1. 社会と共同体との関連について

社会と共同体との違いについて示した表の「3. 規模」だが,グローバルとローカルという分け方をしていたが,私は無制限と制限的という分け方の方がしっくりくる気がするが,これではあまりよろしくないのか?

制限的/無制限というのは社会/共同体の違いを表す極めて適切なキーワードだと思います。

ただし,それは,社会の場合に,どの点で無制限かとかではなく,全面的に無制限です。共同体の場合に,どの点で制限的かとかではなく,全面的に制限的です。例えば,自由の原理についても,前近代的共同体の場合には,自由が制限的であったが,現代社会の場合には,自由が全面的に無制限になったとも言えます。

制限的/無制限という,このような一般的・普遍的なキーワードを空間について適用したのがローカル/グローバルです。すなわち,共同体は空間的に制限されているが,社会は空間的に無制限なのです。

物質代謝のための労働が社会形成をし,その結果として社会が成立するということなのか?

大体,そういうことです。社会形成そのものは,なにも物質代謝の社会的媒介──つまり経済的な社会形成──だけじゃないわけです。しかし,理論的には,政治的な社会形成なんかに,経済的な社会形成の方が先行するわけです。そして,社会形成という行為の結果が社会という状態です。

社会形成はどの社会的場面(経済的・政治的・文化的・宗教的等々)でも生じることができるが,人類が生きていく上で,何よりもまず,経済活動において社会形成せざるをえないということです。ただし,これも現実的には,前近代的共同体においては,社会形成の原理そのものが十分に発揮されずに,しかも経済的なサブシステムと政治的・宗教的等々のサブシステムとがゴッチャになっているわけです。

人間の共同体,社会のスライドで独語の訳があったのだが,なぜ独語の訳があるのか? 何か意味があるのか?

この講義では,キーワードの補足として,英語以外の言語の表記を参考として挙げることがあります。

ここで社会・共同体について,英語以外にドイツ語での表記(Gesellschaft=ゲゼルシャフト;Gemeinschaft=ゲマインシャフト)を挙げているのは:

  1. 主として,社会学者のテンニースが『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(この講義の用語で訳すと『共同体と社会』)という本を書いたおかげで,このドイツ語がわりと日本の人口に膾炙しているからです(テンニエス著,杉之原寿一訳『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト──純粋社会学の基本概念──』,上下巻,岩波書店,1957年)。ただし,テンニースの概念区分はえらく図式主義的(形式主義的)であって,この講義の概念とは一致しません(概念としてではなく,この概念をそこから導き出したイメージとしては,もちろん,共通するところがあります)。

  2. おまけで,私が使うことができる外国語が英語とドイツ語だけだからです。

  3. おまけのおまけで,英語のsocietycommunityはいずれもラテン語源(societās; commūnitās)なので,ラテン系の言語は大体この系統でいけるんじゃないかと思うからです。

なお,この講義は日本語の講義なので,キーワードとかは日本語だけ覚えればOKです。ドイツ語はもちろん,英語ですら,定期試験での正解には含みません(つまり暗記する必要はありません)。

人間社会と人間共同体の境は何か具体的な基準があるのか? 100人以上は社会,100人未満なら共同体などあるのか?

境そのものには基準はありません。基準があるのは,境ではなく,両端です。例えば,連続的なグレースケールを考えてみましょう。白と黒と──すなわち両端──は定義できます。しかし,灰色はその中間としか定義できません。白に近い灰色もあれば,黒に近い灰色もあります。

従って,なんとか基準があるのは人間社会の極と人間共同体の極とです。しかしまた,「社会と共同体」で見たように,人間的共同体もまた,人間社会/動物集団というもっと大きなモノサシから見たら,灰色でしかありません。

その上で言うと,一般に,共同体はローカルなもの(地縁・血縁に制約されたもの)ですから,規模も制限されています。これに対して,社会は利益の一致に基づいていくらでも拡大しうるグローバルなものですから,規模も制限されません。しかし,社会と共同体との違いはあくまでも原理の問題です。講義で例を出したように,空想上なら(発展途上の社会として)規模の小さい社会の例を出すこともできます。逆に,かなり大規模な前近代的共同体の例を出すこともできます(注1)。従って,厳密には,一概に,規模だけで分けることができるわけでもありません。

