どの人類社会にも共通な経済活動と現代社会に特有な経済活動

現代における個人資産家が個人の資金を浪費して株を購入し,それを売買して利益を得ている場合,この個人資産家の経済活動は単に市場社会を通じて経済活動を行っているのか,それともまた違う枠組み(社会)で説明ができるのか?

単に市場社会を通じて経済活動を行っているのではなく,資本主義社会の原理(営利原理)によります。

そして,資本主義社会そのものは,個人資産家の自分自身での株式売買ではなく,資本主義的営利企業が社会を支配しているということによって成立します。あなたが例に出した個人資産家は株式を購入したわけですが,その株式は法人成りした資本主義的営利企業が発行した株式です。そして,株式の発行には証券会社(アメリカなどの場合には投資銀行)という資本主義的営利企業が必要です。そして,この個人資産家は証券会社という資本主義的営利企業に株式を売買委託しているはずです。

どのような状態になったら社会が完成するのか,現代社会に不足していることは何か? 上記二つの具体例を挙げていただきたい。また,人間や技術の進化と同様に,社会の進化も限界なく進化していくと思う。それを「社会の必然的な完全」という言葉は正反対の意見だと思う。〔……〕何かしらの基準があるのか?

ここで言うところの,社会が完成したからと言って,社会の進化が止まるわけではありません。むしろ社会が制限なく進化していくということが社会の完成です。要するに,現代社会は,制限がない進化を目指しながら,常に制限に突き当たっている社会なのです。例えば,資本主義社会はカネモウケのために,生産力を無制限に増大させようとします。ところが実際には,生産力の増大──新生産方法の普及──をたえず制限するメカニズムを持っているということを,つまり資本主義社会の限界を,「6. 生産力の上昇」で見ていきます。同様にまた,個々の企業が生産力を際限なく高めようとして,かえって自然破壊や人間破壊が生じてしまい,社会的にはコストがかかってしまいます。要するに,個々の企業の発展と社会の発展とが調和していません。あるいはまた,政治経済学2では,《私的所有という,資本主義的営利企業にとって不可欠な所有形態が,資本主義的営利企業のグローバルかつフレクシブルな生産を妨げる制限要因になっており,資本主義社会はこの私的所有という制限要因をどうにかして乗り越えようとしている;ところが,資本主義的企業が私的所有を完全に放棄してしまったら,資本主義的営利企業ではいられなくなってしまうから,それはできない;従って,資本主義的営利企業が目指すグローバルかつフレクシブルな生産を実現するためには,資本主義的営利企業そのものが新しいものに変わっていくしかない,つまり資本主義社会そのものが新しい社会に変わっていくしかない》ということを見ます。

以上を具体例として,どのような状態になったら社会が完成するのか──社会が労働の原理を完全に実現することができるようになった時です。現代社会に不足していることは何か?社会を完全に労働の原理に応じて編成するということです。

現代社会の欠陥の例だけであって未来社会の具体例がないではないかと言われるかもしれません。しかし,われわれが知ることができる未来社会とは現代社会のネガでしかありません。未来社会で人びとがどのように生活しているのかなんて想像することはできませんし,想像することは無意味です。逆に,どのように生活するのかを自分たちが自由に決めることができる(もちろん,一定の生産力水準のもとで,ではありますが)ということこそが,未来社会なのですから。つまり,現代社会に住んでいるわれわれにはその固定的な具体像は想像することができないということこそが,未来社会なのですから。極端な話,自然を壊しすぎてまずいなと考えたら,(その時点で他に有効なオプションがなければ)意図的・自覚的にサープラスを減らすということ,場合によっては縮小再生産するということ(マイナス成長するということ)ができるのが未来社会です。現代社会ではそれは無理な相談です。現代社会で,資本主義的営利企業が赤字になるとしたら,それは意図せざる不本意な結果です。現代社会では,資本主義的営利企業が利潤を意図的にゼロにするなんてことはできません。たとえ仮に奇特な一社がそういう決断をしたとしても,他の企業がその分を増産して,市場シェアを奪ってしまうだけです。

そして,現代社会の中にすでに未来社会は潜在的可能性として生まれているわけです。現代社会の欠陥を取り除いたら,それが未来社会になるわけです。

営利企業はいつごろなぜ発達していったのか?

難しいですね。遠隔地商業や高利貸しの分野では,大昔から営利原理で事業が運営されていました。それが企業内組織にまで発達したのも,かなり昔のことでしょう。

しかし,流通の分野でのみ営利活動が行われている限りでは,営利企業が社会の経済活動を支配するものには決してなりません。そして,営利企業がそのようなものになったのは,生産そのもののが営利企業によって担われたからであり,それは現代資本主義社会の歴史に一致します。

市場を「イチバ」「シジョウ」と呼ぶのでは2つに違った意味があるのか?

