1. 高強度・熟練・複雑労働

この世の中の労働は高い強度の労働と熟練労働と複雑労働の三つの労働だけにしか分類されないのか? 高い強度の労働や熟練労働が単純労働に該当するのか?それともこの2つの労働とはまた別のものなのか? 高い強度の労働と熟練労働とが汲みわされるとすごく生産性がある人になると思うがそういうことはあるのか? 熟練労働の人も通常の労働者と較べると強度の高い労働を行っているのではないかと思う。高い強度の労働と熟練労働とは包含関係にあるのではないか? 熟練労働イコール単純労働と考えても大丈夫か?しかし,複雑労働も何度もやって慣れるという意味では熟練労働と言えるのではないか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

高い強度の労働,熟練労働,複雑労働──これらはあくまでも一定時間内に高い付加価値を生む労働の典型です。そして,これらは互いを兼ねることができます。例えば,高い強度の熟練労働だとか,複雑な熟練労働だとか。

兼ね備えることができないのは,高い強度の労働は通常の労働を,熟練労働は不熟練労働を,複雑労働は単純労働を兼ね備えることはできません。ただし,これらの対立は相対的なものです。例えば,高い強度の労働は通常の強度の労働より高い強度の労働であり,熟練労働は不熟練労働より熟練した労働であり,複雑労働は単純労働より複雑な労働です。従って,単純労働の基準を単純労働Aにおくと,もしこの単純労働Aよりも複雑な労働B,また労働Bよりも複雑な労働Cがあるならば,労働Bは労働Aに対してはより複雑な労働だが,労働Cに対してはより単純な労働になります。

「三つの労働だけにしか分類されないのか?」──そんなことはありません。これ以外にもいろいろな労働があります。この2つの労働とはまた別のものなのか?

「この2つの労働とはまた別のものなのか?」──別のものです。

「そういうことはあるのか?」──普通にあります。

「包含関係にあるのではないか?」──包含関係ではなく,別の範疇です。別の範疇ですから,高い強度の熟練労働も通常の強度の熟練労働もありうるのです。実際,同じ熟練労働者も,気を抜いてやるときと必死こいてやるときとではパフォーマンスが違うでしょう。

高い強度の労働と長時間労働の両立は不可能か? 高い強度の労働は労働時間の延長を困難にするとあったが,最近問題になっているブラック企業など労働条件の悪い企業での働き方は,高い強度の労働で長時間労働だと言えるのではないか?もしそうだとしたら,日本でブラック企業が多いと言われている今,困難だとは必ずしも言えないのではないか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

困難だから「ブラック」(普通ではないもの,おかしなもの)なのです。ブラックであろうとあるまいと,他の条件が等しい限り(要するに生産力上昇という条件を無視する限り),資本主義的営利企業は従業員に対して長時間,高い強度の労働をさせようとします。しかし,それだけではどこかで無理が来るのであって,イノベーションを導入したり,あるいは夜間高速バスのように悲惨な事故が起きたり,あるいはブラック企業という形で社会問題化したりするのです。ブラックだと言うことは,高い強度の労働と長時間労働とが両立しないということの格好の証拠です。

熟練労働において育成費の有無で複雑労働と差別することは難しいのではないかと考える。例えば,キャベツ切りにおいて,初期段階において商品として売ることができないキャベツが存在すればその損失は育成費と捉えることができるからだ。

一般論として言うと,「熟練労働において育成費の有無で複雑労働と差別すること」が常に可能だとは限りません。その限りでは,それは「難しい」とも言えるでしょう。

次にあなたの例を考えてみましょう。あなたの例では企業による育成費負担が想定されています。もし仮に,たとえゆっくりと慎重にキャベツを切っても,「初期段階において商品として売ることができないキャベツが存在すれば」,それはキャべツ切りはそれだけ複雑な労働だと言うことです。その場合には,そもそも商品にならないわけですから,調理場でキャベツを切らせるのは営業にとって全く無駄です。別の部屋にでも,あるいは同じ調理場でもいいから隅っこの方で,出来損ないのキャベツを与えて専門的に訓練させて,その上で,或る程度客に出せるものが切れるようになってから,調理場に立たせるべきでしょう。要するに,その間はキャベツ切り労働は熟練労働ではなく(巧みかどうかを問題にできるレベルではなく),客には出せない修行だと言うことでしょう。

熟練労働の例で一日中キャベツを切る場合,長時間労働によって労働の強度を落とすということは考慮されなくていいのか?