とは言っても,現実的には,われわれが住んでいる現代社会は,歴史上初めて成立した世界的なシステムです。そして,理論的にも,社会形成の原理(特に経済的な社会形成の原理)には地縁・血縁による制約がないのですから,社会システムは必然的に世界システムにまで行き着かなければなりません。その限りでは,規模の問題として,現代社会は世界システム,これに対して,前近代的共同体は規模が小さいシステムと言うことができます。

人間共同体はもはや動物集団ではないが,まだ人間社会ではないというのはどういうことか?〔少し質問を変更しました〕

(1)前近代的な共同体においても,人間は労働を行い,自分を動物から区別しています。つまり人間個人はもはや動物個体ではありません。そして,(2)時代と地域とに応じて程度の差がありますが,前近代的共同体においては,このような人間個人は,共同体に帰属しており,またこの帰属を通じて,共同体の成員として他の共同体成員に認められます。動物集団とは違って,共同体成員たちは認め認められて共同体の器官として位置付けられています。成人はイニシエーションを通じて成人として認められ,首長は,共同体成員がその人に対して首長に対する仕方で振る舞っているからこそ首長たりえます。すなわち,人間個人は共同体の器官であっても,共同体の運営は成員たちの社会的意識によって媒介されています。従って,前近代的な共同体が(たとえ運命的・宿命的な地縁・血縁関係に制約されていても)動物集団ではないというのは自明のことです(注2)

しかし,それでは,前近代的共同体において,どの人類社会にも共通な労働のポテンシャルが発揮できていたかと言うと,その十分な発揮は阻害されていたわけです。因果関係を正確に言うと,労働がそのポテンシャルを発揮できるほどに発達していなかったからこそ,各個人は各個人は地縁・血縁に制約された共同体の器官であったわけです。これがまだ人間社会ではないということです。そして,労働がこのポテンシャルを発揮するには,もっと労働が発達して(単純にいうと生産力が高まり),その結果として,個人が共同体を失い,共同体からも他者からもバラバラに切り離されて,市場で結合するということが必要だったわけです。

「日本は集団主義の国」とよく言われる。その特性は今回の授業で言う共同体と類似している点がある。今の日本にも社会ではなく共同体的側面があるということなのか?

もちろんあります。それは別に日本に限りません。どの国のどの民族も,一面では集団主義的です。程度の問題としては,そしてどういう場面で目立って現れるかについては,民俗的・国民的特徴がありえますが,現代社会が未完成な社会である限りでは,そういう一面を持っています。つまり,日本も,ヨーロッパ大陸も,英米も,すべて集団主義的です。

そして,現代社会のそのような集団主義的な側面は,共同体的側面から,すなわち前近代的共同体の組織から形態を引き継いでいるということがしばしばあります。例えば,日本的経営のトップダウン志向の場合に,前近代に上意下達のシステムがあったわけです。直接的に前近代的共同体から近代化(modernize=現代化)した地域はもちろんのこと,固有の地域史を持たず(あるいはそれを継承する民族がほぼ消滅し),植民によって経済発展した地域でさえ,植民が前近代的共同体の集団主義的原理を持ち込みます。

ただし,それらはすべて資本主義社会としての現代社会において,資本主義的営利企業の組織は没個性的な,集団主義的な組織だからだと思います。これはちょっと厄介な話であるの同時に,相対立する原理がバラバラに対立しており,うまく調整されないという現代社会の特徴にも関連しています。そこで,敷衍して説明しましょう。

資本主義社会としての現代社会において,資本主義的営利企業は金儲けのために労働の社会的生産力──組織の生産力──を十分に利用します。しかし,この組織は,資本主義的営利企業にとっては,自由な人格が自覚的に形成した組織ではなく,同じ企業に雇われたというだけでこの企業によって,金儲けのための道具として──物件として──組織されたものです。その限りでは,この組織を安定的に機能させるのに邪魔になるような個性は不要ですし,むしろ従業員が企業のために個を捨てて滅私奉公してくれる方がいいのです。しかしまた,──

