質問と回答

協業の利点は分業が導入されて初めて発揮されるものであるから,分業の利点,協業の利点は似ている。企業内分業における熟練とは資本主義的熟練であり,半芸術的な熟練とは中世的な熟練とあるが,一人が一つの工程をやるのと,一人が分野に関してすべて請け負い次は別の一人に任せるということ〔との違い〕か?

いいところを付いています。

半芸術的(職人的)な熟練

便宜的にその開花期をイメージして「中世的」と形容しましたが,今日でも,自営業者の場合には,半芸術的な(職人的な)熟練が形成されることがあります。すなわち,自営業的な職人の場合には,市場において商品として販売可能であるような生産物を生産すると言うことを前提しいています;すなわち,ただ社会的分業だけを前提しています。その限りでは,どうしても労働の細分化(分業をどこまで細かく分けるかということ)には限界があります。従って,自営業的な職人の場合には,比較的・相対的に労働内容が複雑であるまま(複雑労働のまま),熟練が形成されていきます。このような(だれでも公開された知識を手に入れることができるような知識労働ではないような)複雑労働の場合に,熟練を形成していくのは非常に困難であり,またかなり長期間がかかり,しかも生得の才能や適性を持っているということに加えて,それ以上に,代々の家業であるということ(つまり幼少時からの経験の積み重ね)とかがものを言います。

資本主義的営利企業の企業内分業における熟練

これに対して,資本主義的営利企業内での分業は,社会的分業に加えて,企業の内部でさらに細分化することができます。同じ機械式時計を作るにしても,企業内分業に基づいて形成される熟練は,機械式時計の製造工程を分割して,部分的な作業だけを専属の労働者(集団)が行います。講義では,歯車磨き工の例を出しました。こんな細分化された分業が成り立つのは企業内部での組織が非市場的な組織だからです。社会的分業の中で,歯車磨きが業として成立するのは比較的に困難です。部分的な作業でいいのですから,時計全体を一人で作るのに較べると,歯車磨きだけをやればいいというのは,比較的・相対的に労働内容が単純化されています。単純労働ですから,繰り返しによる熟練形成はかなり容易になるはずです。すなわち,資本主義的営利企業の場合には,単純化によって(単純労働になるということによって)熟練が形成されていきます。

あなたの質問文を若干修正して言い直すと,半芸術的(職人的)な熟練の場合には,一人が市場で販売可能な商品の生産をすべて行う;これに対して,企業内分業における熟練の場合には,販売可能な商品の生産に必要な生産過程のほんの一部分である一工程だけを行う──こういう違いです。

なお,半芸術的(職人的)な熟練の場合に,生産した生産物が(消費手段ではなく)生産手段である場合には,別の生産者によってさらにこの生産手段を利用して生産が行なわれます。けれども,市場社会における独立の自営業者を想定する限りでは,それが「請け負い」契約に基づく必然性はありません。少なくとも,請負契約を結ぶかどうかが,資本主義的営利企業と職人的自営業者とを区別するわけではありません

科学知識の公開は確かに業界へ技術革新を与え,大きな影響を及ぼしていた。ただ,今日では「特許」という問題があると私は感じている。もし仮に革新的な技術が生まれたとしても,その度各企業が特許の申請を行えば,このように公開的になることはなくなってしまわないだろうか? 仮に公開されていても,企業はその技術は使えず,無意味ではないか?

『6』の「新生産方法の普及」のスライドの「知識の私有」についての議論を思い出してください。

特許については,講義の中で説明しましたが,もともと,基本的に,新生産方法を普及させるための法制度です(新生産方法の普及という社会的利益と,イノベーターの私的インセンティブとを両立させる法制度です)。すなわち,比較的に短い期間に失効し,またライセンスフィーを支払うことで他社がそれをスムーズに利用することができます(この点で,そもそもは文化の向上を目的としていた著作権法とは全く異なります)。

とは言っても,法制度上,プロパテント(特許権者の権利を強化する)の時代とアンチパテント(特許権者の権利を弱体化させる)の時代とが交互に来て,あまりに強すぎるプロパテントは新生産方法の普及に対してマイナスの影響をおよおしかねないと思います。

イノベーションというのはこれから経済が発展していく上で,必ず必要なものなのか? イノベーションが連続して起こり,生産力が大きく向上したのが電卓の例だったが,むしろイノベーションというものが発生せずに成長した例はあるのか?

