このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2015年04月14日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
労働がなくても,人間は動物として生活しています。しかし,これは経済ではありません。従って,労働があるから経済が生まれたということになります。労働によって,物質代謝の効率的・社会的運営──こういった場合には,生産だけではなく(従って労働だけではなく)消費にいたるすべての過程を含みます──が可能になります。
下等な生物から離れていき,そしてその後は下等な人類から離れていきました。
合理性には,なんの合理性なのか,ということについて議論がありますが,ここでは手段の合理性に話しを限定します。そうすると,合理的という場合には目的を設定してそれに最も適合的な手段を選ぶということになるでしょう。「最も適合的な」というのは,経済の分野では,「最も効率的な」ということを意味します。社会的なというのは,合理的であるということとはもともと次元が違います。但し,この講義では,差し当たって先ず,効率性を媒介する「合理的」な(合目的的な,目的達成に最も適合的な)手段として社会が形成されるというのを,経済的な社会形成の出発点──終着点ではありません──と考えています。
労働の節約とは,生産物の品質と量とを一定とすると,最も少ない労働でこれを達成するということです。「あえて手間をかける生産」は,──個人のお楽しみではなく(つまり遊戯=遊びではなく),社会的な富の生産について言うと──,品質が向上しなければ無意味です。同じ量・質の料理なら,より少ない労働をかける方がいいに決まっています。それでもわざわざ労働を増やすのは,それによって品質が上昇するからです。
そして,このように労働の追加によって上昇した品質を前提すれば,つまり「あえて手間をかける生産」を前提すれば,対品質比で労働を節約するのが人間の経済活動です。さらにまた,社会の限られた経済的資源をこのような「あえて手間をかける生産」に振り分けることができるのも,他の生産において労働が節約されたからです。
残念ながら,歴史的時代の開始時期を明確に決めることはできません。政治的事件によって時期を区切る方法でさえ,鎌倉時代が何年に始まるのか学者の間で議論があるくらいです。ましてや,経済の歴史の場合には,もっとずっと曖昧なものになるしかありません。また,ここで私が「○○年から現代だ」などと言ったところで,結局それは私が勝手に決めたものに過ぎません。
そこをあえて言うと,現代社会とは資本主義的な市場社会です。それを第二次世界大戦後と考えるのはあまりに短すぎます。大体,18世紀の終わり(アダムスミスの『諸国民の富』が出版されたのは,アメリカで独立宣言があった1776年です)から今日までというスパンで考えてください(もっとも,講義では,そんな「昔の現代」は想定せずに,「今日の現代」を想定して話を進めていきますが)。
うーん,講義ではきちんと説明したはずなのですが。要するに,消費しかないことだとイメージしてください。動物だって消費はしています。これは間違いありません。これに対して,人間の場合には生産と消費とが分かれています。これも間違いありません。そして,分かれているという,なんというかハイレベルな立場から振り返ると,動物の場合には,生産と消費とが分かれていなかったということになるわけです。