市場社会としての現代社会の側面

確かに,市場社会としての現代社会は個人の自立をもたらします。そして,資本主義社会は市場社会を基礎にしています。しかし,市場社会の個人主義的原理と資本主義社会の組織的原理とはバラバラに対立しており,しかもこの対立をうまく調整するメカニズムがありません。

資本主義社会における個人主義的原理

それと同時に,資本主義的生産は金儲けに役立つ限りでの個性の発揮を促進,いや強制します。特に,『7』で見るように,現代的産業においては,本当に必要なのは,科学的知識をもつ複雑労働者(ナリッジワーカー)です。そして,このようなナリッジワーカーが,単に知識を持っているだけではなく,それを企業の金儲けに役立つ限りで,この知識をクリエイティブに,独創的・個性的に発揮することを,資本主義的営利企業は死活問題にします。すなわち,資本主義の原理において,集団主義と個人主義との対立する両者が必要で,しかも両者はバラバラに対立したまま調整されていません(注3)

こういうわけで,現代社会において,個人は,民族的/地域的特性に関わりなく,集団主義と利己主義との間を行ったり来たりするわけです。

こういうわけで,現代社会では個人は一面では集団主義的原理に従います。その際に,前近代的共同体において,没個性な,集団主義的な原理が成立していた限りでは, いや,資本主義はプラグマティックですから,倫理を内包していませんから,金儲けに役に立つ限りではなんでも利用するのです。独占だろうと,独裁政権だろうと,前近代的共同体だろうと。

以上,その形態(その袋)は前近代的共同体起源のものであってもいいが,その実体(その中身)は資本主義という金儲けの原理である。要するに,集団主義が前近代起源のものであっても,もはや今日では,資本主義的生産にマッチするように作り替えられていると言っていいでしょう。

形が無意味といっているわけではありません。形は重要です。

2. 市場社会の原理について

商品交換によって実現される市場社会のような合理的な社会システムができたのは必然か?〔少し質問を変更しました〕

まず,講義内でも述べているように,人類の歴史というモノサシを使って考えると,あらゆる前近代的共同体の成立は偶然的ですが,現代社会の成立は必然的です。その理由についても,講義の中で申し上げました。ここでは単純に,「世界システムになったのは現代社会だけだから,現代社会は必然的である」と言っておきましょう。要するに,経済的に見て,前近代的共同体は数多くありますが,現代社会は(その存在資格においては)一つだけなのです。

  • 封建制を経験した地域/民族もあれば,経験しなかった地域/民族もあるでしょう。しかし,現代社会を経験しないで済む地域/民族はないでしょう。

  • そして,一言で封建制といっても,日本のそれと欧州のそれとは全然違うでしょう。

次に,市場社会は一面では合理的ですが,他面で非合理です。これもいろんなレベルから,その合理性と非合理性とを論じることができます。ここでは,市場社会そのものというレベルで補足しておきましょう。市場社会は,そのものとして見るならば,前近代的共同体組織から独立した個人による私的生産を基礎にしています(市場社会は,もちろん,交換関係の総体としてしか現れませんが,この交換が想定している生産は私的生産です)。私的生産の柱は私的労働と私的所有です。私的生産において生産物を生産しているのは私的労働であって,それは他人あるいは社会の干渉をも排除し,自立した個人が誰の命令でもなく自分の意志で自由におこない,またその結果生じる責任をすべて自分で負うような,そのような労働です。私的生産がおこなわれる空間は,私的所有者とその私的所有物とから構成される私的所有のバリアの内部であって,そこは他人あるいは社会の干渉を排除する,プライベートな,排他的な空間です。

「市場社会(はじめに)」で〔市場社会では〕商品交換によって「グローバルな社会を形成」と同時に「独立した私人を実現」と書いてあったが,「独立した私人」とは一体どういう意味か?

