このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2014年06月24日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
分業に基づく協業は分業が導入された生産様式,分業はそこで発揮される規定的な生産力要因です。協業と言った場合には,生産様式としての協業も,そこで発揮される規定的生産力要因としての協業も,どちらも含むことができます。しかし,特に分業に基づく協業(分業が導入された協業)という生産様式と区別するためには,分業が導入されていないような協業という生産様式は単純協業と呼ばれます。単純協業といっても,それは生産様式である以上,そこには協業だけではなく,個人の労働だと労働手段・労働対象とが含まれています。ただし,それを個人的労働の生産様式から区別するのは(あるいは,多人数であっても,協力しあわずにてんでバラバラにやっている生産様式から区別するのは)協業という生産力要因が導入されているということなのです。分業に基づく協業もまた,生産様式である以上,そこには,分業以外にも,協業も,個人的労働も,労働手段・労働対象も含まれています。ただし,それを単純協業から区別するのは,分業という生産力要因が導入されているということなのです。
分業=労働分割というのは労働を複数の人に割り振って役割分担することです。一人がアメーバのように分裂することはできないのですから,分業を導入するためには協業が行われていなければなりません。あるいは,最初から(単純協業抜きで)分業をやるということでもいいのですが,その場合にも,前提関係としては協力しあうたくさんの人がいて初めて役割を割り振ることができるのですから,やはり協業を前提するということになります。
さて,単純協業のリアリティですが,役割分担が固定されずに同じようなことをするといっても,ロボットではないのですから,人間が全く同じことをするなんてことはあるはずがありません。似たようなことをしているわけです。あるは時々違うことをしたとしても,それがまだ役割分担として固定されてはいないのです。そういうのは,それ自体としては農業とか漁業とか,家庭内でとかでよく見るものです。現代的な大規模産業においては,分業されたセクションを考えてみてください。一人ひとりに全く異なる仕事が割り振られているということはあまりないでしょう。数人ごとのチームごとに役割分担していることが多いでしょう。その場合には,分業であっても,個々のセクションの中,個々のチームの中では単純協業をしていることが多いのです。チームごと,セクションごとに役割分担,つまり分業しているわけです。
役割分担をせずに協業しても生産力が上昇するというのは,例えば引っ越しバイトで重い荷物を運ぶときなんかに普通に経験できることだと思います(特にほぼ同じくらいの体力の持ち主同士の場合)。で,これは分業で見ることになりますが,実際問題として,役割分担すると,つまり分業が導入されると,協業によって「効率が大きく向上する」ことになります。でも,その場合にでも,「効率が大きく向上する」のは役割分担しながら(分業しながら)協力しあっているからであり,つまりは協業の利点なのです。
違います。逆です。分業が協業ありきのことなのです。資本主義的営利企業について,“分業に基づく協業”という生産様式から,“分業”という生産力要因だけを抽出したのが企業内分業です。
なります。科学的知識の意識的・計画的適用が導入された現代的な産業を想定する限りでは,単純協業と分業に基づく協業とは固定的・不変的な区別ではなく,流動的・可変的な区別です。要するに,同じ人員からなる労働編成であっても,時には完全に役割分担した分業に基づく協業になり,時には役割分担をしない単純協業になります。
まず,資本には実体はあります。しかし,通常「実体」という言葉からイメージされるのとは違って,その実体は“モノ”ではありません。資本の実体は価値運動であって,価値はこれはこれで人々の社会的関係です;要するに,価値というシステムであり,このシステムの運動です。この価値運動が運動において貨幣だとか,生産手段だとか,労働力だとか,商品だとかそういう“モノ”の形態を着ては脱ぎ,脱いでは着るのです(労働力は“モノ”ではなく“ヒト”ではないかと考えるかもしれませんが,労働者の人格から区別された労働力は売買可能な“モノ”でしかありません)。