社会全体の経済成長でしょうか?それとも市場の一分野の成長でしょうか?

具体例については適切なものが思い当たりません。もし抽象的な可能性(単なる可能性,考える意味があまりない可能性)を考えるならば:

社会全体

資本蓄積(利潤の一部を新規追加投資に回すこと)を行えば,生産力が上昇しなくても,物的にも価値的にも経済成長は可能です。ただし,この場合には,投入される総労働量が増大します。従って,完全失業率ゼロパーセントの状態から出発すると,労働力人口の増大,一人あたり労働時間の増大,一人あたり労働強度の増大を条件にします。

一市場

まぁ,需要の方がガンガン増大していけば,イノベーションなんかなくても,市場規模は増大します。しかし,だからと言って,この部門の企業にイノベーションをする動機がなくなるわけではないのです。企業が利潤最大化を求める限りでは,需要が増大していればいるほどますます超過利潤を手に入れることが期待できるわけですから。電卓市場の例がまさにそれでした。

日本の企業では1社(自動車など)が1つの製品をつくりあげている。海外ではEMSなどに頼っているケースが多いのに,日本は今の形態で海外と渡り合えるのか?

EMS自体が電機産業における電子部品の受託生産を意味しています。それは電子部品メーカーを中心とする電機メーカーのファブレス化に対応しています。日本の自動車メーカーについては,日米欧を問わず,このような形での,EMSのような製造専業メーカーへの委託生産の事例はあまりないような気がします。なお,単なる,自動車メーカー(開発・設計・製造を一貫しておこなう完成車のアセンブルメーカー)同士の相互OEM(相手先ブランドでの生産)ならば,今日,国内でも普通に行なわれています。

体系性の説明で自然・意識・社会に枝分かれしている理由がよく分からない。

えっと,便宜的なものです。現実そのものの体系に即して考えると,自然が一番根っこよりで,そこから人間の意識と人間の社会とが枝分かれしてきます。

スペシャリストとプロフェッショナルの違いは何か? プロフェッショナルとスペシャリストの違いは何か? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

この講義では,専門用語としてはプロフェッショナルという言葉は使いません。とその上で言うと,スペシャリストは専門家であって,ジェネラリストに対比されるもの;これに対して,プロフェッショナルは職業的であって,アマチュアに対比されるものだと思います。

通常,業として毎日まいにち営んでいると,その業への専門化(スペシャライズ=特化)によって,熟練が形成されるはずです。その限りではプロフェッショナルな人にはその業(プロフェッション)に精通したスペシャリストになるはずです。しかしまた,ジェネラルな能力がその業に必要である限りでは,プロフェッショナルな人はジェネラリストとして育成されなければなりません。

この講義で明らかにするように,現代的産業における知識労働者は単なる専門バカではなく,ジェネラリストかつスペシャリストです。

人間の熟練労働を全て物理学的に分解するのは不可能ではないか?

この講義では熟練労働を経験に基づくコツとカンに還元しました(実際,社会的なレベルではそれが重要です)が,実際には,ヒラメキのように,才能に依存する部分があります。そういう部分をすべて機械設備に置き換えることは困難でしょう。機械設備に置き換えることができるのはプログラム可能な部分です。

職人的な(講義内での半芸術的な熟練)ものから起こりえるイノベーションはないのか?

