1. 権威と計画

私は,権威そのものは,労働者個人個人の意志の集合であり,それが契約により成立しているときにおいて最大公約数的なものであり,その中において労働者の自由は発揮されるし,そして強制されるということだと思っていた。全く違うことではないと思うが,契約するかしないかだけは自由で,した場合は,権威の傘に入ったとして労働を強制させられるということか?

資本主義的生産が機能している場合には,単に労働を強制させられるのではなく,納得づくで労働を強制させられるわけです。その際に,行われるのが,下からの意志を資本が自分のものにして,資本の権威として,それに基づく会社の業務命令として上から下に押し付けるわけです。一方的なボトムアップでもなく,一方的なトップダウンでもなく,両者の相互作用(ボトムアップに基づくトップダウン)こそが資本の権威の実体です。

権威は「権力もないのにAがBに何かをさせること」という力と政治学で習った。この授業の権威は,従業員の外に上司という単一の意志があれば,その権威を用いてより良い協業の形が生まれるという理解で良いのか?

権威は,資本主義的生産における協業だけではなく,どの直接的な(つまり同じ生産物を生産する同じ労働過程の中で行われる)協業においても,発揮されるものです。それは権力からは独立に定義されます。権力があろうとなかろうと,協業している諸個人から自立していようといまいと,協業している諸個人の上に立つのだろうとあるまいと,いずれにせよ,諸個人が協業する際には従わざるをえないような,そして協業している諸個人の意志から生まれるような,そのような統一意志です。

そして,このような権威は,資本主義的生産の下では,従業員の上に立ち,従業員たちを自発的に従わせる資本の権威として現れるわけです。

権威のところがいまいちなに言ってているのか要点がつかめなかった。例として株式や株主を出していたけど,あまりピントは来なかった。具体的には「資本に根拠を持つ」とか「一つの意志にする」とかが何を言っているのかが分からなかった。

A社が冷蔵庫を生産していると仮定します。A社の従業員は誰しも,冷蔵庫の生産に従事しているのであって,その際に自分の意志で冷蔵庫を生産することになります。このことは,雇われているということと,もともと賃金労働というのが金のためにやる労働であって,その意味では嫌々やる労働だということとは別のことです。嫌々やるのであろうと,喜んでやるのであろうと,従業員は《冷蔵庫を作るんだ》という意志があって初めて,効率的に働くことができるわけです。

しかしまた,A社では,従業員たちは協力し合って,冷蔵庫を生産しています。その際に,勝手バラバラに冷蔵庫の生産をしていたら,かえって生産力が落ちてしまいます。たとえば,たとえ分業せずに各自が冷蔵庫の組立を全部行うとしても,みんなが上流から流れてくる部品に近いからと言って工場の入り口のところに固まっていては,互いに邪魔になって生産力は上昇しません。つまり,各自が《冷蔵庫を作るんだ》という意志を持っていても,それだけでは不十分なのです。こうして,各自の意志をすりあわせて,たとえば工場建物を広く有効に利用するようにしなければなりません。たとえば,部品は入口に近い列の人が次の列の人に順繰りに手渡すとか,そういう計画を立てて,そして共通意志でこの計画を実行しなければなりません。これが「一つの意志にする」ということであり,このようにして成立したのが権威です。

実際にこの権威を背景に協業を調和させるのは資本家でしょう。もっとも,協業が大規模かつ複雑になれば,やがては従業員が資本家の業務を代行するようになるでしょう。しかしまた,講義でも強調したように,going concernとしての資本は,資本家が変わろうと(つまり資本家がこの資本を他の資本家に売却しようと)存続するのであり,したがってこの協業も存続するわけです。このことは大規模公開株式会社を考えてみればすぐにわかります。株式会社では資本家は株主です。私がA社の株式を流通市場で買ったら,資本家構成がほんのちょっと変わるでしょう。つまり,その限りでは,部分的には,資本家が変わるでしょう。しかし,だからと言って,A社の内部でおこなわれている協業にはなんの変化もないでしょう。だとすると,この会社の業務命令は何に基づくのかというと,株主(=資本家)の権威ではなく,会社(=資本)の権威です。これが権威が資本家ではなく「資本に根拠を持つ」ということです。

労働の際の過程には計画と権威が社会的なものとしてあるが,これは自由主義においてよりも社会主義的なものではないかと思う。例えば,社会主義は計画経済であり,共産主義という権威があるという点で,自由主義に通ずるものがあると思う。

ちょっと質問の主旨がよく分かりません。一般論として,直接的に社会的な労働を行う限りでは,必ず計画と権威が必要です。しかしまた,それが階級対立をもたらす敵対的な労働である限りでは,自分たちの計画,自分たちの権威は,他人の計画,他人の権威になります;資本主義的な株式会社では,従業員たちの計画,従業員たちの権威は,会社の計画,会社の権威になります。

サービス残業などが多いブラック企業でも権威があると言えるのか疑問に思った。

権威がなくなったと言うよりは,自分のやる気を会社の営利活動への奉仕に転換させるような資本主義的な協業の権威は崩れているでしょうね。奴隷主の鞭が怖いから嫌々働くという奴隷労働にあと一歩です。

2. 経験的知識と科学的知識

日本の伝統的な産業では経験的知識が重視されてきた。このことが,日本における科学技術の発展を妨げてきたのではないか?