で,実際にこの計画──それには全社的レベルから各部署のレベルまで様々ですが──を立案するのはもちろん人的スタッフです。そして,それを個人企業の場合には個人資本家が,株式会社企業の場合には(必然的なものとしては)専門的経営者が執行します。当たり前のことですが,資本などという,人間でないシステムが計画を立てたりするわけがありませんし,執行したりするわけがありません。しかしまた,個人企業の場合には個人資本家が企業売却したとしても,また株式会社企業の場合には経営陣が総入れ替えになったとしても,あるいはまた,どちらの場合にもヒラの従業員が総入れ替えになったとしても,そのことだけでこの計画が無効になったりしません。無効になるためには,新たな計画が立案されなければなりません。ヒトが変わっても計画が変わらないのは,それがシステムの計画だからです。これが資本の計画ということです。
このことは会社企業の場合によりいっそうはっきりと出て来ます。個人企業の場合には資本家個人と資本とが一体のものなのでよく分かりにくいかもしれませんが,所有と機能とが完全に分離している株式会社の場合には計画も権威も会社にその権原があるということがはっきりしています:
一方では,株式を所有しない専門的経営者の方は会社の代表者/代理人であるのに過ぎません。専門的経営者たちは──委任契約か雇用契約かという契約形式の違いにも拘わらず──,そしてまた,その他の管理職もまた,本質的には,その他の従業員たちと同様に,会社の雇われ者にすぎません。会社の業務命令を実際に行使するのがどの職制であっても,この業務命令の根拠は会社にあります。
他方では,株式を所有する株主──大規模公開会社の場合には多数の株主がいると想定されます──の方は企業内部の労働管理に全くタッチしませんし,できません。労働者たちは会社に雇用されているのであって,株主に雇用されているのではありません。労働者たちは会社の業務命令に従うのであって,株主に従うのではありません。以上,株式会社の問題については,政治経済学2で詳しく扱うことになります。
権威についても同様のことが当てはまります。もちろん,個々のケースをとれば,なぜに会社の業務命令に従うかというと,その会社が好きで好きでたまらないとか,経営者にカリスマ性があるとか,その仕事をすることが歓びだとか,お客さんの役に立ちたいとか,いろいろとあるでしょう。でも,そんなものがあろうとなかろうと,会社の業務命令には従わなければなりません。従業員は自らの自由意志で,そのような契約を結んだという形式,そういうタテマエになっているのですから。だから,権威は彼または彼女を雇用している会社にあるのです。
講義で強調したように,このような形式こそが資本主義的生産と奴隷制とを区別しています。権威は下から自発的に生まれるのか,それとも上から無理矢理押し付けられるのか,どちらなのかという二者択一的な議論があります。しかし,講義で強調したように,資本の下ではどちらかなのではなく,下から生まれたものを資本がわがものにして,そうして上から納得ずくで押し付けるのです。上から無理矢理押し付けるだけなら奴隷制ですし,下から自発的に生まれだだけなら友人同士の助け合いです。
そういうことなら,資本といわずにgoing concernとしての企業とでもいった方が分かりやすいのではないかと思われるかもしれません。実際,この講義でも,そちらの方が分かりやすい場合には「資本」のことを「企業」と表現することもあります。しかし,企業というのは,資本のほんの一面しか表していません(資本を主として内部組織として捉えたものにすぎません)。この点については『5. 資本主義社会のイメージ』の「資本のいろいろなイメージ」をご覧ください。
どの人類社会にも共通な経済活動の『3. 労働と社会』の「労働の原理の浸透」のスライドで既に,権威という言葉は使っていませんが,その概念は出て来ていました。実際にまた,どの人類社会にも共通な経済活動というパースペクティブで捉えると,権威は「労働者たちの意志を(外にある)一点に集中させる」ということになります。この点について講義では,オーケストラでは指揮者の権威という形で演奏者たちは自分たちの共通意志を外部化していると説明しました。
そのような,どの人類社会にも共通な経済活動においても,社会的労働を行う限りでは常に必要であるような権威が資本主義的営利企業では「全体を一定の方向に強制的に向かわせる」ということに帰結するわけです。
ロナルド・コースについての補足で述べますが,コースの場合には,市場と(非市場的)組織とを比較して,コーディネーションの役割を担うのは,市場では価格メカニズムであるのに対して,組織では権威だと考えています。また,ハイエクの場合には,市場経済と計画経済とを比較して,計画を立案・実行するのは,市場の場合には分散的な経済主体(私的生産者)であるのに対して,計画経済の場合には中央集権的な単一の権威だと考えています。このような用法において,権威とは:
ということ;要するに他人の意志を従わせる意志であるということに注目してください。この講義は,このように経済学で多かれ少なかれ暗黙裏・潜在的に設定されている権威と意志との関係を,労働論に基づいて明示化・顕在化しています。つまり,この講義では,労働というシステムの発生行為に即して,社会的労働において発生する権威を,労働一般において発生する意志によって根拠付けているわけです。
しかしまた,経済学を離れて,日常用語でも権威(authority)は意志とは切り離せないのではないでしょうか。“さぁ,今日はベートーベン研究の権威に着ていただきました”。──この場合,“俺が権威だぜ,俺が権威だぜ”と強烈に身勝手に自己主張していてもダメです。多くの人が,“あぁ,ベートーベンについてこの人の言うことはとりあえず正しいものとして従っておこう”という意志をもたなければなりません。え? 権威だからこそ反抗したい? 「権威だからこそ」とか「既成の権威には」とかといった瞬間にその権威に従ってしまっています。あなたの意志が認めちゃっています。──“こいつは従うべき権威だ,だから逆らおう”と。
資本主義的営利企業においては,権威は「資本による強制」として現れます。
ただし,別に資本が強制しなくても,大規模な協業をする際には,権威が必要です。講義では,オーケストラとかを例に出して説明しました。そして,強制が不要な場合も多いのです。しかし,資本主義的営利企業においては,この協業を組織しているのが資本であり,資本は労働を強制するものなので,権威も強制として現れるのです。
その通りです。それが構想・意志をこえる権威・計画の独自の問題です。
あなたが指摘している通り,「機械化」が進むとそれだけますます「資本家の権威」が高まると言えます。しかし,それにもかかわらず,意志のすりあわせは資本にとってもまた必要なのです。どれだけ「機械化」が進んでも,嫌々働くような労働者ではなく,資本の利潤最大化のために進んで搾取され,自らの能力と意志とをすべて出し尽くすような労働者が資本にとっては必要なのです。
第一に計画について。大体合っています。ただし,各労働者単位については,この講義は,計画ではなく,構想と呼んでいます。この講義で計画と呼ぶ場合には,社会的労働に限られています。あと,正確に言うと,事業計画は計画を現実化し,対象化したものです。計画というのは結果とそこへのプロセスとの先取りであって,それ自体としては労働の自覚的な契機の一つです。要するに,かなり極端な例ですが,会社のトップだけが知っており,現場の従業員が一人も全く知らない事業計画なんてのは厳密には計画たりえません。
第二に,権威について。「企業理念」だと曖昧になると思います。資本主義的営利企業において,権威とは,各従業員が労働にしている間にそれに従うべきであるような,そして各従業員の外部にあるような意志です。もっと分かりやすくいうと,権威から発せられるのが業務命令です。これに対して,企業理念と業務命令とはあまり関係ないでしょう。もちろん,資本主義的営利企業としては企業理念を受け入れた上で従ってもらうのに越したことはないでしょうが,そんなものを受け入れなくても従ってもらわなければなりません。従業員の側としても,企業理念を受け入れた上で従うのであれば気が楽になるのかも知れませんが,そんなものを受け入れなくても従わなければなりません。
現存する/かつて存在した社会主義国について言うと,それほど高度で具体的な計画経済は行なわれていなかったと思います。社会規模であったという点,つまり作用範囲は違いますが。
資本主義的営利企業における計画は基本的に企業規模のものですが(企業間でも計画は行なわれていますが),はるかに具体的なものだと思います。
協業には特有のコストがかかります(この講義では協業の必然的コストとして管理労働だけを取り挙げますが,他にもあります。それはビデオ等で見ていきます)。協業が失敗した場合には,協業の利点よりも協業のコストの方が大きくなってしまいます(協業の失敗には協業のコストが高すぎる場合もあれば,協業の利点が低すぎる場合もあります)。
それは協業のデメリットではありません。そうではなく,協業の失敗です。デメリットが出たら失敗なのです(ただ人が集まっただけで,協業ではなかったのです)。
それは別として,芸術的/半芸術的な労働なんかの中には個人で行う方が品質的にもコスト的にも優れた場合があるでしょう。