《共同体から独立した私的人格》です。私的人格とは,ここでは,市場で交換する際に市場参加者の資格として認められる自由・平等な私的所有者のことだと考えておけばOKです。

「自由の原理」「平等の原理」のスライドは人間社会の「自由・平等な個人が主体」における「自由」「平等」のここでの意味を示していると考えていいのか? 自由に形式性があるというのはどういうことか? 補足スライドの「形式的自由」に関して「内部」「外部」との明確な違いがよく分からない。自由の条件に当てはまらないプレーヤーとしての奴隷(つまりnot商品という奴隷活動以外の行動)がいた場合,この奴隷は市場の内部に参加できるのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

ここでの意味というのを厳格に捉えれば,その通りです。つまり,『形式的自由』,『形式的平等』における自由・平等と『社会と共同体』における自由・平等とのあいだには,同じ点と違う点とがあるわけです。

『形式的自由』,『形式的平等』では,『社会と共同体』においてどの人類社会にも共通な経済活動について明らかにされた自由・平等を,市場社会としての現代社会がどのようにして,どのような形で実現しているのか,を問題にしてます。従って,『形式的自由』,『形式的平等』における自由・平等は『社会と共同体』における自由・平等の実現です。

実際には,前近代的共同体では,このような労働あるいは経済活動のポテンシャルは十分には発揮されませんでした。歴史上初めて,市場社会としての現代社会がこのようなポテンシャルを発揮することができるような条件を整えたわけです。

その意味では,どの人類社会にも共通な経済活動について明らかにされた自由・平等と,市場社会としての現代社会について明らかにされた自由・平等とは同じものです。後者は前者を実現したものですから。

しかしまた,両者のあいだには違いもあります。つまり,講義でも強調したように,どの人類社会にも共通な経済活動では,単純に社会的労働過程において発揮された自由・平等の原理は,市場社会としての現実社会では,交換過程において二者の関係を規制するものとして発揮されます。社会的労働過程とは別物として,交換過程は,社会的労働過程における自覚的な社会形成の契機を実現しています。その結果として,交換では自由・平等だが,交換の外では(端的に言って労働の内では)どうであるかを問わない形での,自由・平等の原理の実現です。これが「形式的」ということの意味です。

自由に形式性があるというのはどういうことか?──自由に形式性があるというよりも,自由が形式的だと言うことです。つまり,タテマエ上自由だけど実際に自由かどうかは交換過程の内部ではよく分からないということです。講義で挙げた例ですが,例えば,誰かの命令でパシらされてアンパンを買わせられる時,その人は実質的には不自由ですが(不自由だという資格でアンパンを買いに行きますが),売店のおばちゃんは自由人として扱います。他のお客さん(自由人)と区別したりしません。他のお客と同じ定価で,他のお客と同じアンパンを売ります。これが形式的には自由だということです。

逆に言うと,形式的だからこそ,──よく分からないのをいいことに,実際に自由かどうかなんてものを探偵かなんかを雇って確認することなしに,ともかくこの交換というオープンな場面で目に見えるところで確認できればいいやってな感じで自由人として互いに認め合っているからこそ──,自由が単なるタテマエとして普遍化し,簡単に社会形成の原理になることができるわけです。

「内部」「外部」との明確な違い。──交換過程の内部と外部と言い換えればいいでしょうか? 交換過程の外部と行っても色々なものを考えることができますが,一言で言うと,そして本質的には,生産過程です。市場社会は,各個人が共同から自立化し,自分の生産物を市場で売り,その代金で欲しいものを買うという,タテマエによって成立しています。従って,交換は市場の,誰でも立ち入り自由のオープンな場面で行なわれていますが,生産は,個人のプライベートな秘密の空間,立ち入り禁止の私的空間で行なわれているという,これまたタテマエが成立しています(注4)。このような形で,交換過程と生産過程とを原理的にきちっと分けるという形で(これはデパートの実演販売ですらそうです),それを通じて,市場の外部と内部とが現実的に区別されています。

奴隷は市場の内部に参加できるのか?──奴隷は,自分自身が市場で取引される物件であって,自分では(自分という資格では,人格としては)市場の内部に参加できないからこそ,奴隷です。奴隷にもピンからキリまでいろいろなものがありますが,自分の意志で自由に商品交換できちゃったら,もう奴隷制は8割方終了です。

〔交換とは?〕「労働の内部の一契機が,しかし労働とは別のものとして労働の外部で実現されていたもの」の部分がよく分からない。結局,商品交換が社会を作っており,その商品は労働の産物であるから,労働が社会を作っているという理解でいいのか?