もちろん,あります。と言うか,現代社会よりも前の人為的な生産力発展の歴史は基本的にこれです。ただし,現代資本主義社会ではそれは主流になり得ないわけです。

現代資本主義社会でも傍流としては,半芸術的労働が生み出すイノベーションはあります。ただし,その場合にも,科学的知識の意識的・計画的応用との結合がますます重要になってくるでしょう。

イノベーションが普及にともないその価値を失っていく一過性のものであることが分かった。ただ,すきま産業のように競争相手が極めて少ない市場ではその限りではないのではないか? なぜならそのような産業は大きな市場より競争をする必要性が弱くイノベーションが普及しても価格が変動しにくいだろうからだ。

まさにその通りです。この点については25日の講義で補足しておいたはずですが,一番手が一気に比較的に小さい新市場のシェアを独占してしまうということに力点がおかれていました。講義で述べたようにイノベーションによって市場価値が下落していく条件が競争である以上,このことを裏返して言うと,独占が維持されている間は,価格下落が阻止される傾向にあるということになります。

ただしまた,ニッチがニッチではなくなっていくと状況が変わっていくでしょう:

  • 競争を行っているのは同部門の企業に対してだけではなく,競合財・代替財を生産している他部門に対してでもあるから,このような他部門のイノベーションの動向によっては,あるいはまた,競合する他のニッチ市場の発生によっては,このニッチ市場も影響を受けて,たとえ安定的な独占が成立していてもイノベーションによって価格を低下させざるをえなくなるでしょう。

  • 独占が知的所有権等によって保護されていても,市場が大きくなると,ライセンスフィーを支払ったり,独自の競合技術を開発したりする競合他社が現れて,(一番手企業が他社を寄せ付けないようなイノベーションを連続的に生みし続けない限り)独占が崩壊せざるを得ないでしょう。

10人がバラバラに労働するなら1時間に10着,協業するならば1時間に11着生産でき,0.1着分は個人の力に還元することはできないとあったが,これはどういう意味か? 企業内協業で10着が11着作れるというところで,組織の力がなにであるのかイマイチ分からなかった。 社会的生産力のところでシャツの0.1着分は「個人の力に還元することはできないような組織の力」とプリントに書いてあったが,ここで言う企業組織の力についての説明がよく分からなかった。雇用されることで組織の力がどのように労働者に働くのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

今一つ疑問点を把握し切れていないから包括的に答えます:

量的規定

1人当たりで考えると,生産力は,協業していない場合には1時間1着,協業している場合には1.1着になります。0.1着分は労働の個人的生産力を越えるような労働の社会的生産力になります。これが組織の力です。

質的規定

それじゃ労働の個人的生産力を越えるような労働の社会的生産力の実体がどこにあるのかというと,それは天から降ってきたのでもなく,真空から生まれたのでもなく,もちろん,個人──ただし特定の個人ではなく,協業している個人全員──から生まれたわけです。しかしながら,個人は個人として労働している限りでは,この生産力を発揮することができず,協業して(組織の中で)初めて発揮することができます。それ故に,この力は組織の力だということになります。

以上,労働の社会的生産力あるいは組織の力は,別に資本主義的営利企業に雇用されているのでなくても,家庭の中でも,NPOの中でも,同好サークルの中でも,サッカーチームの中でも,どこでも発揮されうるものです。ただし,(1)現代社会において生産・流通の主力は資本主義的営利企業です。そして,(2)企業に雇われている賃金労働者はこの組織の力を企業に雇われている限りで発揮しています。企業から首になった瞬間に発揮することができなくなります。そして,(3)資本主義的営利企業は雇用されている個人とは全くの別物です。一方は雇用者,他方は被雇用者です。利害も基本的に対立しています(注1)。──これらによって,組織の力は個人の力とは切り離されているような,個人の力に対立するような,企業の力として自立化するのです。力の発生源は個人にあるのにもかかわらず。草の根サッカークラブの中でも,華麗なパスワークによって1+1が3にも4にもなったりし,したがって組織の力が生まれるでしょうが,しかし,この場合には,組織の力がサッカークラブの力として個人から自立化し,個人を支配するものとしては現れないでしょう。

〔科学の体系性の〕根底にあるのはなぜ論理学(数学)なのか?