うーん,伝統的な産業,と言うか半芸術的な産業では経験的知識が重視されてきたというのはどこでも同じだと思います。ただし,そのような産業で生産される生産物は奢侈品であって,全体の生産物の中ではごく一部にすぎません。

今後は,このようなごく一部の中でも,これまたごく一部を除けば,経験的知識を形式化して,科学的知識の意識的・計画的応用に頼る部分が大きくなるでしょう。それによってまた,このような産業にも新たなイノベーションが起こるでしょう。たとえば,日本でもフランスでも他の国でも,それまでは職人任せであった超高級醸造酒の世界でも醸造学の知識の応用と機械設備の導入が,結構以前から,不可欠になりつつあります。

科学的知識は誰にでもアクセス可能とあるが,本当にそうなのか?例えばコカ・コーラの場合,コーラのレシピは〔……〕厳重に保管されているときいたことがあるのだが,そういったものはどうなのか?

ここでは,知識そのものについて考察されています。で,厳重に保管されていなければならないということ自体が,科学的知識の公開性を表しています。これに対して,寿司職人のコツとカンは形式化されていないので,公開しても実際に握ってみないとなかなか身につきません。

しかし,このような公開された知識を,私的利益の追求のために資本は私的所有のバリアの中になんとか閉じ込めようとします。できれば営業秘密の枠内に留めようとするでしょう。あなたが例に出したコカ・コーラ社の場合には,──あの大げさなレシピ保管庫は営業宣伝用でしょうが──,営業秘密の例と考えることができるでしょう。解析したらすぐにわかる物の場合には,特許を取得して,公開代償として超過利潤(ライセンス使用料を含む)を獲得しようとするでしょう。この点は,『6. 生産力の上昇』の「2.1 コストとリスクの私的負担」で見たとおりです。

職人の“ワザ”は確かに経験的知識だが,それを科学的知識へと昇華する可能性が科学の強みだと思う。

その通りです。機械設備による熟練労働の置き換えというのはそれを意味しています。また,熟練労働の分析については,ビデオで実例を見ていきます。

科学的知識は〔……〕誰にでも教えることができ,誰でもすることができる仕事〔……〕簡単ではあるが,特別にその人でないと行けないということはなく,ある意味交換が可能で,人間を使い捨てにすることができてしまう。〔……〕経験的知識は〔……〕その人が特別であり,他の人と交換できない存在である。

特別なものを除くと,経験的知識の大部分は,他の人と交換できなくても,機械設備と交換できてしまうというのが一般的です。

今常識だと思われていることが,数年後には,全く逆だったということはこれからどんどん出てくるのだろうか?

出てくるでしょう。特に応用系においては。

3. 単純協業と分業に基づく協業

分業の固有の利点によって分業の利点にも繋がるということでいいのか?〔……〕「分業の利点と思われているものの大部分は,実は協業の利点である」とあり,〔……〕〔分業の利点には〕協業の利点ではないものもあるのか?

《分業の利点》《分業の固有の利点》です。また,分業の利点の中で協業の利点ではないものが分業の固有の利点です。

〔個人の〕労働力の熟練によって,分業という全体にもプラスの効用をもたらすという認識で合っているのか?

半芸術的な自営の職人が長年の修行の末に獲得した熟練労働力は個人的労働の生産力の上昇であって,社会的労働の生産力の上昇(労働の社会的生産力の上昇)ではありません。この場合にも,ある程度は自分の他の能力を退化させているのですが,少なくとも自分が生産した生産物については,完全に個人的生産力が上昇していると言えます。

これに対して,企業内分業の場合の熟練形成は,企業内分業がもたらす分業の細分化による熟練形成です;要するに,企業内分業という(市場で私的労働が交換の実現によって社会的労働として認められるというのとは違って)直接的に社会的な労働,一企業の社会的労働(集団労働)の中であれば必ず役に立つ労働があって初めて,かつただこの企業内社会的労働の中でのみ役立つ【まぁ,このような熟練労働は,同じ企業内分業を行っている別の企業であれば,そこでも役立つのですが。】労働です。しかも,この熟練労働力は,もはや完成品を生産する生産力をも失っています。例えば,機械式時計メーカーの商品は当然に機械式時計ですが,このメーカーに長年勤めている歯車磨き工はもはや機械式時計を生産する能力,個人的生産力は喪失しています。

以上の理由で,企業内分業によって生み出された熟練労働力は分業という全体にもプラスの効用をもたらすもの,つまり,社会的労働の生産力だと言えるわけです。

「多くのことに活かせる」という観点から見ると,〔……〕分業〔に基づく協業〕よりも〔単純〕協業の方がいいのではないかという疑問も生じた。専門的ではない単純な業務の分業化が社会的に増えている理由もそういうことなのかと感じた。