通常は,目に見える具体的な,かつ小規模な市場をイチバと呼ぶと思います。例えば朝市なんてのはアサシと発音したりしません。これに対して,通常は,目に見えない抽象的な概念として,あるいは大規模ないしはグローバルなものとして,市場をシジョウと呼ぶと思います。例えば,東京外為市場(これはは外為銀行のディーリングルームを結ぶ回線の中のデジタルデータのやりとりとしてしか存在しません)を東京外為イチバと呼んだりはしませんし,市場社会をイチバ社会と呼んだりもしません。

動物的生命と人間的生命

人間とその他,生物の発展の差の要因は要因は結局,欲に行き着くのではないのか?

労働に行き着きます。労働によって,能力も欲望もスパイラルに高まっていくというのがこの講義の考え方です。

欲は究極的には本能に基づいています。その限りでは,人間に限らず,すべての生物の生命活動は結局,欲に行き着くと言えます。

しかしまた,それと同時に,人間が労働を媒介にして欲望をスパイラルに高めた結果として,他の動物とは異なるような欲望とライフスタイルを手に入れたということをこの講義は強調しました。他の動物の場合には自己の個体を再生産するために食餌をし,自己の種族を再生産するために交尾をします。これに対して,人間は旨いからといって手を掛けて調理したものを,楽しいからといって友人たちと語らいながら食べて食事をします。人間は愛し合って性向するだけではなく,あろうことか避妊したりします。動物の生命活動をノーマルと考えるならば,人間はとんだ変態食欲者であり,とんだ変態性欲者です。そして,動物にとってアブノーマルであるということこそは人間にとってノーマルなのです。

「植毛」を行った場合,その植毛された毛は自分の一部分だと考えられるか?

もし自分の一部分というのが自分の有機的自然(有機的総体)の一部分のことであるならば,答えはノーです。それは心臓のペースメーカーと同様に,歯の詰め物と同様に,自分の有機的身体と一体になったような自分の非有機的自然です。そして,地毛が自分の一部分だという場合には,それは自分の有機的自然の一部分のことを意味しています。

人間という動物は赤ん坊という生物から成長して人間になっていくのか? 人間の赤ちゃんは環境を自分に適合させられないので,人間以外の動物が進化の過程でそうしてきたように環境に自分を適合するのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

まぁ,この講義の考え方では,一面では,赤ん坊は本能的な存在であって,動物と変わりありません。そこから成長して人間になると言えます。

他面では,当たり前のことですが,赤ん坊は人間になるべき存在として,あるいは人間の赤ん坊として,他の生物とは全く異なります。人間の社会形成(労働による社会形成)の原理が普遍的である限りでは,やがては人間社会はこの原理をすべての人間に付与するのに至ります。この普遍化の過程では,奴隷なんかがいなくなるだけではありません。労働による社会形成は,労働できない人,労働しない人,そして赤ん坊なんかを問わず,メンバーとして認めていくことになります。根拠は労働にあるのですが,出来上がったものは労働の普遍性の原理に応じて普遍的です。この普遍化の過程をわれわれは「4. 市場社会のイメージ」で見ていくことになります。

同様にまた,赤ん坊は人間の赤ん坊なのですから,別に自然環境に適合しなくても,親や社会が面倒を見て成長します。そして,成長したら,自然環境を自分に適合させます。逆に,真冬の寒空の下にほっぽっておいたら,赤ん坊は(防寒のために)体毛だらけになったりはせずに,死んでしまうでしょう。

長い年月で類人猿は進化していかなかったのか?

少しずつですが進化してきました。ただし,それは自然に適合しただけです。そうである限りでは,その進化には気が遠くなるほどの時間がかかります。

他の種においても人間のように発展する種が生じていないのも必然なのか?

現生する生物について言う限りでは,必然です。

そして,現生する生物についてではなく,地球の歴史において,類人猿からとは別の系統で,労働を行う生命体が生じる可能性があったのかどうかなんてのは,あまり意味がない仮定の話です。

太古には甲羅がついていない亀がいたのか?

えっと,それは生物学の先生に聞いて下さい。

現状,甲羅があるような爬虫類の種(本当は系統上はもっと細かく分かれます)が亀になっています。しかしまた,このことは進化において亀の先祖たちの中で,現存する形態での甲羅を持っているようなものだけが亀として生き残ったということを意味すると思います。これ以上は,生物学の話になります。