その理由は以下の通り。──論理学(および記号論理学の一分野としての数学)は,意識が自然や社会のような現実世界を対象にする科学ではありません;そうではなく,意識が,《自然や社会のような現実世界を対象にする意識》を対象にする科学です。ややこしい表現ですね。要するに,意識が現実世界を対象にする際の法則性をまとめたのが論理学であって,われわれが現実の関連を認識する際にはこの法則に従っているからです。わかりやすい例で言うと,もし四則演算が分からなければ,4個の雲が二分裂すると何個になるのかなんてことすら分かりません。

え? 数学はともかく論理学は学んでいない科学者も多いのではないかって? まぁ,ぶっちゃけ,学んでいなくても論理学の法則を使うことはできるのです。現実世界の体系および因果性(あるいは相互的依存性)を認識しようとすれば,どうしても知らず知らずのうちに論理学の法則を使っちゃっているので(注2)。しかし,まさにこのことこそは論理学が現実世界を対象とする科学の基礎にあるということを意味しています。

分業の利点の大部分は協業の利点とあり,協業により生産力上昇が見込めるとすると,ある一定以上の生産力拡大は可能なのか? それは個人の力を高めるのか,イノベーションを起こすのか?

ある一定以上の生産力拡大は可能なのか?──これについては,ちょっと質問の意図が分かりません。当然に,生産力上昇はそれだけでは限界に達して,科学的知識の意識的・計画的応用を喚起します(実際に,それが採用されるかどうかは,コスト構造によって決まります。つまり,高額な機械設備等を導入しても十分に儲かるのであれば資本主義的営利企業はそれを採用します)。科学的知識の意識的・計画的応用の下で,新たなチームワーク(協業・分業)の変革が生じます。

それは個人の力を高めるのか,イノベーションを起こすのか?この講義の定義では,分業(熟練労働力)および科学的知識の意識的・計画的応用(複雑労働力としての知識労働力)における労働の個人的生産力の上昇は,イノベーションの構成要素の一つです。

普及の加速での革新的企業の数の増大がなぜふりだしの所に戻るのか?

そうですね,図だけではわかりにくいかもしれませんね。講義ではちゃんと説明したつもりなのですが,振り出しに戻るといっても,元に戻るわけではありません。革新的企業が増大したという前提の下で,同じ過程が繰り返されます。そうすると,さらに一層革新的企業が増大します。そうすると,さらに一層革新的企業が増大したという前提の下で,同じ過程が繰り返されます。こうして,普及が加速されます。要するに,この図は円環ではなくて螺旋です。

分業や協業の利点についてやったが,逆に弱点はあるか? 協業すると生産力は確かに上昇するかもしれないが,企業内に新人がいたり,または個人でやった方が効率が良かったりした時は生産力は協業するより,個人でやった方がいいのではないか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

科学的知識の意識的・計画的応用との関連(何故にそれが導入されるのか)で言うと,まずはヒューマンコスト(熟練労働力については出来高賃金コスト,およびヒューマンエラーの際のコスト)が増大します(もちろん,生産力上昇による付加価値増大の方が出来高賃金の増大を上回るのですが)。

次に,管理労働のコストが増大します。また,一般に協業・分業の管理と調整に失敗すると,かえって生産力が下がることさえありえます。後者の事例については,2013年07月02日の講義内でビデオ上映した『驚異の巨大システム』に関連してBlackboard上で「人月の神話」についてのWeb補講が公開されていますので,興味があればそちらをご覧ください。一般化して言うと,『7.イノベーションの構成要素』への補足スライド『計画と権威』の問題がこれに当たります。

企業内に新人がいたり,または個人でやった方が効率が良かったりした時は生産力は協業するより,個人でやった方がいいのではないか?──その通りですね。この問題がまさにブルックスの「人月の神話」の問題です。そして,一般論で言うと,この問題は,機械設備による労働者の置き換えと,労働の不熟練化(注3)とによって解決されます。しかし,社会の生産力が発展しても,機械設備による労働者の置き換えがなかなか進まないような労働集約的な産業というのがあります。身近なところでは,大学がそうですし,「人月の神話」で扱われているプログラム開発はまさに労働集約的産業の最たるものです。この場合の,労働集約的性格は,生産力が低い段階での(例えば発展途上国での)労働集約性とは区別されるべきでしょう。

「企業はイノベーションを続けることで超過利潤を得る」ということだが,仮に市場のニーズを越えるほどのイノベーションが起きた場合売れなくなってしまうこともあるだろう。市場が飽和状態になった際のイノベーションはどのようなものがあるのか?

