質問と回答

複雑労働の基準は人の主観に応じて変わるのか?

違います。抽象的ではありますが,純粋に概念的には,複雑な内容を持つ具体的労働が複雑労働であって,この複雑労働を発揮する労働力が複雑労働力です。この点でもすでに,複雑労働は客観的に存在するのであって,相異なる主観に依存するのではありません。もっとも,これだけでは,何が問題なのかよくわかりませんね。余りに抽象的・無内容であって,そこから,主観に依存するかのような疑問が生じたのだと思います。

実際には,このような複雑労働力を育成するのには,通常では,当該労働の外でのコスト,つまり育成費がかかります。それゆえに,もっと具体的に言うと,指標的には,育成費の大小に応じて,複雑さの度合いが判断されます。このようなコストそのものは市場での労働力売買を通じて,社会的に平準化されます。例えば,もし仮に複雑労働Aができる複雑労働力を育成するのに,1万人が50万円分のコスト,1人が500万円分のコストを掛けているとすば,50万円分のコストの方が社会的コストとして市場で通用するでしょう。そして,この50万円(以上)がペイするように,市場での価値がつくでしょう。

誤解してはならないのは,あくまでも,内容が複雑であるような具体的労働が複雑労働なのです。これに対して,「熟練・複雑・高い強度の労働」に書かれているのは,わかりやすい指標としての判定基準です。もっとも,内容が複雑であるのかどうかなどという,こういう曖昧な内容は無意味であるように思われるかもしれません。しかし,『7.イノベーションの構成要素』の中で見るように,たとえば,企業内分業によって,それまで裁縫も裁断もしていた労働者が裁縫しかしなくなった場合には,客観的にだけではなく,誰の目にも(つまり主観的にも)また(注1),労働が単純化しています。

資格を持っているということも複雑労働〔力〕に入るのか?

通常は,はい。通常そうであるように,資格の取得が労働力の複雑化を反映している限りでは,入ります。付け加えると,やはり通常は,資格の取得には,オフ・ザ・ジョブでのコストが必要になります。

人間〔=自然人としての個人〕が出てこないところに私的所有者が出てくるという話があったが,それは要するに会社というシステムが人間を所有するということか?

まず,資本主義な市場社会のシステムにおいては人間を所有するということはできません。市場社会のタテマエに反するからです。『商品交換の第一の原理としての自由』を思い出してください。そもそも所有するということができるのは,あくまでも(主体・自己としての資格ではなく)客体・対象としての資格を持っているものだけです。そして,資本主義的な市場社会のシステムにおいては,人格はあくまでも自分の所有対象である労働力を販売することはできますが,人格(=主体・自己としての資格)を原理的には販売することはできません(注2)。むしろ,資本主義的な社会においては,──『2. 人間と労働』で述べたような労働の二重化に基づいて──人格(=主体・自己としての)と労働力(=客体・対象としての)とを社会的あるいは概念的に分離する(注3)ということによって,賃金労働者が成立しているわけです。したがって,会社が私的所有者として形式的に所有しているのは,客体・対象としての“資本”です。

なお,私的所有者としての会社の社会的な意義については,政治経済学2で詳しく扱います。

〔資本主義的営利〕企業の原理が生まれたのは持てる者が持たざる者を支配しはじめたからだと思うが,持たざる者が生まれたのは何故か?

持てる者が持たざる者を支配しているのは,前近代的共同体でもそうだと思うのです。現代社会ではそれが特異な形で行なわれているというのが『資本主義社会のイメージ』のテーマでした。

で,資本主義社会の大前提である賃金労働者の階級の歴史的形成については,私は経済史の専門家ではないから,一般論しか言うことができません。そして,一般論で言うと,賃金労働者の階級は前近代的共同体の主要生産手段であった土地から切り離されるのと同時に,自由な個人として市場に投げ出されなければなりません。もしそうでないと奴隷になってしまいます。持たざる者が生まれるだけではダメなのです。それが市場の拡大と直結していなければならないわけです。

で,理論的には,そもそも前近代的共同体の内部で生産力上昇と市場化がますます進むと,農民自身が余剰生産物を市場に販売していくようになり,その中で一方は持てる者に成り上がり,他方は持たざる者に没落していくというプロセスが生じます。旧体制の支配層による持てる者としての市場参加と,都市における職人の市場経済活動と,すでに流通部面で営利活動をおこなっていた商人・高利貸しの存在とはこのプロセスを加速させます。──こうして,理論的には,そもそも政治的なプロセス──市場経済外的なプロセス──を別にしても,生産力の発展と市場の拡大とは,さらなる生産力の発展と市場の拡大とをもたらし,やがては市場内部での持てる者持たざる者との分化をもたらすと言うことができます。このような分化が,一般的に資本の本源的蓄積と呼ばれるもの(正確には,人間的主体に即したそのプロセス)です。

しかし,現実的には,この過程は,市場経済外的なプロセスによって,つまり政治的な介入・強制によってさらに加速されました。要するに,歴史的には,前近代国家の最後の時期と近代国家の最初の時期において,持たざる者の強制的創出が行なわれました。

小企業など,社長自身が自ら働いている企業は自営業者ではなく,資本主義的営利企業に含まれるか?

