと,搾取する側もされる側も,どちらも社会的分業によって利益を得ているということには変わりません。

  3. (注3)労働に基づく所有と言っても,交換と労働とは分離しているわけですから,実際には交換においては労働に基づいていると所有するしかないわけです。と言うのも,占有離脱物横領を認めてしまったら,商品交換そのものが成立しないからです。もちろん,バレてしまったらそれは市場の原理,市場社会のタテマエ──労働に基づく所有──に反するから,その所有そのものが否定されます。

  4. (注4)実際,現代社会の場合でも,好きでやってること,報酬ではなくやること自体が自己目的になっていることの場合には,上記のような現代的なシステムの平等原則はあてはまらないでしょう。