仮に市場のニーズを越えるほどのイノベーションが起きた場合売れなくなってしまうこともあるだろう。──その通りです。イノベーションとの関連で市場のダイナミクスを考える際には,テクノロジーシーズの問題とマーケットニーズの問題との両者が(要するに供給側の要因と需要側の要因との両者が)重要であるということは無論のことです。ただ,この講義では,あくまでも資本主義社会における生産力上昇と富の増大という現象を資本という運動主体に即して考慮しているから,需要面の要因は無視しています。

市場が飽和状態になった際のイノベーションはどのようなものがあるのか?──飽和状態になった場合もそうでない場合と基本的に同じです。また,買換需要がある限りでは,それなりに原価引き下げは有効です。また,たとえ買換需要がなくても,需要が価格に対して完全に非弾力的ではない限りでは,原価引き下げによって他社からシェアを奪うことはできるでしょう。しかし,この場合には,もっと有効であるのはプロダクトイノベーションによる同一市場内での差別化(マイナーチェンジとラインアップの多様化)と関連する新市場の開拓でしょう。

熟練した知識や技術を機械にすることは確かに生産力上昇につながると思うが,新人はその機械を頼りにするので,より良い知識や技術が生まれにくくなると思う。なので,頼りっきりにするのではなく,その機械の欠点や効率化を模索しながら使用することが更なるイノベーションに繋がるのではないか?

その通りですね。ただし,この講義では,新しい知識は労働によって生まれてくるということを最初に強調しましたが,現在の科学的知識,科学技術(テクノロジー)の場合には,社会的労働を前提した知識ですから,現場の労働者自身が科学的知識を生み出す必要はないのです(もちろん生み出してもいいのですが)。経験的知識,属人的技能(テクニック)の場合には,もちろん,現場で生まれるものなので,いかに現場で創意工夫させるのかということが鍵になります。そして,現場の労働者が創意工夫しないということは,もちろん一部分は“機械に頼りっきりになる”ということ自体に起因するでしょうが,大部分はいわゆる“やる気”の問題であり,会社のために行っている賃労働をいかに自分の行為として行うか,それにかかってきます(インセンティブ付与はあくまでもそれを達成するための条件にすぎません)。

「5,000円のシャツがイノベーションにより2,000円に下がった場合,たとえ従業員の賃金を〔中略〕3,000円減給しても生活水準は変わらないということに関して。理屈は理解できるが,こうしたイノベーションの影響を体感している感覚がない。これは生活水準が全体的(周囲も同様に)に向上しているため気付きづらいのか? New!

イノベーションの影響を体感することができるのは,生産力の上昇と富の増大です。そして,その増大した富をどの経済主体がどのように取得するのかは別問題です。簡単に言うと,富の増大は何よりもまず企業の企業の富の増大です。

生活水準の向上の体感については,一般論としては,講義で述べた以下の点にご留意ください。

  • 社会の生産力の増大には質的な側面(新規生産物の開発と既存生産物の品質向上の側面)があるから,実際には生産力の上昇による生活手段の価格の低下は品質・性能に対して相対的なものである。

  • 制度化された労働力市場では賃金は下方硬直的だから,労働力の価値低下は名目賃金の低下として現れにくい。

で,もし質問者が現状の日本のことを言っているのであれば,技術革新も停滞していますし,生活水準の向上も停滞しています。

中世的熟練は半芸術的と定義されていたが,半分資本主義的でもう半分はなんなのか? 芸術作品はある基準に達すれば付加価値が急に上がると思う。付加価値の最大化を目指している意味で芸術を100%資本主義的と捉えることもあり得るのか?

