このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2012年05月08日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
合ってます。ややこしいことに,自己を制御する行為(自己的な行為,自由自在に“腕を動かす”)も,それによって制御されている自己の活動(対象的な活動,意志に従って“腕が動く”)も,どちらも労働なんですよね。だから「二重」なんです。二つの全然別のものがあるわけではない。そして,“自己を制御する行為”の方がこの両者を「媒介」しています。
労働においては,“意識的に腕を動かす”=“腕が動く”であって,しかも,そこに二つの側面があり,しかも,意図的に腕を動かすから腕が動いている。労働とは違って,寝ている間に心筋が動く場合にはそうではありません。意図的に心筋を動かしているわけではありません。
「媒介的」というのはわかりにくいですよね。他に良い言い方がないので使っています。「二重」というのも「手段にする」というのも,ここではすべて同じことを表現するキーワードです。意識が媒介する限りでは(意識による媒介を問題にする限りでは),「媒介的」というのは「自覚的」と同じことになります。
なります。勉強が好きな人もいれば嫌いな人もいます。と言うか,誰でも,好きな勉強もあれば嫌いな勉強もあるでしょう。嫌いな勉強がコストである(したがって最小の努力で最大の結果を得ようとする)というのは自明のことでしょう。
しかしまた,好きな勉強だって,コストです。楽しんでいようと嫌がっていようと,一定のアウトプット(=生産物)があって,それに向かって意識的に努力しているわけですから。え?好きにやっている勉強なら,無駄があってもいいじゃないかって?ネットで好きな調べ物をしていても,次から次へと関連した調べ物がしたくなるって?それも含めてコストです。「無駄があってもいい」と言った瞬間に,それは本能的な活動ではなく,自覚的な活動だと言うことを証明しています。心臓が動く際に,無駄があってもいいとか,無駄がなくてもいいとか思いません。
え?消費(あるいは遊戯)と区別がつかなくなるだろうって?はい。人間の場合には,生産的労働から必然的に生まれる自覚性を根拠にして,もともと動物的生命の維持に必要なだけであった消費活動も楽しみになる(自己の楽しみの対象になる)のです。
なお,勉強がそれ自体,コストだということについては,後々,『5.』で複雑労働の問題として,『7』で知識労働の問題として,取り挙げる予定です。
私は家族問題の専門化ではないので,家族問題そのものについては,素人考えが混じることをお許し下さい。また,私自身,家族の将来について,明確な展望を持ってはいません。更に言うと,この問題は,以後に行う予定の前近代的共同体の位置付けの問題ともからんできますので,詳しくはそちらを聞いてから考えていただくことになります。また,この問題を扱うためには,生産と所有との関係を考える必要もありますが,それは政治経済学2の方で扱うことになります。
その上で,私自身,自明の事実だと思うことを最初に列挙しておくと,──
家族がそれ自体としては本能的集団──動物集団──にその起源と根拠とをもつ。
しかしまた,(人間の社会的活動は,──個人が本能的活動を自分で媒介したの場合と同様に──,このような集団をもその維持のために媒介する。もうちょっとわかりやすく言うと,)社会全体の再生産(ここでは種族の再生産,本質的には労働力の安定供給のメカニズム)の中にこの家族を位置付ける。
したがってまた,歴史的社会の性格に応じて,家族の量と質(つまり規模と性格)も変わってくる。
現代社会(=資本主義的な市場社会)においては,──
一方では,家族は小規模化して,社会全体に対するプレゼンスを低下させつつある。
それとともに,他方では,家庭内の経済活動──家事──は,広範に市場化という形で社会化されている。
その上で,──家族の社会的役割と意義とには深く立ち入らずに──,あなたの質問にお答えすると,組織の存在意義は効率性に還元されないからです。家族に限らず,友人関係でも恋人関係でももっと規模が大きい社会関係でも効率性に還元されない──効率性が組織の原則ではない──ような組織があります。その上で言うと,効率性の追求が原則となる限りでは,市場化という形で社会化が進んでいくと思います。例えば,家族の予算制約の下で,食事は,自分でつくるより,楽をしたいのであれば,あるいは美味しく(これは味だけではありません)食べたいのであれば,レストランで食べればいいし,掃除も楽をしたいのであれば,掃除サービスを利用するでしょう。だからと言って,効率性が優先しない/優先する必要がない場合には,無理に外食する必要もないでしょう。
経済学の一部には,結婚市場の経済学のように,すべての社会的関係を経済性あるいは効率性の観点から解明しようとするものもあります。このような観念は,市場と資本主義とに支配されているという現代社会の現実──したがって,本来は非経済的であるような組織にも市場と資本主義との原理が浸透しているという現実──から生じます。したがって,それは幻想でもなんでもなく,実に社会的・客観的に妥当な観念なのです。それにもかかわらず,当の現実そのものが転倒している(つまり原因と結果とが整合してない)ということを見て取らないと,誤った一般化に陥り,現実の解明にも失敗します。
この支配は,『3. 市場社会のイメージ』で見るように,社会の経済的な形成原理とは逆に,誰も望んでそうなったわけではなく,無自覚的に達成されました。その結果として,市場における効率性の原則があらゆる生命活動に押し付けられてしまいました。自由の達成が不自由な社会の達成にひっくりかえっています。効率性が一面的に押し付けられているわけです。効率性の追求を組織原則の第一に据えるかどうか,自由に選択できていないという意味では,この現実は転倒しているわけです。転倒している限りでは,この現実は完結することはできません。つまり,家族関係も友人関係も恋人関係も完全に市場化されうるものではありません。
今度は現代社会のおかしなところ,無理なところ(=転倒性)から離れて,どの人類社会にも共通な経済活動に戻りましょう。それは,要するに,現代社会において,十分に発展した経済活動から,その無理なところを理論的に引っぺがすことによって,明らかになったものです。その観点からすると,経済活動は効率性の達成であり,その延長線上に社会を形成しました。経済活動は社会形成の出発点でした──が,しかし,決して,社会形成の終着点ではありません。すべての組織を経済的な組織にする必然性(=必要性)はどこにもないのです。経済活動が効率化を達成するからと言って,効率性に支配される必要はありません。逆に,われわれが見た経済活動で生まれる自由は,効率性の支配からの自由──平たく言うと経済活動からの自由──をも含んでいます。効率性を優先するか,別の原則を優先するか,自由に選択することができるというのが,どの人類社会にも共通な経済活動で説明した自由です。講義内でも指摘しているように,効率性の追求は物質代謝の運営のための(すなわち生命活動=生活のための)一つの──ただしもちろん決定的に重要な──手段であって,自己目的ではありません。要するに,効率性は選択するべき手段であるのにもかかわらず,これを自己目的だと捉えるのは,効率性に囚われているのであって,不自由です。
家族そのものからは離れて一般的な話になってしまいましたが,最後に,──すでに述べたように,私は家族の将来像を描いているわけではないのですが,一言確実なことだけを述べておくと──,自由意志による社会形成の原則が十分に成立しない(たとえば乳児の場合,たとえば要介護老人の場合)限りでは,社会によるサポートを通じて効率化が達成されるはずですし,自由意志による社会形成の原則が十分に成立する場合には,画一的な家族モデルを想定する必要はなく,多様な形態がありうるということだと思います。