理論的には,営利目的に特化し,そのための手段として従業員を雇用し,going concernとして確立しているのであれば,それは資本主義的営利企業です。ただし,あまりに規模が小さすぎると,それは自営業者と大差なくなってくるでしょう。特に,もし従業員が家族従業者だけであるならば,ほとんど自営業者と言っていいでしょう。

なお,社長自身が自ら働いているのは小企業には限られません。むしろ,今日の大抵の株式会社形式での大企業では,社長(=経営者)自身が自ら働いています(サラリーマン社長)。当該企業の中で自ら働いていないのは,当該企業の株主(=資本家)の方です。

株式市場においては,場合によっては,金融機関などの資本主義的営利企業ではなく,個人がメインプレーヤーになる場合もあるのではないか?

場合によってはもちろんそういうこともあるでしょう。しかし,そういう場合が起こる条件を考えてみると,蓋然的に起こるのは創業者の場合だと思います。創業者の株式所有とその長期的傾向(公開と遺産相続とを通じての株式分散)については,政治経済学2でほんのちょっとだけ補足します。

マクロの傾向としては,株式所有は,(個人化ではなく)法人化・機関化しているのが現実です。特に年金基金などが株式所有をしている場合も,それはあくまでも所有しているのは機関投資家としての基金であって,年金積み立てしている個人ではありません。この問題については,政治経済学2で詳しく取り扱います。

市場にとって異物である資本主義的営利企業は,個人がより効率的に物質代謝をおこなうためにできたのではないか?

この点は効率性の定義と要因を分けて考えなければならない難しい問題です。物件としての資本そのものは,主体である個人=資本家の主観(意図・動機)に即しては,この資本家が金儲けするためにできたものです。金儲け=効率化である限りでは,まさにあなたが言う通りです。

資本から区別される限りでの企業とは,資本を現実的運動(物的には貨幣・生産在庫・商品在庫という形態を脱着する運動)において観念されたものです。ただし,通常観念されるのは企業組織,したがってまた従業員組織としての企業です。そして,市場組織とは異なる従業員組織(注4)について言うと,金儲けの手段として形成されたという意味では,たしかに効率的に物質代謝をおこなうためと言っていいのですが,しかし,その出発点は,生産性の上昇という意味での効率性であるとは限りません。この点については,『7』で企業内での協業を扱う時に少し補足したいと思います。


  1. (注1)一言付け加えておくと,みんながその事象を主観的に認識しているからと言って,当該事象が客観的になるわけではありません。つまり,客観は主観の外にあるのであって,主観はどれほど集まっても主観でしかなく,しかるに客観にはなりません。もちろん,一人の主観が意識していることよりは,みんなの主観が意識していることの方が客観に近くなるというのが蓋然的でしょう(つまり,みんなが間違える確率よりも,ひとりだけが間違える確率の方が高いでしょう)。けれども,それは必然的ではありません。みんなが間違えてしまうというのもよくあることなのです。

  2. (注2)もちろん,資本主義的な市場社会においても,事実上の奴隷制が発生するということがありえます。しかし,それはシステムにおいては不当なもの,タテマエに反するもの,したがってまたシステムの存在資格にとっては(必然的なものではなく)偶然的なものです。

  3. (注3)もちろん,分離すると言っても,自然的あるいは物質的には,人格と労働力とは分離されうるわけではなく,一体のものです。例えば,同じく物件として時間決めで売買されると言っても,レンタルされたCDの場合には,借り手が壁に叩きつけてそれを割ってしまったとしても,代物弁済すればいいのですが,労働力の場合には,無理させて死なせてしまったらもう取り返しがつきません。そこまで極端な例を出さなくても,客体(=物件)としての労働力を使用して足を折ってしまったら,主体としての人格にとっても足が折れてしまっているわけです。

  4. (注4)市場も人間が労働において形成する組織の一形態だと,この講義は説明しています。ただし,市場は,組織ではないような組織です。ややこしいかもしれませんが,こんな感じです:市場は組織である;と言うのも,市場は全体としては諸労働が(互いにバラバラなままにではあるが)結果的には交換を通じて一つの編成をなしている(organizeされている)から。しかし,市場は組織(organization)ではない;と言うのも,諸労働が有機的(organic)に関連しあっているのではない(つまりorganicorganizeされているわけではない)から。言葉にするとややこしくなりますが,要するに,市場を考える際には,組織だという側面と組織じゃないという側面との両面を捉えるということによって,非市場的な組織との共通性と区別性との両面が分かり,市場の位置付けもはっきりすると思います。

    けれども,これに対して,通常は,市場と組織という対立的な枠組みにおいて捉えられています。ただし,その場合には,組織という概念の中には,従業員(=労働者)の組織も,それとは必ずしも形成原理が同じではない株主(=資本家)の組織も,それ自体,私的所有者であるところの企業と企業との組織も,すべて同じように観念されているのが通常です。