おおむねOKです。要するに,「社会と共同体」で見たような,労働の,自覚的に社会を形成していくという契機が,交換という,労働とは(通常は)時間的にも空間的にも別の過程で実現されているということです。その原理を見ると,労働による,利害の一致に基づく経済的な社会形成です。だから,交換とは労働の一契機が自立化したものに他なりません。

市場社会とは市場社会としての現代社会か? 市場社会=現代社会か? 何故市場社会では商品と貨幣がメインプレーヤーなのか? 市場と市場社会は違うということか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

市場社会とは市場社会としての現代社会か?──そうです。以下の段落を参照して下さい。

市場と市場社会は違うということか?──市場と市場社会とはもちろん違うものです。市場が社会を支配し,市場がそれ自体,社会になったのが市場社会です。その構成員の立場からいうと,まず,消費者としては使用する生産手段・消費手段の圧倒的大部分を市場から買うということになります。生産者としては,余ったものを市場で売るのではなく,始めからすべての生産物を市場向けに生産します。市場は文明の発生とともに太古からあります。しかし,市場社会の成立は全く現代的です。

市場社会=現代社会か?──そうなのですが,ちょっと言葉が足りません。と言うのも,ここには資本主義社会としての現代社会が入っていないからです。純粋に形式論理的には,市場社会の発展形態が資本主義社会です(市場社会資本主義社会)。しかし,現実的には,資本主義社会以外の市場社会はありえませんでしたし,理論的にも,そういうことが言えます。要するに,商品の生産・流通を個人=自営業者だけが担っているような市場社会は,現実的には存在しませんでしたし,理論的にも不可能です。

何故市場社会では商品と貨幣がメインプレーヤーなのか?──えっと,「社会とは人格が自覚的に形成するものだ」と言っておきながら,人格ではない商品・貨幣というモノ(所有物件)がメインプレイヤーなのはおかしいということでしょうか?

物件が主体だなんて言うと,ちょっと不思議かもしれませんが,もちろん,物件の経済的活動は人格の経済的活動の表現にすぎません。そして,物件の経済的活動を実現するのも人格の役割です。ただ,人格が所有物件(モノ)というマジックアイテムを通じてしか繋がれないのが市場社会の形成なのです。

これは商品・貨幣ではまだわかりにくいかもしれませんが,政治経済学2で扱う株式会社になるとはっきりと目に見えるようになります。株式会社は誰がどう見ても自然人(ヒト)じゃありません。従って,その意味では,株式会社は物件(モノ)です。しかし,それ自体,法人格を獲得して,労働力市場で労働者を雇用し,また生産手段を購買し,商品を販売します。もちろん,その背後には,株主なり,経営者なり,従業員なり,人格の経済的活動があるのですが,直接的には,会社という物件が経済的活動をおこなっています。


  1. (注1)大規模な前近代的共同体と言うと,マケドニアとかモンゴルとかをイメージするかもしれませんが,そういうのは政治的な枠組みであって,経済的な自給圏としてはずっと小さなものでした。そして,王朝(政治的な枠組み)が交替しても,経済的な生産力構造が変わらない限り,そういう経済的な自給圏は同じまま維持されました。

  2. (注2)このことを端的に表すのが所有の成立です。政治経済学2で詳しく見ますが,所有の成立によって労働は安定的に行われますが,所有の成立には共同体への帰属が不可欠です。

  3. (注3)金儲けのためというのが共通しているのだから,調整されているのではないかと思うかもしれません。しかし,“金儲けのため”という観点でしか,社会的な力と個人的な力とを位置付けられない限り,所詮は,“どっちが金儲けに役立つか”という観点から,場面場面で集団主義にぶれたり個人主義にぶれたりするしかありません。

  4. (注4)この段落で述べている「タテマエ」というのは嘘八百とか幻覚とかそういうもんじゃなく,まぎれもない現実(の一つの側面)であるということにご注意下さい。つまり,この段落で述べている「タテマエ」は,《単なる意識であって,現実とは無関係だ》というものではなありません。しかし,それと同時に,それは,現実(の他の側面)と食い違っており,現実(の他の側面)と対立し,現実(の他の側面)に否定されるべきものです。

    例えば,生産は個人のプライベートな空間で行なわれいているというタテマエは,確かに現実の一側面なんですが,しかし,実際には(法人成りした資本主義的営利企業の場合には)会社のプライベートな空間です。