中世的熟練は半芸術的と定義されていたが,半分資本主義的でもう半分はなんなのか?──半分は芸術的で,もう半分は非芸術的です。要するに,芸術的というのは,その人がその時その場所でしかできないオンリーワンの生産を行うということです。量産可能な版画なんかであっても,元版は作者にしかできない独創的・創造的な芸術作品ものです。

これに対して,われわれがこの講義でイメージしているコモディティは基本的に大量生産品であって,自社内で同じものがいくらでもコピー可能であるだけではなく,同業他社によってもコピー可能です。たとえ元絵が芸術作品であっても,それを写真に撮ってデジタルグッツとしてダウンロード販売したら,このデジタルグッズは単なるコモディティです。

これに対して,職人的な熟練(中世的熟練)は両者の中間になります。個人の創造性の表現という一面もあり,かつ一定の安定的な品質を求められてもいます。

社会的分業と企業内分業の違いについて,企業内分業は〔中略〕企業内での効率性の上昇という点でイノベーションを起こすとあったが,社会的分業はイノベーションを起こすものなのか?

資本主義社会におけるイノベーションを,この講義で定義したように,個々の企業による生産力上昇だと考えましょう。そうすると,社会的分業それ自体は,個々の資本主義的営利企業に生産力のをもたらすものではありません。ただし,内製化・外注化にともなう組織変更によって生産力の上昇が生じることがあります。その意味では,社会的分業は企業内分業の変更をもたらす限りではイノベーションを起こすと言えます。

スムーズに普及することができないとはどう言うことなのか? 消費をコントロールできないと言うことか?

普及に際して,一時的にでも超過利潤が発生しなければ普及しないと言うことは,その間は資源の効率的配分が阻害されているということを意味します。それを別にしても,資本主義社会では私企業同士の競争を通じて新生産方法が普及する限り,ビデオで見たように,人と物の浪費(失業と生産在庫・商品在庫の大量廃棄,そしてその帰結としての人間破壊と自然破壊)は避けられません。

サープラスは飛ばしたと思うが,サープラスとは何か?

補足のスライドは飛ばしましたが,サープラス自体は講義内でやったと記憶しています。

どの人類社会においても一般的に,人間は物質代謝の効率的運営の追求によって,生存最低限以上の生産物を享受できるほどの生産力を持っています。もっとも,その社会/共同体の平均的な生活水準は生存最低限を越えるはずです。どのくらいに越えているかということ自体,生産力水準によって規定されます。例えば,単純明快に考えて,冷蔵庫がなかった時代には,冷蔵庫の享受は平均的な生活水準には含まれません。その時代,その場所における平均的な生活水準を越える生産物は余った部分,サープラス(剰余)です。

従って,サープラスは,どの人類社会でも存在するものです。江戸時代で言うと典型的には年貢ですし,現代社会で言うと典型的には個々の企業が獲得する利潤(剰余金)です。

イノベーションのコントロールはできるのか? イノベーションはどのくらいの期間で起こるのか?

コントロールとは,個々の企業によるコントロールでしょうか?それとも政府/業界団体等によるコントロールでしょうか?

ともあれ,完全なコントロールなど元から不可能です。現代社会においても,未来社会においても。

ただし,──完全なコントロールは不可能ですが──,それを促進することはできます。それが,現代社会においては,企業で言うとR&D投資の役割ですし,一国で言うとより基礎的な研究の政府援助の役割ですし,さらには産学共同の役割です。

企業を作った時点で「協業」しているのではないか? 企業内協業というのはプロジェクトチーム等のことをイメージして良いのか?