熟練労働の場合には,一日中ということではなく,毎日ということ,つまり反復が重要なのです。余りに長時間労働で半分居眠りしながらでは,キャベツを切る熟練はなかなか身につかないでしょう。と言うか,そういう状態で刃物を扱うのは労災の元でしょう。

企業にとっては高い強度の労働と長時間労働との両立をすることで,付加価値を生み出すことが可能になると考えるのだが,そのどちらかしかできないとなると,付加価値が生み出されないのではないか?

(1) 他の条件(ぶっちゃけ生産力)が等しい限り,企業は当然に「高い強度の労働と長時間労働との両立」を試みます。「そのどちらかしかできない」なんてことはもちろんありません。ただし,その両立を追求していくと互いに矛盾するというわけです。

(2) 「そのどちらかしかできないとなると,付加価値が生み出されないのではないか?」──そこで,イノベーションと生産力上昇が出てくるのです。

育成費がかかる=労働価値が本当に高いのか? 経済的余裕がなく,育成費をかけられない労働者がいるのに,モチベーションや成果等を見ずに複雑労働と称し,高い給料が支払われるのはなんとも合理的な仕組みだと思った。

いろんな問題が混ざってしまっていると思います。まず,育成費がかかっている以上,労働力の価値は高くなります。ただし,実際にそれが売れるかどうかは別の話です。社会に需要がない労働力の育成であるならば,その育成費はを収することはできないでしょう。

次に,育成費をかけたからと言って,本当に複雑労働になっているのかは別の話です。例えば,大学生の皆さんは大学で4年以上かけて労働力を育成しているはずですが,──そしてそれは高卒初任給と大卒初任給との違いということで現れますが──,実際に能力が高くなっているかどうかは働かせてみなければわかりません。情報の不完全性が生じているのです。学生本人が自分の能力を把握しているのかも分からないのに,企業側が学生の能力を完全に把握するのは不可能です。

単純労働でも肉体を酷使するような労働においても高い価値は付与されないのか?

一応,身体能力は普通だけど,肉体を酷使する場合と仮定します。身体能力自体が高い場合は次の質問「8. 身体的能力が高い場合」をご覧ください。

この場合には,通常,労働力の価値は高くなりません。しかし,肉体を酷使するような労働は高い強度の労働です。その点で出来高に応じて高い賃金を得ることもできます。また,3K職場のように需給ギャップがある場合には,出来高賃金に解消できないような高賃金にもなりえます。

例えば,肉体労働において,力が強い,またはがたいの良い人の方が高いパフォーマンスを出せると思うのだが,これは2の高い強度に入るのか?それとも複雑労働に入るのか?それともあくまで同じ人間の中での労働についてであって,人ごとの違いは入らないのだとしたら,それだとしたら筋トレして労働のパフォーマンスを上げた場合はどうなるのか?

難しいですね。難しいのは第一に例外的なケースであるからです。第二に,生まれつきの才能がからんでくるからです。極端な例では,メッシやイチローの労働の賃金はどの経済学派においても通常の賃金理論では説明することができません。それは,骨董品の価値規定が不可能なのと同じです。

(1) 筋トレしていない場合:生まれつき「力が強い,またはがたいの良い」労働力を想定します。この場合には育成費はかかっていません。

(1–a) もしこのような労働者にしかできない(ものすごく重いものを一人で運ぶとか)ような労働種類があるのであれば,擬似的に複雑労働が成立していると言えます。もちろん,生まれつきの才能なので,育成費はかかっていませんが,別採用(~kg以上のものを運ぶ労働者専用枠)になっている限りでは基本給の違いとして現れます。要するに,複雑労働だが,しかし育成費はかからず,しかしまた基本給の違いとして現れるということです。