ケースバイケースです。分業に基づく協業では,各セクターの中では単純協業を行っています。たとえば,シャツメーカーが裁断部門と裁縫部門とを分割した場合に,裁断部門の中ではこれ以上は社会的労働が分割されずに(ただし管理労働は除く)単純協業が行われているというケースが多いでしょう。

また,一般に機械設備が導入されると,それまで労働者が行ってきた極端に細かい分業は機械設備が行うことになるから,かえって労働者の方について言うと,その社会的労働編成は単純協業になるということが一般的です。要するに,細かい分業は労働手段が行うから,労働者は単純協業を行うようになると言うことが一般的です。

分業と協業,どちらの方が効率良く生産できるのか?〔……〕生産すべき量の違いによって優劣は付けることができるのかもしれないと考えた。

一般論として単純協業と分業に基づく協業とでは後者の方が多くの数の労働力を必要としています。

労働手段の専門化〔について,〕〔……〕昔は別になくて善かったものが必要になってしまうというのはいかがなものか。無駄な気がしてならない。

従来の労働手段を使い続けると,熟練労働者のスキルをフルに発揮できないので,無駄が生じるのです。あとは,スキルをフルに発揮できることから生じる利益と,専門化した労働手段を導入するコストとの比較です。

4. 分業に基づく協業と現代的な大規模産業

全て機械に取って代わられ専門バカすらいなくなってしまうという状況になってしまったりするのではと思うが,それは解決策として機能しているのか?

誰がプログラムを作成するのか,誰が科学的知識を適用するのか,ということを考えると,それは労働する個人しかありません。したがって,たとえ仮に完全なオートメーションが成立して,肉体労働が消滅したとしても,クリエイティブな知識労働はなくなりません。

現状では,しかし,まだ肉体労働が消滅する気配はありません。それは講義の中でも強調したように,資本主義的営利企業が機械設備を導入するのは,人びとを楽にするためにではなく,金を儲けるためだからです。要するに,オートメーションのコストと肉体労働のコストとを比べて,後者の方が安上がりですむならば,資本主義的営利企業は後者を使います。

しかしまた,このような資本主義的な条件をひとまず脇に措いて考えると,資本主義的営利企業自身がもたらした現代的な産業の目指すところ,指向するところはオートメーションだということも明らかです。

それでは,今度はこのようなオートメーション,無人化が資本主義社会にどのような帰結をもたらすのかと言うと,これはこれで,解決策として機能しているとは言えません。資本主義の内部にビルトインされているメカニズムだけを想定する限りでは,人口の圧倒的多数を占めている賃金労働者への分配は賃金を通じて行うしかありません【所得再分配は資本主義社会を維持するために不可欠なものです。その意味では,所得再分配は,個々の資本の立場はともかく,総資本の立場から見ると,利益になるものであり,したがって総資本が承認せざるを得ないものと言えます。しかし,それは市場の外部から国家という公共性を通じて実行されるのであって,資本主義の内部にビルトインされているメカニズムとは言えません。】。オートメーション化,無人化によって,賃金総額が減少してしまったら,当然に消費手段への有効需要が減退してしまいます(また,これを通じて生産手段への有効需要も減退してしまいます)。したがって,資本は,できるだけ賃金総額を減らさなければならず,しかし減らしすぎてしまったら過少消費に陥るという矛盾を抱えています。

分業に関しては,〔……〕偏った能力を持った人が増えるんじゃないかと思った。

科学的知識の意識的・計画的適用を前提しない限りでは,そうならざるをえません。講義で述べた「労働力の一面的発達」というのはそういうことです。

職人モデルでは〔……〕生産を用いながら能力を高めていることはコストの低下につながるのではないか?

職人モデルというよりは,熟練労働力の問題として考えるのが妥当でしょう。

で,講義で見たように,当然に生産力の上昇,コストの低下につながります。それにもかかわらず,一方では個人の熟練の上昇率は逓減していくものであり,上限が存在し,他方では出来高賃金だけではなくヒューマンエラーをも含むヒューマンコストは下がらないわけです。

高い熟練労働を持つ労働者を雇うのはそれなりに高い賃金を払わなければならないと思うが,中途半端な熟練を持つ労働者ならば,とても安く雇えるのかと思った。

そういう,ダブついているような,中途半端な熟練を持つ労働者のことを,社会的には不熟練労働者と言います。

5. その他

イノベーションは努力をすれば生み出せるのか,才能なのか,チームで努力をすればできることなのか?

努力も才能も協力も,どれも,イノベーションが生じる可能性を高めるでしょう。また,何よりも,イノベーションが単なる思い付きに基づくのではなく,また基礎研究に基づくのでもなく,そうではなくて,経済に適用可能なものである限りでは,費用負担が必要です。以上のすべてに資本はコミットしています。すなわち,優秀な人材を集め,餌で釣って努力させ,また適切な労務管理で協力をコーディネートします;また費用を負担するのも資本です。

そして,最終的には,運が決めます。講義では,イノベーションによる生産力上昇は資本が意図的に引き起こす生産力上昇だといいましたが,資本が思い通りにイノベーションをおこすことができるわけではありません。