一般論でいうと,これから見ていく,科学的知識の意識的・計画的適用が導入された現代的産業においては,上記のコストを解決している限りでは,一般的に協業を行う方が生産力を高めることになります。と言うか,そもそも協業しなくては労働することができません。巨大な自動車工場で協業せずに労働することができるでしょうか?──“俺はトヨタ式にラインに一個流しで組み立てるから個人プレーだぜ”。──ダメです。工場全体の調和の下で,しかも機械設備の体系の下で労働する限り,一見,個人プレーで労働しているように見えても,完全な協業の下にあるのです。それが証拠にあなたが一人サボってご覧なさい。たちまち生産計画に齟齬が生じてきますし,ラインに停滞が生まれます。後で見るように,現代的産業の下では,知らず知らずのうちに協業してしまっているのです。
寧ろ,個人プレーが可能な現場の方が特殊的でしょう。個人営業とか,出張修理とか,ファンドマネージャーとか。
違います。組織を形成しているのは同じ資本に雇用された労働者であり,従って組織を形成させているのは資本なのですから,組織の利益は(本来的には資本家の利益ではなく)資本の利益です。ただし,この“資本の利益”は「資本の持ち主,資本の帰属者」に第一義的・第一次的に帰属するものであって,実際,各労働者への還元がない限りでは,「資本の持ち主,資本の帰属者」が全部これをぶんどるということになります。なお:
組織は資本の組織なのですから,資本から区別された組織への還元なんてもともとありません。これは例えば個人ではなくチームに報奨金が与えられる場合にも同じことです。どのみち,チーム自体が資本の要素です。
株式会社においては,「資本の持ち主,資本の帰属者」が株主として企業の外部に出てしまいます(企業の内部組織からは消えてしまいます)。そこで,株式会社においては,これが資本家の利益ではなく,資本の利益だということがはっきりと出て来ます。これについては政治経済学2で詳しく見ますので,興味があれば履修してください。
同じことです。ちなみに,7ページ目は協業のセクションの中にあります。では,何故に「協業」と呼ばずに「社会的労働」と呼んでいるのかと言うと,社会的労働の生産力は協業だけではなく分業でも科学的知識の意識的適用でも常に当てはまることだからです。
ごめんなさい。そのロジックがよく分かりません。一般論として言うと,大規模であれば大規模であるほど,個人の貢献分はますます不明になると思います。これは大規模なチームで新薬開発をおこなっている製薬会社で新薬開発の報奨金を計算する場合なんかには普通に起こることです(製薬は私は詳しくないのですが,NHKのテレビ番組で観ました)。
資本の生産力は,単純協業でも,分業に基づく協業でも,現代的な大規模産業でも,等しく生じるものです。ここでは,あなたの問題意識に従って協業一般を想定します。人数が増えただけで増えていくというわけでは決してありません。そうではなく,これは労働する個人の間での協力によって増えるものですから,下から増えていくものです。下から増えていくというのはつまり自然発生的に生まれてくるということです。そして,このような下からの協力を意図的に生み出そうとする条件が上からの管理労働なのです。
大体,合ってます。例えより多く生産できなくても,そもそも同じ組織をなして働く場合には,組織の力が成立しているのです。しかし,この場合には,組織の力は個人の力の総和にすぎません。これに対して,個人の力の総和を超える組織の力が生まれると,この増加分
は,個人から生まれたのですが,組織固有の力になります。
そして,このような組織の力がどこに属するのかと言うと,それはその組織を形成した主体です。サークル活動の場合には,各構成員ということになるでしょう。これに対して,資本主義的営利企業の場合には,労働者が自主的に集まって働いているのではなく,同じ資本に雇用されて働いているのであるから,従って資本が従業員の労働を組織しているのだから,組織の力は資本に帰属します。組織固有の力ならばなおさらです。
大体,大丈夫です。
合ってます。なんでも資本というモノのシステムに還元されて,個人は──労働者だろうと資本家だろうと──このモノのシステムのおこぼれをいただくのです。前近代ならこのシステムが家父長とか王様とかそういう人格の姿で現れていたのですが,資本主義においてはモノのシステムが個人を支配しています。しかもこのシステムを形成したのはほかならない個人です。
前近代的共同体でも,家族の中では毎日経済生活の中で必然的に協業していたことでしょう。しかしそれらは小規模でした。前近代的共同体では大規模な協業が経済生活にとって偶然的だったのです。