ところがぎっちょん,そもそも資本主義的生産は多数の労働者を雇用するということから出発しますが,多数の労働者を雇用しただけではまだ協力しあっていないのです。その中で,労働者と労働者との接触がやがて自然発生的に協力,つまり協業を生み出し,労働の社会的生産力を生み出していきます。そして,それが生産力の上昇をもたらすということがはっきりしてから,普及のプロセスをたどります。

え? 歴史の話はいい,いまでは企業を作る時点で多数の労働者を協力させ合っているだろうって? お前も“機械設備が導入されると協業の導入は選択の問題じゃなくて技術的必然性になる”と言ってるじゃないかって? そうなんですが,上の話は単なる歴史の話ではないのです。実際に,チームワーク・グループワークのやり方が改善されたら(今日ではこれは情報ネットワークによって,つまり機械設備によって媒介されています),やはり生産力が上がるのです。機械設備を導入した上で,そこから,社会的労働編成が,つまり協業の仕方が変化し,生産力がさらに上昇するのです。そして,2から3になったり,11から12になったりする(協業がますます発展する)ということの基礎はそもそも0(協業なし)が1(協業あり)になるということにあります。こういう意味で,資本主義的な生産様式は常に,新しい協業がない状態から新しい協業が導入された状態に発展しているわけです。

日本は「社外分業」で世界を驚かせたと聞いた。アメリカは「社内分業」が主流だったよう〔だ。中略〕なぜアメリカと日本で生産システムの違いが生まれたのか? またアメリカではなぜ社外との協力があまりなかったのか?

(1)「社外分業」を企業間での分業と考えると,企業間での分業それ自体は,それがないとそもそも資本主義的生産が成り立ちません。また,(2)「社外分業」を長期継続取引と考えると,長期継続取引それ自体もやはりまた一般的なものであって,特に日米欧で違いはないと思います。従って,(3)アメリカでは……あまりなかったような社外分業とはいわゆる垂直的な系列のことだと思います。

いわゆる垂直的な系列(特定のアセンブルメーカーの系列とだけ取引をし,一時下請け,二次下請けの列を作る)について言うと,日本の自動車メーカーが代表的とされています。その理由は,単純に言って,そちらの方がサプライチェーン全体での生産性が高かったからでしょう。企業そのものについて言うと,アセンブルメーカーはリスクとコストとを外部化することができ,しかも支配的地位を利用して下請けにプレッシャーを与えることができます。要するに,内製化する場合とは違って,競争のプレッシャーの下で絶えず下請けに生産力の向上を要求することができます。もちろん,これは単純な一方的搾取ではないのであって,下請けメーカーでは,本来なら必要であるはずの販売コストを負わずに安定的に売り上げを確保することができます。

アメリカでは……あまりなかったような社外分業について言うと,確かに,1980年代まではGMなどは統合・合併の歴史(内製化の歴史)でした。しかし,それは過去のものになったと考えられています。この点の議論については,私は専門家ではないので,ちょっと古い本ですが,『系列資本主義』,島田克美著,日本経済評論社,1993年,を紹介しておきます。

その上で言っておかなければならないのは,メガコンペティションの中で,これまでの状況は日本側でもアメリカ側でも異なってきているということです。アセンブルメーカーがどんどん海外直接生産をしていくと,日本の系列の部品メーカーも(一時下請けの場合には,それ自身,海外直接生産に踏み切る手もありますが),特定の一社とだけ長期継続取引を続けるわけにはいかなくなるでしょう。同様にまた,過度のインソーシング(内製化)がコストを顕在化させたら,当然,アメリカの企業も,アウトソーシング(外注化)に切り替えることになるでしょう。


  1. (注1)付加価値総額が絶対的に増大すると,賃金と利潤とがともに増大することができます。しかし,その場合でさえ,どちらがどの程度ぶんどるかで利害対立が生じます。

  2. (注2)ヘーゲルは,このことを「自然論理」と呼んでいます。なお,この点に関しては,本当は,論理学には形式の論理学と内容の論理学とがあるということにふれなければならないのですが,ここでは省略します。

  3. (注3)ややこしいのですが,科学的知識の意識的・計価格的応用においては労働力の複雑労働力(知識労働力)化と不熟練化とが同時に起きます。