(1–b) 他の肉体労働者にもできることを行っているけれども,パフォーマンスが高い場合。この場合には,強度の違いが労働力の違いに基づいているのだ,と解釈することができます。要するに,高い強度だけど,しかし労働力の違いがあり,そして出来高賃金でペイされるということになります。

(2) 筋トレしている場合:この場合には育成費がかかっていますね。

(2–a) 特別な労働種類の場合。通常の複雑労働と同じように考えていいと思います。

(2–b) 同じ労働種類の場合。やはり高い強度の労働と考えるべきだと思います。育成費がかかっていますが,基本給の違いでペイすることができません。従って,高い出来高賃金によって育成費を回収することになります。

複雑労働の説明で「やる前にあらかじめ勉強しました」の文面が複雑労働とどう関連があるのか?

労働内容が複雑であるような具体的労働が複雑労働です。常に絶対というわけではありませんが,通常は,このような複雑さはず《ぶの素人の状態で複雑労働を行っても全く役に立たない》ということに現れます。そこで,通常は,労働する前に事前の育成が必要になるのです。例えば,英語が話せる労働力は英語が話せない労働力に較べて,その点では複雑です。日本語を母国語とする商社マン/ウーマンがいきなり全く英語がわからない状態で英語圏に買付けに行っても,体で覚えろと言っても無理でしょう。あらかじめ,最低限業務に必要な水準の英語会話力を治めた上で,実務の中で熟練をつんでいくということになるでしょう。

〔『5. 資本主義社会のイメージ』の高い強度の労働についての〕「労働力とインセンティブ」のスライドでoutputは高い共同の労働により捻出された同じ時間内での労働量の増加分だと思うのだが,inputのことは何を指すのか?

(1) output:outputの増分は,「労働量の増加分」ではなく,生産物の増分です。

(2) input:inputの増分は労働量の増分です。本来は旧労働と新労働との両者を含んでいますが,ここでは,新労働だけを考えればいいでしょう。

2. 私的生産と資本主義的生産

〔『4. 市場経済のイメージ』の「本来の私的生産のインセンティブ」のスライドについて,〕「経済的目的達成のための手段」というのがよく分からない。「そのように目的達成させるか」ということが手段という意味であり,このインセンティブは「自由への意志」のようなものなのか? また目的のインセンティブとはポジティブ・ネガティブが独立して有るものか?それとも裏表のような関係か?

(1)手段のインセンティブについて。一般に生産の目的は直接的には生産物であり,生産はそのための手段です。(実際には,目的と手段との関係は単純なものではありません。生産物はまた生産物の消費という目的のための手段です,等々。このように,目的は次の目的のための手段になります。しかし,ここでは,このように考えてください。)このような意味で生産そのものは手段ですが,奴隷労働の場合にはこの手段は鞭が怖くて嫌々やるものです。嫌々なんで,あまりやる気が起こりません。これに対して,本来の私的生産における私的労働の場合には,──それによって得る利益をわがものにできるということを別にしても──,全部自分でできるということ自体がやる気を起こすことなのです(ただし,もちろん,この場合には,他の人が手伝ってくれるからますますやる気が起こるということは排除されます)。

(2)目的のインセンティブについて。表裏一体のものです。ただし,表裏一体のものが場面場面で分かれて現れてきます。例えば,事業が好調な場合にはポジティブなインセンティブの方が全面に現れるでしょうし,事業が躓き出すとネガティブなインセンティブの方が強くなるでしょう。

従業員の数が少なく家族経営であるような企業は自営業に当てはまらないのか?

統計上は,家族従業者を雇用しているような企業は自営業にカウントされています。しかし,理論的には,この講義では,自営業者は個人として想定されます。従って,この講義での自営業者は家族従業者をも雇用していません。実際にはそのような自営業者は極めて少数でしょう。家族従業者しか雇用していないような企業は中間形態・混合形態です。中間形態・混合形態から理論を構築することはできません。例えば,水の属性を考察する際に,塩水を実験して水は電解質だと結論することはできません。純水によって水の属性を規定しなければなりません。

なぜ自営業は資本主義的な意味を持たないのか?