プロジェクト毎にフレクシブルに適正な規模になるというのが未来の生産形態だと思います。大きくならなければならない,小さくなければならないということ自体が,労働の有機的性格に反しています。生産規模を決めるのはプロジェクトです。
政治経済学2では,このようなフレクシブルな,社会的労働の有機的な性格と私的所有の固定的な性格が反していくということを見ていきます。
現代社会にもいろんな組織がありますね。家族組織,政治的組織,非営利組織,その他無数。その中で,資本主義的営利企業は「別格の組織」ですし,しかもこの別格の組織が現代社会システムの原理を決めています。
「募金活動で集められた資金を元手に行う団体(組織)」というのは典型的にはNPOとしての財団法人を想定したものだと思います。NPOは確かにタテマエとしては利潤最大化からは免れています(ただし赤字を続けるわけにはいかないでしょう)。しかしまた,多くの大規模NPO(病院とか大学とか)の場合には,法人と従業員とのあいだに利害対立がありますし,またその内部組織は内部組織で単なる消費者としての社会と対立しています(社会とは売り上げ増大のために上手く利用するためだけのもの。時にはだまくらかしてでも。従業員の内部組織は社会からの干渉を排除すべき私的組織)。
巨大な墳墓の造営は明らかに協業です。しかも大規模協業です。しかし,それは基本的には,宗教的・政治的活動であって,臣民にとっても国王にとっても日々の日常的な経済活動ではありません(特に提供する労働が生活手段の獲得とは無関係な単なる賦役労働である場合にはこの性格が強くなります)。もちろん,最初に述べたように,前近代では,経済的活動と宗教的・政治的活動とは不可分なものではあったのですが。
できます。例えば:
偶然的形態としては,一般に個人が創意工夫したり,くりかえし同じことをしたりすれば生産力が上がります。あなたが料理をつくる場合に,自分で工夫したり,ネットでレシピを見たりして,調理時間が減ったり,できた一皿が美味しくなったりしたことはないでしょうか? それこそが個人的労働の変化だけによって生産様式全体が変革されたということになります。
必然的形態としては,分業は熟練労働を,科学的知識の意識的・計画的適用は知識労働という複雑労働をもたらします。これは個人的労働の変化だけによってというわけではもちろんないのですが,社会的労働編成あるいは労働手段体系の変化が引き起こすような個人的労働の変化によって生産様式全体が変革されたということになります。
例えば,農業で,種の品種改良によって寒冷地で育つ稲,より速く育つトマト,より甘い苺なんかが生まれた場合には,労働対象の変化によって生産様式全体が変革されたということになります。
大体合ってますが,注意点が必要です。第一に,機械化が分業を完全に排除するのでない限り──そして現実的に排除しません──,機械化が導入された場合にも分業による「生産性向上」はあります。
第二に,「機械化」の結果は「生産性の向上」ですが,講義で強調したように,資本主義的営利企業は「生産性の向上」のために新生産方法を導入するのではなく,超過利潤の獲得のために新生産方法を導入します。超過利潤の獲得は商品を安くするということによって行なわれます。「機械化」の場合には,商品一単位当たりについて,節約される賃金額の方が機械設備が移転する価値額(機械設備そのものの価値額は大きいですが,それによって商品一単位当たりに移転される分は非常に小さくなります)よりも大きければ,商品の価格は安くなります。さて,一般に労働の生産力は,投入される社会的必要労働量と産出される物量との比率で考えることができます。しかし,上記の事情によって,例えば賃金が極端に騰貴する場合には,たとえ生産力の上昇に結び付かなくても,機械設備の導入によって労働者を駆逐する必要が出てきます。逆に,──これは講義でも述べましたが──,例えば賃金が非常に低い発展途上国を搾取する場合には,機械を導入する方が生産力が上昇するのに,あえて「機械化」しない場合もありえます。どちらの場合にも,生産力の水準から独立に,その方が商品の価格が安くなるからです。
ピンからキリまであります。科学に最も近いところで言うと,科学者・技術者の労働。科学に基づく限りでの,労務管理・生産管理の労働(要するにトップマネジメントを含む管理労働)。高度な科学的知識に基づく専門的労働。それだけではなく,──現時点では知識労働とまで言うと言いすぎですが──,現代的産業においては,ヒラの不熟練労働でさえも,学校教育程度の科学的知識を前提するという限りでは,そうでない労働に較べると科学的な複雑労働ということができます。
チームワークのやり方が変わることで生産力が上昇するからです。