カネモウケだけが唯一の動機ではなく,カネモウケのためにたくさんの従業員を雇用してはいないからです。

私的生産である時点で,……「生存」のため「しなければならない」という強制や自然状況による制約等もあった以上,完全な自由と言えるのか?それともここで言う私的生産とは……社会における自由を表していると言うことか?

(1)自然的自由について。全く自然的な必要から解放されるくらいに生産力が発展するということも遠い未来に実現さされるでしょう。それこそが本当の自然的自由ということになるでしょう。しかし,この講義で述べている労働における自然的(または個人的)自由は直接的には自分の対象を自分の意志のままに制御するということです。その時点で,個人的な意味での自由が成立しています。

(2)社会的自由について。で,ここで言っている私的生産の自由とは,誰にも命令されずに,自分の意志で行動するということであって,つまりは社会的自由のことです。

『4. 市場社会のイメージ』の所の奴隷制の比較表があったけれども,奴隷の定義が広すぎて曖昧になっている気がした。

もともと奴隷制は非常に長期間続いた制度であり,その意義もローマの奴隷とアメリカ南部の棉花奴隷とでは全く異なるし,生産奴隷と慰み者とでは全く違うし,等々ということは講義の中でも強調したとおりです。で,奴隷の定義ですが,こういう比較をする際には,両極端を考えなればなならず,極端に位置する奴隷というのは空間も時間も総て奴隷主に支配された総体的な奴隷ということになります。

なぜ企業での労働が私的労働になるのか?

市場では,商品にとって重要なのは品質と価格であって,供給主体が自営業者か資本主義的営利企業かということではありません。商品そのもの(メーカー名とかを消して)を見ても,自営業者の製品か資本主義的営利企業の製品化ということは分かりません。もちろん,ブランドイメージも重要ですが,それも品質に結びつくと想定されているからです。そういうわけで,資本主義的営利企業も自営業者も,どちらも同じ土俵で同じものとして競争します。要するに,商品を生産する労働が私的労働なのですから,企業の外では,つまり市場では,自営業者の製品を生産した労働も,資本主義的営利企業の製品を生産した労働も,同じく私的労働として通用するわけです。もちろん,企業の中に入ってみれば,個人ではなく,従業員集団が社会的労働を行っているわけですが,それはあくまでも企業の内部,プライベートな空間においてのことです。

企業が自らの土地を使い捨てるということは現実的に考えづらいと考える。

まず,経済学で土地といった場合には,大量生産不可能で独占可能なあらゆる自然を意味します。で,もちろん,資本主義的営利企業も,それが経済的損失を招くのであれば,土地を使い捨てたりはしません。ここではなぜ資本主義的営利企業が使い捨てしうるのか,ロジックを理解してください。

本来の私的生産では,個人が自分自身が私的所有する土地で生産を行っています(通常はこの土地は生産用地であるのと同時に居住用地でもあるでしょう)。

これに対して,資本主義的営利企業の場合には,基本的に他人の所有物を利用します(他人の労働力,他人の金,他人の土地)。従って,農業でいうと,土地所有者から資本主義的借地農業者が土地を借りているというのが典型的な資本主義的生産になります。この場合に,土地所有者と資本主義的借地農業者との間に利益相反があるということが重要です。一方では,資本主義的借地農は土地改良等,土地と不可分な投資を行っても,豊度を増した土地は土地所有者のものですから,次の契約更改時に賃貸料の値上げに帰結します(いまや資本主義的借地農のおかげでただで土地の豊度が増したので,もっと有利な条件で他の資本主義的借地農に土地所有者は土地を貸すことができます)。それとは逆に,所詮は自分の土地ではないから,土地を汚染して統治の豊度を低くしても,資本主義的借地農業者は使い捨てして,他の土地所有者からもっと豊度が高い土地を借りることができます。

もちろん,そもそも自然破壊からの回復費用を社会に押し付けることができる場合は,本来の私的生産も資本主義的営利企業と同様に,自然を破壊する経済的な動機を持つことになるでしょう。ただし,この場合にも,純粋に利潤最大化だけで行動し,そのために合理的な手段をなんでも追求する(なんらかのペナルティやサンクションがないのであれば自然破壊をも追求する)資本主義的営利企業の方がその動機は強いというべきでしょう。

私的生産における自由は資本主義の元では成り立ちづらいと考える。なぜなら価格競争で勝てないのであればプレミアム戦略をとらなければならず,結果的にやりたいことをやって生活するのは難しく,勝負する市場を探さなければならないからだ。

「私的生産における自由」は単なる形式的自由であって,その実体は自己責任と表裏一体のものです。要するに,思い通りのことが魔法のようにできるということではなく,他人の権利を侵害しない限りでは,社会からその自由に干渉されないということです。「やりたいことをやって生活する」のも自由,「やりたいことをやっ」たら上手くいかずに「勝負する市場を探」すのも自由,「やりたいことをやっ」たら上手くいかずにのたれ死にするのも自由です。

売れなかった商品を仮に周辺の人に無償で提供して,その周辺の人が遠方の友人に売ることに成功したら,この際の主体になるのは生産者ではなく,周辺の人になるか?そうなると,周辺の人は社会的分業を果たしたことになるか?

まずはっきりしているのは,遠方に運搬した「周辺の人」の労働は明らかに社会的分業の一環をなしているということです。で,商品を生産して無償で提供した人の労働も,その生産物に対して,社会的需要があったわけで,物質代謝の社会的運営の一環をなしたわけであり,その意味では社会的分業の一環をなしたと言えるでしょう。彼または彼女は,売れない(需要がない)生産物を生産したわけではなく,生産物を売ろうとしなかったのと同じことになるでしょう。

私的生産の要素のうちの私的労働は商品を売らないと成立しないので,社会的分業の一環とされているとなると,社会からも干渉を排除された空間ではなくなるのではないか?

市場は社会から干渉されまくりの空間です。しかし,市場は交換を行う場であって,しかるに,私的生産の場ではありません。市場で交換されている商品のコストをなす労働はもう過去のもの(対象化された労働)になっています。これに対して,実際に生産的労働が行われているのは社会から干渉を排除されたプライベートな空間です。商品が市場で売れることを通じて,事後的に,この私的労働が社会的分業の一環をなしたということを実証するのです。

「社会的労働」の定義がわからない。

社会的労働とは社会的生産において発揮されている労働,すなわち社会を形成する労働です。

「私的労働」とは結局は「社会的労働」の一つということか?

私的労働は社会的労働ではないような労働です。実際,──現実的には家族単位ではなく個人単位で自給自足を続けるということはほとんどありえないことですが──,社会から自分を排除して,自給自足している限りでは,この私的労働は社会的労働にはなりません。しかし,商品生産の場合には,私的労働は,原則的にはそれが行われた後で,事後的に,それとは切り離された交換において,生産物が売れるということを通じて,社会的分業の一環をなす,すなわち社会的労働になすということになります。商品生産の場合には,労働そのものは社会の干渉を廃したプライベートなものとして行なわれるのです。ただし,生産物が売れるということを通じて,市場社会全体を形成している社会的分業の一環をなし,またそれを通じて社会的労働になるわけです。

3. その他

本講義での生産力上昇とは何か?

理論的に言うと,生産力とは人間が労働過程において対象を制御する力の程度です。もう少し現実的にいうと生産力は何よりもまず,投入されたコスト(新旧の労働)と産出された生産物(物体の場合には物量)との比率(いわゆる物的生産性)です。ただし,物的生産性では異部門間での生産力の比較ができないので,一般には付加価値生産性でこれを代用します。以上の点については,補足レジュメ『12.労働生産性の上昇』をご覧ください。

コストが貨幣で一元化されていると言ったが,コスト=労働であるのでその基準はなんなのか?原論Aでいう社会的必用労働時間か?

社会的に考えると,コストの量的基準は社会的必用労働です。